第105話 渡辺朧対塙団右衛門直之(三)

「=3.141592653589……」


 激痛を紛らわせる為に、塙が円周率を諳んじながらうずくまる。

 一方、左拳を突き上げた朧は、揺るぎない勝者の如く佇んでいた。妖艶な美貌は、対手を出し抜いた達成感で満ち溢れている。

 熟練の武芸者といえど、鎧武者の金的を打つ事は難しい。正面から前蹴りを入れたくらいでは、金玉隠しで弾かれてしまう。

 ゆえに朧は、対手の油断を誘った。

 勝利を確信した塙の背後に忍び寄り、太腿の間に左拳を滑り込ませ、確実に金的を打ち上げたのだ。


「見たか、御曹司。是が対槍の心得じゃ」

「……死んだフリで対手を油断させておいて、後ろから急所を狙う事が心得なの?」

「致し方なかろう。御曹司の業前では、この程度の不意打ちしか能わぬ」

「そうかもしれないけど! 対槍の心得でもなんでもないよね! ていうか、これなら相手の武具なんて関係ないじゃん!」

「未熟者でも実行能う術を選んだつもりが……御曹司の好みに合わなんだか。さてはて如何したものか」


 主君に叱られた従者が、厚めの唇に右手を当てて黙考する。


「卑怯者!」


 激痛を耐え抜いた塙が、口角から唾を飛ばす。


「汝が昏倒した際、試し合いの決着はついた! 勝敗が決した後に不意を打つなど、武士として恥ずべき所業! 汝には、武士もののふの誇りはないのか!」

「儂は昏倒しておらぬ」

「――何!?」

節用集せつようしゅうを引いてみよ。昏倒とは、気絶して倒れる事じゃ。儂は地に伏せておったが、気絶しておらぬ」

「騙りを申すな!」

「騙りに非ず。獺殿の術理解説も聞いておったぞ。然れど地に伏せるのも飽いたゆえ、対槍の心得を実演してみせた」

「左様な屁理屈が通じるものか! お主が意識を保ち続けていたかどうかなど、如何に証明するつもりだ!」


 激昂する塙を尻目に、朧は苦笑を浮かべた。


「何故、お主が証明致さぬ」

「なんだと!?」

「畢竟、対手を打ち倒した後、意識の有無を確認せなんだお主が悪い」

「ぐぬぬぬ……!」


 憤慨する塙は、朧に向けて木槍を構えた。


「ならば、今度こそ汝の意識を刈り飛ばしてくれる!」

「流石に二度も地べたを這い蹲りたくないのう」


 朧は木剣を正眼に構えて正対する。

 否、正眼の構えではなかった。

 中段正眼から両手を高く上げて伸ばし、木剣を地面と水平に構えて、対手の水月すいげつに切先を向ける。


雅東がとう流剣術――平正眼ひらせいがんの構え……」


 奏が唖然とした様子で呟いた。


「どうして朧が平正眼の構えを使えるんだ? まだ型稽古で見せてないのに……」


 平正眼の構えは、雅東がとう流剣術――十二之組太刀で伝授される技術である。一之組太刀から十組太刀しか経験していない朧が、如何に平正眼の構えを修得したのか。


「平正眼の構えは、雅東がとう流剣術だけの技術ではない。他流でも別の名で使用されている。ゆえに朧が修得していたも、不思議ではないが……」


 獺の解説に、困惑の色が滲み出ていた。


「平正眼の構えは、荘重雄健そうちょうゆうけんな構えだ。得物と両腕を限界まで前方に伸ばし、対手との間合いを稼ぐ。限界まで間合いを広げた分、対手の攻め手に対応しやすい」


 然し――と獺は続けた。


「言い換えれば、防御一辺倒の構え。先の先を取りにくい為、後の先で返し技や抜き技を狙うしかない。無駄に勝負が長引くだけだぞ。何を考えているのだ?」


 行司役と解説の心配を気に留めず、朧は平正眼の構えを解かない。


「吾輩の業前に臆したか?」

「臆してはおらぬが……御前で行う腕比べ。戯れる他あるまい」

「是は勝負だ!」

「無論、勝負じゃ。然れど命の遣り取りに非ず。ゆえに気持ちが昂ぶらん。場定めを変えてみたが、やはり勝敗に興味を持てぬ。差し当たり、儂が負けなければ、御曹司の面目を潰す事もあるまい」

「……」

「畢竟、お主の槍を捌いておれば、御曹司は引き分けを宣告するであろう。加えて主君に対槍の心得を教授能う。で終いじゃ。なんぞ不都合でもあるか?」


 朧は余裕の表情を崩さず、木槍の間合いから抜け出す。

 言合戦ことばいくさでもなんでもない。

 彼女は、本気で無気力試合を宣言している。奏に木剣で稽古をつけていた時と同じだ。命の遣り取りでないなら、試合の勝敗に拘る理由もない。


「渡辺――」


 左半身で腰を落とし、木槍を中段に構えていた塙は、二度三度と柄を扱くように前後させると、ぴたりと木槍の先端を妖艶な美貌に定めた。


「ん?」

「真面目に遣れ」


 次の刹那、木槍の先端が朧の顔面に迫った。

 稲妻の如き速さで繰り出された刺突。

 朧は平正眼に構えた木剣で刺突を軽く弾いた。


 戛戛戛戛戛戛戛戛かつかつかつかつかつかつかつかつ


 幾度も甲高い音を打ち鳴らし、顔面狙いの連撃を木剣で受け流していたが、塙が諸手突きから片手突きを混ぜると、朧も対処しきれなくなった。


「がふっ――」


 木槍の先端が鳩尾を穿ち、朧は蹈鞴を踏んで後退した。

 強烈な刺突の衝撃が、正常な呼吸を阻害する。左手で乳房の間を押さえ、苦しそうにヒイヒイとのどを鳴らした。


「穀蔵院流奥義――弩濤どとう参拾参式さんじゅうさんしき!」


 塙は追撃の手を止めて、左半身で中段の構えを維持した。

 凄まじい攻防に、奏と獺は呆気に取られる。


「先生! 解説をお願いします!」

「塙は左半身で顔面狙いの諸手突きを繰り出し、朧の目が慣れてきた処で、右半身の片手突きを突き出した。諸手突きの『しごく』を捌いていた朧は、眼前から木槍が消えたように見えただろう。加えて左半身から右半身の片手突き。右足と右手を前に出す片手突きは、朧の予想よりも遙かに伸びた。刺突の間合いから逃れられず、咄嗟に上体を反らし、深手を免れたが……反応が遅れていれば、胸骨をへし折られていたぞ。馬鹿者め、油断しすぎだ」


 獺の解説は、普段より辛辣だった。

 兵法へいほう数寄者オタクからすれば、無気力試合に魅力を感じないのだろう。


「少しは、遣る気が出たか?」


 塙が尋ねると、


「クククッ、見事な業前じゃ」


 朧は苦悶の表情で嗤う。


「仮に――お主が真槍を使うておれば、儂は心ノ臓を貫かれて死んでおった」


 素速く呼吸を整えると、平正眼の構えを解いた。

 無形むぎょうくらい

 覇天流は新陰流と接点を持たないが、朧は真剣勝負で無業の位を好む。

 剣術の術理に囚われているわけではない。

 身体能力を活かそうと思えば、特定の構えに拘らない方が攻めやすいのだ。大刀を担ぐ事もあるが、あれも無防備な正面を晒す陽の構え。朧は命の遣り取りを行う際、基本的に攻め手しか考えない。

 朧は爛々と両目を輝かせ、獰猛な武威を撒き散らす。

 塙もいわおの如き構えを崩さない。

 両者の気魄が鬩ぎ合い、双方の間で空気が歪んで軋む。もはや試し合いで済むような雰囲気ではない。


「済まぬ、御曹司。対槍の心得は教授能わぬ」

「それは構わないけど……場定めは覚えてるよね?」

「一言一句覚えておるぞ。対戦相手を殺害した場合、生き延びた方が負け。畢竟、儂が罰を受けると……致し方あるまい」


 満面に笑みを浮かべながら、ぬけぬけと言い放つ。


「朧!」

「止めろ、奏。もう無理だ」


 行司役の制止を実況&解説が止めた。


「早く止めないと、命の遣り取りになります!」

「我々が割り込んでも、どちらかにぶちのめされるだけだ」

「でも……」

「本家の女中衆を使え。武装した女中衆が三十名も集まれば、流石に二人を止められるだろう」

「……」


 奏は己の浅慮を悔やむ。

 初めから武装した女中衆を呼び集めていれば、二人の試し合いが殺し合いに発展する危険も避けられたのだ。


「ヒトデ婆、女中衆を呼んでくれ」

『ぞえぞえ~』


 麹塵きくじんの狩衣に潜んだ眷属から、ヒトデ婆の声が聞こえた。

 奏の行動を監視していたヒトデ婆が、主君の下知を女中衆に伝える。女中衆がこの場に到着するまで、小半刻の六分の一も掛からないだろう。

 塙と朧は、それまでに決着をつけなければならない。

 一応、保険を掛けた行司役は、殺気立つ両者を見遣る。

 おそらく朧は、膝落を使うつもりだ。

 結局、槍の間合いに飛び込むなら、半月ノ太刀か虎ノ爪を使うしかない。地に伏せる姿を取らないという事は、膝落で間合いを侵略するつもりか。

 然し両者の間合いは、四間も離れている。

 朧の膝落は、一歩で三間を跨ぐのが限界。二歩目を踏み出した刹那、木槍で狙い打ちにされる。

 朧が構えを解くと、塙も構えを変えた。

 左半身の姿勢で両脚を広げ、木槍を高く掲げる。右肘に左拳をつけて固定し、両腕と木槍を一体化させているのだ。

 穀蔵院流奥義――弩濤どとう拾参式じゅうさんしき

 塙はたいの姿勢を取り、朧の攻め手を誘っていた。

 暫時、気魄の攻防が続いたが、生暖かい微風そよかぜが吹き抜けた時、朧が起こりを消して前方に跳び出した。

 対手に拍子を読まれず、疾風迅雷の踏み込みで間合いを潰す。

 だが、やはり一歩三間が限界。

 二歩目を踏み出す前に、木槍が振り下ろされた。


「朧!」


 行司役の立場を忘れて、奏が悲鳴のような声を発した。

 奏には、木槍の打ち込みが、朧を捉えたように見えたのだ。おそらく塙も己の勝利を確信した筈だ。

 然し木槍が打ち込まれる寸前、朧の姿が掻き消えた。


「な――ッ!?」

「速い事は速いが――」


 塙の前方から、朧の声が響いてくる。


「起こりを隠すつもりがないゆえ、打ち込みの拍子が読みやすい。お陰で容易に躱し、斯様な仕儀も能う」


 サイバー義肢で木剣を握る朧は、塙の惣面を見ながら嗤う。

 打ち込みの拍子さえ読めれば、奏の諸手右上段を避けた時のように、容易に木槍の打ち込みを躱せる。あまつさえ振り下ろされた木槍に跳び乗る事もできる。


「おのれ」


 塙は木槍を振り上げようとしたが、


「遅い」


 朧は木槍の上を駆け上がり、塙の惣面を木履ぼくりの爪先で蹴り上げた。


「がらあッ!」


 相権たかえし捔力スマヰや捕手の技ではない。蹴鞠の蹴鞠蹴りだ。

 面頬の顎を蹴り上げた後、木槍の上に乗りながら、容赦なく塙の顔面を踏みつけた。木履の裏を何度も面頬に叩きつけ、塙の顔面を踏み潰すつもりだ。


「がらあ! がらあ! がらあ! がらあ!」


 執拗に。

 何度も何度も。

 面頬を踏みつけると、意識が途切れたのか、塙は木槍から手を離した。木槍が地面に落ちると、朧も軽やかに着地する。

 同時に――

 武具を捨てた塙が、正面から朧に組みついた。


「――ッ!?」

「吾輩が、汝の当て身で昏倒すると思ったか?」


 朧の胴体を両腕で締め上げ、右脚を股の間に入れた。

 対手の内腿を右膝と太腿で持ち上げ、猩々緋の小袖を結ぶ帯を右手で握り、宙に浮かんだ朧を半回転させ、頭部を地面に叩きつける。

 相撲の櫓投やぐらなげだ。

 頭頂部から地面に叩き落とされた。受け身を取れる筈がない。意識を保てる筈がない。頭蓋骨を打ち砕く一撃だ。意識の有無が確認できなくても、行司役は「勝負あり」と宣言すべきであろう。

 奏が静止する前に、塙は右脚を高く持ち上げた。

 塙の右脚が、地面と垂直になるまで高く伸びる。

 四股だ。

 相撲の四股を踏むつもりだ。

 高く持ち上げた右足で、朧の顔面を踏み潰すつもりだ。


「勝負あ――」

「よいしょおおおおっ!!」


 行司役の宣告を掻き消すように、塙は叫びながら右足を振り下ろす。

 高々と持ち上げた右足は――

 強かに地面を踏んだ。

 塙の右足が対手を踏み損ねた。

 地に伏せていた朧が、弓手に転がりながら立ち上がり、サイバー義肢で木剣を軽く振るう。

 豪快な櫓投げで地面に叩きつけられても、朧は意識を保ち続けていた。


「クククッ、凄まじい投げを打つのう。危うく彼岸へ旅立つ処であった」


 何が楽しいのか理解に苦しむが――朧は笑みを浮かべながら、左手で頭を押さえて、コキコキと首の骨を鳴らす。


「……なんで立てるのだ?」

兵法へいほう数寄者オタクでも分からぬか? 受け身を取ったのじゃ。頭と背中での」


 獺が唖然として呟くと、朧は顎を引いて嗤う。

 術理を説明すれば、極めて単純だ。

 頭頂部が地面に激突する刹那、素速く顎を引く。首を曲げて、頭頂部から後頭部を接地させる。これで頭蓋骨陥没は免れるが、首の骨が折れて死ぬ。頸骨に負担を掛けない為、上体を前方に折り曲げて、後頭部から背中と両腕を接地。櫓投げの衝撃を背中と両腕で受け流す。

 奏と獺と塙には、朧が力無く倒れたように見えた。然し実際は、仰向けに倒れたわけではなく、己の意志で受け身を取った。

 言葉にすれば簡単だが、神業と呼ぶべき高等技術。

 技の質が高過ぎて、兵法へいほう数寄者オタクが解説できないような有様だった。


「馬鹿甲冑、木槍を拾え」

「……吾輩に情けを掛けるつもりか?」

に非ず。儂もお主から間合いを取りたい。中二の美意識じゃ」


 言葉通り、朧は一歩二歩と後退する。

 塙はふぬんと鼻息を鳴らし、前方に屈んで木槍を拾う。朧から目線が切れたが……朧は塙を攻撃する事もなく、ス――ッと後退を続けていた。

 両者の間合いが、八間を超えた。

 鉄砲や弓を使わなければ、互いに攻め手がない間合いだ。


「偖も偖も……もう暫く命の奪い合いを楽しみたいが、女中衆に止められては適わぬ。次の攻防で決着と致す」

「異議無し」


 朧が泰然と宣告すると、塙も鷹揚に応じた。


「儂に負けて死ね」

「吾輩に負けて死ね」


 殺意の言葉を重ねた後、双方共に最後の構えを取った。

 朧は上体を前方に折り曲げて、地を這うような姿勢を取る。空いた左手で地面を掴み、高く上げた腰に力を溜め込む。

 秘太刀――虎ノ爪の構えだ。

 塙は左半身で腰を落とし、木槍を中段に構えた。

 常と何も変わらないが、木槍を『しごく』つもりはない。両手に力を込めている為、木槍で『突く』つもりだと分かる。


「穀蔵院流奥義――弩濤どとう伍拾漆式ごじゅうろくしき


 塙が厳かに告げると――

 忽然と二人の姿が消えた。

 奏と獺は、二人の攻防が速過ぎて見えなかった。

 これから先は、一瞬の出来事である。

 塙は左半身の姿勢から、右脚の膝を抜いた。目線の高さを変えず、右膝の力を抜く事により、僅かに左足を地面から浮かす。一瞬で全体重を掛けられた右足は、地面に対する反作用と腸腰筋の反射を利用し、肉体を前方へ押し出す推進力に変える。目線も変わらず、前足(左足)を蹴らない為、刺突の拍子が読みにくい。

 三間を一歩で跨ぎ、四間先の対手を穿つ刺突。

 身の丈六尺四寸、身の重さ三十七貫の巨漢が、一瞬で三間の間合いを潰し、対手の眼前で槍穂を突き出す。対手からすれば、悪夢のような光景だ。

 然し起こりは消えていない。

 甲冑を着ている為、右膝を抜いた時に、鉄胴と草摺が当たり、がちりと金属音が響く。

 鎧が軋む音を頼りに、朧は前方へ飛び出した。

 狙いは、塙が突き出す木槍の先端。

 横薙ぎで刺突の軌道を変える。

 超高速。

 刹那の世界で、木槍の先端に木剣の片手打ちを当てた。

 霊妙極意れいみょうごくいな神業を決めたが――

 朧の右腕は、マリアが暇潰しに開発したサイバー義肢。奏と同程度の腕力と握力しか有していない。打突の衝撃に耐えきれず、木剣が手の内から飛んでいく。

 それでも朧の片手打ちは、塙の刺突を弓手にずらした。

 僅か一分のズレ。

 然し塙が前に進めば進むほど、ほんの僅かなズレが大きくなる。両者の身体が激突する寸前には、一分のズレが五寸近くズレていた。

 五寸も弓手にズレれば、十分に木槍の刺突を躱せる。

 朧は左半身の姿勢で、弓手に逸れた刺突を躱しつつ、左手を前方に突き出した。塙の惣面を左手で鷲掴みにすると、左足の木履を塙の左膝の裏に当て、前足の力を奪い去る。塙の重心が後方に移動した刹那、対手の後頭部を地面に叩きつけ――




「ぬわ~はっはっはっ! やはり渡辺など未熟な小娘! 吾輩の敵ではなかった!」


 後頭部を地面に叩きつけられた塙は、架け橋の如く身体を折り曲げて、頭と両足の裏で体勢を維持しながら、自らの勝利を誇示していた。

 前足の力を奪われた刹那、朧に倒されると感じたのだろう。転倒して地面に背中をつける事を恐れた塙は、瞬時に木槍を捨て去り、『毎日が誕生日』の旗指物を抜き取ると、自分から後頭部を地面に打ちつけ、架け橋の如き体勢を維持する事で、己の信念を守り通したのだ。

 実に天晴れな中二病の心意気。

 自分から後頭部を打ちつけた所為で、激しい脳震盪を引き起こし、ガクガクと両膝が震えて立ち上がる事もできないが――


「カカカカッ、負け犬がなんぞ咆えておるぞ。儂の投げでうつつの景色も見えなくなったか。御曹司は、一部始終を見ておったか?」

「……いや、速過ぎて見えなかった」

「是が立ち合いの決着。儂の勝利に疑いなし。畢竟、馬鹿甲冑に負ける筈がないのじゃ。サイバー義肢の試し相手にもならなんだ」

「ええと……朧。言いにくい事なんだけど――」

「敗者に情けを掛ける必要はないぞ。立ち合いの行司役は、堂々と勝者を宣告すればよいのじゃ」

「そっちは水堀」

「……」


 奏は遠慮気味に、水堀の前で勝ち誇る朧の背中に語り掛けた。

 塙は転倒する直前、強引に左脚を振り上げ、朧の後頭部を爪先で蹴りつけたのだ。

 反撃する余裕があるなら、素直に受け身を取れよ……と考えるのは、中二病の生態を知らない者であろう。抑も奏と獺は、彼らの行動を視認できなかった。

 問題があるとすれば、朧の容態である。

 不意打ちで後頭部を蹴られた朧は、深刻な脳震盪を起こしていた。周囲の音は聞こえているが、視界が暗転して何も見えない。

 五体も思い通りに動かないようで、朧は酔漢の如く千鳥足で進む。


「御曹司は、何か思い違いをしておるのではないか? 馬鹿甲冑の蹴足如きで、儂が前後不覚に陥ると? 有り得ぬ有り得ぬ。儂は――」

「だから、そっちは水堀だって!」


 奏の制止も虚しく、朧は水堀に落下した。

 どぼんという着水音を聞き終えた後、奏は深々と溜息をついた。


「この場合、どちらが勝者なんですかね?」

「引き分けにすると、後で揉めそうだからな。勝負無しでよかろう」

「そうですね。そうします」

「朧を引き揚げるか。意識を失い掛けていたからな。放置しておくと溺死する」

「そうですね」


 奏は冷静に応じると、塙を放置して水堀へ向かう。

 結局、水堀に落下した朧は、駆けつけたばかりの女中衆に救助された。

 後日、朧と塙は再試合の許可を求めたが、奏は「絶対にダメ」と首を縦に振らなかったという。





 節用集……国語辞典


 水月……鳩尾


 先の先……対手の起こりに攻撃を仕掛ける。相手が動く直前を見極めて狙う。


 後の先……対手の攻撃を防御、回避してから打つ。対手より後に打ち、制する心構え。


 返し技……対手の攻め手を鎬で摺り上げ、対手の反対側を打つ技


 抜き技……打突を躱しながら、対手に打ち込む技


 言合戦……挑発を用いた神経戦


 無業の位……構えない構え


 小半刻の六分の一……五分


 蹴鞠蹴り……サッカーボールキック


 八間……約15.12m


 六尺四寸……約192㎝


 三十七貫……約138.75㎏


 三間……約5.67m


 一分……約3mm


 五寸……約15㎝

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