12/24 人に【加々見カフェ】

 加々見は泉希の部屋の前でしばらく逡巡していた。彼女と関係を持ってからここまで間を置いたことがなく、配信のない日に連絡もなしに訪れたことはなかった。

 もし居なかったら、それよりも誰か居たら、と加々見は鍵を開けられずにいた。合鍵はポケットの中で温まっている。傘もなく雨に降られた彼はどこもかしこも濡れており、何度か髪をかき上げなければならなかった。左手に引っ掛けた小さな荷物も水滴をまとっていた。


 泉希はほとんど連絡を寄越さない女で、加々見もそうだった。いつの間にか火曜と木曜、そして週末のどちらかを一緒に過ごすのが暗黙の了解になってからは、殊に。

 靴底の水気がなくなる程悩んだ末、加々見は体温と同じ程の鍵をようやく取り出した。錠の音が響いたのを聞き、ゾクリとするような冷たさに力を込める。そうして咄嗟に見下ろしホッと息を吐いた。またしても投げ出された靴が一足だけ。

 部屋は静まりかえっていた。寝ているのだろう、と彼は再び胸を撫で下ろした。


 やはり泉希は眠り込んでいた。ソファの座面に頭を乗せ、脚を窮屈に折り畳んで、髪も乾かさないまま。

「……風邪引くよ、泉希」

 肩を揺すった。その柔らかくも細い感触は冷え切っていて、加々見は部屋が暖められていないことに気づいた。ん、と息を漏らすが彼女の起きる気配はなく、舌打ちを抑える。

 せめてソファに寝かせようと脇下に手を入れ、泉希の背を仰け反らせた。しかしグラリ仰向あおむいた白い顔を見た瞬間、彼は息を止めた。閉じて濡れた睫毛のあわいには幾筋も涙が滲んでいて、今また新しい川を作ろうと頬へと滑っていく。

「……泉希」

 首に掛けたタオルさえ湿っていて、彼女に触れる部分はどこもかしこも冷たい。加々見は今すぐに彼女の服を全部剥ぎ取り、ベッドへ沈め無理にでも温めたい衝動に駆られた。腕を回しかけ、自分がコートを着たままと分かって必死に脱ぐ。背を胸にもたれさせかき抱いた。ぱた、と彼の髪の雨が彼女の腹に飛び散った。

「泉希、起きて」

 湿ったタオルが二人の間を隔て、加々見は煩わしげにそれを引き抜いた。すると泉希も心地が変わったか、微かに呻き声を上げた。

 後ろから彼女の首元に顔を埋めた彼は、縋るようにしてまた呼んだ。湿った肌が頬にはりついた。

「ひ……い、ひど……」

 うわ言が返り、加々見は情欲の中からのろりと顔を上げた。見下ろせば腕にとらわれたまま、泉希はまるで人魚のように脚を揃えて投げ出して、喉元は無防備に晒している。その肌は粟立っており、彼は少しばかりの理性を取り戻した。いくら何でもそろそろ起きてもいいはずだった。「具合悪いの?」彼の左頬が彼女の右頬にすり、と合わさった。加々見は今すぐに起きてほしいと願った。

「ベッドで寝なよ」

「あい……」

「ん?」

「あいしてるの」




 ソファで休んだ加々見は光を感じて目蓋をこじ開けた。

「寒い」

 くるまった毛布の中で縮こまり、彼は眩しさに目を眇めた。朝になったら起きようとカーテンを開けて寝たのだった。ベランダの高さまで切り取られた空は何もかも白く、塵のような雪がちらついていた。

 彼はしばらくそれを眺めてから毛布を体に巻きつけ、泉希の寝室へと向かった。

 泉希は寝入っていた。夜中よりは穏やかな表情に、彼は額をそっと撫でた。レンジで温めたタオルで顔を拭ってやると、頬がまた少し緩んだ。

 

 加々見は泉希を前にして初めて、情欲にまみれない自分を自覚していた。当たり前だ病人に欲情してどうする、とヒステリックに叫ぶ理性に諸手を挙げる。自嘲に俯く。

 目の前の色が変わる程欲しくなるなんておかしい、ただ元の淡泊な生に戻るだけだと、彼は目を擦った。顔を拭っただけで冷たくなったタオルを握り、加々見は寝室のエアコンをつけた。空気の動くのを感じ、部屋を出る。


 泉希は誰をあいしてるのだろうか。加々見はそればかりに支配されていた。それ以外のことは全て一枚隔てた向こう側の出来事のようで、彼女の寝顔すら人形を見ているような心地。きっと今に失うのだろうと思う程、彼の視界は霞んでいく。

 不意にスマホが鳴った。画面には『配信』の文字が点滅した。

 普段の彼なら準備に逸るところだが、アラームを止めることすら億劫そうに立った。頭を掠めるのは、の台詞。

『……おまえは、寂しい時でも素知らぬ振りをして顔を綺麗に洗い、頭に膏を塗り、微笑んでいなさるがよい。』

 それが愛なのか、と足が止まった。

 寂しさを隠し分け合わず、情欲も独占欲も仕舞っておくのが愛なのか。あいしてほしいと願う相手に届けて返してもらってはいけないのか。

 背を向けた薄い肩がぎる。あれが愛なら。

「俺には無理だ」

 激しくなってきた雪がベランダの灰色に着地しては消えた。

 加々見はコートを着ると、玄関から出た。


 ――配信は定刻に始まった。

 加々見は始めた頃から変わらないBGMを流しながら、音声データを再度確認した。ライブ朗読は止めて、録音を流すことにしたのだ。イヴとは言え、常連は軒並み聴きにきたようだった。コメントが緩やかにスクロールしていく。

 こんばんは加々見カフェです、と挨拶をしながら表情キーをいじる。PCの中の加々見はぼんやりと微笑み、マウスを動かすと同時に視線は揺れる。

 今夜はイヴなので特別に配信しています、チャット欄は『イヴおめでとう』と『メリークリスマス』で溢れていて、彼は同じ言葉を返した。

 これが愛なのだろう、と思いながら。「じゃあさっそく朗読にうつります」とは微笑んだ。


「今夜は本当ならライブ朗読するつもりでした。でもちょっと申し訳ないですが今夜は」

 録音を、と言いかけた。しかし刹那、彼の目はチャット欄に釘付けになり用意していた台詞も途切れた。

『今晩は、加々見さん』

 あれ、声が。どうしたの、声――そんなコメントが流れ始め、加々見は我に返った。「すみません、ちょっと声が飛んじゃいましたか」と誤魔化し、再び沈黙した。そして件のコメントを確認した。確かに泉希で間違いない。

 加々見は今すぐ電話を掛けて、彼女の真意を問い質したくなった。なぜ寝ていないのか、熱はどうなのか。

 またしても騒ぎ出したチャット欄を斜めに見、加々見はため息を押し殺した。「これでどうかな、聞こえますか」と微笑みを作り、取り繕う。

「さっきライブ朗読はやめて、と言いかけたんですが……せっかく集まってもらったので、詩を読むことにします。いつもよりとても短い作品なので、配信も短くなりますが……よろしくお願いします」

 YouTubeのタブを最小化した。スマホをタップし、保存しておいた画面を呼び出す。

 どうか聴いていてほしい、彼女だけが聴いていればいい。

「それでは朗読を始めます。高村光太郎『智恵子抄』より『人に』」



 手に持ったコンビニの袋がガシャガシャと夜に煩い。

『遊びぢやない 暇つぶしぢやない』

 しかし加々見は走らずにはいられなかった。

『笑い、戯れ、飛びはね、又抱き さんざ時間をちぢめ 数日を一瞬に果つ』

 風邪を引いたから来ないで、と言われたことなど関係なかった。耳に入り込んだ彼女の掠れた声に、「今行く」と電話を切った。

『生である 力である』

 抱きしめたい、と息をする。

『愛する心のはちきれた時 あなたは私に会ひに来る』

 誰にもやるものか、と息をする。

『すべてを棄て すべてをのり超え すべてをふみにじり 又嬉嬉として』

 彼は伝えなければならなかった、今度は自分の言葉で、愛を。

 ――雪も夜を喜んで、彼の頭にしんしんと降った。



(了)


 ──────────────────────

文ちゃんへの手紙と悩んだ。


前話 12/23 独白――ほんとうの幸い【泉希】 続き

https://kakuyomu.jp/works/16817330650234947614/episodes/16817330651008209767


引用・出典

高村光太郎『智恵子抄 人に』青空文庫

https://kakuyomu.jp/works/16817330650234947614/episodes/16817330651008209767

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