第59話 傾いた天秤

 四本あった串も、残り一本。それを頬張っていると、女が唐突に口を開いた。


「きみにとって、そのサンマの味は大切なものかい?」

「……?」


 すでに緩み切った警戒心は彼女の質問を簡単に受け入れる。

 けれど、いまいち意味のわからない質問だった。サンマの味が大切か? なんて考えたこともない。

 きっと大切なものなのかもしれないけど、どんなふうに大切なのかも、なぜ大切なのかもわからない。


「聞き方が少し、意地悪だったかな」


 彼女は困ったような表情を浮かべると、言葉を続けた。


「きみにとって、いま、この時。この世界に来てからの出来事は大切かな?」

「!?」


 緩み切った警戒心が一瞬にして引き締まる。


「そんなに驚かなくてもいいじゃないか。私がきみの正体を知っていても、そんなにおかしいことじゃないだろう? それに、きみのことを知っているのは私だけじゃないでしょ? 彼女と行動を共にしているというのに、今更じゃないかな?」


 コイツ……雲雀のこともわかっている……。

 雲雀と秘密について話したのは、森での一度きり。それもほんの少しの時間だ。なのに、どうして……。


「それとも、おしっこを飲ませてあげた仲だからかな? おしっこ友達。それもなかなかにユニークな関係だね」

「な……」


 なんで……知っている。あの時、あの場にいたのは俺と雲雀だけ。他には誰もいなかった。

 いや、コイツ……まさか……ずっと……俺を……。


「それで、どうなのかな。きみにとってこの世界での時間は大切なもの?」

「…………」

「鏡は……その時間を犠牲にしてでも、守るべきものなのかな?」

「……!!」


 心臓が大きく跳ね上がる。

 似たような問いを、最近聞いた……。



『ねぇ、真白はその鏡と自分の命どっちの方が大事?』



 あの時は、どちらとも言えなくて、曖昧な答えを返した。

 今だってその天秤は傾いてなんか……。

「……あれ」


 どうして……どうして俺は、真白にこの時間を、お姉ちゃんという立場を、譲りたくないと思ってしまっているのだろう……。

 鏡の乗った皿が少しだけ、上に上がっていた。


「……」


 改めて女の顔を覗き込んだ。

 黄色く輝く不気味な瞳。それは、あの日の雲雀に重なって見えてしまう。


「う……」


 緊張と恐怖から胃液が逆流してくる。先程食べたサンマも、もう喉元までせり上がってきて、今にも吐き出してしまいそうだ。

 コイツは雲雀……? もしくは雲雀と通じている? それならこれまでの話だって説明がつく……。

 一度確証めいた考えが浮かぶと、思考がそちらにどんどんと傾いていく。

 もはや、冷静に考えることなど叶わない。


「うぇ……はぁはぁ……」


 息も絶え絶えになりながら、なんとか飲み込む。

 辛い。苦しい。気持ち悪い……。


「だいじょうぶ……」


 女が背中を優しく撫でた。

 優しく労るようなその手が背中を往復するごとに、少しづつ、すこしづつ、呼吸が楽になっていく。

 まるで、魔法のようだ。吐き気も苦しみも、その手の温もりに溶かされていくようで……。


「ごめんね。そこまで取り乱すなんて思っていなかった……。私は愚か者だ。きみのことを想えていなかった。ごめんね……」


 だから……どうして謝るんだ。祠の時だってそうだ。自分で苦しめておいて、どうして……。


「そろそろ、私は行くよ」


 呼吸が整った頃、女はそう告げた。ゆっくりと立ち上がる様子は、まるで我が子をあやして、安心する母親のよう……。


「ああ、そうだ。これもあげる」


 チャリン……

 一つの袋が地面に落ちた。音から察するにこれは……


「お金だ。何かあったときのために持っておくといい」

「おまえの……金なんか……」

「いらないって言うのかい? それは愚かな選択だと、私は思うな。琥珀が病気になったとき、依狛が怪我をしたとき、雲雀が腹をすかせたとき、きみはきっと後悔をする。お金の大切さは日本で学んでいるだろう?」

「……っ!」


 返す言葉が見つからなかった。コイツの言っていることは正しい。お金があれば、助かる人がいる。でも、こんな汚い金なんて……。


「使うことに抵抗があるなら、別にその時まで、使わなければいいし、いらないならそこに置いておけばいい」

「……」

「じゃあ、また会おう。きみの旅路にいっぱいの幸せがあるように願っているよ……」


 女は踵を返し、砂の上を歩いていく。

 その後に残ったのは、消えた焚き火と、袋と、疑問だけだった。

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