第36話 君と未来を紡ぐ旅

「あら、おかえりなさい。遅かったわね」


 玄関の扉を開けるなり、お母さんは満面の笑顔で俺と琥珀を迎えてくれた。旅立ちの挨拶をするだけなので、依狛と千鶴には外で待ってもらっている。


「うん、ただいま」

「里では大変だったわね。疲れているでしょう? お風呂沸いてるから早く入ってらっしゃい」

「……ごめんなさい。今日はしばらくの別れを告げに来たんだ……」

「え……」


 俺の言葉を聞いた途端、彼女の顔から笑顔が消えた。


「私たち、あの女を追おうと思うんだ」

「ダメよ! そんな危ないこと!」


 予想通りの反応だ。でも、ここで退くわけにはいかない。


「わかってるよ。危ないことくらい。でも、あの女にどうしても聞かなきゃならないことがあるんだ。お母さんには心配を掛けるし、神様としての仕事もできない。けれど、お願い……どうか許してほしい……」

「ダメよ。どんな理由があろうと、絶対に認めません」


 いつも優しい母さんの声色が冷たく、鋭くなっていく。その瞳には怒りの炎が宿っていた。それは助けに来てくれたあの時に重なるようで、少しずれてもいる。

 どちらも、俺の身を案じてくれてのことだ。でも、あの時は怒りに身を任せた本能的な怒りで、今は理性を伴った、合理的な怒り。


「でも……!」

「あなたはまだ子供なの。大人しくお母さんの言うことを聞いていればそれでいいのよ。危険を冒す必要なんてどこにもないわ」

「でも、このままじゃいけない気がするんだ……。このままじゃ、何もわからずに、ただ生きるだけの日々が続くだけだと思う。こんな気持ちのままじゃ、きっと私は前に進めない……」

「そうかもしれない……でも……私は……大切なあなたを失いたくないの」


 いつの間にか、彼女は涙を流していて、嗚咽交じりの言葉を紡いでいた。その姿はとても弱々しくて、今にも壊れてしまいそうで……。罪悪感を抱かずにはいられなかった……。

 彼女は俺のために泣いてくれているのだ……。自分のために泣いてくれる人がいるというのは、とても幸せで尊いことだ。日本にいた頃の俺には、決して得られなかったもの……。この世界に来たことで得られたものだ……。

 俺は奇跡みたいな力でとなって、無償の愛を貰った。真白が貰うはずだったものを横取りするように。

 そんな愛を蔑ろにする俺は地獄に送られても文句は言えない。けれど……俺はあの女に聞かなきゃいけないんだ。彼女の愛を本来の場所に戻すために。


「ごめんなさい……でも、行かせて……」

「真白……」

「大丈夫だよ。必ず帰ってくるから。約束する」

「でも……」

「私、お母さんに話したいこと……話さなくちゃならないことが沢山あるんだ。それを話すまでは死ねない。だからね、死ぬつもりなんて微塵もないよ。それに旅をしていたら、きっと話したいことがどんどん増えていく。その分だけ、生きてお母さんに会いたいって気持ちもどんどん大きくなるんだ…………絶対に戻ってくるから……。だから……お願い……」

「うぅ……」


 お母さんは膝から崩れ落ちると、声を上げて泣き始めた。それはまるで子供のようだ……。こんな弱々しい様子の彼女をみることになるとは思わなかった。

 笑顔でなくても、泣かずに送り出してくれると勝手に思っていた。でも、それは大きな間違いだ。彼女は親なのだから、我が子を失う悲しみに堪えられるはずがない。その辛さを想像できなかった自分が情けない……。


「……真白」

「うん?」

「……気をつけてね」

「……うん」


 彼女の涙を拭ってあげる。それは俺の役目じゃないことはわかっているけど、今の俺にできることはこれだけしかない。


「琥珀も……真白のことをお願いね……」

「うん、任せてよ」


 琥珀の笑顔を見ると、彼女は自分で涙を拭ってみせた。そして、再び笑顔を作る。


「……行ってらっしゃい」

「うん……行ってきます」


 永遠の別れでもないのに、大袈裟に見えるような気がするが、それが母親というものなのかもしれない。

 俺は彼女を抱き締めた。強く、つよく、抱き締めた。

 俺にとっては二度と会えない相手かもしれないから……。


「……ありがとう」

「うん……」


 彼女の体温が身体から離れていく。その温もりは俺の中に残滓を残していった。


 ☆★☆


「挨拶は終わりましたか?」

「うん」

「それじゃあ、行きましょうか」

「今更なんだけど、どこか当てはあるの?」

「あるわよ!」


 すっかり調子を取り戻した様子の千鶴が元気よく返事をした。先ほどまであんなに号泣していたのが嘘のようだ。


「目的地はここから北西。鳳凰の森よ!」

「鳳凰の森?」

「そう。そこには鳳凰という神様が住んでいて、その神様は未来が見えると言われているの。だから、鳳凰に未来を聞いて、蛮族の居場所を探ろうってわけ」

「なるほどね……」


 神頼みか……。まあ、あの女の行動を予測するよりは現実的かもしれない。真白だって時間を止める術を使えたわけだし、未来が見える術があっても不思議じゃない。


「じゃあ、早速出発しよっか」

「そうね。私のあまりの速さにびっくりしないでよね!」


 それだけ言い残すと、千鶴は疾風のように駆け出した。そして————

 バタンッ!!

 当然のようにその顔を地面に伏した。


「ふぇえ……」

「そ、そんなに急がなくても……大丈夫だから……」


 こんなんで本当に大丈夫だろうか……

 不安しかないのだけど……。


「そういえば……月のモノの処理を忘れてた……」

「えっ!? そのために帰ってきたところもあるのに、何やってるんですか!?」

「いや、お母さんとの話に夢中ですっかり忘れてた……。でも、今更戻るのはちょっと……」

「そうですか……それ相応の覚悟があるのならいいですが……」


 依狛の視線は冷たかった。俺の不安が煽られる。

 月のモノって放置してたらそんなに怖いのか……生理現象なのに……。


「そんなこと気にする必要ないよ。お姉ちゃんの下の世話は私がやるから」

「うえぇぇん」

「月のモノは……」


 ダメだ……まだ一歩しか踏み出していないのに、不安が尽きない……。本当に帰って来られるのだろうか……。

 数えきれないほどの不安要素を抱えながら、俺たちの旅は始まった。

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