第109話 茶会

 風雅な佇まいだった。

 本家屋敷の美しい庭園は、人の心を安寧に導くような造形の変化が、予め計算されて造られている。

 花々の香りを乗せて、微かに薫風くんぷうが吹き渡る。その中を進むほどに、華やいだ雰囲気から静謐を齎す佇まいへと変えていった。

 常盤は軽い足取りで、庭園の奥へと進む。

 運が良い時は、何から何までうまくいく。

 奏から世話役の話を聞いた時は、その場で引き受けるつもりだった。然し奏が配慮を示してくれた為、奏の心遣いを尊重した。世話役の話も嬉しいが、自分に対する気遣いが何より嬉しい。

 常盤は上機嫌で庭園を歩く。

 やがて庭園の静かな風景の中に、見事な書院が現れた。茶会に招かれた客が、最初に通される場所だ。常盤は何度も茶室に足を運んでいる為、案内もなく寄付よりつきに向かう。

 寄付には、予期せぬ先客がいた。


「……なんで此処にいるの?」

「それはわたくしの科白せりふですわ!」


 常盤が不機嫌そうな顔で尋ねると、千鶴が驚いた様子で大声を出した。

 煌びやかな光沢を帯びた練緯ねりぬきで仕立てられた打掛。打掛の下に纏う小袖も、宮廷の姫君の如き高価な唐衣からぎぬ。切り揃えられた睫毛に、生意気そうな瞳。端正な鼻筋と薄紅色の唇。縦に渦を巻く長い髪をなびかせ、胡蝶を模した髪留めをしている。

 二年前と変わらない。

 常盤も他人の事は言えないが、相変わらず華美な女だ。


「わたくしは符条様の茶会に招かれたのですわ! 正式な客人です!」

「じゃあ、私と同じ。アンタも呼ばれたんだ」


 興奮する千鶴に顔を向けず、緋色の毛氈が敷かれた席に座る。


「アンタ、符条様から何か聞いてる?」

「いえ、何も聞いておりませんが……どうしてわたくしが、常盤さんに御話しなくてはなりませんの!」

「もう話してるし。しかも使えない」

「キーッ! なんと無礼な小娘でしょう! 本家の猶子でなければ、御手討ちですわ! 御・手・討・ち!」


 羽扇子を振りながら、千鶴が地団駄を踏む。

 常盤と千鶴は、毛氈が敷かれた席の両端に座り、互いに顔を向けようとしない。

 昔から二人とも仲が悪い。

 寧ろ千鶴が、一方的に常盤を敵視していると言うべきか。常盤が薙原家に来るまで、千鶴が先代当主のお気に入りだった。人質扱いの奉公人が、全ての仕事を他の女中に押しつけても、何も言われないお姫様の地位を得ていた。

 それが常盤が来ると、彼女の立場が一変した。

 先代当主のお気に入りが常盤に代わり、千鶴は他の女中の一人に格下げされたのだ。不遇の扱いに耐えかねた千鶴が、先代当主の側近である母親に直訴し、八王子の店に居を移して貰った。そのお陰で謀叛を免れたのだから、運の良い娘だ。

 千鶴からすれば、常盤は己の地位を簒奪した『卑しい南蛮人形』である。常盤と折り合う理由がない。勿論、常盤も千鶴と折り合う気はないが。

 何もする事がない為、常盤は寄付を見回す。

 壁には、山水の掛け軸が掛けてある。瓶掛びんかけに鉄瓶が掛けてあり、盆の上に茶碗と香煎こうせんがあった。

 寄付を見回して気づいた。

 客人を茶室に招く案内役が来るまで暇だ。


「早くお茶出しなさいよ」

「あ、はい只今――って、なんでわたくしが、常盤さんにお茶を出さなければなりませんの! お茶が飲みたいなら、自分で用意してくださいませ!」


 危うくお茶を用意し掛けた千鶴が、羞恥で顔を赤く染めながら、甲高い声で常盤を非難した。

 一連のノリツッコミを何も考えずにできるのだから、相当なアホの子……ではなく、性格の素直な娘だろう。然しやはり、常盤が折り合う理由も思い浮かばない。

 もう少し千鶴を遣り込めて遊ぼうと考えていたら、寄付に案内役が現れた。

 獺である。


「待たせたな。茶室に来い」


 素っ気ない物言いで、獺は二人を奥に促す。

 寄付の奥には、待合と雪隠せっちんがあり、地面に飛び石が敷かれている。その先に垣根と中門が見えた。

 中潜なかもぐに入ると、瀟洒しょうしゃ数寄屋すきやが見えた。念の為に言うと、数寄屋(オタク部屋)ではない。正しく数寄屋だ。

 獺の後に続いて、二人は飛び石の上を歩く。


「ねえ、常盤さん」


 急に千鶴が、声を潜めて話し掛けてきた。


「眷属が案内役という事は、茶室で本体が出迎えてくれるのでしょうか?」

「さあ……」

「少し期待してしまいますわね」


 気分が高揚してきたのか、千鶴は案内役の獺に話し掛ける。


「あの……符条様」

「ん? なんだ?」

「わたくしが蛇孕村を離れている間に、数寄屋が建てられていたのですね。わたくし、何も知らなくて……」

「ああ、お前は初めて来たのか」


 獺が納得したように呟いた。


南蛮なんばん数寄者オタクの沙耶が、頑なに数寄屋の設営を拒んでいたからな。二年前の謀叛で屋敷が燃えた後、おゆらが主殿の側に数寄屋を拵えたのだ」

「まあ、おゆらさんが設計したのですか?」


 千鶴は驚いて目を丸くした。


「あの女……性格は悪いが、趣味は良い。例えば、お前達が踏んでいる飛び石。雁金打かりがねうちだ。雁の群れが越冬の為に飛ぶ姿のように、穏やかな曲線を描くように敷かれている」

「寄付もそうでしたが……素晴らしい趣向ですわ」


 深く物事を考えない千鶴は、素直に感嘆の声を漏らす。


「そうだな。或る一点を除けば」

「?」

「数寄屋を見ろ」


 獺に促されて数寄屋を見ると、入り口が普通の木戸だった。


「あら? 躙口にじりぐちではございませんの?」


 畿内で千利休が台頭して以来、茶室は躙口が専らだ。

 躙口とは、茶室を出入りする為に、小さく低い場所に造られた入り口だ。入り口が小さいのは、刀を帯びた武士が、入室できないようにする為。それを低い場所に設置する意味は、身分の高い者でも一度は頭を下げなければ、茶室に入れないようにする為。茶室は、外界の身分やしがらみを持ち込まない聖域に等しい。


「躙口を造ると、マリアも頭を下げて入らなければならなくなる。おゆらが耐えられると思うか?」

「ああ……」


 千鶴は納得した様子で頷いた。

 因みに常盤は、符条に説明されるまでもなく、茶室に躙口がない事を承知していた。抑も先代当主が、数寄屋の設営を拒んだ理由が、「躙口で頭を下げたくないから」である。先代当主が頭を下げていないのに、超越者チートが頭を下げなければならない。

 おゆらからすれば、許し難い事である。


「難しい作法を気にする必要はない。数寄屋に入る前に、手水ちょうずで手と口を洗う。木戸を開けて、数寄屋に入る。後は、室内で私が出迎える」


 庵とでも呼ぶべき数寄屋を見ながら進み、獺に言われた通り、常盤と千鶴は菊形の手水鉢で手を清め、唇を洗う。千鶴が木戸を開けて、怖ず怖ずと室内を覗いた。


「よく来たな。中に入れ」


 四畳半の茶室で、別の獺が二人を出迎えた。


「ああああ……」


 二匹の獺を見比べて、千鶴は落胆の声を漏らした。


「どうした?」

「符条様の本体が出迎えてくれるのかと」

「そんな話をした覚えはない。お前が勝手に期待しただけだ」


 確かに符条は、本体が出迎えるなど、一言も口にしていない。勝手に千鶴が期待して、勝手に落胆しているだけだ。


「そう言えば、奏が『符条様の眷属を二匹捕まえた』って言ってた」

「そういう話は、もっと早くしてくださいませ!」

「仲が良いようで安心したが……早く中へ入れ。話ができない」


 常盤と千鶴の遣り取りを見遣り、獺が呆れ顔で言う。


「はい、只今」

「別に仲良くないし」


 二人は雪駄と靴を脱いで、四畳半の茶室に入る。

 千鶴の予想より小さな茶室だった。床の間には、見事な水墨画が掛けられ、菖蒲が一輪だけ活けてある。室内には、微かに香の香りがしていた。客が入る前に伽羅を焚き込め、時を置いて残り香を楽しむ。実に清々しい香りだった。

 獺の弓手に風炉ふろが置かれており、亭主(獺)と客人(常盤と千鶴)が向き合う。千鶴は落ち着かない様子で茶室を眺めていた。


「千鶴、茶室は初めてか?」

「いえ……幾度か茶会に招かれた事はありますが、斯様に立派な茶室は初めてです」

「存分に眺めてくれ。先程も述べたが、おゆらが図面を引いて設計した茶室だ。躙口さえ目をつぶれば、学ぶべき事も多い」

「学ぶべき事?」


 常盤が怪訝そうに尋ねた。


「なんだかんだで千鶴は、商人あきんどの娘だからな。篠塚家の当主となれば、様々な者達と顔を合わせなければならなくなる。茶の湯を嗜めば、有徳人との交流が広がる。茶室に詳しくなれば、教養の高さを見せつけられる。奏も見直すだろう」

「私も学ぶ」

「好きにしろ」


 千鶴に対抗心を燃やす常盤を尻目に、獺は妖術で鍋の蓋を開ける。

 茶室で妖術を使う時点で、符条は全く作法を気にしていない。

 幽霊が点前の準備をするように、茶道具が室内を飛び交う。

 先ず茶入と茶杓が用意された。

 次に袱紗ふくさから解かれた茶碗が並べられる。

 唐物の天目茶碗てんもくちゃわんと高麗の粉引茶碗こなひきちゃわんだ。

 獺は風炉に掛けられた鍋の湯加減を確かめながら――如何に確かめているのか、二人にもよく分からないが、湯呑に湯冷ましを一つ作った。

 茶入れを開けて、茶杓で二つの茶碗に茶が入れられる。その作業は一貫して同じ拍子で行われ、入れられた量もはかったように同じだ。

 一つの茶碗に対し、象牙の柄杓で七度に分けて釜の湯を注ぐ。塊ができないように、茶筅で素速く掻き混ぜる。これらの作業は、全て『睡蓮祈願すいれんきがん』で行われた事だ。

 二つの茶が淀みなく点てられて、常盤と千鶴の前に並べられた。

 常盤が天目茶碗、千鶴が粉引茶碗である。


「二人とも承知していると思うが……先ず湯冷ましの水を口に含んでから飲め。火傷しないようにな」


 獺の言う通り、二人は湯冷ましの水を少しだけ飲む。水の味を確かめて、口の中で味覚を研ぎ澄ませ、茶の味を楽しむ為だ。

 二人は茶碗を手に取り、中身を確かめた。

 深い緑。

 茶の色を網膜に焼きつけてから、目を閉じて香りをぐ。両の瞼を開けて、茶碗を弓手に回す。茶碗を左に二回半回す所作は、茶碗の正面を亭主に向ける為だ。少しだけ茶を口に含む。それを舌で転がして味わい、喉の奥に流し込んだ。

 その後、鼻腔に抜けていく残り香と後味を確かめる。再び目を閉じて、心の中に茶碗の印象を映す。

 美しい深緑。舌触りの良い味わい。香りの品格。苦味の向こうにある芳醇な甘さ。後味に大地の滋味じみと天下の涼風がある。心に映る茶畑の風景――


「とても美味しいお茶ですわ。宇治のお茶でしょうか?」

「駿河のお茶じゃないの? お茶と言えば駿河だし」

「そんな事ありませんわ! お茶と言えば宇治です! 先日、篠塚家が本家に宇治のお茶を贈りましたもの!」

「そんな理由……」


 二人が再び言い争うと、獺は溜息をついた。


「闘茶をしているわけではないのだが……」


 闘茶とは、亭主に差し出された茶の産地を当てる遊びだ。産地を言い当てれば、懸物かけものが貰える慣わしがあった。


「正解は『職人集落』だ」

「……」


 獺が応えると、二人は嫌そうな顔をする。


「そんなの当てられるわけない」

「何故、当家が差し出したお茶を使わないのですか?」

「だから闘茶ではない」


 不満を漏らす二人に、獺は硬い声で言う。


「篠塚家が持ち込んだ茶を使わない理由は……そうだな。僅かに陰りがある」

「陰り?」


 千鶴が不思議そうに尋ねた。


「ほんの僅かな陰りだ。大地の滋味や職人の手間に、一抹の疲れを感じる。お前達も知る通り、京は永らく戦乱に巻き込まれてきた。当然、宇治も無事では済まん。織田信長が畿内に進出して以来、宇治の茶作りも盛んになったが……去年は関ヶ原合戦があった。その間に伏見城攻めが行われている。宇治の住民も茶造りに専念できなかった」

「……」

「それでも上茶を産む誇りを保ち続けている。実に洗練された、重厚な味わいを持っていた。然し陰りがある。宇治の住民の疲れを感じる」

「符条様」

「なんだ?」

「篠塚家が本家に届けたお茶を呑みましたね? 本家に無断で、外界の本体に送りつけるなんて――」

「一方、駿河の茶は――」


 都合が悪くなった獺は、強引に話を続けた。


「今川家が朝廷に献上する為に、丹精を込めて育てた物だ。今川家が御料茶園で造営し、長い年月を掛けて育ててきた。駿河の茶を服する事で、一時でも帝の御心をお慰めできるようにと、真摯な祈りを込めて作られている。然し今川義元が亡くなり、駿河は武田の手に落ちた。甲州征伐では、徳川の軍門に降り……幾度も苦難が続いたが、それでも二十年近くも静謐を保ち続けている。それが茶の味に出るのだ。お陰で関東の住民は、茶と言えば、駿河の茶を想起する。さらに世代を重ねれば、宇治や栂尾とがのおの上茶を凌ぐかもしれん。薙原家にも、駿河の茶はあるが……お前達には、敢えて『職人集落』の茶を出した」

「……」

「別に意地悪をしているわけではないぞ。その茶は、今のお前達だ」

「どういう事でしょう?」

「茶は一代で作れるものではない。長い時間、試行錯誤を繰り返し、ようやく茶葉に大地の滋味を与えられる。実際、『職人集落』で作られた茶は、宇治や栂尾の上茶より劣る。駿河の茶と比べても、一枚も二枚も劣る。然し都落ちした遁世者とんぜものを招き、茶の湯の知識や茶葉を作る技術を学んだ。加えて四十年近くも静謐の中で育てられた茶葉は、穏やかな味を引き出している。これからも職人が手間を惜しまず、心穏やかに育てる事ができれば……数十年後には、上茶の一つに並ぶかもしれん」


 遁世者とは、世俗を捨てて、禅の道に入った者だ。

 茶の湯は元々、禅と共に発展した文化だ。

 鎌倉から室町の時世に掛けて、武家に最も支持されたのが禅寺である。鎌倉執権家が制定した五山の制で、臨済宗は手厚く保護され、室町将軍家も同様の政策を続けた。

 禅寺は唐物を目利きする窓口となり、身分の高い武家や公家が集う社交場になった。大方の禅僧は、舶来の知識を身につけた文化人であった。

 この中に茶礼があり、喫茶の文化があった。

 当初、大陸から漢方薬として入り込んだ茶が、日本の各地で作られるようになり、産地が増えるにつれて、凡下の商人でも賞味できるようになった。

 それでも抹茶は貴重で、公家や武家の間で漢詩に並ぶ高尚な趣味として持て囃される。それが茶会となり、様々な者達を集めた。

 やがて茶会の様式に『美』が持ち込まれ、数寄すきと呼ばれる美学へ変わった。まだ数寄者すきものが、数寄者オタクと呼ばれる前の話だ。数寄の語源は、やはり「好き」である。本物の美学と知識を持つ僅かな者達が、寄り合って会を開いた事から数寄と呼ばれた。

 すでに禅寺を離れて、幽玄オサレ――ではなく、幽玄の美を追究する遁世者は、有力な公家や武家に保護され、日本の権力者に数寄者を増やしていった。茶の湯の美を村田むらた珠光じゅこう武野たけの紹鴎じゅおうが磨き、辻玄哉つじげんさいを師事する千利休は、『侘び』を完成に近づけた。

 さらに利休が『萌え』とか言い出し、茶室に『アイ○ルマスター\THE IDOLM@STER シンデ○ラガールズ 鷺○文香 潮○の一頁Ver. 1/7 完成品フィギュア』を飾り始めた事が、東山文化と数寄者オタク文化が融合した証である。中二病を飛び越えて、子供部屋おじさんと化した千利休。『信○の野望 天○記』をプレイしていたら、「え? なんで? 俺が出てない!」と気づいた千利休。自慰利休せんずりきゅうという筆名ペンネームでエロ同人を発表したら、「えーと、本人ですよね?」と特定された千利休。彼の人生は、波乱に満ちたものであった。

 続く。

 念の為に言うと、本家屋敷の茶室に数寄人形フィギュアは置いていない。


「お前達は、薙原家でも責任を持つ立場となった。千鶴は篠塚家の当主に。常盤は奏の世話役に――」

「その話、まだ引き受けてないけど?」

「断るつもりはないのだろう?」

「……」


 獺に尋ねられると、常盤は押し黙る。


「これからお前達の周りに、様々な者が付きまとう。時に悪意を持つ者が、お前達に取り入ろうと、美辞麗句を並べて近づいてくる。おゆらの言葉を借りれば、欲深い俗物。大凡の者の言葉を借りれば、欲に目が眩んだ悪魔崇拝者だ」

「……」

「奴らは詭弁を弄し、前途有望な若者を唆し、輝かしい未来を叩き潰す。茶で例えれば、『職人集落』で生産された茶を外界に売れと持ち掛けてくるだろう。『日本の文化を世界に発信しよう』とか『外需を取り込め』とか……意味不明な妄言を吐き散らし、蛇孕村の茶葉を外界で売り捌こうとする」

「あの……符条様」


 千鶴が、怖ず怖ずと右手を挙げた。


「なんだ?」

「それは商人として当たり前の事かと」

「……」

「これから味が良くなり、いずれ宇治の上茶に並ぶかもしれないお茶があれば、誰よりも早く目をつけて、お客様に売ろうと考えるのでは?」

「そうだな。短期的に考えれば、お前の考えは正しい。然し飯の種を他人に売る者は、外界で戯けと呼ばれる」

「……」

「仮に『職人集落』で製造された茶が、外界で売れたとしよう。次は『職人集落』で製造された木綿。次は『職人集落』で製造された木材。次は『職人集落』で製造された農具。次は『職人集落』で製造された武具……とりがなくなる。気づいた時には、『職人集落』で製造された必要物資が、外界で出回るようになり、蛇孕村に供給されなくなる。即ち蛇孕村の供給能力が毀損される」

「……」

「一度毀損された供給能力は、容易に戻らない。宇治や駿河の茶が良い例だ。長い戦乱で苦しめられてきた職人が、同じ味を取り戻すまで何十年掛かったか……欲深い俗物共や悪魔崇拝者は、先の事など考えたりしない。目先の利益、己の欲得が全てだ。斯様な者共の口車に乗せられて、お前達の将来が閉ざされるなど……実に惜しい」

「……」


 千鶴は茶碗を見下ろしながら、獺の助言を素直に聞き入れる。

 然し常盤は、全く関係ない事を考えていた。


「あー……」

「どうした、常盤?」

「脚が痺れた。脚を崩していい?」

「常盤さん」


 千鶴が常盤の不作法を窘めた。


「構わんぞ。前置きが長くなった。早くお茶を飲み干せ。冷めてしまう」


 獺の了承を得ると、常盤は脚を開いて座り直した。

 後の世にう『ペタンコ座り』である。

 千鶴に視線を向けると、彼女は正座を崩していない。獺の話を聞き終えるまで、正座を続けるつもりのようだ。早く脚が痺れろ……と常盤は、意味のない呪詛を送った。


「本題に入ろう。今月の評定に関する事だ」

「……」

「今月の評定で、議題が五つも挙げられる」

「五つも? 多過ぎない?」


 政に疎い常盤は、辟易とした様子で言う。


「確かに多い。マリアと奏のお陰で、評定で裁可する案件が増えた。会合の件は聞いているか?」

「一応、聞いてるけど……」


 常盤は唇に指を当て、奏の話を思い出す。


「政を改善する為に、年寄衆と権力争いしてる暇がないから、无巫女アンラみこ様と奏と符条様と篠塚家の先代が手を組んで、年寄衆を嵌めたんでしょ? でも会合で年寄衆がかまびすしくて? 无巫女アンラみこ様に石化させられたとか……」

「奏も言葉を選んで説明した筈だが……肯綮こうけいあた剴切がいせつだな」


 常盤はぴんときていないが、奏は事実を正確に伝えている。


「千鶴も石になればよかったのに」

「わたくしが、无巫女アンラみこ様の勘気を蒙る事はありませんわ! 会合の時も、母上の指示通りに、何も言わずに黙っていましたもの!」

「それ、褒められた話じゃないし……」

「キーッ!」


 常盤が呆れたように言うと、千鶴が羽扇子を噛んで唸る。


「とにかく会合で決めた事を評定で裁可する。人喰いや人身売買の禁止。外界の野伏や人商人を使役する道普請。アンラの予言に惑わされない事。これらを一つ目の議題に纏める」

「……一つじゃない」

「複数の案件を一つに纏めないと、今月の評定で裁可しきれん」


 常盤が冷静に突っ込むと、獺は開き直って応えた。


「次に分家の権益を安堵する」

「?」

「粛々と年寄衆を隠居に追い込む筈が……マリアの所為で大事おおごとになったからな。動揺する分家衆を抑え込む為に、改めて権益を安堵し直す」

「それ、何の意味があるの?」


 獺の言い分に納得できず、常盤は首を傾げた。


「不本意ながら、常盤さんと同意見ですわ。事前にはかりごとを知らされていたわたくしですら、先度の会合で肝を冷やしました。果たして何も知らない分家衆の動揺は、如何ばかりのものか。今更、本家が安堵状を発給した処で、分家衆の動揺は収まらないと思いますわ」

「問題ない。安堵状は、マリアに書かせる」

无巫女アンラみこ様に!?」

「奏が頼めば、マリアも安堵状くらい書くだろ。蛇神様直筆の安堵状だ。御利益がある……どころか、薙原家の歴史の中で初めてだな。家宝になるぞ」

「そうですわね……」


 仰天の対応策に、千鶴は乾いた声で応じた。


「奏がマリアと手を組んだ時点で、分家衆に動揺する暇などない。是非を問わず、政の改善は進むだろう」

「……」

超越者チートの力で分家の権益を安堵し、年寄衆の代わり……櫻井家、油壺家、朽木家、毒島家の次期当主就任を裁可する。これが二つ目だ」

「――」


 千鶴は神妙な顔で獺の話を聞いているが、常盤は途中から聞き流していた。政の話は、難しくてよく分からない。抑も奏が唱える政の改善も、全く興味がなかった。


「三つ目。千鶴を本家女中頭に任命する」

「えー、なんで? 反対反対。千鶴におゆらさんの代わりなんて務まらない」


 然し千鶴の出世話は、断固として反対する。


「常盤さんだって、碌に家事もできないくせに、世話役を引き受けるのでしょう! ていうか、おゆらさんに敬称がついて、わたくしだけ呼び捨てなんておかしいですわ!」


 興奮した千鶴が、羽扇子で畳を叩いた。


「理由はいくつもある。先ず現在の薙原本家は、篠塚家の奉公人に所務や雑務を丸投げしている。本家の所務を分家に任せる時点で、問題なのだが……以前は、おゆらに丸投げしていたからな。おゆらに政を牛耳られるよりは、遙かにマシという事だ。加えておゆらに代わる吏僚など、早々に見つかるものではない。人手不足を補う為にも、篠塚家の奉公人は欠かせないというわけだ」

「本家の女中衆を使えばいいのに……」

「彼女達は、おゆらの紐付きだからな。おゆらに忠義など抱いていないだろうが……やはり信用できない。奏も同じ思いだ。結局、篠塚家の力を借りなければならなくなる」

「加えて篠塚家の奉公人は、わたくしの指図に従います! わたくしが本家女中頭に任命されなければ、本家の所務や雑務が滞るのです! やはりわたくしのような高貴な者でなければ、大任は務められないのですわ!」


 茶会に招かれる前から、自分が本家女中頭に選ばれる事を知らされていたのだろう。千鶴は羽扇子を常盤に向けて、自らの血筋を誇示する。


「アンタなんか本家女中頭に選ばれても、奏から信用されないし」

「符条様の前で、わたくしを侮辱しましたわね。先程からも無礼な物言いを繰り返し……許せませんわ」


 羽扇子を握り締めて、常盤の美貌を睨みつけた。


「落ち着け、千鶴。私は礼儀など気にしない」

「符条様が気にしなくても、わたくしが気にしますわ!」

「そうか。ならば、茶席の亭主として、客人を窘めなければならないな」


 獺は一拍間を置くと、不機嫌そうな常盤の顔を見遣る。


「常盤、お前は勘違いをしているぞ」

「……」

「篠塚家の先代が、自分の娘を本家の女中頭に据える為、方々に手を回していたのは事実だ。然し千鶴を女中頭に選んだのは、お前が最も信頼する奏だ」

「奏が……」

「金銭や家柄は関係ない。千鶴には、本家の女中頭に相応しい資質があると、奏は見抜いていたのだ」


 常盤は千鶴に視線を向けた後、再び獺に視線を戻す。


「千鶴に資質なんてあるの?」

「常盤さん!」

「千鶴はアホの子だ」

「符条様!」


 怒髪天を衝く千鶴の声が裏返った。


「済まない。間違えた。根が素直な娘だ。奏を裏切るほどの知恵もなく……ああ、これも間違いだ。性格に裏表がなく、母親に依存しており……ああ、これも間違いだ。親子の情に厚く、極めて御し易い……ではなく、信頼して仕事を任せられる」

「符条様……わたくしに何か恨みでもあるのですか?」


 顳顬こめかみの血管を浮かせて、羽扇子を掴む手が震えていた。


「お前に恨みなどあるものか。妖術で確かめても構わん」

「――」


 獺が妖術の話を持ち出すと、千鶴の表情が消えた。


「篠塚家の妖術は、他の分家と比べても特殊だ。特殊過ぎるゆえに、他の分家衆からも疎まれてきた」

「……」

「そういう意味では、悠木家が歩んできた歴史と変わらない。蛇孕村の遊女か雑物庫の番人か……薙原家は対等・平等・公平と謳いながら、悠木家を一番下に……篠塚家を下から二番目に据えてきた。千鶴の母親が沙耶に認められなければ、お前は雑物庫の番人を遣らされていただろう」

「……」

「然し篠塚家の歴史の中でも、お前は希有な存在だ。妖術の性質上、篠塚家の使徒は、狷介な者が多い。他の分家衆はおろか、身内すら信じられなくなる。然しお前は違う。母親の言葉を素直に信じ、他人の言葉を真に受ける。母親の教育というより、生まれついての性分なのだろう」

「……」

「お前には、他の者とは違う資質がある。それは本家女中頭を務めるに足る資質だ。お前が本家女中頭を務めれば、奏の負担も軽くなるだろう。童の頃からおゆらという『有能な裏切り者』に監視され、気を緩める暇も与えられなかった。お前が奏の側にいれば、それだけで駿河の茶の如く、奏の心を慰められる。私は嘘を吐いていない。私はお前に期待している」

「……」

「人付き合いがうまく、弁の立つ小才人しょうさいじんより、律儀で朴訥な者の方が、世の中の役に立つという事だ。奏は左様な者を無碍にしない。お前も篠塚家を繁栄させたいなら、私の言葉を肝に銘じておく事だ」


 獺が語り終えると、千鶴は平静を取り戻す為、軽く息を吐いた。


「物言いは気に入りませんが……符条様の御言葉、心に留めておきますわ」


 不承不承であろうが、獺の言葉を聞き入れて引き下がった。

 常盤に篠塚家の妖術について知られたくないのだろう。後で奏に聞けば済む事だが……篠塚家の妖術より『有能な裏切り者』という言葉が、常盤の心に残った。

 確かにおゆらという『有能な裏切り者』を排除できた。序でに先度の会合で、政敵と成り得る年寄衆も排除できた。然し状況が好転したわけではない。奏の周りは、信用できない者が殆どだ。分家衆や本家の女中衆など、これからも油断ならない者達と付き合わなければならない。

 薙原家で奏が信用できる者は、それこそ片手で数えられるくらいだ。符条と常盤と朧と千鶴の四人だけ。

 マリアは論外だ。

 彼女を信用した途端、年寄衆が九山八海二号に造り替えられた。

 塙と勘助は、顔を合わせて十日も経たない為、少しずつ信頼関係を構築していくのだろう。然し朧も塙も勘助も中二病だ。遠慮なく主君に諫言もできるが、抑も主君の望み通りに動くわけがない。年長の符条に期待したい処だが、一時的に同盟を結んでいるだけで、奏と目的が一致しているわけではない。

 今の処、奏が無条件で信頼できるのは、常盤と千鶴の二人だけ。これから奏は、信用できそうな仲間を増やす為に奔走するだろう。


「四つ目。おゆらが屋敷の地下牢に閉じ込めていた娘達の処遇」


 獺は神妙な声で言う。

 二年前の謀叛の際、おゆらは分家の娘達を生け捕り、本家屋敷の地下牢に閉じ込めた。分家を断絶させない為――という名目だが、分家衆に対する見懲みこらしに他ならない。本家屋敷の地下牢に閉じ込められていた娘達は、『毒蛾繚乱どくがりょうらん』で操作された村の男達に陵辱され、何人も子を成している。然しおゆらの手で過酷な環境に追い込まれた娘達が、精神の均衡を保てる筈もなく、一人で生きていく事もできない有様だという。


「これは、奏の提案が採用される。地下牢に幽閉されていた娘達を日の当たる場所に解放し、本家が最後まで面倒を見る予定だ。年端もいかぬ赤子は、私が後見役を引き受け、篠塚家の奉公人が養育する」

「奏様らしい立派な考えだと思いますわ」

「一番反対しそうな年寄衆が石化したからな。多少の懸念はあるが……まあ、問題なく裁可されるだろう」

「何か懸念があるのですか?」

「篠塚家が強くなりすぎる」

「……」

「奏の提案通りに事が運ぶと、娘達が産んだ赤子は、篠塚家の奉公人に養育される。赤子が成人した後、それぞれの家を継いだとして……結局、篠塚家と徒党を組むだろう。奏の将来を考えると、気を遣う事が多い」

「……」


 千鶴は言葉に詰まり、羽扇子で口元を隠す。

 奏や千鶴が望むかどうかは別として……千鶴の母親は、間違いなく赤子に英才教育を施すだろう。然しそれは、慈善事業ではない。千鶴の取り巻きを作る為――篠塚家の派閥を増強する為だ。他の分家衆は、篠塚家の台頭を望まない。つまり篠塚家と他の分家の天秤を釣り合わせる為に、奏は油壺家に道普請を任せたのだ。


「まあ、私が後見役を引き受けたのだ。私の杞憂で済むなら、それに越した事はない。それより五つ目の議題だ」

「最後の議題ですわね」

「次の本家当主に奏を推す」

「ああああ……」


 羽扇子で顔を隠し、悲嘆の声を漏らす。


「予想通りの反応ではあるが……そんなに嫌か?」

「嫌ではありませんが。薙原家の伝統が……」

「奏が本家の当主になるの?」


 肩を落とす千鶴を尻目に、常盤が興奮気味に尋ねた。


「マリアが会合で『薙原家の政は、奏が取り仕切る』と断言したからな。今更、撤回などできない。却って分家衆が混乱する」

男子おのこなのになれるの?」

「ああ、マリアの御命ぎょめいだ。誰も逆らえない」

「然しその……奏様が分家衆から恨まれますわ」

「当然、分家衆は奏を警戒するだろう。先度の会合の件もある。奏が望めば、超越者チートの力を使い放題。沙耶を超える暴君が現れたと、畏れ戦くだろうな」

「ならば――」

「安心しろ。奏も分家衆の懸念を承知している」


 千鶴の言葉を遮り、獺は強引に話を進める。


「先ず奏は、薙原家の権力を独占するつもりはない。分家衆を集めた評定は、これからも続ける。分家が持つ権益もそのままだ」

「……」

「抑も奏は、本家当主を長く務める気がない。三年も務めれば、マリアに本家当主の地位を返す予定だ。その頃には、二人の間が子供が生まれているだろう。再びマリアが本家当主に返り咲き、二人の子供が无巫女アンラみこを務める。その後、奏は薙原家の政から一切手を引くそうだ」

「口約束では――」

「奏は起請文を書くと明言している」

「うっ――」


 千鶴が言葉に詰まった。

 起請文とは、寺社が発行する護符の裏に認めた誓約書を指す。誓約に違反した場合、神罰を蒙る旨の神文が添えられていた。蛇孕神社が発行する起請文は、蛇神に対する誓約書だ。起請文を無視するという事は、蛇神崇拝を否定する事に等しい。


「奏様もお気の毒に……」


 マリアが会合で爆弾発言をしなければ、薙原家を裏から操る事もできたが……奏も表舞台に出ざるを得なくなった。


「つまり符条様が、奏様を次代の本家当主に推すので、篠塚家も賛同してほしいと?」

「有り体に言えばそうだ」

「母上と相談させてください」

「事が事だからな。その方がよかろう。然し次の評定まで、あまり時間がない。結論は早く出してくれ」

「はい……」


 面倒事が増えたと言わんばかりに、千鶴が悄然しょうぜんと頷いた。


「常盤はどうだ? 何か異論はあるか?」


 獺が視線を向けると、常盤は暫く考え込んだ。


「異論も何も……私、評定に出られないし。用件がそれだけなら、なんで茶会に呼ばれたのかも分かんない」


 常盤が興味なさそうに応えると、千鶴は羽扇子で口元だけ隠して、獺に剣呑な眼差しを向けた。


「符条様、わたくしたちを試しましたね?」

「……」

「わたくしを侮辱したり、常盤さんの無礼を見過ごしたり、評定に出席できない常盤さんを茶会に招いたり……此度の茶会は、わたくしたちを試すのが狙いですか?」

「当代の篠塚家当主と次代の本家当主の世話役だぞ。己の目で確かめて何が悪い」


 千鶴の詰問に、獺は堂々と開き直った。


「茶会で嘘は通じない。どれだけ隠そうと、茶会は亭主や客人の本性を暴き出す。茶の湯の知識や礼儀。風雅を愛する心。加えて思考や人柄」

「……」

「古来より茶会は、密議の場として使われてきた。斯様な密室で行われるゆえ、密議を凝らすのに最適。謀略、懐柔、謀叛……あらゆる密議が茶会で行われてきた。それゆえ、茶の湯に誘われたら、何か思惑があるのではないかと、相手を疑うくらいで丁度良い。亭主は客人の心底を見定めた後、何かを持ち掛ける。朴訥な人柄を見て、客人を信じたり……御し易いと思えば、騙して謀略に利用する。残念な事に、乱世の茶の湯は、綺麗事では済まないのだ」

「それでわたくしたちは、符条様の御目に適いましたの?」

「何の問題もない。私の知らない間に二人ともたくましくなった」


 千鶴の冷たい視線に頓着せず、獺は飄々と語る。


「正直、感情の制御もできない女童めのわらしと辟易していたが……千鶴は辛抱する事を覚えた。昔のお前なら、私の挑発や常盤の暴言に耐えきれず、茶室を飛び出していただろう。外界で我慢する術でも学んだか?」

「わたくしも八王子の大店おおだなで遊んでいたわけではありません。様々な身分の者と顔を合わせ、勘助の如く信用できる者と縁を結び、感情を制御する術を身につけたのです」

「笠原とは、八王子の大店で知り合ったのか?」

「勿論、そうですわ。篠塚家の当主ともなれば、頭の悪い男共を使いこなす術を学ばなければならないと、母上が護衛衆の中から選んでくれたのです。それが何か?」

「他意はない。お前の母親なら人選を見誤る事もなかろう。篠塚家は安泰だな」


 露骨な社交辞令を述べた後、常盤の青い双眸を見据えた。


「対して常盤は、自信を得たように思う。少し前まで奏の側から離れられず、他人に話し掛けるのも躊躇していた小娘が、私を相手に怖じ気づく事もなく、己の意見を言えるようになった。不貞不貞ふてぶてしいくらいだ」

「常盤さんは、昔から何も変わりませんわ。高慢で無礼で我が儘で……自分の都合で、周りの者達を振り回すのです。本当に迷惑ですわ」

「それはアンタも同じ」

「つーん」


 千鶴は顔を背けて、常盤の突っ込みを無視した。

 謀叛が起こる前に蛇孕村を逃げ出した千鶴は、常盤がおゆらや年寄衆の所為で理不尽な目に遭い、心に深い傷を負った事を知らない。


「そう言えば、わたくしが蛇孕村を離れた後で、常盤さんが病を患ったと聞いておりますわ。身体の調子はよろしいのですか?」


 それゆえ、何も知らない千鶴は、悪気もなく精細な話題を投げ掛けてくる。


「――」

「どうして無視するのですか! わたくしは常盤さんを気遣っているのですよ!」

「余計なお世話」

「ムキーッ!」

「全然、感情制御できてないし」

「本家の御殿医が診ているのだ。問題あるまい」


 言い争う二人に、獺が割り込む。


「ヒトデ婆から聞いたぞ。最近は、身体の調子も良いとか」

「……」


 常盤に配慮して、『身体の調子』と誤魔化したが、実際は『精神の均衡』である。


「加えて短慮や癇癖かんぺきを抑えつつある。若いとは、素晴らしいな。お前も千鶴も奏も……一足飛びに成長していく」


 獺が安堵したように言うと、茶室に沈黙が流れた。


「もう一杯飲むか?」


 茶会の亭主が、二人の客人に茶を勧めてきた。




 一匹と二人の茶会が終わり、常盤も自分の寝室に戻った。

 寝室に控えていたお仙が、幼い主人を出迎えた。


「茶会は如何でしたか?」

「時間の無駄だった」


 常盤はお仙の顔も見ないで、獺の茶会を切り捨てた。


「おばさんの話長過ぎ。結局、一番不味いお茶しか出さないし……」

「――」

「これから奏の処に行く。早く髪を整えて」

「はい」


 常盤が化粧台の前に座ると、命令通りに銀色の髪を梳る。茶室で膝を崩した時、長い髪が畳に触れたのだ。毛先に埃がついていないだろうか。

 これから奏の許に向かい、獺から聞いた本家当主交替の件を確かめる。

 无巫女アンラみこ様の代わりに、本家の当主になるなんて……そんな大事な話、奏の口から聞きたかった。

 奏も常盤に隠していたわけではない。まだ本決まりではない為、常盤を糠喜ぬかよろこびさせたくなかったのだ。

 唐鏡に映る己の顔を見つめながら、常盤は茶会の遣り取りを思い出す。

 茶会は亭主や客人の本性を暴き出す――とうそぶいていたが、おそらく獺の騙りだろう。或いは、単純に人を見る目がないのか。

 符条は、常盤の心底が全く見えていない。

 常盤が心の内に秘めているものは、力に対する渇望だ。

 力がないから虐められ、力がないから飢えに苦しむ。力がないから他人に怯え、力がないから奏に迷惑を掛ける。力がないから難民も粛清され、力がないから父親も死んだ。

 幼い頃より力こそ全てだと思い知らされてきたのだ。

 難民集落でも薙原家でも変わらない。

 弱肉強食こそ現世の真理。

 常に常盤は、強者に虐げられる弱者だった。

 然しそれも過去の事。

 常盤の憂いは、この世から消え失せた。

 なぜなら――


 私は妖術チカラを手に入れた。


 唐鏡に映る常盤の双眸は、狒々神の如く金色に輝いていた。




 寄付……待合の前に準備する場所


 香煎……大麦の玄殻げんがら焙煎ばいせんして挽いた粉。裸麦を原料とするものもある。麦焦がし、煎り麦、はったい粉、おちらし粉とも呼ばれる。


 待合……茶会で客が待合をする場所


 雪隠……便所


 風炉……茶席で釜を掛け置き、湯を沸かす為の夏季用の炉。鉄、唐銅、土、木、陶磁製などの材質がある。


 懸物……賞品


 辻玄哉……室町時代後期の茶人、連歌師。茶道の一派である松尾流の始祖。

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