第38話 脂肪の塊
襖が開かれると、甘い花の香りがふわりと香ってきた。畳が敷き詰められた部屋の中央には大きな机が置かれており、その周りを囲むようにして座布団が敷かれている。外壁の側には大きな窓が存在感を放っていて、そこから鳳凰の森が一望できた。
また、室内の至る所にある花瓶にも様々な種類の花が添えられており、どれも手入れが行き届いているのか瑞々しい色をしている。
花の香りの出所はおそらくこれだろう。この世界に来て初めて嗅いだが、どこか懐かしい気持ちになる。
「一泊二食付きで……お値段は金五枚です。お支払いは……退室の際にまとめて頂ければ結構です。お風呂は……一回まで降りてその左へ行けばあります。何かありましたら……遠慮せずに……お呼びください」
それだけ伝えると、彼女は深々と頭を下げて、ゆっくりと踵を返した。
「早速入りに行きましょう! 自分温泉なんて入ったことないんで楽しみです!」
「まあ、そう焦らないで。着替えとか用意しないと……」
「あっ、それもそうですね……」
「私は……後ではいるわ」
消え入るような小さな声で千鶴は呟いた。彼女は顔を下に向けていて、何やら恥ずかしがっている。
「どうして?」
「どうしてでもいいじゃない……」
「それもそうだね。じゃあ千鶴は待ってて、すぐに戻ってくるから」
「うん……」
☆★☆
「はぁ〜……生き返りますね〜」
「ほんとにね……」
身体に染み渡るような心地よい湯の温もり。ほどよく嗅覚を刺激する硫黄の匂い。外に広がる雄大な自然。それら全てが絶妙に絡み合い、この世の極楽を演出していた。
「いいお湯だよね……。まさか露天風呂だとは思わなかったけど」
まだ男だった頃にも露天風呂なんて数えるほどしか経験していない。確か修学旅行に行ったときにグループで盛り上がっている人たちが出て行ってからこっそりと一人で入った記憶がある。
その時の開放感は今でも忘れられない。あの時だけは普段から窮屈に過ごしている学生生活から解放されていた気がする。
「ふぅ……こんなにゆったりしたのは久しぶりです……」
依狛が両手を伸ばしながら、深く息を吐く。
「……それ、邪魔じゃないの」
不満そうに呟いたのは琥珀だ。彼女は依狛の前に浮かぶ二つの果実を睨むよう見つめている。
「ん? 何のことですか?」
「それだよ! それ! 犬の前に浮かんでいる肉の塊のこと! さっきからずっと揺れてるんだよ! 目障り!!」
「えっ!? そんなこと言われても……」
依狛は困惑しながら胸を手で隠すが、それが余計に琥珀の神経を逆撫でしてしまったらしく、さらに語気を強めてまくし立てる。
「もう! 早く沈めてよ! 見ててイライラするの!」
「そ、そう言われましても」
どれだけ湯に沈めようとしても、強い浮力を持つそれは琥珀の眼前に再び君臨する。それどころか、水面に浮上するたびにプルリと震えて、琥珀の怒りを増幅させた。
「本当になんなのそれ? 自慢なの? ねえ、そうなの?」
「えっと……これは……その……体質というか……生まれつきというか……その……そういうものなんですよ……ごめんなさい」
「なにそれ……? 意味わかんないんだけど……お姉ちゃんも何か言ってよ!」
「え!?」
突然話を振られて、俺は思わず肩を跳ね上がらせた。
「い、いや……私はなんとも……」
そもそも俺は依狛の裸を直視できていない。視界の端で見え隠れするそれをなるべく意識しないようにするのが精一杯だ。
彼女たちの意識が俺に向いていないからばれていないが、今の俺はえっちなポスターをチラ見する男子中学生のように視線が泳ぎまくっている。琥珀と自分の裸はまだ耐えられたが、彼女のそれは刺激が強すぎるのだ。
「お姉ちゃんは私の味方だもんね!」
「そ、そうだね。小さいのも可愛いと思うよ?」
「……は?」
「……え?」
琥珀の目が細まり、周囲の温度が下がった。
「今……なんて言ったの?」
「ち、小さくて……可愛らしいなって……」
「へえ……?」
琥珀の表情は変わらない。だが、その背後から漂う気迫は尋常ではない圧力を放っていた。
「そういえば、犬を連れて行くとき、お姉ちゃんをどうしてもいいって言ってたよね?」
「あ、あれは……」
確かに言った。でも、こんな形でその権利を行使されたら、ひどい目に遭わされるのは目に見えている!
「じっとしててね。すぐ終わるから」
「ちょ、ちょっと! ダメだって! ほ、ほらそこに依狛がいるし!」
「そんなの関係ないよ……? そうだ。お姉ちゃんのがあいつより大きくなるようにマッサージしてあげるね」
「や、やめてよ……! やめてってば……!! ああッ……そこは……!!」
「うるさい。黙ってて」
「ぎゃあああああ!!」
………………
…………
……
「大丈夫ですか? 真白様?」
「う、うぅ……大丈夫じゃない……」
「私は正当な権利を行使しただけだから、恨まないでね」
やっぱりあんなことを言わなければよかった……。もう二度と自分の身体を交換条件に持ち出さないようにしよう……。
「お、お二人とも、お戯れの際に身体も温まったでしょうし、そろそろ出ませんか。あまり長居するとのぼせてしまいます」
「そうね……。お姉ちゃん立てる?」
「なんとか……」
火照った身体をなんとか起こす。しかし、琥珀の手は取らなかった。もうしばらく彼女の手は怖くて触れられそうにない。
『ピィィーッ!』
どこからともなく聞こえてきた鳥のような鳴き声。それは露天風呂の向こう側。鳳凰の森から聞こえていた。普通の鳥と同じようで、どこか違う。心をざわつかせるような不気味な響きが鼓膜を揺らす。
「うるさいなぁ……もしかしてこれが鳳凰様とやらの鳴き声? だとしたら、見た目も声と同じように不気味なやつなんじゃないの? きっと私たちより低俗な神なんだね」
「琥珀様……胸で負けたからって、憶測で神様を悪く言うのはよくないですよ……」
「はあ? なんか言った? 胸がなんとか聞こえた気がするけど!?」
「ひぃ! す、すみません! なんでもありません!」
「ま、まあまあ……それより早く上がろ。本当にのぼせるよ」
「それもそうですね」
奇妙な鳴き声だったが、おそらくあれは鳥のモノだった。鳳凰のモノと決まったわけではないけれど、何の根拠もない神頼みよりよっぽどましだ。鳳凰……本当にそこにいるのだろうか……。
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