第107話 九山八海二号

 蛇孕神社の公用の間は、无巫女アンラみこが客人と対話する時に使う場所だ。然しマリアが奏の他に客人を招く筈もなく、奏も「仰々しい」という理由で公用の間を避ける為、専ら符条が分家衆と会合を行う時に使う。

 優子も公用の間に訪れるのは、およそ半年ぶりだろうか。

 公用の間に、分家衆が無言で端座していた。


「……」


 上座に无巫女アンラみこの姿はなく、板張りの床に円座を敷いて、分家衆が上手と下手に分かれて並んでいた。木戸が開け放たれており、鎮守の森から微風そよかぜが流れてくる。

 蛇孕村は四方を山で囲まれた盆地ゆえ、真夏の昼は酷く蒸し暑い。室内の風通しを良くしておく事は、当然の措置と言えるが……年寄衆や女童の顔色が悪いのは、別に寒いからではない。

 上手に並ぶ六名の内、優子を含めた四名が年寄衆である。残りの二名は、十を僅かに超えた女童。

 問題は下手に並ぶ六名だ。

 先ず獺。

 言わずと知れた符条家の眷属である。

 他の分家に会合を求めておきながら、未だに当人は蛇孕村に戻らず、会合にも眷属を出席させている。まるで他家の当主を格下と言わんばかりの扱い。明らかに他の分家を侮辱している。

 次に篠塚千鶴。

 相変わらず派手な娘だ。切り揃えられた睫毛まつげに、生意気そうな目付き。端正な鼻筋と紅を差した唇。縦に渦を巻く長い髪をなびかせ、胡蝶を模した鼈甲べっこうの髪留めをしていた。新雪の如く真白い唐衣の小袖を着ており、金糸銀糸で蝶の刺繍が施された打掛を羽織る。羽扇子を膝の上に置き、澄まし顔で端座していた。

 当時の上級階級の女性は、夏と冬で礼装が異なる。夏は小袖の上に打掛を羽織り、冬は打掛を下半身に巻くのだ。獺を除く分家衆も同じ礼装である。

 当人は晴れ舞台に相応しい装束を選んだつもりであろうが……対等・平等・公平を旨とする薙原家にも、長幼の序は存在する。公の場で若輩が、周囲に高価な衣装を見せびらかした処で、誰も関心を示さない。寧ろ年長者から疎まれるだけだ。


 抑も会合に羽扇子は必要か?


 年寄衆は、獺と千鶴の振る舞いを叱責し、符条家と篠塚家の非を鳴らすべき状況だが……下手の三人目から、年寄衆の口をつぐませる。

 ヒトデ婆が出席しているのだ。

 異様に長い蓬髪に、異常に長い鷲鼻。呪が書かれた布で両目を覆い隠し、同じ妖怪が見ても薄気味悪い。襤褸ぼろを纏わず、礼装を着ている所為で、余計に違和感を際立たせる。

 二年前の謀叛の後、肥沼家の当主に復帰しながらも、薙原家の政道に関わろうとせず、評定や会合に曾孫を代理で出席させていた老婆が、此度の会合に参加している。

 此度の会合は、それほど重要な意味を持つというか?

 年寄衆の混乱に拍車を掛けるのは、四人目と五人目と六人目だ。


 骸骨である。


 小袖と打掛という礼装を着た骸骨が、年寄衆や女童と対面する形で端座していた。

 骸骨から妖気を感じるので、『睡蓮祈願すいれんきがん』で人骨を操作しているのか。或いは、罰当たりにも蛇神の使徒の骨を利用しているのか。その両方という可能性もある。

 年寄衆は、動揺を押さえ込むだけで精一杯。三体の骸骨から目を逸らせず、符条と千鶴の無礼を咎める事すらできない。涙目になりながらも、骸骨と向かい合う女童の方が立派であろう。


「符条……お主の仕業か?」


 重苦しい沈黙に負けた優子が、獺に厳しい視線を向ける。


饗会きょうらいの時は、楽しげに餌贄えにえを貪り喰らうくせに、同胞はらからの屍は見るにえないか? お前達も気難しいな」


 獺が皮肉交じりに言うと、優子は醜い顔を歪めた。


「左様な戯言を申す為に、同胞の屍を弄んでおるのか」

「許し難し。同胞の命をなんと心得る」

「言うやに、言うやに」


 途端に調子を取り戻した年寄衆が、優子に同調して符条の非を鳴らす。


「……会合を開く前に、いくつかの誤解を解いておこう。これは上意だ」

「如何なる意ぞ?」


 優子が訝しげに問うと、獺は不遜な態度を崩さずに応える。


无巫女アンラみこ様が『今月の評定を行う前に、十二分家を内拝殿に集めろ』と言い出してな。私は『難しい』と換言したのだが……毎度の如く聞く耳を持たない。それゆえ、致し方なく――」

「同胞の屍を代役に立てたと?」

「結果的にはそうだな」

「――」


 気色ばんでいた年寄衆が、今度は青褪た顔で絶句した。

 符条の物言いに道理があるからだ。

 たとえ无巫女アンラみこの命令といえど、十二分家を蛇孕神社に集める事は難しい。悠木家の当主は、本家屋敷の座敷牢に幽閉。墨川家の長女は、身重のうえに乱心者。長女の娘は、去年産まれたばかりの赤子なので問題外。宍戸家に至っては、二年前の謀叛から本家を警戒しており、誰一人蛇孕村に帰参していない。

 このような状況で十二分家を集めろと命じられても、「難しい」としか答えられない。寧ろ「無理だ」と一蹴しないあたり、獺なりにマリアの顔を立てたのだろう。

 然し如何に理不尽な要求であろうと、家臣は主君の意志を尊重しなければならない。しかもマリアは、自他共に認める蛇神の転生者だ。敬虔なる蛇神の使徒は、蛇神に従う義務がある。

 蛇神の望みを叶える為に、致し方なく同胞の屍を利用した――と強弁されると、年寄衆は獺を非難できなくなる。


「もう一つの誤解も解いておく。私が妖術で屍を動かしているわけではない。无巫女アンラみこ様が反魂はんこんの秘術を用いて、同胞の屍を眷属に変えたのだ」

「本家の眷属――」


 優子は目を剥いて、言葉を詰まらせた。


无巫女アンラみこ様は、同胞を屍人しびとに変えたのか!?」

「反魂の秘術……」

「なんという事を……」

「ひいいい――」


 年寄衆はおそおののき、女童達は悲鳴を上げて立ち上がった。

 分家衆が、周章狼狽するのも無理はない。

 薙原本家の眷属は、脳を持つ生類の屍である。

 人間でも妖怪でも犬でも猿でも雉でも構わない。脳を持つ生類であれば――脳が腐り果てようが、脳が破壊されていようが関係なく、屍を傀儡くぐつの如く操り、己の下僕に変えてしまう。

 他の眷属と同様に、遠方の相手と対話もできるので、便利と言えば便利だが……本家の使徒は、八百年の歴史の中で数度しか眷属を使用していない。本家の使徒が使役する眷属――屍人しびとは、術者が制御を怠ると、周囲の妖怪や人間に襲い掛かる。屍人しびとに噛みつかれた者は、例外なく屍人しびとに成り果て、鼠算式に屍人しびとが増えていくのだ。

 生前の記憶や人格も消え去り、生存本能も働いていない為、如何なる理由で屍人しびとが妖怪や人間に襲い掛かるのか。屍人しびとに噛まれた者は、如何なる理由で屍人しびとに変わるのか。薙原家の者共も判然としないが、迂闊に屍人しびとの研究を始めると、一晩で蛇孕村が壊滅しかねない。触らぬ神に祟りなしと、本家も分家も屍人しびとについて調べようとせず、戒律で屍人しびとの使用を制限したくらいだ。

 然し扱い難い屍人しびとも、薙原家の役に立つ時はあった。

 外界の武士団に攻め込まれた時だ。

 鎌倉期や室町期に蛇孕村を発見されそうになると、関東の武士団を屍人しびとの群れに変え、外界を地獄に変える事により、逆境を乗り越えてきた。

 『残鬼無限ざんきむげん』が最強の盾なら、屍人しびとは最強の矛。本家の使徒が数百年に一度、外界の敵を排除する為に使う切り札。特に理由もなく、同胞を屍人しびとに変えたのは、戒律に縛られないマリアだけであろう。


「お前達……少し落ち着け。女童はともかく、年寄衆は屍人しびとを見た事があるだろう?」


 混乱する分家衆を尻目に、獺は呆れた様子で尋ねた。


「一度目の狒々神討伐の折に見たが……」


 優子が応えたが、恐怖で言葉が続かない。

 四十年前に狒々神が襲来した際、先々代の本家当主が下人を屍人しびとに変えて、同胞を逃がす為の捨て駒に使おうとした。然し当時の薙原家は、数十名しか下人を抱えておらず、時間稼ぎの殿軍しんがりにもならなかった。当然、屍人しびとに噛まれた狒々神が、屍人しびとに成り下がる筈もなく、混乱に拍車を掛けただけだった。先々代の本家当主も分家衆も、自分達の失態を後世に残せず……薙原家の醜態を覆い隠す為に、殊更に雅東がとう流初代宗家の武功を褒め称えたのである。


「女童も怯え過ぎだ。屍人しびとは、无巫女アンラみこ様の制御下にある。突然、お前達に襲い掛かる事はない……筈だ。早く座れ」

「……」


 部屋の隅まで離れていた女童達が、互いに目を合わせた。

 マリアの制御下にあるから恐ろしいのだが……蛇孕神社は、聖呪の結界内。『无巫女アンラみこだから信用できない』と考えただけで首が飛ぶ。

 超越者チートに対する恐怖が、屍人しびとに対する恐怖を上回り、恐る恐る円座に座り直す。


「符条」

「なんだ?」


 唐突にヒトデ婆が、獺に話し掛けた。


无巫女アンラみこ様が、同胞の屍を眷属に変えたと。それは理解したが……畢竟、我の隣に座る骸骨は、どちら様ぞえ?」

「ああ……流石にお前でも骸骨の区別はつかないか。お前の隣は、宍戸ししど朋美ともみだな。続いて墨川すみかわかずら悠木ゆうき真由まゆが並んでいる」

「宍戸家の先代と墨川家の先代と悠木家の先代か。然しよくお真由の屍を見つけたのう。沼に落ちて死んだ筈ぞえ」

「お真由の屍は、无巫女アンラみこ様が聖呪で見つけた。沼の底から引き上げたのも无巫女アンラみこ様だ。ついでに事故ではないぞ。他殺だ」

「ほう」


 好奇心を刺激されたのか、ヒトデ婆の声が高くなった。


「下手人は『一人目のおゆら』だ。詳細は省くが、事故に見せかけて殺したらしい。理由は『邪魔だから』だそうだ」

超越者衝撃チートショックを考えれば、『毒蛾繚乱どくがりょうらん』の使い手は二人もいらぬか」

「それだけではない。どうも『一人目のおゆら』は、母親を疎んでいたらしい」

「疎む? 怨恨ではなく、母親が疎ましいと?」

「おゆらの母親は……実に不憫な女だった。十二分家の当主でありながら、儀式や宴に参加を許されない。年寄衆も中老衆も悠木家を蔑み、自分達の都合の良いように利用してきた」

「ぞえぞえぞえ」

「……何がおかしい?」


 唐突にヒトデ婆が笑い出し、獺が不快そうに問い質す。


「利用……利用か。符条の言は、腹がよじれるほど当を得ておる」

「……」

「年寄衆の指図で男と交わり、中老衆の指図で別の男と交わり、憂さ晴らしに若い男と交わり……お主らは知らぬであろうが、狒々祭りの夜になると、お真由は赤い小袖を着てのう。篝火の周りで踊り狂い、発情した男衆を屋敷に連れ込んでおった。村では、童貞食いの淫乱と評判でのう。今にして思えば、我々に己の不遇を訴えておったのかもしれぬ。本家の御屋敷に喚ばれぬゆえ、村の男衆と戯れる他なしと」

「……」

「左様に考えれば、確かに不憫。不憫な母親に育てられたおゆらも不憫。おゆらを庇う気はないが……おゆらが外道に育つのも無理はないぞえ」

「おゆらに責め苦を与えていた老婆が言うと、それなりに説得力があるな。ともあれ、母親の主体性の無さが、『一人目のおゆら』には、酷く目障りだったようだ。自分の最も嫌う『役立たずの俗物』が、自分の身近に存在するばかりか、御先代の指図で、自分の行動を監視していたのだからな。殺人の動機が『邪魔だから』で十分に納得できる」


 獺は皮肉を交えながら、おゆらの母殺しを総括する。


「成程……我も合点がいった。合点がいったが、どうにも腑に落ちぬ。お主、その話を誰から聞いた? 『二人目のおゆら』か? それとも无巫女アンラみこ様か?」

「お前には明かせない。勝手に下卑た妄想を膨らませていろ」

「ふむ……ならば、勝手に下卑た妄想を膨らませるぞえ」


 獺が厳しい口調で告げると、ヒトデ婆が愉快そうに笑う。

 昔からヒトデ婆は、他の分家が抱える問題を嘲笑い、下劣な愉悦に酔い痴れてきた。ヒトデ婆に公の場で喋らせると、只管ひたすらに他の分家の立場が悪くなる。


「符条……符条よ。おゆらの母殺しは、儂らが議するまでもなき事。それより蛇神様の神意は如何いかん? 无巫女アンラみこ様の意を受けて、儂らを呼び集めたのであろう? 无巫女アンラみこ様より御下命があれば、く承りたいが……」


 優子は言葉を選びながら、脱線した話を戻す。

 おゆらの母殺しは、悠木家の家名を地に落とすほどの醜聞。おゆらの罪を重くする事はできるが……おゆらの処分など、年寄衆の与り知らぬ事だ。寧ろ問題は、マリアが符条に命じて、此度の会合を開いた事だ。

 年寄衆の予想に反して、マリアと符条の関係が改善されている。符条も私怨を捨てたわけではないだろうが、『超越者衝撃チートショック』や『一人目のおゆら』など、年寄衆も知らない情報を共有し、マリアの指示通りに動いている。


 无巫女アンラみこ様と符条を結びつけたのは誰じゃ?

 ヒトデ婆か?

 然れどヒトデ婆は、薙原家の権力争いに興味などなかろう。ならば、此度の絵を描いたのは誰じゃ?


 おゆらの母殺しの話を聞きながら、優子は思考を巡らせ、この場で考えても詮無い事だと悟った。ならば、情報収集に徹するべきだ。此度の会合を無難に遣り過ごし、年寄衆で集めた情報を摺り合わせ、今後の方針を話し合い、今月の評定で巻き返しを狙う。

 優子も愚かではない。

 油壺ヤドカリの台頭や先代当主の専横や二年前の謀叛など、薙原家の政争を何度も経験し、権力を失わない程度に生き延びてきた。敵の土俵で戦うくらいなら、若輩の風下に立つ事もいとわない。

 優子は慢心を捨て去り、新たな政敵の言動を注視する。


「それもそうだな。畏れ多くも无巫女アンラみこ様より御意を授けられている。分家衆は、居住まいを正して拝聴するように」

「――」


 年寄衆は、「初めから左様に申せ」と心の中で愚痴りながらも、神妙な面持ちで背筋を伸ばした。同時に三体の骸骨も姿勢を直したので、二名の女童がビクリと怯える。

 年寄衆や女童の胸中に頓着せず、獺は厳かに告げる。


「本日より人喰いを禁じる。人の売り買いも禁止だ」

「……は?」


 言葉の意味が分からず、年寄衆は阿呆の如く口を開けた。


「狒々神の肉が、餌贄えにえの代わりに成り得ると判明した。饗会きょうらいは、今月から狒々神の肉を使う。もはや食用の奴婢を買い集める必要はない」

「――」


 獺の話を受け止めきれず、分家衆は返す言葉を失う。


「何か言え」

「……狒々神の肉を喰ろうてもよいのか? 戒律は如何いかん?」


 獺に返事を促されて、優子がほうけた様子で尋ねた。


「問題ない。蛇神崇拝に『禍津神マガツガミの肉を喰ろうてはならぬ』という戒律はない。ついでに言えば、『人を喰わなければならぬ』という戒律もない。『同胞を喰ろうてはならぬ』という戒律はあるが……狒々神は、我々の同胞ではない」

「……」


 蛇孕神社の神官が断言するのだから、宗教上の問題はないのだろう。優子は、忌々しそうに口を噤む。


「加えて油壺家に新たな使命が与えられた」


 無形の衝撃から立ち直れない分家衆に、獺が追い討ちを掛けるように言う。


「お前達が差配する野伏や人商人ひとあきびとを蛇孕村に送り込め」

「な……何故?」


 未だに呆然とする油壺家の当主に代わり、優子が掠れた声で尋ねた。


「人の売り買いを禁じるわけだからな。油壺家の仕事も減るだろう。それに外界の野伏も人商人も使い道がなくなった。野伏や人商人を蛇孕村に集め、『職人集落』へ続く道を拓く為の人夫にする」

「難民の代わりに、野伏や人商人を使うと?」

「そうだ。これは本家が主導する事業だ。ついえは、本家が負担する」


 先代当主が存命の頃、蛇孕村の開墾事業を進める為、戦乱を逃れた甲信の難民を呼び集め、薙原家の都合の良いように使い潰した。今度は、蛇孕村と『職人集落』を繋ぐ道を作る為、野伏や人商人を呼び集めて使い潰すという。


「ま……待て! 否、お待ちあれ。お待ちたもう」


 油壺家の当主が、何度も言葉遣いを直し、慌てて獺と優子の会話に割り込んできた。

 今の符条は、蛇神より神意を託された使者。迂闊に乱暴な物言いをすれば、比喩表現ではなく、本当に首を飛ばされる。しかも厄介な事に、不敬罪に当たるかどうかを決めるのは、符条ではなくマリアだ。今も蛇孕神社のどこかで分家衆の会合を聴き、分家衆の頭の中を覗き、その時の気分で首を刎ねるかどうかを決めている。分家衆は、発言だけではなく、思考にも気を配らなければならない。

 命懸けの圧迫面接ならぬ圧迫会合。

 年寄衆の寿命が、刻一刻と削られていきそうである。


「野伏や人商人は、油壺家の家来に非ず。儂らの指図に従うかどうか……」


 油壺家の当主の懸念は、意外に当を得ている。

 関東の裏社会を支配する油壺家も、野伏や人商人を武力で従えているわけではない。無法者達を金銭で動かしているだけなのだ。武家の如く御恩や奉公もなく、野伏や人商人が拒めば、油壺家も無理強いはできない。


「安心しろ。油壺家が、野伏や人商人を説き伏せる必要はない。是非を問わず、片っ端から『惣転移そうてんい』で蛇孕村に送り込め。後は无巫女アンラみこ様が、御自身の手でなんとかするそうだ」

「なんと……」


 油壺家の当主が唖然とする。

 わざわざマリアが、聖呪で野伏や人商人を洗脳し、道普請の人夫に造り替えるという。


「取り敢えず、今年中に千人ほど集めてくれ。道普請の差配は、油壺家に一任する」

「本家主導の事業を油壺家に任せて頂けると?」

「本来であれば、墨川家に任せるべきであろうが……病人や赤子は使えないだろう。それゆえ、道普請は油壺家に任せるとの由。不服か?」

「不服など……滅相もなき事。无巫女アンラみこ様より斯様な大任を仰せつけられ、恐悦至極に存じまする。无巫女アンラみこ様の御下命、謹んでお受け致しまする」


 急に油壺家の当主がへりくだり、獺に頭を垂れた。

 頭の中で算盤を弾いた結果、外界の野伏や人商人を差配するより、本家の事業に食い込む方が、油壺家の権益拡大に繋がると気づいたのだ。蛇孕村と『職人集落』を繋ぐ道普請は、薙原本家が費用を負担する。流石に露骨な中抜きで懐を潤す事はできないが、必ず道普請の予算は余る。本家主導の事業で予算が足りなくなるなど、本家の威信に関わるからだ。加えて人夫は、マリアに洗脳された野伏や人商人。本家も油壺家も手当を負担しなくて済む。難民に開墾事業を遣らせた時と同様、衣食住や道普請の道具を揃えれば終わり。否、墨川家が使い物にならないので、外界より道普請の専門家を招く必要がある。然し道普請の専門家も、マリアが洗脳するわけで……手抜き工事などしなくても、相当な額の費用が残る。費用の残りは、役料という名目で油壺家の台所に収まる。言葉通りの役得だ。序でに道普請を完遂すれば、本家より褒賞を賜り、濡れ手に粟の大儲け。油壺家の当主でなくても、ほくそ笑まずにいられない。

 優子は、符条と油壺の遣り取りを見ながら、顔が渋くなるのを感じた。


 なんじゃ、この茶番は?

 油壺家を年寄衆より引き抜く為の策か?

 誰が斯様な絵を描いた?


 獺の話は、優子の知る符条らしくない。誰か別人が獺の口を借りて、想定通りに答弁しているかのようだ。

 蛇神の神意という体裁を整えているが、マリアが些事に拘る筈がない。蛇孕村と『職人集落』を繋ぐ道普請に、関心を寄せる筈がないのだ。然し符条がマリアに吹き込んだとも考えにくい。優子の知る符条は、薙原家の政争に深入りせず、中立という立場に固執する女。自分が前面に出て、本家主導の政策を進めるなど考えづらい。

 抑も蛇孕村と『職人集落』を道で繋いで、本家に何の得があるのか?

 『職人集落』で生産された物は、油壺家の妖術で蛇孕村に送り込まれる。逆も然りで、何の問題も起きていない。

 蛇孕村の周囲に点在する『職人集落』は、陸の孤島の如き場所。蛇孕村と『職人集落』を道で繋げば、住民同士の交流も盛んとなろう。交易や物流もはかどり、今より国内総生産も上がる。優子にもそれは分かるが……本家が費用を負担してまでやるような事か?

 蛇孕村や『職人集落』の住民は、薙原家が所有する家畜。

 年寄衆の頭の中では、牛馬の如き存在だ。

 否、牛や馬より待遇は良い。牛馬と違い、人は経済活動を行う。薙原家の管理下で、生産や所得や支出を担い、国内総生産を増やしてくれる。雅東がとう流初代宗家が『三好経世論』の写本を持ち込んだ為、薙原家が支配する人間の価値が高まり、『分家衆は、本家の許しを得ずに住民を殺してはならない』という村掟が定められた。然し蛇孕村や『職人集落』の住民の地位が向上したわけではない。人間の集落で『畑仕事に使うから、無闇に牛馬を殺してはならない』という村掟を定めても、飢饉で食糧不足に陥れば、牛馬を絞めて喰らうだろう。同様に薙原家の年寄衆は、餌贄えにえ不足に陥れば、本家の許しを得て、蛇孕村の住民を喰い殺す。所詮は人間。利用価値が高まろうと、家畜は家畜に過ぎない。家畜の為に薙原家が――それも本家が身銭を切るなど、優子には信じ難い事だ。是非を語る前に、本当に意味が分からない。

 符条の話は、年寄衆の価値観に当て嵌めると、「馬小屋を新しく造り直せ。本家が費用を出すので、分家衆に金銭的な負担はない。投資も領内に限定する為、国内総生産も上がる」と断言しているに等しい。

 たちが悪い事に、瑕疵かし陥穽かんせいもない。

 非を鳴らす要素が、殆ど見当たらないのだ。

 本家が些事に関わるべからず、と難癖をつけたい処だが、道普請は无巫女アンラみこの意志。優子も神意に逆らい、首を刎ねられたくはない。抑も分家衆が損をする事もなく、油壺家は道普請で利益を貪るくらいだ。油壺家は、年寄衆を離脱してでも、道普請の利益に食いついて離さないだろう。

 即ち此度の策は、敵対派閥の解体が狙い――とも言い切れなかった。本家から見た時、費用対効果を考慮していないからだ。敵対派閥に属する者を寝返らせる為に、本家が身銭を吐き出していたら、やがて本家の台所が保たなくなる。斯様な奇策は、一度しか使えない。餌贄えにえの供給という役目を奪い取り、政治的な影響力を低下させた油壺家を金銭で絡め取り……本家に如何なる利益があるというのか?

 裏で糸を引く人物の狙いが読めない。

 先代当主の狙いは読みやすかった。

 戦乱から逃れてきた難民を集め、蛇孕村で開墾事業を行い、作物の生産量を増やし、米という外貨を手に入れる。戦国大名に米を貸し付け、利子で借書を買い漁り、借書の転売で金や銀などを稼ぐという寸法だ。経済政策でも財政政策でもなんでもない。「博打で外貨を増やしたい」と騒いでいるだけだ。仮に成功したとしても、先代当主や中老衆の立場が強くなり、相対的に年寄衆の立場が弱くなる。ゆえに年寄衆は、先代当主の政策に反発した。対外債権の利益を貪る中老衆になびかず、「御家の為」という大義名分を掲げ、一致団結して抗う事ができた。

 然し此度は違う。

 野伏や人商人の事を考えなければ、非の打ち所のない経済政策だ。何より无巫女アンラみこの下知だ。年寄衆が抗う理由も方法もなく、唯々諾々と裏の読めない相手の思い通りに踊らなければならない。

 優子は確信していた。マリアや符条ではなく、別の誰かの意志が働いている。人喰いらしからぬ考え方をする誰か。妖怪と根本的に価値観が違う誰か。狒々神討伐を成し遂げた誰か。餌贄えにえの代替物を簡単に発見する誰か。「世の為、人の為」とか「『共同体みんな』の為」とか、真顔で言い出す誰か。

 優子は、消去法で当たりをつけていたが……どうしても認めたくなかった。油壺ヤドカリに顎で扱き使われても堪えられる。先代当主の専横も、一時的には認めよう。おゆらの暴走も、御家の存続の為なら止むを得ない。然し男に出し抜かれるなど、屈辱で腸が煮えくり返る程度では済まない。雅東がとう流初代宗家に武力で後れを取るなら、当人の強さを知る優子も納得しよう。だが、幼弱な男子に権力争いで敗れるなど、断じて認められない。憎悪が血管を駆け巡り、目と耳から血を出して憤死しそうだ。


 有り得ぬ。

 断じて有り得ぬ。

 此度の件に、奏様は関与しておらぬ。


 左様に決めつけないと、奏に対する疑念を止められなくなる。无巫女アンラみこが溺愛する許嫁に疑念を抱くと、蛇孕村の広場で首を晒しかねない。己の命を守る為にも、自我の崩壊を防ぐ為にも、優子は思考を放棄し始めていた。

 ゆえに獺の次の言葉は、優子の耳にすんなりと入った。


「道普請の件は、分家衆も承知したな。ならば、もう一つの御下命を伝える」

「……?」

无巫女アンラみこ様曰く――アンラの予言は、初代の无巫女アンラみこが考えた作り話。アンラの女神が現世うつしよに降臨されたのは、蛇神様の御意志。師府シフの王が生まれた理由は……无巫女アンラみこ様も承知していない。おそらく偶然だそうだ。二度とアンラの予言に惑わされないように」

「……」


 無言だ。

 痛々しい沈黙が、公用の間に満ちて溢れた。


「ひ……ひひひ。ひーひっひっひ!」


 分家衆が獺の話を咀嚼する前に、優子が頓狂な笑声を発した。


たり! 為たりじゃ!」

「ヒトデ婆然り、お前然り……今日は、老婆がよく笑う。猛暑で頭をやられたか?」


 邪悪な笑みを浮かべる優子に、獺は冷たい視線を向けた。

 獺だけではない。年寄衆も女童も、優子の唐突な豹変を理解できず、疑念の眼差しを向けていた。


「頭をやられたのは、お主じゃ! 否、これも狙い通りか?」

「……」

「ようやくお主の魂胆が読めたぞ! 无巫女アンラみこ様の御下命を曲解し、分家衆を己の意のままに動かそうなど、蛇孕神社の神官にあるまじき所業! 恥を知れい!」


 圧迫会合を強いられた憎悪や、符条家の風下に立たされた屈辱を吐き出すように、獺の言動を痛烈に非難した。


「御下命を曲解? 私が嘘を吐いていると言いたいのか?」

「差に非ず。お主もそこまで愚かではあるまい。アンラの予言は、初代の无巫女アンラみこ様が考えた作り話。アンラの女神が現世に降臨されたのは、蛇神様の御意志。師府シフの王が生まれた理由は……ひひひひ、偶然か。成程、无巫女アンラみこ様が左様に申したのであれば、全て事実なのであろう。然して斯様な事に、如何なる意味があろう」

「……」

「儂らは、予言を半ばまで達成した。本家に禍津神マガツガミの血を混ぜ合わせ、蛇神様を現世に受肉させたのじゃ。先祖より託された使命が――八百年に及ぶ使命が、儂らの代で果たされようとしておる。左様な事は、お主が誰よりも存じておろう」

「符条家と年寄衆の盟約を破る気か?」

「先に盟約に破ったのは、符条家じゃあ! 私利私欲の為にアンラの予言を汚し、畏れ多くも政争の道具に使おうとした! 符条巴は、薙原家の裏切り者じゃあ!」


 耳障りなほど甲高い声を挙げて、小枝の如き指を向けた。

 預言の成就を願う初代の符条家当主は、当時の年寄衆を言葉巧みに手懐け、蟲毒の秘術で召喚した禍津神マガツガミを使い、本家の娘に神の血を引く子を孕ませた。符条家と年寄衆は、蛇神を現世に受肉させる為、八百年の間に十二度も同じ事を繰り返し、マリアという超越者チートを造り出した。預言の真偽に関わらず、薙原家が八百年も掛けて達成した偉業だ。それを蛇孕神社の神官に歪められるなど、優子には許し難い事だった。

 加えて符条家と年寄衆は、アンラの予言に関して盟約を結んでいる。

 符条家は、アンラの予言を政争の道具に使わない。「アンラの予言を成就させる為」という名目で、薙原家の権力争いに禍津神マガツガミを使われると、他の分家衆は手も足も出なくなる。それゆえ、符条家は政治的に中立。当代の无巫女アンラみこが本家当主を兼任したり、先代の无巫女アンラみこを人質にされたり……いくつかの例外もあるが、薙原家の政に干渉しない事。特にアンラの予言を政争の道具に使わないと、符条家と年寄衆の間で取り決めている。

 他にも他言無用の取り込めも存在する。

 禍津神マガツガミの召喚など、全ての蛇神の使徒に知らせても、符条家や年寄衆に良い事など何もない。ましてや本家の娘と禍津神マガツガミを交配させていたなど、事情を知らない者達に知られたらどうなるか。本家に仇成す所業――と非を鳴らすまでもなく、逆心ぎゃくしんとがで粛清される。ゆえに他言無用。双方が取り決めを破れば、毒島家の妖術――『呪詛蛭じゅそびる』が発動し、肉体が腐り果てて死んでしまう。

 優子は公の場で秘事を打ち明けて、他言無用の取り決めを破った。然し先に取り決めを破ったのは、優子ではなく獺だ。実際、優子が秘事を打ち明けても、『呪詛蛭じゅそびる』が発動していない。アンラの予言の話を始めた時点で、獺が取り決めを破り、双方の盟約が無効になったのだ。獺の本体が腐り果てて死なない理由は、単純にマリアが聖呪で『呪詛蛭じゅそびる』を解除していたのだろう。裏が読めれば、実に簡単な話だった。優子が思わず笑い出すのも無理からぬ事か。

 さらに優子は、勝ち筋が見えている。

 アンラの予言が作り話かどうかなど、些末な問題に過ぎない。すでに歴代の符条家当主や年寄衆が望んだ通り、アンラの女神――超越者チートが現世に降臨しているからだ。後はマリアと奏が夫婦めおとになれば、予言を成就できる。マリアと奏の間に、人の子が生まれるかどうかなど、年寄衆の与り知らぬ事だ。人間が生まれようが、妖怪が生まれようが、年寄衆はどちらでも構わない。

 加えて秘事を打ち明けても、今の薙原家に年寄衆の非を鳴らせる者がいない。おゆらは座敷牢の中。獺は共犯者の娘。先程から無言を貫く千鶴は、これから母親に指示を仰ぐのか。マリアは、薙原家の権力争いに興味を持たない。奏が裏で糸を引いていたとしても、男子は評定にも会合にも出席できない。

 年寄衆が開き直ろうと、誰も咎められないのだ。

 優子は、情報収集から反転攻勢に方針を切り替えていた。この場で符条家を叩き潰し、年寄衆の権勢を高める。


「そ……そうじゃ! 符条巴は裏切り者じゃ!」

此奴こやつは、先祖より託された使命を軽侮けいぶしておる!」

「蛇孕神社の神官にあるまじき振る舞い! 薙原家に仇成す所業ぞ!」


 遅ればせながら、優子が乱心したわけではなく、符条家を追い落とす為に罵倒していると気づき、年寄衆が慌てて優子と足並みを揃える。


「……『呪詛蛭じゅそびる』が発動しないからな。双方の盟約は、破棄されたと考えるべきだろう。寧ろ遅過ぎたくらいだ。これで私も下らない取り決めに縛られなくて済む」


 年寄衆に罵倒されても、どこ吹く風と言わんばかりに、獺は平然と言った。


「話を逸らすな! たとえ盟約が破棄されようと、アンラの予言を政争の道具に使うなど許し難し!」

禍津神マガツガミと妖怪を交わらせても、子は成せないそうだ」

「斯様な騒動を引き起こし、先祖伝来の使命を貶めた責、如何にして――今、なんと申した?」


 獺の脈絡のない発言が、優子の叱責を遮った。


「耳が遠くなかったのか? 禍津神マガツガミと妖怪を交わらせても、子は成せないそうだ」

「騙りを申すな。お主の申す通りであれば、とうに本家の血が絶えておるわ。儂を騙りで謀ろうなど――」

「お前は、无巫女アンラみこ様の御言葉を騙りというか」

无巫女アンラみこ様が、左様な戯言を申すわけがない!」

无巫女アンラみこ様曰く――禍津神マガツガミと妖怪では、種が違い過ぎるそうだ。人と猿が子を成せないように、禍津神マガツガミと妖怪の間に、子が生まれる事はない」

「――」

「初代の符条家当主と当時の年寄衆が暴走し、強引に禍津神マガツガミと本家の娘を交わらせた。然し本家の娘が、禍津神マガツガミの子を宿す事はなかった。骨折り損の草臥くたびれ儲けでは済まない。本家に仇成す所業だ。当時の御本家は、謀叛人を処断しようとしたが……熟慮の末に思い留まった。全ての謀叛人を処断すると、蛇神の使徒を三分の一も失う。運が悪い事に富士山の噴火も重なり、薙原家も混乱していたのだ」


 貞観じょうがん六年から貞観八年に掛けて、富士山は何度も火を噴いている。溶岩流が富士山北麓の大森林地帯を焼き払い、剗海せのうみという広大な湖の大半を埋め尽くした。その後、溶岩流の上に時を経て植生が回復し、針葉樹林を中心とした原生林――青木ヶ原樹海が生まれた。

 貞観大噴火と名付けられた噴火活動は、関東にも多大な被害をもたらした。蛇孕村に火山灰が降り注ぎ、武蔵国まで避難民が押し寄せてきたのだ。火山灰の所為で作物の収穫量が減り、蛇孕村の近くまで避難民が近づいてくる。蛇神の使徒は、『毒蛾繚乱どくがりょうらん』で避難民を洗脳して追い払うだけではなく、武蔵国の国衙こくがや寺社を襲撃し、餌贄えにえや食料を略奪しなければならない。本家も多忙を極めており、符条家や年寄衆を裁く余裕がなかった。


「御本家は、御家の醜聞を隠すと決めた。謀叛人に他言無用を誓わせ、毒島家の妖術で言動を縛りつけた。謀叛人が誓約を破れば、自動的に『呪詛蛭じゅそびる』が発動し、勝手に口封じが行われる。肉体が腐り果てて死ぬから、毒島家の当主に確認せずとも、誰が誓約を破ったのかも分かる。これが符条家と年寄衆が結んだ盟約の正体だ」

「馬鹿な……ならば、本家の血筋は?」

「謀叛人の処罰を決めた後で、本家の娘と外界の男を結び合わせた。妖怪と人間の間で子を成せる事は、お前達も自分の身体で実証しただろう?」

「お……お主の話は、信を置けぬ」


 逆襲を喰らった優子は、負け惜しみのような事を言い出した。

 他に返す言葉が見当たらない。


「仮に……仮にじゃ。お主の話が、真実だとしよう。何故、儂らの先祖は、禍津神マガツガミの召喚を続けたのじゃ? 禍津神マガツガミと妖怪の間に子が成せないのであれば、八百年も同じ事を繰り返す意味はなかろう」


 優子が黙り込んだ為、油壺家の当主が口を挟む。


「己が犯した過ちを正当化する為だ」

「何?」

「当時の年寄衆は、他の分家衆から爪弾きにされていたという。それもそうだ。何も知らない者達からすれば、『富士の噴火で多忙を極める中、御本家が激怒するほどの失態を犯し、毒島家の妖術で言動を縛られた者達』だからな。肩身の狭い思いをしながら、天寿を全うして終わる筈が……不運が三つも重なった」

「不運?」

「当時の御本家が早世したのだ。『残鬼無限ざんきむげん』が発動していないから、単純に寿命が短かかったのだろう。御本家が死に、謀叛人が生き残った。死人に口なし。謀叛人を止められる者がいなくなった」

「……」

「二つ目の不運は、毒島家の当主が謀叛人に加えられていた事だ。御本家が遠行すれば、自分達に掛けた妖術を解除する。謀叛人も口を滑らせたくらいで死にたくないだろう」

「……」

「三つ目の不運は、初代の符条家当主……私の先祖だ。愚かな事に、アンラの予言を盲信する先祖は、一度の失敗で諦めきれなかった。同じ事を何度も繰り返せば、禍津神マガツガミと妖怪の間に子が生まれると信じていたのだ。私の先祖は、是が非でもアンラの予言を成就させたい。当時の年寄衆は、自分達の犯した過ちを正当化したい。双方の利害が一致する」


 油壺家の当主が、ごくりと唾を飲み込む。


「『呪詛蛭じゅそびる』を解除した謀叛人は、新しい年寄衆に都合の良い話を吹き込む。新しい年寄衆は、再び符条家の当主と手を組み、禍津神マガツガミに本家の娘を捧げ……それでも神の子など生まれないから、外界から拐かしてきた男と結ばせ、本家の血を絶やす事なく、都合の悪い事実を伏せる。これを八百年の間に、十二度も繰り返してきたわけだ」

「……」

「途中から先祖が犯した過ちという事実も知らず、本気でアンラの予言を成就させる為と思い込み、先祖と同じ過ちを繰り返し……自分達の失敗を認めず、符条家と年寄衆の間で他言無用を取り決め、アンラの予言を政道の道具に使わないと誓約し、『呪詛蛭じゅそびる』で互いの言動を縛りつけ……何の為に、先祖が『呪詛蛭じゅそびる』を解除したのか分からんな」

「……」

「先祖の頃から、我々は何も変わらない。无巫女アンラみこ様の言葉を借りるなら、度し難い惰弱。おゆらの言葉を借りるなら、救い難い俗物だ。人間を見下してきた我々は、人間と同程度の存在だった。それだけの事だよ」


 蛇孕神社の神官が、他人事のように言う。

 妖怪も人間と同程度。

 薙原家に対する恨みを捨てきれない獺からすれば、人間の方がマシと言いたい処だが、残念ながら人間も妖怪と大差がない。

 鎌倉執権家は、『商品貨幣論』を信じ込み、執拗に『緊縮財政』を推し進め、御家人を金銭的に追い詰めた。その結果、楠木正成くすのきまさしげの討伐に手間取り、新田にった義貞よしさだ足利あしかが尊氏たかうじに見限られて、鎌倉執権家は滅亡した。

 室町将軍家も同様だ。「税は財源」という虚構を信じ込み、執拗に『緊縮財政』を推し進め、軍事費の抑制に努めた挙句、徳政一揆勢の鎮圧に失敗した。侍所の武士団が、素人の百姓に屈したのだ。人手不足と兵糧不足を解消できず、合戦の途中で矢が尽きるような武士に、何処どこの誰が従うだろう。矢銭も集められない足利義昭あしかがよしあきが、羽振りの良い織田信長を頼り、利用されるだけ利用された挙句、京師から追い出されたのも、当然の成り行きである。

 いつの時代も変わらない。

 権力者に都合の良い話が広まり、権力者に都合の悪い話は伏せられる。質が悪い事に、権力者も世代を重ねると、「情報戦プロパガンタの一環」という意識がなくなり、先祖伝来の虚構を事実と思い込む。虚構を信じ込む権力者は、都合の悪い事実を認めなくなる。民が苦しもうが、自分が苦しもうが、虚構に基づいて判断を下す為、周囲を巻き込んで自滅するまで終わらない。悪魔崇拝者であろうとなかろうと、『共同体みんな』の存続を望むうえで、迷惑極まりない存在である。

 然し薙原家は、鎌倉執権家や室町将軍家より運が良いようで、都合の悪い事実から目を逸らさず、問題の改善に取り組む人材が現れた。


「……騙りじゃ」


 優子は都合の悪い事実を認めず、同じ話を蒸し返す。


禍津神マガミガミと妖怪の間に子は生まれる。あの時もそうじゃ。男の子種など借りなかった」

「あの時? あの時とは、十八年前の事か?」

「――ッ!?」


 優子を除く年寄衆が、途端に顔色を変えた。


「沙耶が本家の当主に就任したばかりの頃、何やら難しい病をわずらい、半月ほど御屋敷に引き籠もったな。私や伽耶が見舞いに訪れると、年寄衆に理由をつけて追い返された。あの時、御先代を御屋敷の地下牢に閉じ込めていたな。私の母と手を結び、禍津神マガツガミに沙耶を……御先代を生贄に捧げて、アンラの女神を生み出そうとした」

アンラの女神は、現世うつしよに降臨したではないか! 我々が成してきた所業は、決して無益に非ず!」

「同じ事を何度も言わせるな。蛇神様が現出したのは、蛇神様の御意志。これも无巫女アンラみこ様曰く――女性であれば、人間でも妖怪でも構わないそうだ。子種などなくても、適当な女のはらを借りて受肉する。それで何となく、禍津神マガミガミに陵辱された娘の胎を借り、現世に受肉したそうだ」

「――」

「蛇神様は、薙原家の子孫に拘る必要がなかった。別に唐人でも南蛮人でも紅毛人こうもうじんでもよかった。何となく御先代の胎から生まれたそうだ」

「畢竟、当代の无巫女アンラみこ様に父御ててごはおらぬと?」


 朽木家の当主が、恐る恐る尋ねた。


「そうだ」

「――ッ!?」


 油壺家や毒島家の当主も絶句し、青褪た顔で項垂れた。

 年寄衆は、すでに詰んでいる。

 此処から巻き返す術はない。


「か……騙りじゃあ! 符条の話は、全て騙りじゃあ!」


 双眸に狂気の色を宿し、優子は立ち上がって叫んだ。


「儂らは、先祖より託された使命を果たしたのじゃあ! これを否定する者は、薙原家に仇成す者じゃあ! 謀叛人は符条じゃあ!」


 見苦しく喚き散らす優子に、獺は冷たい視線を向けた。


「お前達が、事実を如何に受け止めようと構わん。抑もお前達の理解など求めていない。粛々と謀反人を罰するだけだ」

「お主が――符条家が、儂らを罰すると申すか!」

「勿論、无巫女アンラみこ様より授けられた御下命だ。十八年前の事件に関与した者達を罰する。油壺ヤドカリや肥沼ホタテや私の母など、すでに主犯格は死んでいる。然し共犯者は、此度の会合に参加しているな」

「――ッ!!」

无巫女アンラみこ様に代わり、裁きを申し渡す。櫻井優子、油壺あやの、朽木るい、毒島ぶすじまなな。以上の四名は、当主の座を娘に譲り渡せ。加えて今後一切、薙原家の政に関わらぬ事。以上だ」


 油壺家の当主――油壺あやのが、恐る恐る顔を上げた。


「……隠居すればよいのか?」

「薙原家の政に関わらないと、起請文を書いて貰う。誓約を破れば、腸が腐り果てて死ぬだろう。命が惜しいなら、静かに余生を送るべきだな」

「……何とも慈悲深きお裁き。无巫女アンラみこ様の御温情に深く感謝致しまする」


 あやのは黙考した後、深々と獺に頭を下げた。

 他の年寄衆も斬首を覚悟していただけに、隠居という軽い罰に驚きながらも、命の保証を得て安堵する。

 然し錯乱した優子は、声高に叫び続けた。


无巫女アンラみこ様が、儂らに慈悲を示すものか! やはり奏様じゃあ! 奏様が、儂らを嵌めたのじゃあ!」

「や……止めよ。櫻井、控えい」


 あやのが縋りついて制止しようとするが、乱心者は止まらない。


男子おのこに権威を簒奪されるなど、斯様な屈辱があるものか! 男に屈するくらいなら、死んだ方が――」


 優子の首から下が消え失せた。


 優子の頭部が、ごんと板張りの床に落ちる。


「――ッ!?」

「ひッ――」


 年寄衆は仰天し、女童は悲鳴を上げた。

 斯様な怪異を事もなげに引き起こせる者は、薙原家に一柱しか存在しない。


かまびすしい」


 公用の間の上座に、超越者チートが泰然と佇んでいた。

 无巫女アンラみこの礼装を着ているが、玲瓏な美貌を鬼面で隠していない。耳栓の如き物を外しながら、金色に輝く双眸で分家衆を睥睨する。


平伏へいふくせよ」


 獺が非礼を指摘すると、額を床に叩きつけるような勢いで平伏した。三体の骸骨も含めて、一斉に分家衆が平伏する様は、何とも滑稽である。


「実に喧しいわ。自室でイヤホンをしながら、YouT**eのゲーム実況を収録していたのだけれど。お前達の思考が、私の部屋まで届いてくるのよ。お陰で『キャプ○ン翼Ⅲ』に専念できない。テオ○ール・カペ○マンのサイドワ○ンダーで、味方が五人も吹き飛ばされたのは、お前達の所為かしら……と責任転嫁したくなるくらいよ。蛇孕神社で会合を行うのであれば、明鏡止水を心懸けなさい」


 マリアの声音には、僅かな怒気が含まれていた。

 超越者チートが分家衆に抱く怒気は、聞き分けのない童を叱る程度のものだ。然し僅かな怒気が、毒素の如く体内に入り込んでくる。禍々しい妖気が鼻孔から喉を通り、五臓六腑に染み込んでくるのだ。年寄衆も女童も吐き気を堪え、全身から冷や汗を流しながら、超越者チートの威圧に服する。


「……年寄衆は殺すな、と言われていた筈だが」


 総身を震わせる分家衆を尻目に、獺はマリアを非難した。


「私は誰も殺していないわ。喧しいから、首から下を余所に移しただけよ」


 マリアは冷たい声音で言いながら、板張りの床を指差す。

 床に落ちた優子の頭部が、未だに動き続けていた。両目を血走らせ、ぱくぱくと口を動かし、無音の喚声を発している。加えて優子の首から、一滴も血が流れていない。


「『惣転移そうてんい』か?」

「珍しく正解よ。『惣転移そうてんい』を極めると、物体を細かく切り分けて、空間転移で一つずつ飛ばせるようになるの。その惰弱……名は覚えていないけれど、惰弱の首から下を本家屋敷の地下牢に飛ばしたわ」

「優子は生きているのか?」

「頭部と胴体が切り離されているわけだから。暫く放置しておけば、勝手に酸素欠乏症で死ぬわ。でも頭部と胴体を繋ぎ合わせれば――」


 マリアが左手の指を鳴らすと、忽然と優子の頭部が消えた。


「惰弱も助かるというわけね」


 如何なる因果か見当もつかないが――頭部を本家屋敷の地下牢に飛ばし、胴体と繋ぎ合わせたのだろう。もはや分家衆は、因果を想起する事すら放棄していた。


「それより符条巴。会合は小半刻で終わらせると聞いていたのだけれど……あと七分弱で小半刻を過ぎてしまうわ。奏ふうに急かすなら、『諸葛孔明しょかつこうめいの如くなるはや』で終わらせなければならない」


 左手首に巻いた腕時計を見遣り、右手の人差し指をくるくると回す。

 因みにイヤホンも腕時計もPCもモニターも収録用機材も、全てマリアが暇潰しに開発した物である。YouT**eと『キャプ○ン翼Ⅲ』は、何とも言い難い。


「すでに終わった。年寄衆は、此方の要求を呑んだ」

「いいえ、まだ終わっていないわ。奏は、私にこう言ったの。年寄衆には、死なない程度に罰を与えてと。だから死なない程度に罰を与える」


 マリアが左手を前方にかざすと、年寄衆の身体が宙に浮いた。


「ひっ――」

「な……何をッ!?」


 マリアが左手を握り締めると、三名の老婆が背を合わせ、不可視の鎖で束縛された。バタバタと手足を動かすが、超越者チートの聖呪に抗う術はない。


「お前達には、全く関係のない事だけれど。九山八海を現世うつしよから消滅させたの」


 空中で身悶える老婆達を尻目に、マリアは冷たい声音で言う。


「符条巴が、蛇孕神社の庭石を眷属に変えたから。私より目立とうとするなんて許せないわ。『俺TUEEEE!!』の演出も兼ねて、九山八海を現世から消滅させたのよ」

「そんな理由で、九山八海を消滅させたのか……」


 獺が呆れながら言うも、超越者チートは傲然と聞き流す。


「然し今は、自分の行いを反省しているわ。久しぶりに、奏に怒られたのよ。その時の気分で、九山八海を現世から消さないでと。天下の名物は、大切に扱おうね……とも言われたわ。だから私は、己の短慮を猛省し、二度と同じ過ちを繰り返さないと、『傾奇ナル中二病 かなたん ウエディングドレス 1/7スケール  PVC製 塗装済み 完成品』の前で誓った。そして気づいたのよ。天下の名物を現世から消して怒られたのだから、天下の名物を自分で創れば、奏に褒めて貰えると」

「ひいいいいッ!!」


 干涸ひからびた年寄衆の身体が、緑色の光を放つ。

 第二の聖呪――『傲慢ゴウマンナル蒼蛇想アオノヘビオモイ』の応用であろう。皺だらけの肉体に限らず、小袖や打掛も緑色に輝き、徐々に石化しているのだ。


「御慈悲を……どうか御慈悲を……」


 あやのが涙を流して懇願するが――


「ああ……それは天丼ね。同じギャグやボケを二度、三度と繰り返す事で、笑いを取る手法よ。お前達の願いを叶える理由はないのだけれど。きちんと伏線は回収しておくわ」


 超越者チートに泣き落としなど通用しない。


「――ぐぴっ!? えッ――何これッ!? 食べてええええッ!! 儂の身体を食べてええええッ!! 肉も皮も臓物も残さず、みんなで仲良く食べてええええッ!!」


 訳の分からない事を叫びながら、あやのは緑色に光る石となった。


「九山八海と少し形は違うけれど。これで九山八海二号の完成ね」

「少し?」


 空中に浮かぶ九山八海二号を見遣り、獺は皮肉交じりに言う。

 三名の下半身が端座の姿勢で混ざり合い、上半身が三方に突き出す。年寄衆の顔は絶望で歪み、醜悪な緑光石の石像にしか見えない。


「でも庭に飾りたくないから、本家屋敷の座敷牢に飛ばすわ」


 マリアが左手の指を鳴らすと、今度は九山八海二号が消えた。


「それなら年寄衆を石化するな……」

「残り四分二十一秒。ネタばらしや伏線の回収も済んだ処で、超越者チートが直々に政の話をするわ。惰弱共、一言一句違わず、魂魄に刻みつけなさい」


 獺の突っ込みを無視すると、再び腕時計に視線を送り、平伏す分家衆に宣告する。


「今後、薙原家の政は、奏が取り仕切る」

「――」

「奏は薙原家の現状を憂慮しているわ。外貨準備の積み上げに固執する本家。権益の拡大に逸る分家。誰も彼もが些事に拘り、下々の暮らしに目を向けようとしない。これは許し難い事よ」

「――」


 分家衆は、无巫女アンラみこの直言を無心で拝聴する。

 心の中で「无巫女アンラみこ様に言われても……下々の暮らしなんて、これまで一度も考えた事ないですよね」と突っ込みを入れると、九山八海三号に造り替えられるので、千鶴も女童も明鏡止水を心懸ける。


「奏が望む社会は――私にもよく分からないわ。然し秩序紊乱ちつじょびんらんを望んでいない事だけは確かよ。つまり共同体意識に基づく社会ね。個人は世間(共同体)の役に立ち、世間(共同体)は個人の生命と財産を保障する。御恩と奉公の上位互換。他に何かあるかしら?」

「――」


 平伏す分家衆に訊かれても、何も応えようがない。


「何もないなら結構よ。今月より蛇孕神社は、蛇孕村と『職人集落』に『神符じんぷ』をばらまく」

「おい――」


 奏や符条に何の相談もなく、財政拡大について語り出したので、驚いた獺が止めに入るが、当然の如くマリアは聞く耳を持たない。


「蛇孕村や『職人集落』は、社会関係資本ソーシャルキャピタルだらけだから。基本的に蛇孕神社が通貨をばらまいても、低所得者の所得が増えるだけ。物価上昇率が高まり続けようと、低所得者の負担にならなければ、新たな課税や税率の引き上げなど、貨幣供給の調整を行う必要もなくなる。Demand pull inflation(デマンドプル・インフレ)の蛇孕村も、物価上昇率の制約を高めに設定できるわ」


 マリアの経済政策は、意外に当を得ている。

 薙原本家に仕える下人や『職人集落』で働く職人は、『毒蛾繚乱どくがりょうらん』で操られた傀儡くぐつの如き存在。奴婢と断言して差し支えないが、本家も無償奉仕を強要しているわけではない。僅かながらも禄を授けている。

 下人や職人に微禄を与える理由は、経済政策でもなんでもない。単純に本家の手間を省く為だ。大量に召し抱えた下人や職人の為に、生活必需品を買い揃えるなど面倒臭い。小遣いを遣るから、自分達で必要な物を調達しろ。蛇孕村や『職人集落』の市で、勝手に好きな物を買え――というわけだ。自由意志を持たない者達に『好きな物を買え』というのも奇妙な話だが、経済活動に何の障りもない。下人も職人も、勝手に足りない物を買い集め、勝手に蛇孕村や『職人集落』に銅銭をばらまいている。

 つまり下人や職人の禄を『神符』に替えれば、それだけで彼らの所得が増える。加えて銅銭の代わりに『神符』を支払う為、蛇孕村や『職人集落』の住民の所得も増える。低所得者の所得が増えるので、多少物価が上がろうと、誰も暮らし向きに困る事はない。何の問題もなく、領内は経済成長を続ける。


 高圧経済による好景気が。

 高度経済成長期が。

 伊弉諾イザナギ景気が。

 千代に八千代に続くのである。


「加えて政府支出乗数の高い要素――保険・医療・教育に支出すれば、国内総生産は増えやすい。早く国民皆保険制度や年金制度や医療制度を整えなさい。教育は、義務教育を採用するわ。奏が『寺社に頼らない教育』と話していたから、おそらく学校を造れという事ね。小中高大学……技術者を育成する為に、専門学校も設立するわ」

「――」

「勿論、政府支出乗数の低い分野――防衛や銀行救済を疎かにしない事。君主制であれ、民主制であれ、主権通貨国の経済政策の基本は、『選択と集中は止めろ。費用対効果など考えず、民の役に立つ事は全て遣れ』よ」


 念の為に誤謬を正すと、蛇孕村や『職人集落』に市中銀行は存在しない。


「それと奏は、静謐とか雅量がりょうとか惻隠そくいんとか……抽象概念が大好きよ。定義が曖昧な抽象概念を正確に把握し、薙原家の政に活かしなさい」


 心の中で「定義が曖昧な抽象概念を正確に把握できません」と冷静に呟くと、九山八海三号に造り直されるので、千鶴も女童も明鏡止水を心懸ける。


「残り五十三秒。最後にかなたんの3Dアバターを作り、かなたんをVt**erとしてデビューさせるわ。チャンネル登録者数や動画再生数は、どうでもよいのだけれど。前回の動画のコメント欄で『チーターがまたチートしてるw』とか『チーター、顔真っ赤w』とか『水着でゲームやれ』なんて荒らした惰弱を見返してやらなければならないのよ。だからかなたんをVt**erデビューさせて、惰弱共の度肝を抜いてやるの」

「――」


 心の中で「奏様、アイドル声優を目指したり、Vt**erを目指したり、急に進路が変わって大変ですね」とか「无巫女アンラみこ様、時間が余りましたよね。雑談で時間を潰そうとしてますよね」と突っ込みを入れると、九山八海三号に造り直されるので、千鶴も女童も明鏡止水を心懸ける。

 これが天丼である。


「最後に――奏の意志は、蛇神の神意。奏の意志に逆らうという事は、超越者チートに逆らうという事よ。肝に銘じておきなさい」

「仰せのままに」

「「「仰せのままに」」」


 ヒトデ婆が嗄れた声で応えると、千鶴や女童も追従する。


「三、二、一……時間通り、聊爾りようじなく会合を終えたわ。これが奏の望む政。一滴の血も流さない下克上。穏健な政の改善よ」

「――」


 獺が反論する前に、マリアは姿を消した。

 然し獺が口を挟んだ処で、結果は何も変わらない。

 権力者に都合の良い話が広まり、権力者に都合の悪い話は伏せられる。誰が何と言おうと、超越者チートの言葉が真実として語り継がれ、超越者チートに都合の悪い事実は消えてなくなる。

 おそらく分家衆も、此度の政変を語り継ぐ事はないだろう。初代の符条家当主や当時の年寄衆と同様に、都合の悪い事実は隠す筈だ。

 妖怪も人間と同程度。

 個人の意志など関係なく、延々と同じ過ちを繰り返す。

 超越者チートの宣言通り、此度の会合は聊爾なく終わった。




 言うやに……言うに及ばず


 鼠算……和算の一つで、「ある期間に、鼠がどれだけ増えるか」を計算する問題。或いは、短期間で膨大な数に増えるという意味。初出は、吉田よしだ光由みつよしが著した『塵劫記じんこうき』。吉田光由が生まれたのが、慶長三年(西暦一五九八年)なので、慶長六年(西暦一六〇一年)に鼠算という言葉は存在しない。


 墨川葛……墨川Ⅱの母親


 貞観六年……西暦八六四年


 貞観八年……西暦八六六年


 国衙……日本の律令制に置いて、国司が地方政治を遂行した役所が置かれていた区画。国衙に勤務する官人・役人(国司)や、国衙の領地(国衙領)を「国衙」と呼んだ例もある。


 矢銭……軍資金


 肥沼ホタテ……肥沼家の先々代の当主。ヒトデ婆の娘。


 政府支出乗数……政府の支出を一ドル増やした時に、GDP(国民総所得)が何ドル増えるか、を表す指標。政府支出乗数が一以上なら高く、一未満なら低い。保健医療教育は、三と政府支出乗数が高い。逆に防衛や銀行救済は、一と政府支出乗数が低い。

 然し政府支出乗数が低ければ、政府が支出しなくてよいという事ではない。寧ろ政府支出乗数が低い要素ほど、政府が支出しなければ、国家運営に差し支える。

 例えば、防衛を民間に任せると、「傭兵しか存在しない軍隊」が生まれる為、戦争になれば、敵対勢力に寝返る。銀行救済を民間に任せると、資本家の都合で銀行の統廃合を始める為、企業の連鎖倒産が起こり、失業率が悪化し、治安が悪化する。

 マリアの言う通り、主権通貨国の経済政策の基本は、「選択と集中は止めろ。費用対効果など考えず、民の役に立つ事は全て遣れ」である。


 社会関係資本……ソーシャルキャピタル。社会や地域コミュニティに於ける人々の相互関係や結びつきを支える仕組み。

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