第89話 快楽を注いで……
「おや、拗ねちゃったかな? でも、拗ねた顔も可愛いよ」
「うぅ……」
完全に弄ばれてしまっている。けれど、彼女の言う通り、俺の顔は勝手に色を変えていく。
「けどまあ、そんな可愛らしい顔も、すぐに絶望に染まってしまうと思えば……とても残念なことこの上ない……」
「なっ……どういう意味だ……」
「そのままの意味さ。きみもこの町の穢れが薄いことには気づいているだろう?」
「それがどうした……」
確かにこの町は綺麗だ。空気は澄み切っており、町全体が神聖なものに守られているかのよう……。
穢れがないから、マガツヒもいないし、その対策もされていない。
「じゃあ、なんでこんなにも穢れが薄いのかは知っているかい?」
「……知らない」
「この土地にはね……とある宗教が根付いているんだ。人々はその教えに従って、日々祈り……懺悔し……己の魂を清らかに保っている」
「だからどうした……?」
「でね、その宗教の信仰する神様はこの地にはいないらしいんだ。その代わりに、神様は人々の信仰の柱として、とある神器をこの地に残したんだって」
「それって確か……」
「首飾りだ。緑色の宝石がついた小さな首飾り。それをつけた少女が、巫女として神様の代弁者となり、人々を導く。そうすることで、この町の信仰は成り立っている」
……興味深い話だ。しかし、どうも話の要点が見えてこない。宗教の話を俺に聞かせてどうするつもりなんだ?
「ということはだ。もし首飾りがなくなっしまったら……その宗教はたちまち、信仰の対象を無くしてしまうことになる。信仰をなくしてしまえば、この町は穢れで真っ黒になってしまうだろうね」
「なにをするつもりだ!」
「そして、今日。この祭りで、その神器が表に出される。イタズラ好きな大怪盗はそのチャンスを見逃さないだろう……」
「おまえ……まさか……」
怒りか、緊張か、何故かはわからないが、俺の体に力が入る。強く握りしめた拳からは血が滲んでいた。
「ふふっ。少しは察しが良くなったみたいだね……でも今さら気づいたところでもう遅いよ。きみには止められない」
「そんなことない! 目の前にお前がいるんだ。お前さえどうにかすれば……」
「私さえ止められば……?」
彼女はクスリと笑う。まるで俺をバカにしているかのように。
「確かに私を止められれば、惨劇は起こらないかもね。でも、きみには私を止められるほどの力がない」
「そんなの……やってみないとわからないじゃないか。俺だって術が使えるようになったんだ……」
「ほう……それはそれは……嬉しい限りだ。是非とも見せてほしいものだね」
女はおもむろにベンチから立ち上がる。そしてそのまま、大きく腕を横に広げると、煽るように見下してみせた。
「ほら、私はここから動かないからさ……きみの術とやらを早く使ってみなよ」
「……」
完全に舐められている。けれど、止まっていてくれるというのなら、好都合だ。あの時と同じように俺は『止まれ』と強く念じた……。
「……」
しかし、いつまで経っても、時が止まることはなかった。せいぜい止まっているのは彼女の動きくらいで、それも俺が止めたわけではない。
「どうして……」
「ふふっ……もしかして……君の術っていうのは、これのことかな?」
節那————女の鳴らした指の音が、鼓膜に響く。そして、それが聞こえた頃には、俺の視界から女の姿は消えていた。
「こっちだよ……」
耳元で囁かれる女の声。慌てて振り返ると、女は胸部を俺の背中に押し付けながら、ニヤリと笑っていた。
「なっ……!」
「ふふっ……驚いた? ごめんね。君に意地悪するつもりはないんだけど……。あのとき時間を止めたのは、きみじゃなくて、私なんだ」
「なにを言って……」
混乱する俺を他所に彼女は続ける。
「きみがあんまりにも強く祈っているモノだから、叶えてあげたくなっちゃって……ついね」
「そんな……」
あれは俺の力じゃなくて、コイツの力だったのか……。いや、あれはじゃない。あれもだ……。
「ふふっ……ふふふっ……ふふふふふっっ! 本当にきみは可愛いなあ……。食べちゃいたいくらいだよ!」
耳元で囁やいていた女の口が、そのまま俺の耳を甘噛みした。
「ひゃっ……!」
「ああ……美味しい……。きみの味が私の中に入って来る……甘い……とっても甘くて……病みつきになりそう……」
「やっ……やめて……あっ……んっ」
痺れるような快感が全身を駆け巡る。女の舌づかいは琥珀の乱暴なものとは違くて、優しく包み込むようで……。ただひたすらにこちらに快楽を注ぎ込んでくるものだった……。
「きみの願いはなんでも聞いてあげたいところだけど……こっちにも事情があってね。今回は譲れないんだ」
「あっ……やめ……んん!」
まるでどこが気持ちいいのかを知り尽くしているかのように、女は舌を這い回らせる。
少しでも気を抜けば、この快楽に全てを委ねてしまいそうだ……。
「でも、安心して。私はきみの幸せを願っているから……」
「だめ……これ以上は……あぁ……!」
頭がクラクラして、何も考えられなくなる……。体から力が抜けて、抵抗する気すら起きなかった……。
「おや、やっと来たみたいだ」
朦朧とする意識の中、遠くから何かが近づいてくるのがわかった。あれは巫女だ。首飾りをかけた巫女がこちらに向かって来ている……。
「じゃあね」
「はぁ……はぁ……ま……て…………」
どれだけ足掻こうとも、俺の体は言うことを聞かない。女に注がれた快楽が、俺の体を完全にダメにしてしまったのだ。
「また会おう……」
パチンッ……
女が指を鳴らした……。
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