第15話 水の有り難み
「おい、犬。里まで案内して」
ずっと土下座の体制をとっていた依狛だったが、「はい!」と元気よく返事をして立ち上がると、俺たちの前に出て先導し始めた。その足取りは軽い。よほど嬉しかったのだろう。尻尾は左右に揺れていた。
……可愛いな。
思わず頭を撫でてしまいそうになるのを堪えて彼女の後ろ姿を追う。琥珀もそれに倣って隣を歩いていた。
「あら、どこか行くの?」
玄関でお母さんが声を掛けてきた。どうやら掃除をしていたらしく
「マガツヒを倒しに行くの」
琥珀が簡潔に答えると、彼女は目を丸くした。そして、慌てて駆け寄ってきたかと思うと、俺の腕にしがみついてくる。
彼女の表情はとても不安げだった。
「本当に行くの?」
「うん……」
「そう……。じゃあ少し待っててね……」
そう言って、彼女は家の中に引っ込んでいった。数分後戻ってきたときには、秘薬とおにぎり、それから真白の部屋にあったであろう刀を抱えていた。
「これを持っていきなさい」
「これは?」
「お母さんの秘薬よ。それとお腹が空いた時のためのおにぎり。そしてこれは……あなたの刀」
「……」
俺は無言のままそれを受け取ると、鞘から抜いてみた。綺麗な波紋だ。青く輝く刃は見ているだけで吸い込まれそうな錯覚を覚える。
「使い方はわかる?」
平和な日本で暮らしていた俺にわかるはずがない。はずがないのだが、不思議と手に馴染む気がする。きっと俺の魂ではなく、真白の体が覚えていたのだろう。
「なんとなく……」
「そう、ならよかったわ」
「ありがとう」
「ええ……」
俺はお母さんに頭を下げた。そして、すぐに顔を上げると、琥珀とともに出発した。背後から見守る視線を受けながら……。
☆★☆
「はあ……はあ……ちょっど…………待っでよ……」
家を出てからどれくらい経っただろうか……。ずっと険しい山道を歩いている。真白の若々しい体を以ってしても、流石に体力の限界が近付いていた。
「おい、犬。お姉ちゃんが疲れてるだろ。もっとゆっくり歩け」
「そう言われても……自分はこれでも真白様の速度に合わせているのですが……。それに急がなければ里が全滅してしまいます!」
依狛が困ったように眉尻を下げる。彼女の言葉に嘘はない。現に彼女は後ろをチラチラと確認しながら、窮屈そうに歩いている。それでも、俺が遅すぎて依狛との距離は開いていく一方だ。
「お前一人が先行しても意味ないだろ? 大人しくお姉ちゃんに歩幅を合わせろ。犬」
「だったら琥珀様だけでも先に行ってください! 真白様は自分が後から連れて行くので」
「はあ? お前なんかにお姉ちゃんを任せられるわけないでしょ? マガツヒの一匹も倒せないおまえに」
「ぐっ……」
依狛は痛いところを突かれたのか、悔しそうに歯噛みしている。山の中をスルスルと進んでいくのを見るに、身体能力は高いようだが、マガツヒとの戦闘となると話は別なのかもしれない。
「とにかくもっとゆっくり歩け。でないと、私たちは家に帰らせてもらう」
目の前で琥珀が好き放題言っているが、息が上がって口を挟む余裕すらない。というか正直、俺も少し帰りたくなっていた。マガツヒと戦う以前に過酷な山道に心を折られかけている。
「わかりました……少し、休みましょう。その方が真白様も楽でしょうし」
依狛は渋々といった様子だが、提案を受け入れてくれた。琥珀は近くに倒木を見つけると、そこに腰を下ろす。俺もそれに続くようにして座った。
「ふう……」
ようやく一息つけた。しかし、呼吸が落ち着いてきたところで、俺はあることに気付いた。水がない……。
「お姉ちゃん、どうしたの?」
完全に失念していた。日本の都会で暮らしていたら水に困ることなんてまずない。近くのコンビニやスーパーで買えばいいだけだからだ。
でも、ここは違う。この世界にはそういった場所がどこにもない。
「水が飲みたい……」
「ん? ああ、水ね。私も持ってないな。この辺には水源もなさそうだし……」
琥珀は周囲をキョロキョロと見回していたが、やがて諦めたように肩を落とした。
「お姉ちゃん、喉渇いてるの?」
「うん……とても……」
「そっか。うーん……」
琥珀は難しい顔をして腕を組んだ。どうやら解決策を考えてくれているようだ。
「あっ! いいこと考えた!」
しばらくすると、彼女はパッと表情を明るくさせた。何故だか嫌な予感がする。
「私のお水をお姉ちゃんに分けてあげるよ!」
「えっ……」
言葉だけ聞けば、姉のことを想う優しい妹の提案にしか聞こえない。だが、目の前の彼女の行動は明らかにそれを裏切っていた。
「上から分ける? それとも下から?」
琥珀は頬を赤く染めながら上目遣いで俺を見つめてくる。その瞳は潤んでおり、妙な色気を放っていた。
「どっちがいい?」
「あっ、いや……えと……」
琥珀が指刺すのは、自分の股間と胸元だ。つまりはそういうことだ。
「お姉ちゃんが望むなら、私も我慢できるよ?」
琥珀は妖艶な笑みを浮かべると、ゆっくりと着物を捲り上げた。下着が見えるギリギリの位置まで上げると、そこで手を止める。
「いや〜なんか、喉潤ってきたかも!?」
「えぇ〜」
この妹はヤバいかもしれない……。目を覚ました直後は愛らしい、守りたくなるような妹だと思っていた。
だが、今はどうだ? 俺をモフれるというだけで怪しげな笑みを浮かべ、喉が渇いたと言ったら、自分の体液を分け与えようとする。しかも、恥ずかしげもなく……。
俺は改めて琥珀の異常性を理解した。
「嘘は良くないよ? お姉ちゃんっ! 本当は喉がカラッカラなんじゃないの?」
「うっ……」
「ほら、素直になりなって。別に減るもんじゃないんだから、グイッと行っちゃいなよ!」
琥珀は俺の手を掴んで引き寄せようとしてくる。
「いや、減るよ! 普通に! それに何より、私の尊厳が減るよ!!」
俺がいいとしても、ここで許してしまっては、真白に申しわけが立たない。だから、絶対に飲むわけにはいかない!
俺は力を振り絞って抵抗した。しかし、彼女の力は強く、徐々に引き寄せられていく。
「大丈夫だよ。お姉ちゃんの尊厳は私がしっかりと守るから……ね?」
琥珀が耳元で囁いてきた。吐息が耳にかかってくすぐったい。俺はゾクッとした感覚に体を震わせた。
「ふぅ……」
「ひゃう……」
不意打ち気味に吹きかけられた息に、思わず変な声が出てしまった。俺は慌てて口を塞ぐ。
「本当にいいの? ここに来るまでに喉カラカラになっちゃうのなら、家に帰る頃には干からびちゃうかもよ?」
「うぅ……」
それは困る……。今でさえ、かなり苦しいのだ。これ以上水分を失ってしまったら……。想像するだけで恐ろしい……。
「さあ、お姉ちゃん。覚悟を決めようか」
琥珀は俺の顎をクイっと持ち上げてきた。
「ほら、膝をついて、飲ませてあげるから」
「……」
俺は無言のまま彼女の指示に従った。もう喉の渇きが限界だったのだ。
「よしよ~し、偉いねぇ」
琥珀は満足げに微笑むと、俺の頭を撫でてきた。まるでペットのように扱われることに、僅かな屈辱を感じるが、今はそんなことはどうでもいい。
「じゃあ、行くよ?」
「うん……」
ごめん。真白。俺、尊厳守れなかった…………
「何してるんですか?」
「えっ……?」
突然、横合いから声を掛けられて振り向くと、そこには依狛がいた。彼女は困惑した様子で俺たちのことを見つめている。
「いや……これは……その……」
「まさか、飲尿で喉を潤そうとしてたとか? ってそんなわけないですよね! 絶海の孤島に取り残されたわけでもあるまいし! あはは!」
「あはは……」
乾いた笑いしか出てこない。視線を上に向けると、琥珀は殺意を持った目で依狛を睨んでいた。
「水汲んできましたよ! 真白様、喉が渇いてらっしゃるかと思いまして」
依狛は満面の笑みで竹筒を差し出してきた。中には水がなみなみと入っているのだろう。水面に光が反射している。
「あ、あ、ああああ、ありがとう!!」
この世界に来てから一番感謝したかもしれない。俺は二重の意味で彼女に礼を言うと、それを一気に飲み干した。
「ごく……ごく……ぷはぁ」
美味しい! 真水ってこんなに美味しかったのか……。
「はあ〜生き返った……」
「チッ……」
舌打ちが聞こえたのでそちらを見ると、琥珀が不機嫌そうな顔で俺のことを見てきていた。
「なに?」
「べっつにぃ」
彼女はプイっとそっぽを向いてしまう。そんなに依狛に邪魔されたことが不満だったのだろうか……。
「真白様。そろそろ息も整ってきたのではありませんか?」
「うん、だいぶ楽になったよ」
「では、ゆっくりでいいので進みましょう。里まではそう遠くありません」
モフモフの手が差し出される。俺はそれを掴むとゆっくり立ち上がった。
「お姉ちゃん、大丈夫? 疲れたら言ってね」
「あ、ありがとう」
心配そうに見つめてくる琥珀引きつった笑顔を向けると、依狛の後に続いた。
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