第88話 吐息混じり
「その……トイレに行きたいんだけど……」
「あ、ああ……じゃあ、行っておいで」
「ええ……」
千鶴は俺から手を離し、足早に去っていった。
「……」
一人残された俺は、なんとも言えない気持ちになっていた。まるで、心にぽっかりと穴が空いてしまったような、そんな感覚だ。
「はぁ……」
雪も払わずに、ベンチへと腰掛ける。そして、ぼんやりと辺りを見渡した。
「ちょっとおかしくなってるな……俺」
女として男の人をカッコよく思ったり、男として千鶴を可愛く思ってしまったり、感情が不安定になっている。
まあ、千鶴は男とも女とも言えない存在なんだが、それを抜きにしても、今の俺はどこかおかしい。
「そう? 私はおかしいとは思わないけどな」
突然、隣から女の声が聞こえた。
「な……なんで、お前がここに……」
隣に座っていたのはあの女だ。彼女は音もなく、いつの間にかそこにいたのだ……。
「ふふっ……言ったじゃないか。また会おうって……」
「な、なにを……」
「そう身構える必要はないさ。私はただ、きみとお話がしたいだけなんだ」
囁くような、吐息混じりの甘い声が耳に響く。耳を背けようと思っても、不思議と彼女の言葉に聞き入ってしまう。
「お話?」
「うん。お話。私はきみと話したくてたまらないんだ」
「お、お前と話すことなんてない!」
「海ではあんなに仲良くしてくれたのに、冷たいな……」
顔は見えない。けれど、本当に悲しんでいるのが声色から伝わってくる。
なんなんだコイツは……。なんで、そんなに俺と親しくしようとするんだ。親しくなれるような関係でもないのに……。
「でも、話すことならあるよ」
「な、なんだよ……」
「きみがみんなのために頑張ったお話。氷上で、痴態を晒しながら……」
「なっ……!」
まさか、ずっと見ていたのか……!? 海で話した時もそうだったが、コイツは俺のどこまで知っているんだ。
正直、現代日本のストーカーよりも何倍もタチが悪い……。
「私としては、きみの痴態が晒されるのは大変不本意なわけだけど……きみが頑張ろうとしているんだ。それを応援する気にはなれど、邪魔する気になんてなれなかった」
「……」
「まあ、あの氷の術を使う男は本当に殺してやろうかと思ったし、きみが全裸にされそうになったのなら、会場をめちゃくちゃにしてやるつもりだったけどね」
「……」
ゾッとする。彼女は間違いなく本気だ。俺が参加したせいで、氷上が血に染まっていた可能性があったのだ……。
「ふふっ……そんな怖い顔しないでほしいな。笑顔の方が可愛いんだから」
自分で俺の顔を曇らせておいて、何を言っているのか……。
それとも、曇らせている自覚がないのか?
「まあ結局、我慢ならなくて、少し手出ししてしまったんだけどね」
「なんだと……」
「一度、吹雪があっただろう。あれはね、私が起こしたんだ」
「な……」
なんてことだ……。主催側が用意したとしか考えていなかったあの吹雪はコイツの仕業だったのか……。
じゃあ、俺が勝ったのはコイツの手助けがあってのことだったのか?
「ああ、勘違いしないでね。勝利は間違いなく、キミ自身の力によるものだよ」
「……」
「あとは、女性に裸を晒させまいと気合いを見せた二人の男のおかげでもあるね」
「二人の……男……」
あぐらの男と、特徴のない男のことを言っているのだろうか。けれど、裸を晒させまいって……
「は!」
「もしかして、彼らの意図に気づいていなかったのかい? きみは本当に鈍感だね」
二人は……俺が裸にならなくていいように、わざと脱落したんだ……。まだ耐えれたはずなのに……。
「ふふっ……なかなか良い男たちだった。君に釣り合うほどとは思えないけれど」
「……私はそんなにお高い女じゃない」
「そうだね。きみは女じゃないもの」
「そ、そういう話じゃないだろ!」
「あはは! ごめんね。でも、よかった。怖い顔が緩んできてるよ」
「え?」
言われて気づく。確かに、口元が笑っている。
ダメだ。コイツと話していると、ペースを持って行かれてしまう……。
「……」
「おや、拗ねちゃったかな? でも拗ねた顔も可愛いよ」
「うぅ……」
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