第103話 渡辺朧対塙団右衛門直之(一)
奏と朧は、本家屋敷の裏手で塙と対峙していた。
塙の装いは、狒々神討伐の時と何も変わらない。黄金の獣毛を植えた
左脇に獺を抱えていなければ、単騎で薙原家に攻め込んできたのかと誤解していただろう。実際、門番の女中と押し問答をしていたので、興奮する塙を屋敷の裏手まで連れてきたのである。
塙は全く気にしていないようだが、黄金の甲冑を纏う武者が大手門の前で騒ぐなど、住民の不安を煽る行為に他ならない。このような事態を避ける為に、女中衆を通じて勧誘するつもりでいたが――中二病が、奏の思い通りに動くわけがない。
「え~と、なんで甲冑を着てるんですか? もう狒々神討伐は終わりましたよ」
質問したい事は多々あるが、先ず場違いな戦装束について尋ねた。
「説明せねばなるまい! 吾輩は驚天動地の英雄――塙団右衛門直之! 物心ついた時より常在戦場を心得ておる! たとえ平時であろうと、甲冑を脱ぐわけには参らぬ! 有事が起きた時に先馳ができなくなる!」
中二病の
「お風呂に入る時はどうするんですか?」
「吾輩は風呂など入らん! 偉大な英雄は、他人に素顔を晒したりせぬのだ!」
「へえ……そうなんですか」
奏は冷めた声で答えながら、不衛生な武士から一歩退いた。
「一応、念の為に訊いておくけど……朧は身を清めてるんだよね?」
「儂の事より獺殿じゃ。何故、馬鹿甲冑と共におる? 納得のいく説明を聞かせて貰おうか」
朧は強引に話題を逸らし、塙が小脇に抱えた獺を見つめる。
「……」
事情を察した奏は、不衛生な武芸者からも一歩離れる。
「説明しなければなるまい! 吾輩が河原で釣りを楽しんでいたら、無防備に泳ぐ獺を発見したのだ! 近くに釣り針を垂らしただけで、簡単に釣り上げる事ができたぞ!」
「……」
「然れど仔細を訊けば、若君の傅役と申すではないか。如何に間抜けな獺といえど、主君の側を離れるのは辛かろう。ゆえにお返し致す」
項垂れた獺の代わりに、塙が事情を説明した。
「先日、僕が捕縛した獺の他にも、符条家の眷属を忍ばせていたと?」
「……ああ」
「それも塙さんに捕まったと?」
「釣り餌に惹かれてな。久しぶりに
暗い声で答える獺に、奏は憐憫の情を覚えた。
「先生は……とても疲れてるんですよ。短い間に色々ありましたから。普段の先生なら、僕や塙さんに捕まる筈ないです。弘法も筆の誤りと言いますし――」
「無理に慰めなくていい」
奏の慰めの言葉を遮り、獺が気の抜けた声で言う。
「所詮、私は愚かな獺だ。取り柄なんて何もない……ははははっ、明日から正しい餌の採り方を学ぼう」
小脇に抱えられた獺が、ぶつぶつと訳の分からない事を呟いていた。二度も間抜けな方法で捕らえられた為、
「とにかく返還致す。受け取れ」
「……ありがとうございます」
何やら釈然としない気持ちを抱えながらも、荷物のように傅役を受け取る。奏が抱えても抵抗しないので、心の底から落ち込んでいるのだろう。平静を取り戻すまで、暫く時間が掛かりそうだ。
「狒々神討伐以来ですけど……塙さんは元気でしたか? 相応の持て成しをするように、当家の女中衆に申し付けていたのですが」
痛々しい話題を振り払うように、塙に近況を尋ねた。
「薙原家の持て成しには、吾輩も満足しておる。日に三度の食事に、山奥の立派な屋敷。無論、暮らし向きに不満を申す者もおるが……この村から出て行く者共だ。若君が心配する必要はあるまい」
塙の話を聞いて、奏も胸を撫で下ろす。
狒々神討伐を終えた後、一先ず護衛衆を隷蟻山の館に駐留させた。先代当主が建てた館の他に、三十余名の兵を収容できる施設がなかったのだ。
お
「然れど本家の屋敷へ赴く度に、大手から屋敷の裏手に回らねばならぬとは……全く面倒臭くて適わん。他に術はないのか?」
「御屋敷の近くに
「う~む……」
早速勧誘を始めたが、塙の反応が芳しくない。意味もなく天を仰いで、奏の話を聞き流している。
「先に吾輩の所要を済ませてもよいか?」
「……ええ、勿論」
「
「……は?」
「狒々神討伐の恩賞だ。他の護衛衆を差し置き、吾輩だけ黄金一二一枚も頂いた。直に礼を申さねば、流石に義理を欠こう」
「黄金一二一枚!? なんで塙さんだけそんなに……?」
奏が驚くと、朧はぽんと左手を打った。
「狒々神討伐の折、獺殿が護衛衆に『狒々神を槍で突いた者は、臨時賞賜を与えよう。一度の突撃で黄金一枚』と申しておったぞ」
「そうなんですか!?」
「兵を鼓舞する為に止む無く……」
奏に問い詰められた獺が、申し訳なさそうに答えた。
「実はその話、吾輩も知らなかったのだ。恩賞を与えられた時に驚いてな。使いの女中に仔細を尋ねれば、合戦の最中に
「お主は、狒々神の張り手で
「獺を軍目付に差し向けた薙原家に、礼を申させばならぬと思い至り、この場に
朧の横槍に耳を貸さず、塙は堂々と言い切った。
一度の突撃で黄金一枚――という約束をしていたので、狒々神に一〇一回も槍を突き立てた塙は、臨時賞賜だけで黄金一〇一枚という事になる。残りの二十枚の内訳は、狒々神討伐に参加した護衛衆に与えられる恩賞。加えて塙には、二度目の狒々神討伐で標的に刺突の連撃を浴びせ、狒々神の動きを止めた武功も含まれる。
恩賞を渡された時、何も知らない塙は驚いた事だろう。全て併せると、他の護衛衆より金額が一桁多いのだ。
「……それは僕に言われても困ります。臨時賞賜の約束をしたのは、僕ではなく先生ですから。それに恩賞を用意したのは、薙原本家ではありません。分家の篠塚家が用意した筈です。だから礼を言うのは、千鶴さんに言うのが筋かと」
奏は無難な話をしながら、全く別の事を考えていた。
やべえ!
狒々神討伐で黄金千枚以上使ってる!
篠塚家から必要経費を請求されたら、とんでもない事になるぞ……
冷や汗が止まらない奏を尻目に、塙は「左様か」と納得した。
「
「本家が所有する債権を売却して、外界の土地も売り払って……ああ、何か都合の悪い事でもあるんですか?」
唐突に算盤勘定を始めた奏は、塙の言葉で正気に戻った。
「急に黄金を一二一枚も渡されてもな。吾輩には、持ち運ぶ手段がないのだ。篠塚家の伝手で恩賞を
割符とは、為替の事だ。
為替取引の発祥は、鎌倉時代まで遡る。遠隔地から年貢を運ぶ手間を省く制度で、室町時代に入ると、大量の金銀銭米を円滑に各地へ運ぶ為、土倉や有徳人が積極的に割符を利用した。
現在の薙原家では、単純な金貸しや通貨の両替の他に、為替取引や穀物取引や不動産取引に手を伸ばしている。塙の願いを叶える事など造作もない。
「それは……本家から篠塚家に頼んだ方が早そうですね。僕が手配しておきます」
「
「黄金一二一枚も寄進するんですか?」
「まさか。実家に仕送りするのだ。女房と子供達が待ちかねておるのでな」
「塙さん、結婚してたんですか!?」
衝撃の事実に狼狽え、奏は瞠目して後退った。
「騙りじゃ騙り。どうせ二次元の嫁であろう」
「馬鹿を申すな。女房も子供も三次元だ」
朧の邪推を否定すると、塙は二人を見下ろす。
「なんだ、吾輩に女房や子供がいたら悪いか?」
「悪くないです。ただ塙さんの奥方が想像できなくて……」
奏は慌てて両手を振り、作り笑いを浮かべた。
塙団右衛門直之の嫁?
天下夢中の猪武者に嫁ぐ人なんているの?
四六時中、黄金の甲冑を着続ける。お風呂に入らない。他人に素顔を晒さない。合戦の先には、軍令に違反しても先馳に拘る。大手門に漢詩を張り付けた。
改めて彼の奇行を並べると、質の悪い変質者としか思えない。
斯様な中二病と結婚したのだから、菩薩の如く慈悲深い女性なのだろう。
塙の帰りを待つ家族の姿など想像もつかないが、世の中の広さを思い知らせた気分である。
「吾輩の書状を熱田神宮へ送れば、実家の女房へ届くように手配されておる。蓄えがあるゆえ、暮らし向きに不足はなかろうが、早いに越した事はない」
「分かりました。僕が責任を以て送ります」
「頼んだぞ」
奏が請け負うと、塙は満足そうに笑った。
「……他の護衛衆の方々も、恩賞は割符に替えておきましょう。黄金や互換紙幣だと
奏が一人で考え込むと、
「御曹司、仕官の話を忘れたのか?」
朧が苦笑しながら指摘した。
「ああ……そうだ。塙さん、薙原本家に仕官しませんか?」
「いいぞ」
「――
「何を驚いておる。吾輩に仕官を勧めてきたのは、汝らであろう?」
「そうなんですけど。塙さんは僕の戦い方に否定的だと聞いていたので……」
「狒々神討伐の事か? 確かに味方を騙すような遣り方は好かん。然れど一度目の狒々神討伐で失敗した吾輩が、二度目の狒々神討伐で挽回した者を責められようか。加えて仕官先は、いつも主君の目を見て決めておる」
「目?」
奏が怪訝そうに首を傾げた。
「若君の双眸には、野心の
「ええええ……」
脈絡もなく野心を指摘された奏が、不快そうに呻いた。
「若君に自覚がなくても、吾輩には分かる。昔の加藤と同じ目をしておる」
「加藤? 肥後の
「違う。吾輩の前の主君――
「――」
奏は絶句した。
前の主君を
「信長公が存命の頃、吾輩と加藤は一兵卒に過ぎなかった。
加藤嘉明が若い頃、南蛮製の調度品を集めていた事は、関東の山奥に隠れ潜む奏でも知るほど有名な逸話である。
「同じ中二病という事もあり、互いに切磋琢磨しながらも、吾輩と加藤は多くの戦場を駆け抜けた。なれど本能寺の変で信長公が横死すると、織田家簒奪を目論む
加藤嘉明は、元々は徳川家の家臣である。
三河一向一揆で徳川家に叛旗を翻し、父親と共に三河国を出奔。諸国を渡り歩いた後、近江国長浜城主――羽柴秀吉の小姓に取り立てられた。秀吉の子飼いの中では、それなりの家柄の出身である為、賤ヶ岳七本槍に選ばれたのだ……と主張したいらしい。
「加藤は出世街道を進み、戦国大名に上り詰めた。然し加藤は変わった。未練なく中二病を卒業し、常識やら礼節やらに拘り始めたのだ」
「大名という責任のある立場について、人間的に成長したんですよ。主君が美意識に拘るようでは、臣も民もついていけません」
「それ以前の問題だ! 大名の地位に就いた途端、急に性格が豹変したのだ! 南蛮の皿を小姓が割ろうと、加藤は一切咎めなかった! 吾輩が若い頃、加藤に下賜された南蛮の皿を投げて遊んでいた時は、太刀を抜いて襲い掛かってきたのだぞ! 酷い話だと思わぬか!」
「御武家様は怖いな……としか思えません」
塙が堂間声で唾を飛ばすも、奏は全く共感できなかった。寧ろ塙を召し抱えた加藤嘉明に尊敬の念すら抱いてしまう。よく二十年近くも、突撃馬鹿の相手をしてきたものだ。やはり戦国大名には、我の強い中二病を使いこなす器量が必要なのだろう。
「僕には野心なんてありませんよ。勿論、塙さんを粗略に扱うつもりはありませんけど……武功を立てる機会なんてあるかなあ?」
「汝の側におれば、必ず武功を立てる機会が訪れる! 当人が望もうと望むまいと、汝の如き目付きの者が大乱を起こすのだ!」
「言い掛かりです! 目付きの良し悪しと、合戦は関係ありません!」
「次の相手は徳川家か? 徳川相手に獅子奮迅の働きを致せば、他の大名家から高禄で召し抱えられよう。吾輩が戦国大名に成る日も近いな。薙原家には、吾輩が出世する為の踏み台になって貰う」
奏の話を全く聞かず、自分勝手な主張を押しつけてくる。
「僕……そんなに目付き悪い?」
「左様な事はないぞ。御曹司は、誰よりも高潔な眼差しをしておる。然れど馬鹿甲冑の言い分にも一理ある。御曹司の近くにおれば、退屈せずに済むからのう」
「治にいて乱を起こす気はないだけどな……」
奏は本心を吐露しているのだが、周りの中二病が信じてくれない。寧ろ主君が大乱を起こす事を望んでいる。
何はともあれ、塙を召し抱えるという方針は変わらない。主従の認識の違いは、時間を掛けて埋めていくしかないだろう。
「最後にもう一つ」
塙が、左手の人差し指を立てた。
「渡辺と立ち合わせて頂きたい」
「朧と立ち合い? 何か理由が?」
唐突な要求に、奏は戸惑った。
「狒々神討伐の直前、渡辺が吾輩を『突撃馬鹿』と侮辱したのだ。吾輩の面目を保つ為にも、斯様な挑発を見過ごすわけには参らん。薙原家に仕官する前に、渡辺と決着をつけておきたい」
「……塙さんを侮辱したんですか?」
「う~む。全く記憶にないのう。馬鹿甲冑の妄想ではないか」
「――」
奏は一瞬、言葉に詰まった。
馬鹿甲冑という綽名が、すでに侮辱だよ――と突っ込むべきだろうか。
「朧が忘れているだけだ。狒々神討伐の前に、塙と朧が些末な事で揉めていた。その時の話をしているのだろう」
失念していた朧に代わり、獺が奏に真実を語る。
「無礼者は斬り捨てて構わない。侮辱された時は、即座に
奏が答える前に、朧が嘲弄気味に言う。
「お主、根に持つのう。器が知れるぞ」
「
塙が堂間声を響かせ、左半身で黄金の槍を構えた。
臨時態勢を整えた塙の前に、慌てて奏が刷り込む。
「ちょっと待ってください! 薙原家は家臣同士の私闘を認めていません! 勝手に殺し合うなら、喧嘩両成敗で二人とも罰しますよ!」
「それでは、吾輩の面目が立たぬではないか!」
「面目の為に殺し合わないでください!」
「面目の為に殺し合うのが、立派な
二人の価値観が違い過ぎて、話し合いの余地がない。加えて外界の常識を考慮すると、塙の言い分に利があるのだ。
「……試し合いなら良いのではないか?」
興奮する塙と奏に、獺が代案を出す。
「何も命を奪い合う必要はないだろう。双方が武具を定めて、互いに納得する場定めで試し合う。それで目的を果たせるぞ」
「名案です! 試し合いなら許可します! 朧も塙さんもそれでいいですね?」
「儂は構わぬぞ。技の試し合いであろうが、命の奪い合いであろうが、儂が負ける筈がない」
朧が獰猛に嗤うと、沈思黙考する塙に向き直る。
「よかろう。道具や場定めを変えようと、吾輩の業前が変わらぬ事を証明してくれる。覚悟致すがよい」
試合を合意した塙が、妖艶な美貌を睨みつけた。
なんとか最悪の事態を回避できたが……場定めを誤ると、片方が命を落とす。最悪の場合、相打ちで二人とも死亡という事態も考えられる。
塙と朧の気が変わらないうちに、奏と獺は場定めの相談を始めた。
一間半……約2.83m
遠侍……武士の詰め所
黄金一二一枚……天正大判一二一枚。現在の価値で二億一七八〇万円。
黄金千枚以上……天正大判千枚以上。現在の価値で十八億円以上。
肥後の主計頭……加藤清正
場定め……一時的な規則
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