第4話 お姉ちゃんになる

 母親は目に涙を浮かべながらこちらを見つめている。


「ごめんなさい……」

「謝らないでいいのよ」


 そう言うと、彼女は優しく抱きしめてくれた。

 温かかった……。人の温もりというのはここまで安心できるものだっただろうか……。誰かから離れたくないと思ったのは初めてかもしれない……。


「大丈夫。これからまた作っていけばいいの……」

「え……」

「たとえ今までの記憶が、思い出がなくなったとしても、あなたは私の子供で、大切な家族であることに変わりはないの。だから、また作っていけばいい。私たちとの思い出を……」

「お母さん……」


 俺は思わず泣き出してしまった。嬉しかったのだ。受け入れてくれることが。そして、同時に罪悪感もあった。見ず知らずの少女の体を奪い、その母親を「お母さん」と呼んだことが……


「ごめんなさい……本当にごめんなさい……」


 俺は何度も謝った。謝っても謝りきれないほどのことをしたのだ……。


「謝るのはやめて……私は気にしていないし、それに……あなたが悪いわけではないから……」


 そう言ってくれたものの、「本当にごめんなさい……」俺はそう口にするしかなかった。

 それからしばらくの間泣いていたのだが、ようやく落ち着きを取り戻してきた頃……、少女が話しかけてきた。


「ねえ……お姉ちゃん……」

「なに……?」


 顔を上げると、彼女は真剣な眼差しを向けてきていた。そして……


「ごめんなさい」


 そう言ってきた。


「お祓いとか言ったりして……」

「ううん……大丈夫」

「でも…………まだ、受け入れられてないから。新しいお姉ちゃんのこと」


 当たり前だ。昨日まで共に生きてきた姉の様子がおかしいと思ったら、自分との記憶がないというのだから。


「……どうしたらいいかな」


 俺は聞いてみた。彼女はしばらく考え込んだ後、小さく、でも力強い声で言葉を紡いだ。


「お姉ちゃんに……なってほしいな」

「……え?」


 一瞬、彼女の言っている意味がわからなかった。しかし、続く言葉でその意味を理解する。


「いままでのお姉ちゃんとの思い出が全部無くなっちゃったのなら、今すぐにそれをを受け入れることはできない。

けど、私はお姉ちゃんのことが大好きだし、お姉ちゃんの姿をしているあなたを嫌いになることはできない。

私はお姉ちゃんのことをお姉ちゃんだと思っていたい。でも、私が、私だけがお姉ちゃんのことを想っていてもダメなんだ。

お姉ちゃんが私のことを妹だと思ってくれないと。だからね、お姉ちゃんは私のことをしっかりと妹だと思ってほしい。私と姉妹のお姉ちゃんであってほしいんだ」


「……」


 すぐに返事なんてできるわけがない。三十路の男が見知らぬ狐耳少女の姉になるのは、簡単でないことなど明白だからだ。

 でも、投げ出すのもダメだと思った。彼女は姉の存在を求めている。元々あったはずの魂がどうなってしまったのかはわからない。だけど今、彼女の姉になれるのは自分しかいないのだ。

 男としての尊厳もあるし、望んでこの状況になったわけでもない。それでも……


「がん……ばる……。がんばるよ……お姉ちゃんになれるように……!」


 このまま放っておくのは胸糞が悪い。


「うん……頑張ろうね。新しいお姉ちゃん……!」


 目尻に小さな滴を溜めながらも、彼女はに向けて優しく微笑んだ。


「じゃあ、私は部屋に戻るから」

「あ、ちょっと待って!」


 俺は慌てて呼び止める。


「ん? どうかした?」

「えっと……名前……教えてもらえないかな?」

「え?」

「いや……自分のも、みんなのもわからないし……」

「ああ……そっか……」


 彼女は少し間を置いてから、答えた。


「お姉ちゃんはね……真白ましろお姉ちゃんって言うんだよ……、それで私は、琥珀こはく。よろしくね」

「えっと……真白……? と……琥珀……ちゃん?」

「ちゃん付けはいらないよ?」


 琥珀は首を傾げる。


「じゃあ……琥珀……」

「うん。じゃあおやすみ」

「おやすみ……」


 そう言い残して、彼女は部屋を出ていった。


「じゃあ私も寝ましょうかね。あと、私の名前は美雪みゆきだけど、お母さんって呼んてくれて構わないから」


 彼女は大きく伸びをすると、俺の扉に手をかける。


「寝る前にはちゃんと寝巻きに着替えるのよ。おやすみなさい」

「お、おやすみなさい……」


 彼女も扉を開けて去っていった。

 一人になった途端、急に寂しさが込み上げてくる。

 俺も寝よう。俺は暗い廊下をわずかな記憶を頼りに歩いていく。


「ここだっけ……」


 襖を開けると、畳の匂いが鼻腔をくすぐる。部屋の中は暗く、窓から入る月明かりだけが室内を照らしていた。

 俺は言われた通り寝巻きに着替えるため、それを探す。部屋にあったタンスの中からは女の子用の服がたくさん出てきた。

 どれもこれも可愛らしいデザインのものばかりだ。正直着るのには抵抗がある……。

 しばらく探していると、ようやくそれらしきものが見つかった。


「これ……かな……」


 俺は恐る恐るそれを手に取る。それは白い生地にピンク色の桜の模様が入った浴衣だった。

 俺はそれに袖を通すと、帯を締めた。


「よし……」


 少し動きづらいけど、まあいいだろ……。

 俺は部屋の電気を消すと布団に入った。


「……おやすみ……か……」


 俺は小さく呟いた。

 社会人になってからというもの、毎日のように残業をして、家に帰っては死んだように眠る日々が続いていた。仕事に追われ、心安らぐ暇もなかった。

 それが今、「おやすみ」と言ってくれる人がいる。

 それだけで幸せな気分になれるのはなぜだろう……。


「おやすみ……」


 誰もいないのに無性にそう言いたくなった。

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