第109話 茶会
風雅な佇まいだった。
本家屋敷の美しい庭園は、人の心を安寧に導くような造形の変化が、予め計算されて造られている。
花々の香りを乗せて、微かに
常盤は軽い足取りで、庭園の奥へと進む。
運が良い時は、何から何までうまくいく。
奏から世話役の話を聞いた時は、その場で引き受けるつもりだった。然し奏が配慮を示してくれた為、奏の心遣いを尊重した。世話役の話も嬉しいが、自分に対する気遣いが何より嬉しい。
常盤は上機嫌で庭園を歩く。
やがて庭園の静かな風景の中に、見事な書院が現れた。茶会に招かれた客が、最初に通される場所だ。常盤は何度も茶室に足を運んでいる為、案内もなく
寄付には、予期せぬ先客がいた。
「……なんで此処にいるの?」
「それはわたくしの
常盤が不機嫌そうな顔で尋ねると、千鶴が驚いた様子で大声を出した。
煌びやかな光沢を帯びた
二年前と変わらない。
常盤も他人の事は言えないが、相変わらず華美な女だ。
「わたくしは符条様の茶会に招かれたのですわ! 正式な客人です!」
「じゃあ、私と同じ。アンタも呼ばれたんだ」
興奮する千鶴に顔を向けず、緋色の毛氈が敷かれた席に座る。
「アンタ、符条様から何か聞いてる?」
「いえ、何も聞いておりませんが……どうしてわたくしが、常盤さんに御話しなくてはなりませんの!」
「もう話してるし。しかも使えない」
「キーッ! なんと無礼な小娘でしょう! 本家の猶子でなければ、御手討ちですわ! 御・手・討・ち!」
羽扇子を振りながら、千鶴が地団駄を踏む。
常盤と千鶴は、毛氈が敷かれた席の両端に座り、互いに顔を向けようとしない。
昔から二人とも仲が悪い。
寧ろ千鶴が、一方的に常盤を敵視していると言うべきか。常盤が薙原家に来るまで、千鶴が先代当主のお気に入りだった。人質扱いの奉公人が、全ての仕事を他の女中に押しつけても、何も言われないお姫様の地位を得ていた。
それが常盤が来ると、彼女の立場が一変した。
先代当主のお気に入りが常盤に代わり、千鶴は他の女中の一人に格下げされたのだ。不遇の扱いに耐えかねた千鶴が、先代当主の側近である母親に直訴し、八王子の店に居を移して貰った。そのお陰で謀叛を免れたのだから、運の良い娘だ。
千鶴からすれば、常盤は己の地位を簒奪した『卑しい南蛮人形』である。常盤と折り合う理由がない。勿論、常盤も千鶴と折り合う気はないが。
何もする事がない為、常盤は寄付を見回す。
壁には、山水の掛け軸が掛けてある。
寄付を見回して気づいた。
客人を茶室に招く案内役が来るまで暇だ。
「早くお茶出しなさいよ」
「あ、はい只今――って、なんでわたくしが、常盤さんにお茶を出さなければなりませんの! お茶が飲みたいなら、自分で用意してくださいませ!」
危うくお茶を用意し掛けた千鶴が、羞恥で顔を赤く染めながら、甲高い声で常盤を非難した。
一連のノリツッコミを何も考えずにできるのだから、相当なアホの子……ではなく、性格の素直な娘だろう。然しやはり、常盤が折り合う理由も思い浮かばない。
もう少し千鶴を遣り込めて遊ぼうと考えていたら、寄付に案内役が現れた。
獺である。
「待たせたな。茶室に来い」
素っ気ない物言いで、獺は二人を奥に促す。
寄付の奥には、待合と
獺の後に続いて、二人は飛び石の上を歩く。
「ねえ、常盤さん」
急に千鶴が、声を潜めて話し掛けてきた。
「眷属が案内役という事は、茶室で本体が出迎えてくれるのでしょうか?」
「さあ……」
「少し期待してしまいますわね」
気分が高揚してきたのか、千鶴は案内役の獺に話し掛ける。
「あの……符条様」
「ん? なんだ?」
「わたくしが蛇孕村を離れている間に、数寄屋が建てられていたのですね。わたくし、何も知らなくて……」
「ああ、お前は初めて来たのか」
獺が納得したように呟いた。
「
「まあ、おゆらさんが設計したのですか?」
千鶴は驚いて目を丸くした。
「あの女……性格は悪いが、趣味は良い。例えば、お前達が踏んでいる飛び石。
「寄付もそうでしたが……素晴らしい趣向ですわ」
深く物事を考えない千鶴は、素直に感嘆の声を漏らす。
「そうだな。或る一点を除けば」
「?」
「数寄屋を見ろ」
獺に促されて数寄屋を見ると、入り口が普通の木戸だった。
「あら?
畿内で千利休が台頭して以来、茶室は躙口が専らだ。
躙口とは、茶室を出入りする為に、小さく低い場所に造られた入り口だ。入り口が小さいのは、刀を帯びた武士が、入室できないようにする為。それを低い場所に設置する意味は、身分の高い者でも一度は頭を下げなければ、茶室に入れないようにする為。茶室は、外界の身分や
「躙口を造ると、マリアも頭を下げて入らなければならなくなる。おゆらが耐えられると思うか?」
「ああ……」
千鶴は納得した様子で頷いた。
因みに常盤は、符条に説明されるまでもなく、茶室に躙口がない事を承知していた。抑も先代当主が、数寄屋の設営を拒んだ理由が、「躙口で頭を下げたくないから」である。先代当主が頭を下げていないのに、
おゆらからすれば、許し難い事である。
「難しい作法を気にする必要はない。数寄屋に入る前に、
庵とでも呼ぶべき数寄屋を見ながら進み、獺に言われた通り、常盤と千鶴は菊形の手水鉢で手を清め、唇を洗う。千鶴が木戸を開けて、怖ず怖ずと室内を覗いた。
「よく来たな。中に入れ」
四畳半の茶室で、別の獺が二人を出迎えた。
「ああああ……」
二匹の獺を見比べて、千鶴は落胆の声を漏らした。
「どうした?」
「符条様の本体が出迎えてくれるのかと」
「そんな話をした覚えはない。お前が勝手に期待しただけだ」
確かに符条は、本体が出迎えるなど、一言も口にしていない。勝手に千鶴が期待して、勝手に落胆しているだけだ。
「そう言えば、奏が『符条様の眷属を二匹捕まえた』って言ってた」
「そういう話は、もっと早くしてくださいませ!」
「仲が良いようで安心したが……早く中へ入れ。話ができない」
常盤と千鶴の遣り取りを見遣り、獺が呆れ顔で言う。
「はい、只今」
「別に仲良くないし」
二人は雪駄と靴を脱いで、四畳半の茶室に入る。
千鶴の予想より小さな茶室だった。床の間には、見事な水墨画が掛けられ、菖蒲が一輪だけ活けてある。室内には、微かに香の香りがしていた。客が入る前に伽羅を焚き込め、時を置いて残り香を楽しむ。実に清々しい香りだった。
獺の弓手に
「千鶴、茶室は初めてか?」
「いえ……幾度か茶会に招かれた事はありますが、斯様に立派な茶室は初めてです」
「存分に眺めてくれ。先程も述べたが、おゆらが図面を引いて設計した茶室だ。躙口さえ目を
「学ぶべき事?」
常盤が怪訝そうに尋ねた。
「なんだかんだで千鶴は、
「私も学ぶ」
「好きにしろ」
千鶴に対抗心を燃やす常盤を尻目に、獺は妖術で鍋の蓋を開ける。
茶室で妖術を使う時点で、符条は全く作法を気にしていない。
幽霊が点前の準備をするように、茶道具が室内を飛び交う。
先ず茶入と茶杓が用意された。
次に
唐物の
獺は風炉に掛けられた鍋の湯加減を確かめながら――如何に確かめているのか、二人にもよく分からないが、湯呑に湯冷ましを一つ作った。
茶入れを開けて、茶杓で二つの茶碗に茶が入れられる。その作業は一貫して同じ拍子で行われ、入れられた量も
一つの茶碗に対し、象牙の柄杓で七度に分けて釜の湯を注ぐ。塊ができないように、茶筅で素速く掻き混ぜる。これらの作業は、全て『
二つの茶が淀みなく点てられて、常盤と千鶴の前に並べられた。
常盤が天目茶碗、千鶴が粉引茶碗である。
「二人とも承知していると思うが……先ず湯冷ましの水を口に含んでから飲め。火傷しないようにな」
獺の言う通り、二人は湯冷ましの水を少しだけ飲む。水の味を確かめて、口の中で味覚を研ぎ澄ませ、茶の味を楽しむ為だ。
二人は茶碗を手に取り、中身を確かめた。
深い緑。
茶の色を網膜に焼きつけてから、目を閉じて香りを
その後、鼻腔に抜けていく残り香と後味を確かめる。再び目を閉じて、心の中に茶碗の印象を映す。
美しい深緑。舌触りの良い味わい。香りの品格。苦味の向こうにある芳醇な甘さ。後味に大地の
「とても美味しいお茶ですわ。宇治のお茶でしょうか?」
「駿河のお茶じゃないの? お茶と言えば駿河だし」
「そんな事ありませんわ! お茶と言えば宇治です! 先日、篠塚家が本家に宇治のお茶を贈りましたもの!」
「そんな理由……」
二人が再び言い争うと、獺は溜息をついた。
「闘茶をしているわけではないのだが……」
闘茶とは、亭主に差し出された茶の産地を当てる遊びだ。産地を言い当てれば、
「正解は『職人集落』だ」
「……」
獺が応えると、二人は嫌そうな顔をする。
「そんなの当てられるわけない」
「何故、当家が差し出したお茶を使わないのですか?」
「だから闘茶ではない」
不満を漏らす二人に、獺は硬い声で言う。
「篠塚家が持ち込んだ茶を使わない理由は……そうだな。僅かに陰りがある」
「陰り?」
千鶴が不思議そうに尋ねた。
「ほんの僅かな陰りだ。大地の滋味や職人の手間に、一抹の疲れを感じる。お前達も知る通り、京は永らく戦乱に巻き込まれてきた。当然、宇治も無事では済まん。織田信長が畿内に進出して以来、宇治の茶作りも盛んになったが……去年は関ヶ原合戦があった。その間に伏見城攻めが行われている。宇治の住民も茶造りに専念できなかった」
「……」
「それでも上茶を産む誇りを保ち続けている。実に洗練された、重厚な味わいを持っていた。然し陰りがある。宇治の住民の疲れを感じる」
「符条様」
「なんだ?」
「篠塚家が本家に届けたお茶を呑みましたね? 本家に無断で、外界の本体に送りつけるなんて――」
「一方、駿河の茶は――」
都合が悪くなった獺は、強引に話を続けた。
「今川家が朝廷に献上する為に、丹精を込めて育てた物だ。今川家が御料茶園で造営し、長い年月を掛けて育ててきた。駿河の茶を服する事で、一時でも帝の御心をお慰めできるようにと、真摯な祈りを込めて作られている。然し今川義元が亡くなり、駿河は武田の手に落ちた。甲州征伐では、徳川の軍門に降り……幾度も苦難が続いたが、それでも二十年近くも静謐を保ち続けている。それが茶の味に出るのだ。お陰で関東の住民は、茶と言えば、駿河の茶を想起する。さらに世代を重ねれば、宇治や
「……」
「別に意地悪をしているわけではないぞ。その茶は、今のお前達だ」
「どういう事でしょう?」
「茶は一代で作れるものではない。長い時間、試行錯誤を繰り返し、ようやく茶葉に大地の滋味を与えられる。実際、『職人集落』で作られた茶は、宇治や栂尾の上茶より劣る。駿河の茶と比べても、一枚も二枚も劣る。然し都落ちした
遁世者とは、世俗を捨てて、禅の道に入った者だ。
茶の湯は元々、禅と共に発展した文化だ。
鎌倉から室町の時世に掛けて、武家に最も支持されたのが禅寺である。鎌倉執権家が制定した五山の制で、臨済宗は手厚く保護され、室町将軍家も同様の政策を続けた。
禅寺は唐物を目利きする窓口となり、身分の高い武家や公家が集う社交場になった。大方の禅僧は、舶来の知識を身につけた文化人であった。
この中に茶礼があり、喫茶の文化があった。
当初、大陸から漢方薬として入り込んだ茶が、日本の各地で作られるようになり、産地が増えるにつれて、凡下の商人でも賞味できるようになった。
それでも抹茶は貴重で、公家や武家の間で漢詩に並ぶ高尚な趣味として持て囃される。それが茶会となり、様々な者達を集めた。
やがて茶会の様式に『美』が持ち込まれ、
すでに禅寺を離れて、
さらに利休が『萌え』とか言い出し、茶室に『アイ○ルマスター\THE IDOLM@STER シンデ○ラガールズ 鷺○文香 潮○の一頁Ver. 1/7 完成品フィギュア』を飾り始めた事が、東山文化と
続く。
念の為に言うと、本家屋敷の茶室に
「お前達は、薙原家でも責任を持つ立場となった。千鶴は篠塚家の当主に。常盤は奏の世話役に――」
「その話、まだ引き受けてないけど?」
「断るつもりはないのだろう?」
「……」
獺に尋ねられると、常盤は押し黙る。
「これからお前達の周りに、様々な者が付きまとう。時に悪意を持つ者が、お前達に取り入ろうと、美辞麗句を並べて近づいてくる。おゆらの言葉を借りれば、欲深い俗物。大凡の者の言葉を借りれば、欲に目が眩んだ悪魔崇拝者だ」
「……」
「奴らは詭弁を弄し、前途有望な若者を唆し、輝かしい未来を叩き潰す。茶で例えれば、『職人集落』で生産された茶を外界に売れと持ち掛けてくるだろう。『日本の文化を世界に発信しよう』とか『外需を取り込め』とか……意味不明な妄言を吐き散らし、蛇孕村の茶葉を外界で売り捌こうとする」
「あの……符条様」
千鶴が、怖ず怖ずと右手を挙げた。
「なんだ?」
「それは商人として当たり前の事かと」
「……」
「これから味が良くなり、いずれ宇治の上茶に並ぶかもしれないお茶があれば、誰よりも早く目をつけて、お客様に売ろうと考えるのでは?」
「そうだな。短期的に考えれば、お前の考えは正しい。然し飯の種を他人に売る者は、外界で戯けと呼ばれる」
「……」
「仮に『職人集落』で製造された茶が、外界で売れたとしよう。次は『職人集落』で製造された木綿。次は『職人集落』で製造された木材。次は『職人集落』で製造された農具。次は『職人集落』で製造された武具……と
「……」
「一度毀損された供給能力は、容易に戻らない。宇治や駿河の茶が良い例だ。長い戦乱で苦しめられてきた職人が、同じ味を取り戻すまで何十年掛かったか……欲深い俗物共や悪魔崇拝者は、先の事など考えたりしない。目先の利益、己の欲得が全てだ。斯様な者共の口車に乗せられて、お前達の将来が閉ざされるなど……実に惜しい」
「……」
千鶴は茶碗を見下ろしながら、獺の助言を素直に聞き入れる。
然し常盤は、全く関係ない事を考えていた。
「あー……」
「どうした、常盤?」
「脚が痺れた。脚を崩していい?」
「常盤さん」
千鶴が常盤の不作法を窘めた。
「構わんぞ。前置きが長くなった。早くお茶を飲み干せ。冷めてしまう」
獺の了承を得ると、常盤は脚を開いて座り直した。
後の世に
千鶴に視線を向けると、彼女は正座を崩していない。獺の話を聞き終えるまで、正座を続けるつもりのようだ。早く脚が痺れろ……と常盤は、意味のない呪詛を送った。
「本題に入ろう。今月の評定に関する事だ」
「……」
「今月の評定で、議題が五つも挙げられる」
「五つも? 多過ぎない?」
政に疎い常盤は、辟易とした様子で言う。
「確かに多い。マリアと奏のお陰で、評定で裁可する案件が増えた。会合の件は聞いているか?」
「一応、聞いてるけど……」
常盤は唇に指を当て、奏の話を思い出す。
「政を改善する為に、年寄衆と権力争いしてる暇がないから、
「奏も言葉を選んで説明した筈だが……
常盤はぴんときていないが、奏は事実を正確に伝えている。
「千鶴も石になればよかったのに」
「わたくしが、
「それ、褒められた話じゃないし……」
「キーッ!」
常盤が呆れたように言うと、千鶴が羽扇子を噛んで唸る。
「とにかく会合で決めた事を評定で裁可する。人喰いや人身売買の禁止。外界の野伏や人商人を使役する道普請。
「……一つじゃない」
「複数の案件を一つに纏めないと、今月の評定で裁可しきれん」
常盤が冷静に突っ込むと、獺は開き直って応えた。
「次に分家の権益を安堵する」
「?」
「粛々と年寄衆を隠居に追い込む筈が……マリアの所為で
「それ、何の意味があるの?」
獺の言い分に納得できず、常盤は首を傾げた。
「不本意ながら、常盤さんと同意見ですわ。事前に
「問題ない。安堵状は、マリアに書かせる」
「
「奏が頼めば、マリアも安堵状くらい書くだろ。蛇神様直筆の安堵状だ。御利益がある……どころか、薙原家の歴史の中で初めてだな。家宝になるぞ」
「そうですわね……」
仰天の対応策に、千鶴は乾いた声で応じた。
「奏がマリアと手を組んだ時点で、分家衆に動揺する暇などない。是非を問わず、政の改善は進むだろう」
「……」
「
「――」
千鶴は神妙な顔で獺の話を聞いているが、常盤は途中から聞き流していた。政の話は、難しくてよく分からない。抑も奏が唱える政の改善も、全く興味がなかった。
「三つ目。千鶴を本家女中頭に任命する」
「えー、なんで? 反対反対。千鶴におゆらさんの代わりなんて務まらない」
然し千鶴の出世話は、断固として反対する。
「常盤さんだって、碌に家事もできないくせに、世話役を引き受けるのでしょう! ていうか、おゆらさんに敬称がついて、わたくしだけ呼び捨てなんておかしいですわ!」
興奮した千鶴が、羽扇子で畳を叩いた。
「理由はいくつもある。先ず現在の薙原本家は、篠塚家の奉公人に所務や雑務を丸投げしている。本家の所務を分家に任せる時点で、問題なのだが……以前は、おゆらに丸投げしていたからな。おゆらに政を牛耳られるよりは、遙かにマシという事だ。加えておゆらに代わる吏僚など、早々に見つかるものではない。人手不足を補う為にも、篠塚家の奉公人は欠かせないというわけだ」
「本家の女中衆を使えばいいのに……」
「彼女達は、おゆらの紐付きだからな。おゆらに忠義など抱いていないだろうが……やはり信用できない。奏も同じ思いだ。結局、篠塚家の力を借りなければならなくなる」
「加えて篠塚家の奉公人は、わたくしの指図に従います! わたくしが本家女中頭に任命されなければ、本家の所務や雑務が滞るのです! やはりわたくしのような高貴な者でなければ、大任は務められないのですわ!」
茶会に招かれる前から、自分が本家女中頭に選ばれる事を知らされていたのだろう。千鶴は羽扇子を常盤に向けて、自らの血筋を誇示する。
「アンタなんか本家女中頭に選ばれても、奏から信用されないし」
「符条様の前で、わたくしを侮辱しましたわね。先程からも無礼な物言いを繰り返し……許せませんわ」
羽扇子を握り締めて、常盤の美貌を睨みつけた。
「落ち着け、千鶴。私は礼儀など気にしない」
「符条様が気にしなくても、わたくしが気にしますわ!」
「そうか。ならば、茶席の亭主として、客人を窘めなければならないな」
獺は一拍間を置くと、不機嫌そうな常盤の顔を見遣る。
「常盤、お前は勘違いをしているぞ」
「……」
「篠塚家の先代が、自分の娘を本家の女中頭に据える為、方々に手を回していたのは事実だ。然し千鶴を女中頭に選んだのは、お前が最も信頼する奏だ」
「奏が……」
「金銭や家柄は関係ない。千鶴には、本家の女中頭に相応しい資質があると、奏は見抜いていたのだ」
常盤は千鶴に視線を向けた後、再び獺に視線を戻す。
「千鶴に資質なんてあるの?」
「常盤さん!」
「千鶴はアホの子だ」
「符条様!」
怒髪天を衝く千鶴の声が裏返った。
「済まない。間違えた。根が素直な娘だ。奏を裏切るほどの知恵もなく……ああ、これも間違いだ。性格に裏表がなく、母親に依存しており……ああ、これも間違いだ。親子の情に厚く、極めて御し易い……ではなく、信頼して仕事を任せられる」
「符条様……わたくしに何か恨みでもあるのですか?」
「お前に恨みなどあるものか。妖術で確かめても構わん」
「――」
獺が妖術の話を持ち出すと、千鶴の表情が消えた。
「篠塚家の妖術は、他の分家と比べても特殊だ。特殊過ぎるゆえに、他の分家衆からも疎まれてきた」
「……」
「そういう意味では、悠木家が歩んできた歴史と変わらない。蛇孕村の遊女か雑物庫の番人か……薙原家は対等・平等・公平と謳いながら、悠木家を一番下に……篠塚家を下から二番目に据えてきた。千鶴の母親が沙耶に認められなければ、お前は雑物庫の番人を遣らされていただろう」
「……」
「然し篠塚家の歴史の中でも、お前は希有な存在だ。妖術の性質上、篠塚家の使徒は、狷介な者が多い。他の分家衆はおろか、身内すら信じられなくなる。然しお前は違う。母親の言葉を素直に信じ、他人の言葉を真に受ける。母親の教育というより、生まれついての性分なのだろう」
「……」
「お前には、他の者とは違う資質がある。それは本家女中頭を務めるに足る資質だ。お前が本家女中頭を務めれば、奏の負担も軽くなるだろう。童の頃からおゆらという『有能な裏切り者』に監視され、気を緩める暇も与えられなかった。お前が奏の側にいれば、それだけで駿河の茶の如く、奏の心を慰められる。私は嘘を吐いていない。私はお前に期待している」
「……」
「人付き合いがうまく、弁の立つ
獺が語り終えると、千鶴は平静を取り戻す為、軽く息を吐いた。
「物言いは気に入りませんが……符条様の御言葉、心に留めておきますわ」
不承不承であろうが、獺の言葉を聞き入れて引き下がった。
常盤に篠塚家の妖術について知られたくないのだろう。後で奏に聞けば済む事だが……篠塚家の妖術より『有能な裏切り者』という言葉が、常盤の心に残った。
確かにおゆらという『有能な裏切り者』を排除できた。序でに先度の会合で、政敵と成り得る年寄衆も排除できた。然し状況が好転したわけではない。奏の周りは、信用できない者が殆どだ。分家衆や本家の女中衆など、これからも油断ならない者達と付き合わなければならない。
薙原家で奏が信用できる者は、それこそ片手で数えられるくらいだ。符条と常盤と朧と千鶴の四人だけ。
マリアは論外だ。
彼女を信用した途端、年寄衆が九山八海二号に造り替えられた。
塙と勘助は、顔を合わせて十日も経たない為、少しずつ信頼関係を構築していくのだろう。然し朧も塙も勘助も中二病だ。遠慮なく主君に諫言もできるが、抑も主君の望み通りに動くわけがない。年長の符条に期待したい処だが、一時的に同盟を結んでいるだけで、奏と目的が一致しているわけではない。
今の処、奏が無条件で信頼できるのは、常盤と千鶴の二人だけ。これから奏は、信用できそうな仲間を増やす為に奔走するだろう。
「四つ目。おゆらが屋敷の地下牢に閉じ込めていた娘達の処遇」
獺は神妙な声で言う。
二年前の謀叛の際、おゆらは分家の娘達を生け捕り、本家屋敷の地下牢に閉じ込めた。分家を断絶させない為――という名目だが、分家衆に対する
「これは、奏の提案が採用される。地下牢に幽閉されていた娘達を日の当たる場所に解放し、本家が最後まで面倒を見る予定だ。年端もいかぬ赤子は、私が後見役を引き受け、篠塚家の奉公人が養育する」
「奏様らしい立派な考えだと思いますわ」
「一番反対しそうな年寄衆が石化したからな。多少の懸念はあるが……まあ、問題なく裁可されるだろう」
「何か懸念があるのですか?」
「篠塚家が強くなりすぎる」
「……」
「奏の提案通りに事が運ぶと、娘達が産んだ赤子は、篠塚家の奉公人に養育される。赤子が成人した後、それぞれの家を継いだとして……結局、篠塚家と徒党を組むだろう。奏の将来を考えると、気を遣う事が多い」
「……」
千鶴は言葉に詰まり、羽扇子で口元を隠す。
奏や千鶴が望むかどうかは別として……千鶴の母親は、間違いなく赤子に英才教育を施すだろう。然しそれは、慈善事業ではない。千鶴の取り巻きを作る為――篠塚家の派閥を増強する為だ。他の分家衆は、篠塚家の台頭を望まない。つまり篠塚家と他の分家の天秤を釣り合わせる為に、奏は油壺家に道普請を任せたのだ。
「まあ、私が後見役を引き受けたのだ。私の杞憂で済むなら、それに越した事はない。それより五つ目の議題だ」
「最後の議題ですわね」
「次の本家当主に奏を推す」
「ああああ……」
羽扇子で顔を隠し、悲嘆の声を漏らす。
「予想通りの反応ではあるが……そんなに嫌か?」
「嫌ではありませんが。薙原家の伝統が……」
「奏が本家の当主になるの?」
肩を落とす千鶴を尻目に、常盤が興奮気味に尋ねた。
「マリアが会合で『薙原家の政は、奏が取り仕切る』と断言したからな。今更、撤回などできない。却って分家衆が混乱する」
「
「ああ、マリアの
「然しその……奏様が分家衆から恨まれますわ」
「当然、分家衆は奏を警戒するだろう。先度の会合の件もある。奏が望めば、
「ならば――」
「安心しろ。奏も分家衆の懸念を承知している」
千鶴の言葉を遮り、獺は強引に話を進める。
「先ず奏は、薙原家の権力を独占するつもりはない。分家衆を集めた評定は、これからも続ける。分家が持つ権益もそのままだ」
「……」
「抑も奏は、本家当主を長く務める気がない。三年も務めれば、マリアに本家当主の地位を返す予定だ。その頃には、二人の間が子供が生まれているだろう。再びマリアが本家当主に返り咲き、二人の子供が
「口約束では――」
「奏は起請文を書くと明言している」
「うっ――」
千鶴が言葉に詰まった。
起請文とは、寺社が発行する護符の裏に認めた誓約書を指す。誓約に違反した場合、神罰を蒙る旨の神文が添えられていた。蛇孕神社が発行する起請文は、蛇神に対する誓約書だ。起請文を無視するという事は、蛇神崇拝を否定する事に等しい。
「奏様もお気の毒に……」
マリアが会合で爆弾発言をしなければ、薙原家を裏から操る事もできたが……奏も表舞台に出ざるを得なくなった。
「つまり符条様が、奏様を次代の本家当主に推すので、篠塚家も賛同してほしいと?」
「有り体に言えばそうだ」
「母上と相談させてください」
「事が事だからな。その方がよかろう。然し次の評定まで、あまり時間がない。結論は早く出してくれ」
「はい……」
面倒事が増えたと言わんばかりに、千鶴が
「常盤はどうだ? 何か異論はあるか?」
獺が視線を向けると、常盤は暫く考え込んだ。
「異論も何も……私、評定に出られないし。用件がそれだけなら、なんで茶会に呼ばれたのかも分かんない」
常盤が興味なさそうに応えると、千鶴は羽扇子で口元だけ隠して、獺に剣呑な眼差しを向けた。
「符条様、わたくしたちを試しましたね?」
「……」
「わたくしを侮辱したり、常盤さんの無礼を見過ごしたり、評定に出席できない常盤さんを茶会に招いたり……此度の茶会は、わたくしたちを試すのが狙いですか?」
「当代の篠塚家当主と次代の本家当主の世話役だぞ。己の目で確かめて何が悪い」
千鶴の詰問に、獺は堂々と開き直った。
「茶会で嘘は通じない。どれだけ隠そうと、茶会は亭主や客人の本性を暴き出す。茶の湯の知識や礼儀。風雅を愛する心。加えて思考や人柄」
「……」
「古来より茶会は、密議の場として使われてきた。斯様な密室で行われるゆえ、密議を凝らすのに最適。謀略、懐柔、謀叛……あらゆる密議が茶会で行われてきた。それゆえ、茶の湯に誘われたら、何か思惑があるのではないかと、相手を疑うくらいで丁度良い。亭主は客人の心底を見定めた後、何かを持ち掛ける。朴訥な人柄を見て、客人を信じたり……御し易いと思えば、騙して謀略に利用する。残念な事に、乱世の茶の湯は、綺麗事では済まないのだ」
「それでわたくしたちは、符条様の御目に適いましたの?」
「何の問題もない。私の知らない間に二人とも
千鶴の冷たい視線に頓着せず、獺は飄々と語る。
「正直、感情の制御もできない
「わたくしも八王子の
「笠原とは、八王子の大店で知り合ったのか?」
「勿論、そうですわ。篠塚家の当主ともなれば、頭の悪い男共を使いこなす術を学ばなければならないと、母上が護衛衆の中から選んでくれたのです。それが何か?」
「他意はない。お前の母親なら人選を見誤る事もなかろう。篠塚家は安泰だな」
露骨な社交辞令を述べた後、常盤の青い双眸を見据えた。
「対して常盤は、自信を得たように思う。少し前まで奏の側から離れられず、他人に話し掛けるのも躊躇していた小娘が、私を相手に怖じ気づく事もなく、己の意見を言えるようになった。
「常盤さんは、昔から何も変わりませんわ。高慢で無礼で我が儘で……自分の都合で、周りの者達を振り回すのです。本当に迷惑ですわ」
「それはアンタも同じ」
「つーん」
千鶴は顔を背けて、常盤の突っ込みを無視した。
謀叛が起こる前に蛇孕村を逃げ出した千鶴は、常盤がおゆらや年寄衆の所為で理不尽な目に遭い、心に深い傷を負った事を知らない。
「そう言えば、わたくしが蛇孕村を離れた後で、常盤さんが病を患ったと聞いておりますわ。身体の調子はよろしいのですか?」
それゆえ、何も知らない千鶴は、悪気もなく精細な話題を投げ掛けてくる。
「――」
「どうして無視するのですか! わたくしは常盤さんを気遣っているのですよ!」
「余計なお世話」
「ムキーッ!」
「全然、感情制御できてないし」
「本家の御殿医が診ているのだ。問題あるまい」
言い争う二人に、獺が割り込む。
「ヒトデ婆から聞いたぞ。最近は、身体の調子も良いとか」
「……」
常盤に配慮して、『身体の調子』と誤魔化したが、実際は『精神の均衡』である。
「加えて短慮や
獺が安堵したように言うと、茶室に沈黙が流れた。
「もう一杯飲むか?」
茶会の亭主が、二人の客人に茶を勧めてきた。
一匹と二人の茶会が終わり、常盤も自分の寝室に戻った。
寝室に控えていたお仙が、幼い主人を出迎えた。
「茶会は如何でしたか?」
「時間の無駄だった」
常盤はお仙の顔も見ないで、獺の茶会を切り捨てた。
「おばさんの話長過ぎ。結局、一番不味いお茶しか出さないし……」
「――」
「これから奏の処に行く。早く髪を整えて」
「はい」
常盤が化粧台の前に座ると、命令通りに銀色の髪を梳る。茶室で膝を崩した時、長い髪が畳に触れたのだ。毛先に埃がついていないだろうか。
これから奏の許に向かい、獺から聞いた本家当主交替の件を確かめる。
奏も常盤に隠していたわけではない。まだ本決まりではない為、常盤を
唐鏡に映る己の顔を見つめながら、常盤は茶会の遣り取りを思い出す。
茶会は亭主や客人の本性を暴き出す――と
符条は、常盤の心底が全く見えていない。
常盤が心の内に秘めているものは、力に対する渇望だ。
力がないから虐められ、力がないから飢えに苦しむ。力がないから他人に怯え、力がないから奏に迷惑を掛ける。力がないから難民も粛清され、力がないから父親も死んだ。
幼い頃より力こそ全てだと思い知らされてきたのだ。
難民集落でも薙原家でも変わらない。
弱肉強食こそ現世の真理。
常に常盤は、強者に虐げられる弱者だった。
然しそれも過去の事。
常盤の憂いは、この世から消え失せた。
なぜなら――
私は
唐鏡に映る常盤の双眸は、狒々神の如く金色に輝いていた。
寄付……待合の前に準備する場所
香煎……大麦の
待合……茶会で客が待合をする場所
雪隠……便所
風炉……茶席で釜を掛け置き、湯を沸かす為の夏季用の炉。鉄、唐銅、土、木、陶磁製などの材質がある。
懸物……賞品
辻玄哉……室町時代後期の茶人、連歌師。茶道の一派である松尾流の始祖。
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