第35話 涙の虹
「……どうしよう」
「あぁ、うるさいなぁ。その口、二度と喋れないようにしてあげようか?」
「ひぃ……うぅ……」
彼女を泣き止ませる方法。日本にいた頃のぼっちの俺では、きっと何も思いつかなかった。でも、今なら少しだけわかる気がする。この世界に来て、沢山触れてきた、人々の温もり。お母さんの抱擁、琥珀の言葉……。人の優しさに触れてきたことで、ほんのわずかな時間だけど、それでも、確かに変わった。
だから、今なら彼女の心に懸かった雲を晴らすことができるかもしれない。
「……泣かないで」
彼女の頭を優しく撫でてみた。これが三十路のおっさんのままだったら、さぞかし気持ち悪い光景だろう。でも、今は美少女だ。許されるはず……。というより、他に方法が思いつかないし……。
「うぅ……ぐすっ……えっ?」
彼女は驚いた表情を浮かべて、目を丸くしている。
無理もない。いきなり撫でられたら、誰だって驚くに違いない。
けれど、これが一番落ち着くんだって思ってしまったんだ。くやしいけど、あの女に優しく頭を撫でられた時、不思議と落ち着いて、すぐに涙も引っ込んだ。
俺の撫で方はきっと、とてもぎこちなくて、へたっぴだろう。あの柔らかい手には遠く及ばない。もしかしたら、不快な気持ちにさせているかもしれない。
けど、俺にはこれくらいしかできないから……。
「ごめんね……本当にごめん……。でも……君を傷つけたりは絶対にしないから……。泣かないでほしいな」
ぽたり……
ぽたり……
と響く、涙と悲鳴の交響曲は徐々にその音色を小さくしていく。
「うっ……」
「時には、泣くことだって大切だ。でも、いつまでも泣いてばかりじゃ、前に進めない。もし悔しいのならば、また立ち上がればいいんだ。たとえ、今は苦しくても、進めばきっといいことが待っているから」
ぎこちない笑顔を作ってみせる。普段作り笑顔なんてしないから、俺の笑顔は引き攣っているだろう。でも、精一杯の笑みを作る。少しでも、彼女が安心できるように……。
「……」
彼女はしばらく沈黙した後、こくりと一度だけ首を縦に振ってくれた。
最後の一滴が地面に落ちて、交響曲は終焉を迎える。
「……うん」
ほんの少し、彼女の口角が上がった気がした。それはまるで花が咲いたかのような微笑で、思わず俺の顔まで綻んでしまうほどだった。
手を差し伸べてみると、ゆっくりではあるが、握ってくれた。まだ微かに震えているその手は俺のものより大きくて、とても暖かかった。
「……ありがとう」
彼女は消え入りそうな小さな声で呟き、立ち上がる。
「あのね、私たちは里を荒らした蛮族じゃないんだ。私は真白、で、この子が琥珀、そっちが依狛っていうの」
「蛮族じゃ……ないの……?」
「うん、違うよ。ちょっと用事があってここに来ただけだから」
「そう……なんだ……」
彼女はそう言うと、ふっと力が抜けたようにその場に座り込んでしまった。
やっぱり、緊張してたのかな。
「あの……ごめんなさい……私……勘違いして……」
「気にしなくていいよ。それより怪我とかはない?」
「うん……」
「そっか……よかった」
こちらを見上げる彼女の姿はいつかの俺にそっくりで、自分がお母さんやあの女の真似事をしているという事実が嫌でもわかって、恥ずかしかった。でも、同時に嬉しかった。誰かの役に立てたということが。
「私は……鳳凰神社の巫女で……名前は千鶴……」
そういう彼女の顔にはもう雲は一つも浮かんでいなかった。溢れた涙は虹をかけて、彼女の微笑みに彩りを与えている。
「よろしく、千鶴ちゃん」
「うんっ……」
差し出した手を、彼女はしっかりと握り返してくれた。
差し伸べられる側から、差し伸べる側へ。俺はなれたのだろうか。
「ほら、もう帰りなよ。ここには蛮族はいないから」
「…………帰れない」
「えっ? どうして?」
「私……蛮族を倒すまで……神社に帰れない……」
何か使命のようなものでも与えられたのだろうか……。
蛮族とはあの女のことだろうが、彼女の実力では到底敵わないだろう。このままだと彼女は一生家に帰れない。……いや、あの女に殺される方が早いかもしれない。それはなんとしてでも避けたい。
「そっか…………、実はさ、私たちもその蛮族を追っているんだ。だからさ、よかったら一緒に来ない? その方が効率いいと思うんだけど……」
「……でも」
「自尊心が邪魔をしているのであれば心配はいらないよ。みんなの力を借りることは別に恥ずかしいことじゃない。それに一人で旅をするより、みんなでした方が楽しいし、安全でしょ? もちろん、迷惑でなければの話だけど……」
「迷惑じゃ……ない……私も連れていって……」
小さくて聞き取りづらい、まだ自尊心を残した声。それでも、そこには彼女の明確な意志が乗っていて、はっきりと耳に届いていた。
「決まりだね。それじゃあ、これからよろしく」
「……うん」
地面に落ちた少し大きめの笠を拾い上げて、土を払うと、彼女はそれを頭に被る。
「はあ、お姉ちゃんとの二人旅のはずだったのにどんどん邪魔者が増えていく……」
「それ、思っていても口に出しますか……」
琥珀は不機嫌そうに頬を膨らませて、ぷいっと顔を背ける。しかし、彼女の尻尾は忙しなく左右に揺れていた。どうやら、満更でもないようだ。
「あはは……」
「お姉ちゃんも笑ってる場合じゃないよ」
「ご、ごめん……」
「まあいいや、とりあえず家に帰ってお母さんに事情を説明しないと」
「そうだね」
「……ん」
四人で歩く街道は足音だけでも賑やかで、一人で歩いた繁華街よりもずっと心地よく感じた。
もう心細さはそこにはない。あるのは確かな充足感と、新しい仲間。
俺たちは互いに笑い合いながら、帰路についた。
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