第58話 仄かな温もり
近づくにつれて、その香りがより強くなっていく。
そして、その正体が露わになったとき、俺は思わず息を飲んだ。
「これは……」
焚き火を囲むように突き刺された数本の串。体を真っ直ぐに貫かれた魚からは脂が滴り落ち、炎の光を受けてキラキラと輝いている。
「サンマ……?」
パッと見た感じは普通のサンマだ。けれど、何か、違和感がある。
小さい頃からサンマは好んで食べてきたし、社会人になってからだって、毎週のように食卓に並んでいた。
だから、見間違えることなんてないと思うんだけど……。
「似ているだろう?」
「!?」
不意に後ろから声をかけられた。
聞き覚えのある声。ここにいるはずのない声。聞き間違いであってほしい声。
恐る恐る声のした方向を振り返る。
「そんなに怯えなくてもいいじゃないか」
「どうしてお前がここに……」
そこに立っていたのは、あの女だった。
以前と変わらず、白い修道服のようなものに身を包んでおり、顔を見ることは叶わない。
それでも、怪しげに輝く黄色い瞳だけは暗闇の奥からこちらを覗いているのがわかる。
「私はきみに害を及ぼしたりはしないよ」
「……」
そんなことは知っている。コイツの狙いは鏡だ。俺じゃない。だから、俺を傷付ける必要はない……。
でも、それなら、なおさらなんでコイツはここにいるんだ。雲雀の予想とも違うし、なんで……。
「質問に答えてよ……。どうしてここにいるの……」
「ああ、そうだね。私は質問に答えるべきだった。自分の信頼を得ることを優先して……愚かだった」
「……」
「私はただその魚を取るためにここに来たんだよ」
「は……?」
嘘だ。そんなちっぽけな目標のためにコイツが動くはずない。だって、里をメチャクチャにしたやつだぞ。そんな、魚程度のために動くわけ……。
「ほら、きみも一緒に食べようよ。サンマは好きでしょう? 見た目は少し違うけど、味はほぼサンマだよ」
俺の好みを知っているのが、さも当然であるかのように言って、彼女は串を一本、差し出してきた。
僅かに香るこげの匂いが鼻腔を刺激して、空腹感を掻き立てる。
ゴクリと喉が鳴る。
それは食欲によるものなのか、それとも別の何かによるのかはわからない。
「……」
「悪いものなんて入ってないよ。ほら」
彼女は端っこを一口かじってみせた。
無害であることを示したいのだろうが、それによって新たに生じる問題は全く頭にないようだ。
「……分かったよ」
これ以上疑っても仕方がない。
渋々彼女の手から串を受け取ると、一口かじる。
瞬間、口の中に塩気が広がっていく。
それは紛れもなく、普段家で食べるものと変わらない、サンマの味で、舌触りも全く同じ。
見た目が僅かに異なるだけで、味や食感は本当にほとんど変わりなかった。
「美味しいでしょう?」
「うん……」
「ふふ。よかった。じゃあ、私も頂こうかな」
そう言うと、彼女もまた同じようにして、口に運んでいく。
顔が見えなくても、その嬉しさが声だけで伝わってきた。
本当にこれを取りに来ただけなのかもしれない。
今の彼女を見ていると、そう思えてしまうくらいに、彼女は幸せそうだった。
「いくらでも食べていいよ。お腹いっぱいになるまでね。私は残ったものを食べるから」
気づけば、手元の串は頭だけを残して銀色に輝いていた。彼女の歯形も無意識のうちに食べてしまったようだ。
確か今、千鶴がご飯を買いに行っているはず……あんまり食べると変な疑惑を生みかねない。けど…………
「…………」
いつか食べれるかもしれない食事よりも、今目の前にあるサンマの方が遥かに魅力的だった。
俺は夢中でサンマにかぶりつく。その間、女はこちらを見つめているだけで、危害を加えてくることはない。
「ふふ……」
心がほのかに温かいのは、きっと焚き火のせいじゃない……。
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