第110話 座敷牢
身の丈は、辛うじて四尺を超えるくらい。白い蓬髪に皺だらけの垢面。天狗の如く伸びた鷲鼻。汚れた布で両目を塞いでいるが、迷う事なく主殿の廊下を歩く。
蝋燭に火を灯しても、座敷牢に向かう廊下は暗い。途中で窓がなくなり、陽光が差し込まなくなる。
眷属の目を頼りに進むと、横壁に備え付けられた燭台を見つけた。燭台に点された小さな炎が、暗闇の中で四名の女中を浮かび上がらせる。
四人とも二十代の若い女だ。火縄銃を右肩に担いでおり、左腕に火縄を絡めている。すでに弾丸も弾薬も銃身に押し込めているのだろう。壁の側には、四本の
女中の一人が前に出て、ヒトデ婆の行く手を塞いだ。
「お待ちしておりました。肥沼ヒトデ様ですね?」
「左様」
「奏様より仔細を伺っております。悠木家の
「袖の中に入っておるぞえ」
「――」
四名の女中を率いる小頭は、火縄銃を床に置いて、ヒトデ婆の左袖に手を入れる。暫く無言で袖の中を掻き回すと、小さな竹筒を取り出した。竹筒を上下に振り、中身が液体だと確認する。肥沼家の眷属を忍ばせない為の用心だ。
「確認しました。手燭は、我々がお預かりします。この先、灯りに困る事はありません」
ヒトデ婆に竹筒を返すと、手燭の炎を吹き消して、隣の女中に手渡した。
「肥沼家の眷属は、左肩の一匹だけですか?」
米粒より小さな蚤を見つけ、ヒトデ婆に尋ねた。
「これを奪われると、我は前も見えなくなるぞえ」
「一匹だけなら問題ありません。然し肩から動かさないでください」
「動かすと、我は如何に処される?」
「それを今から説明します」
床に置いた火縄銃を拾うと、女中小頭は感情を込めずに言う。
「先ず場定めを理解してください。おゆらさんを閉じ込めた座敷牢に近づく場合、本家の女中が一名、必ず肥沼様に付き従います」
「我を護衛してくれるのか?」
「
「……」
「格子の中に手を入れない事。
「……」
「おゆらさんは妖術が使えません。毒島家の妖術――『
「壁に触れただけで、『
「おゆらさんは寝返りを打ちません」
「……」
「
女中小頭が規則を説明する間、他の女中が火縄銃の発射準備を整えていた。
黙々と火皿に
「至れり尽くせりぞえ」
「おゆらさんは、一番奥の牢に閉じ込められております。私についてきてください」
ヒトデ婆の皮肉を意に介さず、火縄銃の発射準備を整えると、若い女中小頭が百歳近い老婆を連れて歩く。
左側の壁に燭台が並んでおり、確かに灯りの心配はなかった。右側には、樫木の格子で仕切られた牢が並ぶ。現在、座敷牢に閉じ込められているのは、本家女中頭の任を解かれたおゆらだけだ。
女中小頭と老婆は、黙々と突き当たりまで進む。馬手に視線を向けると、三畳ほどの狭い座敷牢がある。
おゆらは座敷牢の真ん中で端座していた。
瞑想するように、両の瞼を閉じている。
「久しいのう、おゆら」
「『二人目の私』と顔を合わせるのは、初めての筈ですが……然れどお久しぶりです、ヒトデ婆。御壮健のようで何より」
おゆらは瞼を開けて、柔和な笑みを浮かべた。
「……お前も壮健に見える。五日も
二人の遣り取りを無視するように、女中小頭は無言で火蓋を切り、座敷牢のおゆらに巣口を向けた。
女中小頭の持つ火縄銃は、赤漆の四十匁筒である。抱え大筒の一歩手前。口径が一寸弱もあり、現代の区分に当て嵌めれば、銃ではなく砲だ。合戦では、対人に使う時もあるが、専ら城門破壊に使用する。門扉や閂を貫通するほどの威力を誇り、樫木の格子諸共、おゆらを撃ち殺せる。
ぱちぱちぱち……と遠くからも、火蓋を切る音が聞こえてくる。おゆらからは見えないが、三人の女中が横一列に並び、ヒトデ婆と女中小頭に巣口を向けているのだ。此方は六匁の
「積もる話もあるが……我も奏様に監視されておる身。奏様に逆らうと、我も隣の座敷牢に入れられよう。早く用件を済ませえるぞえ」
「場定めの話は、私も聞いております。その方が宜しいでしょう」
四十匁筒を構える女中小頭に視線を向けて、おゆらは小さく笑った。
「先ずお前の相手は、我の役目となった。これから
「賢明な判断と存じます」
おゆらはヒトデ婆に視線を戻す。
百年近くも薙原家の暗部に関与してきた老婆だ。思想や理念に囚われず、ただ
加えておゆらの謀略に加担してきた為、薙原家の誰よりも狡猾な魔女の手口に詳しい。奏や符条は、何度もおゆらに騙された経験があり、同じ轍を踏まないように、ヒトデ婆におゆらの尋問を任せたのだ。
「然し奏様のお考えとは思えませんね。おそらく符条様の入れ知恵。奏様の如意棒で籠絡したとか――」
「おゆらさんには、我々に質問する権利が与えられていません」
「承知しました。余計な事は申しません。下ネタも控えます」
おゆらは余裕の笑みを浮かべながら、降伏するように両手を挙げた。
「肥沼様、おゆらさんに
「我も承知しましたぞえ」
おゆらの科白を真似て、居丈高な女中の態度に不快感を示しつつ、座敷牢の出入り口に竹筒を置いた。
「ヒトデ婆……
おゆらが穏やかに言うと、ヒトデ婆が「ああ……」と呟いた。
「常におゆらから半間離れろという場定めか。面倒臭いぞえ」
「奏様の御下知です」
女中小頭が二人の会話に嘴を入れた。
「……」
垢面を不快そうに歪めて、壁に背中を預けた。
「私が女中頭を務めていた頃より窮屈そうですね」
「儂らが如き外道が、好き勝手にできぬ。息苦しくて適わん」
「うふふっ」
おゆらは笑声を漏らすと、その場から立ち上がり、樫木の格子に近づいた。女中小頭の持つ四十匁筒は、おゆらの頭部に狙いを定めて、巣口の向きを変えた。格子に触れないように竹筒を取り、栓を開けて
「甘露甘露。実に甘露でございます」
涼やかに感想を述べた後、竹筒を逆さに振り、
おゆらは元の位置に戻り、音を立てずに端座する。
ヒトデ婆が竹筒を拾い上げ、左袖の中に仕舞う。
「やはり奏様の子種に勝る飲み物はありません。他の殿方の子種など飲んだ事はありませんが……舌に絡みつく
おゆらは穏やかに笑いながら、茶を品評するように、奏の子種汁を褒め称える。
「何より時を置いても、まろやかな甘さが変わりません。私が奏様の子種を保存し、氷室に隠していた事を承知していたのですね。ヒトデ婆が知る筈もありませんし……やはり符条様が、奏様に何か吹き込んだのでしょうか?」
「我々に質問する権利はないと――」
「待つぞえ」
女中小頭が引き金を引く前に、ヒトデ婆が静止した。
「尋問の内容に関わるゆえ、
「――」
「騙りではない。後で確かめるがよかろう」
「……」
女中小頭は黙考した後、引き金から人差し指を離した。
「
「……」
「壺の中身は、白濁液を凍らせたもの。是が
「ああ……私が飲むまで確信を得られたなかったのですね」
おゆらが両手を合わせると、ヒトデ婆は口の端を吊り上げた。
「奏様は、
「そのまさか……と言いたい処ですが。残念ながら違います」
おゆらは微笑みながら否定する。
「鉢を三つ。卵を三つ、程々に温めた牛の乳五十三匁、砂糖二十一匁、夜伽の際に採取した奏様の子種一滴を用意します。卵の黄身と白身を二つの鉢に分け、空いた鉢に牛の乳を入れます」
何も持たない手で鉢や卵を再現し、調理の手順を説明する。
「それぞれの鉢に砂糖を七匁ずつ加えた後、右手で卵白を角が立つくらいに泡立てます。この時、奏様の子種一滴を入れて、左手で鉢を回します。卵白も白くなるまで右手で掻き回します。牛の乳も右手で掻き混ぜます。卵黄と卵白を牛の乳を入れた鉢に移し、泡を潰さないように、底から掬い上げながら、縦にさくさくと混ぜます。ふわふわの生地を壺に入れて、氷室に置いておけば、奏様の子種入り氷菓子の完成です」
「畢竟、奏様の子種を氷菓子に変えて保存しておったと?」
「左様です」
ヒトデ婆が呆れた様子で尋ねると、おゆらは涼しげに応えた。
「
「私の場合、
極端な例えになるが、風呂桶に水を張り、奏の子種を一滴だけ注ぐ。風呂桶の水を掻き混ぜれば、風呂桶に溜めた水は全て
「お前が閉じ込められて、とうに五日が過ぎておる」
「『一人目の私』の屍を埋める前に、口の中に傷をつけておきました」
「牢に入れる前に、おゆらさんの口の中を調べました。傷など見つけておりません」
「歯茎の付け根は、意外に目で確認しにくいのです」
「……」
女中小頭が言葉に詰まると、おゆらは「うふふっ」と笑声を漏らす。
「含針術の応用です。歯茎の付け根を針で傷つけ、小さな傷口に奏様の子種を塗り、後は傷が治るのを待つだけ。口の中の傷は、何もしなければ、三日ほどで塞がります」
「傷が塞がれば、勝手に
「異変に気づいた奏様が、驚いて尋問に来てくれるかなと……然し符条様に止められて、折衷案でヒトデ婆を寄越してきた。やはり符条様の眷属が、本家の御屋敷に居付いてますね」
「難民が謀叛を起こす前から、斯様な事態を予測しておったか」
「『一人目の私』が失敗した時の為に、色々と『備え』ていたのです。備えあれば憂いなし。『私』は
「……」
「所詮、『私』は騙り者。奏様の真実を見抜く力に敵いません。それゆえ、狒々神討伐の前に
「……」
「加えて符条様と手を組まれては、『二人目の私』にできる事などありません。『一人目の私』の『備え』も
「……」
「もうお手上げです。奏様にお伝えください。悠木ゆらは、座敷牢の中で奏様の御武運を御祈り致しておりますと」
おゆらが諸手を挙げると、ヒトデ婆が鷲鼻を掻いて黙考した。
「お前の言葉も伝えておくが……おそらく奏様は、お前の語る『備え』を知りたがるであろう。然れど此度は、お前の謀略を
「あらあら」
おゆらがころころと笑うと、目も見えないヒトデ婆が、女中小頭に顔を向けた。
「偖も偖も……おゆらが小鳥の如く
「肥沼様は、先にお戻りください。私がおゆらさんの監視を続けます」
おゆらに巣口を向けながら、女中小頭が冷静に応える。
「そうもいかん。奏様より任された役目を終えたが……もう一つの役目を残しておる」
「?」
「おゆらと話したいという者がおってのう。この場に連れてきたぞえ」
「何を――」
女中小頭が訝しげに周囲を見回す。
ぱちん。
唐突に指を鳴らす音が響いた。
「これはこれは――」
おゆらが目を丸くする。
「斯様な所に足を運んで頂き、感謝の言葉もありません。虜囚の身ゆえ、大層な持て成しもできませんが……どうかごゆるりとお
「全然、お寛ぎできない」
おゆらの視線の先には、
四尺……約1.2m
半間……約0.9m
四十匁……約137g
一寸……約3㎝
六匁……約23g
程々に温めた牛の乳……低温殺菌された牛乳
五十三匁……約198.75g
二十一匁……約78.75g
七匁……約26.25g
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