第90話 狂気

 パチンッ……

 女が指を鳴らした……。

 その余韻が耳に耳に響いた後……、一際大きな悲鳴が雪下にとどろいた。


「きゃあぁぁあぁあ!!!!」


 その声の主は、もちろん巫女だ。

 彼女の悲鳴が次々と伝染していく。


「なにがあったんだ!?」

「宝玉が……『氷神の涙』がないぞ!」

「なにぃぃぃ!?」

「大変だ……誰かに盗まれたんだ!」


 人々が口々に叫ぶ。そのどれもが動揺の色を帯びており、お祭り騒ぎは一転、混沌と化していた。


「く……そ!」


 あの女の姿はどこにもない。けれど、アイツが盗んだことは間違いないだろう。やられた……止められなかった……。


「はやく……探さないと……」


 アイツなのは間違いない。しかし、アイツが時間停止の術を使ったのなら、追いかけることなんて、ほぼ不可能だ。

 それにこの状況。人々がパニックに陥っている今、下手に動くのは得策ではない。


「どうすれば……」


 その時だった。


「おい! あいつじゃないか!?」


 一人の男が、道端の少女を指差した。


「そうだ! あいつだ! 巫女様の首飾りを持ってやがる」


 見れば、彼女の首には確かにそれらしきものがかけられていた。

 けれど、あれはおそらく違う……。


「おら! 返せ! それはお前が持っていて良いもんじゃないんだよ」


 男の一人が少女に掴みかかる。しかし、少女は怯えながらも、首を横に振った。


「違う! これは私の……お母さんが買ってくれた……」

「嘘をつくんじゃねぇ!」

「きゃっ!」


 暴れる少女に男の拳が襲いかかる。


「オラァ!」

「返せ!」

「寄越せよ」


 男たちが次々に飛びかかっていく。やがて少女が抵抗しなくなると、男たちは彼女の首飾りを強引に奪い取った。


「あ……あ……」


 少女の瞳からは大粒の涙が溢れ落ちる……。先ほどまで和気藹々わきあいあいとしていたはずの祭りは、どんどん血に染まっていく……。


「ち、ちげぇ……これは『氷神の涙』じゃねぇ……」


 そうだ……それは違う。それはあの店で売られていた模造品……。

 俺は店の存在を確認するため、首を横に向けた。

 しかし…………


「なっ……」


 そこにはもう、店はなかった。

 空白になった土地。まるで最初からそこには何もなかったように、跡形もなく消え去っている。


「あっちにもいるぞ!」

「いや、あっちにも!?」


 次々と現れる新たな首飾りの持ち主たち。彼らは未だに、状況を理解できていない。このままでは被害は増える一方だ。


「クソ! 全員やっちまえ! どれかは本物のはずだ!」


 一人が叫びを上げると、他の連中もそれに同調して、武器を振り上げた。


「まずい……」


 狂気が伝染している……。それも、ものすごい速度で……。このままじゃあ、ほとんどの人は、何が起こったのか知ることすらできずに、命を落としてしまう。


「はっ……!」


 そこでようやく思い出す。千鶴は……? 千鶴はどこに行った? 彼女も首飾りをつけているはず……


「千鶴!!」


 俺は慌ててあたりを見渡す。しかし、それらしき人影は見当たらない。


「千鶴!!!!」


 どこだ……。どこに行ったんだ……。首飾りを外させないと……。確か……トイレに行くと言っていた。もしかすると……まだ中に!


「くっ!」


 考える暇があったら、とにかく走れ……! 走って千鶴を探せ!


「千鶴!」


 一つの便所が目に入る。勢いそのまま、そこへ駆け込もうとするが、一つの疑問が俺の足を止めた。


「……どっちだ」


 千鶴が男子便所か女子便所か……どっちに入ったのかわからなかったのだ。

 身体は男だが、千鶴はあれからも女として振る舞っている。それならば、女子便所か? いや、千鶴にはアレが生えているのだ。それならば、男子便所に入る方が自然にも思える……。


「ああ! もう!」


 どちらも調べればいいだけの話だ! 緊急事態なのだから、男子便所に入っても問題あるまい!

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転性(TS)したらケモ耳ヤンデレママの娘だった件〜ヤンデレママと最強妹の力を借り、狐娘として生きていく〜 司原れもね @lemo_tsuka

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