第29話 いつかどこかで
「離れろ…………」
一帯の空気がわずかに揺れ動いた。その瞬間、女は何かを感じ取ったのか、弾かれたように俺から離れた。
「私の娘から……離れろ!!」
この世界で数少ない聞き慣れた声。そして、一番頼りになる存在。
「おかあ……さん」
目の前に現れたのは紛れもなく母の姿だった。しかし、今まで見てきた彼女とは全く違う。優しさに満ちあふれていた笑顔は鬼のように歪んでおり、柔らかな尻尾は怒りを表すかのように逆立っている。全身からも殺気を放っており、その姿を見ただけで鳥肌が立った。
「……」
女は母の姿を見ても微動だにしない。ただじっと母の顔を見つめているだけだ。
「娘から離れろと言っている」
母は一歩前に出ると、鋭い視線を向けたまま口を開いた。威圧感が違う。普段の母からは考えられないほどだ。これではどちらが悪者かわかったものではない。
「……」
それでも女は黙っているだけだ。何を言うでもなく、ただひたすらに母を睨みつけているように見える。
「もう一度だけ言ってやる。その薄汚い手を……私の大切な娘の身体から離せ」
「……無理だ」
「そう……ならば……死になさい」
刹那、無数の斬撃が一瞬にして女へと襲い掛かった。いつの間に移動したのか母は女を間合いに収めており、その刀を振るった。
「愚かだ……」
しかし、女は奇妙な術で鉄壁を創りだし、それら全てをはじいてしまう。
「……くっ」
「……時を止める術。確かに強力な術だけど、使ってくるのがわかっていれば対処できないこともない」
時を止める術のことを知っている!? いや、そもそも美雪は時間停止を使えるのか? 真白が使えたのだから使えても不思議ではないが、もしそうならば何であいつは……。
「……このまま戦っても、ただ愚かに時間を浪費するだけだ。だからといって美雪をここで始末してしまうのも惜しい……」
「一体どこで私の名前を知ったの。私の記憶している限りあなたのような知り合いはいないわ」
「答える必要はないさ。君のような母親崩れにはね」
「なんですって……」
母の顔に怒気が混じる。その表情を見ても女は涼しい顔をしている。まるで自分が絶対的優位にいると確信しているかのようだ。
「今日は帰ることにするよ……。それじゃあまた会おう。真白の母親の美雪さん……」
突如として暴風が吹き荒れた。それを巻き起こしたのは見覚えのある一つの物体。いや、車両。
「電車……!?」
あり得ない。この世界に電車がなんてあるわけない。しかもあれは日本を走っているのと同じものだ。こんなところで見かけるはずがない。
「じゃあね。きみにまた会えるよう祈っているよ」
見た目こそ普通の電車のようだったが、二両編成のそれは女の前でピタリと止まると、彼女を乗せて空を走り始めた。
「……」
俺はその光景を呆然と眺めることしかできなかった。あまりにも現実離れし過ぎていて、頭がついていかないのだ。
「琥珀! 真白!」
母の声が耳に届くと、ようやく思考が動き出した。彼女の温かな抱擁が俺を現実に引き戻してくれる。
「真白、大丈夫? あの女に何もされなかった?」
「うん……」
そうだ。あの女は俺に何もしてこなかった。依狛や緋色さんのことはためらいもせず傷つけたくせに、俺に対しては頭をなでて、少し手に触れただけ。不可解という次元の話ではない。それにあの電車……あの女は日本について、俺について何か知っているのだろうか……。
「そう、よかった……琥珀も怪我してないかしら?」
「……大丈夫だよ」
琥珀がぎこちない笑みを浮かべながら言った。その顔には恐怖が張り付いている。無理もない。あんなことがあった後なのだから。
「そう……とりあえず二人とも無事で良かったわ……」
「……そ、そうだ、依狛と緋色さんが怪我をしているんだ。二人を早く里まで運ばないと」
「えぇ……そうね。早く運びましょう」
「お母さん……ごめんなさい……」
琥珀が泣きそうな声で呟いた。きっと今回のことで責任を感じているのだろう。
「いいのよ……琥珀は何も悪くないんだから……」
母は優しく微笑むと、琥珀の身体を抱きしめた。
「でも……でも……」
「大丈夫。大丈夫だから……」
母の胸に抱かれ、嗚咽を漏らす琥珀。その瞳からは大粒の涙が溢れている。
「今はゆっくり休みなさい……」
「うっ……」
依狛と緋色さんを両腕に、琥珀を背中に背負うと母はゆっくりと歩き出した。里への帰り道、誰一人として口を開こうとはしなかった。
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