12/23 独白―ほんとうの幸い【泉希】

 本当は起きていた。聞いてしまうと、どうしようもなく欲しくなる声が雨で重たい空気を裂いて、確かに届いたから。指が目の下を撫でたと分かったから。

 けれどすぐには目を開けられなかった。突きつけられた。

「『ほかの弟子たちが、どんなに深くあなたを愛していたって、それとは較べものにならないほどに愛しています。』」

 彼の指が頬を這って、私の罪を耳に捻込んだ。お前がユダだと。

 


 

 シャワーから出たら、足が止まった。

 仕事帰りで鞄も上着も投げ出したままの部屋は蛍光灯で隅々まで明るくて、誰も居ないことが露わで、却って彼の残滓を浮かび上がらせた。ひとりの土曜――火曜も木曜も来なかったのに今更なのに、そこにいるような。

 雨の音が静かに響いていた。

「寒い」

 酷く疲れていると自覚して、その場に座り込んだ。裸のフローリングが驚くほど冷たい、せっかく温めた体が芯まで冷えていく。ひたりと髪から雫が落ちてのろのろとタオルで拭った。

「もう、やめよう」

 加々見を好きでいるのは。

 ローテーブルの端、PCが畳まれている。もう三ヶ月近く触っていない。きっと触ったら冷たいのだろうと思う。落ちそうになる雫をタオルで拭った。

 私はそのまま四つん這いで進んでソファに縋りついた。ファブリックの凹凸が私の頬へと移って、化粧水も塗っていない肌の水気を奪う。どうでもいい、どうしようもない。もうどこを嗅いでも煙草の匂いもしない。

 出鱈目に手を伸ばしたら座面に置きっぱなしにしていた本が触れた。あぁ嫌だ本なんて読みたくない、愛だの生だのと語る話は嫌だ、もう嫌だ。払いのけた。

 加々見の配信を聴かなくなってから、空いた時間はずっと文字を読んでいた。でも私の頭はもうぐずぐずに腐って正常に機能しない、聴いたことのない話でも不意に彼の声で再生される、芥川も太宰も中原中也も漱石の他愛もないエッセイですらふとした台詞の影から彼は立ち昇ってくる、そして私の耳を侵し私を誑かす、そしてまだ愛していろと言う。


 ねぇ。寂しさは誰にだってあるって言うけど、素知らぬ振りをして微笑めないときはどうしたらいいの?

 ねぇジョバンニ。あなたは本当に、みんなの幸いのためなら体を百ぺん焼いてもいいの? 


 一番に「今晩は」と書くのは誰のためだったのか。例え他の人のが気になって加々見の声が一切聞こえなくなっても、私は配信に訪れなければならなかった、だって加々見が聴けと言ったから。「『ミズキ』が来ないとやる気が出ない」と言うから。

 加々見のを満遍なく与えるため私は――これは自分のためではない無報酬で純粋な愛だと信じてPCの前に座わり続けた。

 けれどもう嫌になった。


 ねぇジョバンニ。カムパネルラが誰かの幸いのために目の前からいなくなって、あなたはほんとうに幸せになったの?


 足の爪先が凍ったように冷たい。エアコンはつけたんだっけ? あぁでもどうでもいい、立ち上がりたくない。眠い、頭が重くて持ち上がらない。

 どこかで物音が立って、私は薄らと目を開けた。でも視界を白と薄桃の凸凹が覆っているだけだったから、すぐに閉じた。ゆらりと目眩が起こる。

 すると微かな煙草の匂いを感じて、今度は鮮明に加々見を思い出す。私がコメントを書き込まないと言った瞬間の彼だ。正しく虚を突いたのだろう、瞬いた瞳は頼りなげに彷徨った。「仕事が忙しいの?」と問う声の振動の弱さ――確かな哀しみを纏う視線。

 あぁなんて甘美な記憶だろう、私は罪深さに顔を自分の腕に埋めた。私だけに向けられた心が嬉しかった、もっと欲しかった。そして私のせいで苦しめばいいと願った。

 辛うじて微笑んだ、本当は叫び出したかった。

 だからあぁ私はやっぱり裏切り者ユダの求める愛を認めることも、私の求める『あい』を与えられることも決してないと知った果て、絶望して嫉妬して裏切るユダ。

『あの人は、誰のものでもない。私のものだ。』

 彼は酷い。酷い。だけど。

「あいしてるの」



(了)


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『詰め合わせ』12/6 駆け込み訴え【加々見カフェ】 続き

https://kakuyomu.jp/works/16817330650234947614/episodes/16817330650382866663


 引用・出典

 太宰治『駆込み訴え』青空文庫

 https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/277_33098.html

 太宰治『富嶽百景・走れメロス 他八篇』岩波文庫


 宮沢賢治『銀河鉄道の夜』青空文庫

 https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/43737_19215.html

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