第106話 有頂天
先月の下旬、
偉業も偉業。
しかも薙原家に損害はない。
正確には、篠塚家の護衛衆が二十名近くも命を落としているが、篠塚家が勝手に召し抱えた牢人者である。余所者が何人死のうが、薙原家の損害に入らない。強いて損害を挙げるなら、狒々神討伐の現場――薙原家の共有財産である馬喰峠の木々が倒れた事が、損害と言えば損害か。蛇孕村の半壊程度は覚悟していたので、此度の顛末は奇跡と言う他ない。
幸運は、さらに続く。
分不相応にも
政道を在るべき姿に復す為とはいえ、遊女の血を引く卑しい小娘と手を組むなど、年寄衆も業腹であった。然し先代当主を誅するという絵を描いたのは、
年寄衆が口を挟む余地もなく、符条巴と共に外界の篠塚家や宍戸家と取次を始め、先代当主が決めた経済政策を見直し、年寄衆が熱望する評定も再開したが……全てがおゆらの独壇場であった。
恥知らずな事に、評定が始まる前から「
遅ればせながら危機感を抱いた年寄衆が、おゆらを追い込む謀略を巡らせていた矢先、向こうが勝手に自滅したのだ。
愉快痛快。
畏れ多くも
もはや薙原家に、櫻井優子に取って代わる者は存在しない。狒々神討伐の直後、評定も開かず、マリアが符条家と篠塚家の復帰を決めたが――これも櫻井家の地位を揺るがすほどではない。
確かに符条巴は、年寄衆が認めるほどの人材だ。中老衆という敵対派閥に属していた頃から道理を弁え、年寄衆と中老衆の和解を模索していた。思想や信条も年寄衆に近く、先代の
然し伽耶の死を知らされた巴は、腑抜けの如く落ち込んでいた。
二年前の謀叛の後、年寄衆は『伽耶の死の真相』をおゆらから教えられていた。然し符条に真相を伝えると、彼女の恨みが
年寄衆が教える前に、自力で真実に辿り着き、蛇孕村を飛び出したが……外界に出た事で、現実に気づかされたのだろう。結局、妖怪は妖怪。人を喰らう妖怪が、外界で安穏と暮らせるわけがない。外界で大店を構える篠塚家の先代や、野伏や
千鶴は、母親の傀儡。先代の指図がなければ、何もできない愚か者だ。女童達は、幼弱過ぎて論外である。
即ち年寄衆の筆頭である優子こそが、薙原家の第一人者なのだ。
若い頃は油壺ヤドカリに顎で扱き使われ、壮年期を先代当主との政争で使い潰し、悠木家の小娘の暴走に頭を悩ませ――齢七十二にして、ようやく薙原家の権力を手に入れた。薙原家の家宰という立場を取り戻し、櫻井家の悲願を達成したのだ。
優子は予期せぬ幸運に喜びながらも、年寄衆に根回しを進めていた。今月の評定で己の地位を確立し、年寄衆の権勢を誇示する為である。
田中家の妖術に頼らなくても、眷属を使えば遠方の相手と対話できるので、屋敷に引き篭もりながら、今後の方針を話し合った。
今月の評定の議題は、人事と祝典だ。
突然、おゆらが失脚した為、本家女中頭と奏の世話役が空席なのだ。本家女中頭は、優子の娘を捉えるとして、問題は奏の世話役だ。
男性を軽視する薙原家に於いて、
然し奏の世話役は、好き嫌いで選べるような役職ではない。
先代の
別に奏は、おゆらの色仕掛けで骨抜きにされたわけではない。然し年寄衆は、二人を男女の仲と思い込んでいる。面倒臭い事に、過程を省いて結果だけ語ると、年寄衆の誤解とも言い切れない。さらにややこしい事に、奏の寝所の世話をする者は、マリアに重宝される。なぜか
とにかく奏の世話役を巡り、年寄衆の中で意見が分かれている。優子を除く全ての年寄衆が、「我が孫を奏様の世話役に」と主張しており、欲深い老婆達は一歩も退く様子を見せない。誰が選ばれても、他の老婆は納得しないだろう。扱い方を誤ると、派閥の分裂を招きかねない事態だが……これも優子の狙い通りだった。
評定の前日まで揉めに揉めて、最後に優子の鶴の一声で奏の世話役が決まる。これで櫻井家の権勢が、家中に知れ渡るだろう。奏の世話役から外れた老婆達は、不平不満を漏らすであろうが――派閥の筆頭が、派閥の次席を選んで何が悪い。それほど役職が欲しければ、薙原家の家宰である櫻井家に敬意を示し、普段から優子に媚びへつらうべきだ。油壺の
勿論、他の分家衆も櫻井家を軽んじていたわけではない。薙原家は対等・平等・公平を信条とする為、昔ながらの規範を尊重していただけだ。然し油壺ヤドカリや薙原沙耶や悠木ゆらなど、あからさまに権力を行使する者達を見てきた所為で、知らず知らずのうちに優子の思い描く権力者の姿が、織田信長が如き独裁者に近づいていた。
加えて優子だけが、身の程知らずの野心を抱いているわけではない。他の年寄衆も似たような事を考えいるので、ヤドカリが領袖を務めていた頃と比べると、派閥の団結に亀裂が生じている。
それゆえ、若輩のおゆらに傀儡の如く操られていたのだが……欲深い老婆達が、自分達の過ちに気づく事は、未来永劫ないだろう。
偖も偖も。
人事は優子の狙い通りに進められる。
それより問題は、狒々神討伐を祝う祝典である。
まぐれとはいえ、
然し……具体的に何をすればよいのか?
まさか祝宴を催して終わり、というわけにもいくまい。狒々神討伐という偉業を称え、相応の進物を捧げなければならない。或いは、奏の格を上げなければならない。
狒々神討伐という武功に適う格や進物とは何か?
一度目の狒々神討伐の折は、
天下の名物でも差し出すか。
お茶を濁す為に、茶器でも差し出せば……流石に此方の魂胆を気取られよう。然れど当家の権益を差し出すわけにも参らぬ。
やはり他の分家衆の知恵を借りるか。
止むを得ぬ。
優子が屋敷で思考を弄んでいると、
「櫻井様。
蛇孕神社より召喚を命じる使者が訪れた。
孺子……未熟者。青二才。
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