第108話 覚醒
慶長六年七月上旬――
眩い朝陽が馬喰峠の稜線に広がり始めた頃、常盤は本家屋敷の主殿の一室で就寝していた。
此処は、常盤の寝室だ。
一ヶ月ばかり奏の庵に住み着いていたが、数日前から自分の部屋で寝起きしている。
部屋の広さは八畳。部屋の隅には、天蓋のついた
格子窓の隙間から射し込む朝日が、天蓋のついた寝台を照らす。
静寂の時間が永遠に続くかと思われた時、静かに木戸が開いた。
木戸を開けたのは、黄色い小袖を着た女中である。
歳の頃は二十代の半ばくらい。顔の造作に、特徴が見当たらない。本家女中衆が百人集まれば、確実に埋もれる顔立ちだ。長い髪を頭の後ろで束ねている他に、外見で区別がつかない。
女中の名は、お
先日、奏より常盤専属の女中に選ばれた。奏は本家女中衆を信用していないが、マリアより「常盤の命令に従いなさい。常盤を守りなさい」と命じられている為、命懸けで命令を遂行するだろう。
この場にはいないが、常盤専属の女中は、彼女の他に四名もいる。常盤に対する気遣いが、女中の数に表れている。
お仙は直立する事なく、湯が張られた
「常盤様、起床の時間です」
「……ん」
常盤はすぐに目を覚ました。
特に早起きというわけではない。
常盤は奏と違い、夜に読書を行う習慣がない。日が沈むと遣る事がない為、いつも
常盤が上体を起こすと、銀色の長い髪が純白の
「おはようございます」
「……」
「御湯の支度を整えております」
「ふあ……ん」
軽く欠伸をした後、角盥に白皙の美貌を沈めた。
角盥に張られた湯に、掌ほどの布袋が浮かんでいた。布袋の中身は、
木綿の手拭いで顔を拭くと、常盤は寝台の横で直立した。
これから先は、お仙の仕事である。
純白の
幼い裸身に、新しい
着替えが済むと、「此方に――」と常盤を化粧台に促し、鏡の前で正座させる。
常盤が化粧をしても、意味もなく「あざとい」だけなので、眉毛と睫毛を軽く整え、櫛で銀色の髪を
その間、常盤は何もする事がないので、鏡に映る自分の顔を見ていた。
気品に満ちた顔立ちに、瑠璃色の双眸に神秘的な光を秘める。きめ細やかな肌は、淑やかな白を誇り、銀色の長い髪が背中まで真っ直ぐ伸びる。髪を整え終えた後、二つの白い
唐渡りの丸い鏡は、自身の美貌と背後の景色を写していた。
常盤の背後――寝室の反対側に、小さな位牌が見えた。
常盤の父親の位牌だ。
蛇神崇拝が根付く蛇孕村では、仏壇に位牌を供える習慣がない。抑も戦国時代には、仏壇が存在しない。その為、奏が外界の寺院に手配して、常盤の父親の位牌を造り、常盤に贈ったのだ。
常盤は毎日、位牌を拝んでいるが、お仙は何も言わない。おそらく奏から、何か言い含められているのだろう。
髪を整えた後、今日も父親の位牌に両手を合わせて拝む。
常盤はお経を唱えられない。それ以前に、父親の宗派をよく知らない。禅寺と聞いていたので、曹洞宗か臨済宗の筈だが……どちらにしても、常盤は経文を読めない為、両手を合わせて黙祷する事しかできない。
それでも構わないと、常盤も納得している。
これが常盤の新しい日課だ。
今日も何気ない一日が始まる。
「おはよう……」
寝巻から狩衣に着替えた奏は、欠伸を堪えながら居間に入る。
常盤は囲炉裏の下座に座り、一人で奏を待っていた。
「早くない。今日も遅い」
常盤が冷たい態度で言うと、奏は「ごめん……」と申し訳なさそうに頭を下げた。
奏の寝坊には、それなりに理由がある。
毎夜の如く記憶を書き換えられ、おゆらの慰み者にされてきた奏は、無自覚に寝不足の日々を送っていた。然しおゆらを座敷牢に幽閉してからは、安心して熟睡できる。毎日、四刻近く眠れるので、
奏が上座に座ると、常盤も奏の側に座る。
常盤は鍋の蓋を開け、奏の茶碗に汁物を注いだ。おゆらの代わりに世話役のような事をしているが、奏は止めようとしなかった。常盤が自発的に動く事は、基本的に良い事だ。
「今日の朝餉は何かな~」
「見たまま」
身も蓋もない言葉を聞き流して、眼前の朝餉を見下ろす。
「はい」
「ありがとう」
奏は味噌汁を受け取り、「頂きます」と両手を合わせた。
常盤も自分の円座に座り、茶碗に汁物を注ぐ。
「……朧は?」
改めて奏は、居間を見回しながら尋ねた。
「台所」
「?」
「奏が来るまで待てないから、台所で食べるって。朝餉もこれだけじゃ足りないって……奏の従者のくせに」
常盤は眉根を寄せて、朧の不作法を非難した。
「まあ、朧は武芸者だからね。一日に五回も六回も食事するし。うちの朝餉だけじゃ物足りないんだろうね」
奏は味噌汁を飲みながら苦笑する。
朧の大食は、薙原家でも周知の事実だ。何でも関ヶ原合戦の時、味方の足軽から五人分の兵糧を奪い取り、陣中法度も気にせずに腹を満たしたという。
戦国時代、合戦に参加した足軽雑兵は、大名家から兵糧を支給された。大名家にもよるが、一日玄米六合、味噌二勺、塩一勺が目安である。
朧の場合、自分に支給された兵糧も含めて、一日に玄米を三十六合、味噌を十二勺、塩を六勺も食べていた。強靱な肉体を維持する為には、相応の食事が必要なのだろう。朧の体力を考えれば、多いのか少ないのか……奏にも判断できない。
「奏」
「ん?」
「難民の件なんだけど……」
常盤が顔を伏せて、小さな声で呟いた。
「お仙さんから聞いた。難民の葬儀を外界で行ったって。奏様が
「……」
奏は返答に窮した。
常盤の言う通り、マリアに掛け合い、外界で難民の葬儀を行った。広場に晒された難民の首を集め、肥沼家の妖術で難民の屍を回収し、篠塚家を通じて八王子の寺院に頼み、百名を超える難民の埋葬と葬儀を実行した。
薙原家の都合で謀叛人に仕立てられた挙句、広場に首を晒されるなど許し難い。
せめて遠行した後は、薙原家の呪縛から解放してやりたい。蛇孕村ではなく、外界の土地で埋葬してやりたいと、マリアに頼み込んで実現した。僧侶や
奏の心に突き刺さる棘は、難民を救えなかった事。
常盤の父親を殺めた事だ。
狒々神討伐を終えた後、奏はマリアの聖呪を使い、常盤の記憶の書き換えた。悪魔崇拝者に陵辱されて殺された記憶など、常盤の精神を追い詰めるだけだ。常盤の安寧を守る為にも、不要な記憶は躊躇なく消し去る。狒々神の生き血を飲んで目覚めた常盤は、前後の記憶が混乱しており、記憶の改竄に都合が良かった。
それゆえ、常盤は第二次難民集落視察の折、難民の一揆に襲われた後の記憶がない。奏と一緒に川に落ちて、何日も眠り続けていた――と奏から説明を受けている。
謀叛を起こした難民が粛清された事。
おゆらが謀叛を誘導していた事。
件の理由で、おゆらの役職を解き、座敷牢に幽閉している事。
常盤が寝ている間に、狒々神討伐を終えた事。
大体の経緯は、嘘偽りなく伝えたが……奏は、常盤に一つだけ嘘を吐いた。常盤の父親は謀叛に巻き込まれて、悪魔崇拝者に殺されたと誤魔化したのだ。奏が父親を殺したと知れば、常盤は悲嘆に暮れるだろう。常盤の気持ちに配慮したと言えるが、自分の気持ちに配慮したとも言える。
父親を殺したのが自分だと、常盤に打ち明ける勇気がなかった。
その事は、奏が一番承知している。
勿論、常盤に真実を告げた処で、何の意味もない。奏の抱く罪悪感が少しばかり紛れるくらいだ。然し虚言で乗り切るなど、おゆらと何も変わらないではないか。死人に罪をなすりつける必要もなかった。何か別の方法があったのでは……と今でも考えてしまう。
「おっ
「ありがとう」
「え?」
「僕を慰めてくれるんだね」
「違う。そうじゃなくて……もう。自意識過剰」
常盤は俯いて、「奏の馬鹿」と連呼する。
恥じらう常盤を微笑ましく思いながらも、奏は奇妙な違和感を覚えていた。
妙に割り切りが良いと言うか……普段の常盤らしくない。奏の知る常盤は、硝子細工の如く繊細な少女だ。感受性が豊かな反面、精神的な強さを備えていない。
然し父の死を報せた時、彼女の反応は薄かった。
気鬱の病は、調子の良い時と悪い時の落差が激しい。調子の良い時は、今の常盤のように振る舞えるが、調子が悪くなると、胸が苦しくて動けなくなる。周囲の人間どころか、当人ですら好不調の波が予測できない。いつ調子が良くなるのか、いつ調子が悪くなるのか、誰にも分からないのだ。
偶然、調子の良い時期が続いているのか。
或いは、常盤の精神を蝕む病魔が消え失せたのか。
奏も狒々神の生き血を飲んだが、別に体調が悪いわけでもない。寧ろ身体の調子は、普段より良いように思う。
やはり暫く経過を見ないと、常盤の状態を判断できない。
「えーと、常盤に話しておきたい事があるんだけど……」
煮鰤を箸で摘まみながら、奏は遠慮気味に話題を逸らす。
「……悪い話」
「一応、良い話だと思う。常盤に僕の世話役をお願いしたい」
「私が?」
驚いた常盤が、何度も瞬きする。
「でも私……家事なんかした事ない」
常盤が不安そうに言うと、奏が穏やかな笑顔を見せた。
「それは大丈夫。家事全般は、女中衆にお願いするから。常盤には、女中衆を監督して貰いたい」
「それって……形だけの役職じゃない」
「まあ、そうなんだけど……仕事を覚えれば、形だけの役職じゃなくなる」
「……」
「炊事も洗濯も掃除も……少しずつ覚えていけばいいよ。一年もすれば、大体の流れは掴めるから。三年もすれば、立派な世話役だよ」
「……」
「今すぐ答えなくていい。常盤が望むようにする事が、一番大事な事なんだ。僕は常盤の意志を尊重する」
「……考えてみる」
常盤が呟くと、奏は困り顔で続けた。
「実はもう一つ話があって……」
「?」
「先生が常盤を茶会に招きたいって」
「符条様が? なんで?」
「僕にも理由を教えてくれなくて……常盤が嫌なら断っておくけど」
「お茶を呑むだけなら。別にいいけど」
暫く黙考した後、常盤はぽつりと言った。
「無理してない?」
「無理してない。絶対に行く」
常盤が意地を張り、奏は溜息を漏らした。
女中の作った味噌汁は、少し味が濃いが……おゆらがいなくても、なんとかなるのではないか。奏は味噌汁を飲みながら、静かな朝餉の時間を楽しんでいた。
慶長六年七月上旬……西暦一六〇一年八月上旬
寅の刻……午前四時
角盥……水や湯を入れて、手や顔を洗う為の容器。また口を
戌の刻……午後八時
四刻……八時間
姫飯……釜で柔らかく炊いた飯
六合……約1.08㎏
二勺……約36㎖
一勺……約18㎖
三十六合……約6.48㎏
十二勺……約216㎖
六勺……約108㎖
勧進……御布施
寺男……寺院で働く奉公人
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