第102話 中食

 普段より早めに稽古を終えた奏は、本家屋敷の井戸で身を清めた後、新しい狩衣に着替えた。盆地独特の蒸し暑い空気に辟易しながら、朧の待つ庵へ向かう。

 庵に入ると、すぐに朧を見つけた。

 濡縁に腰を下ろし、一人で中食ちゅうじきを食べていた。自由奔放に生きる中二病に、主君が戻るまで待つ――という気遣いはない。奏も堅苦しい事を指摘するつもりはないので、朧の非礼を黙認する。

 鎌倉時代までは、一日二食が一般的だった。それが室町時代に入ると、朝餉と夕餉に加えて中食の習慣も普及する。

 おそらく禅宗の影響だろう。古くから禅宗の寺院では、修行の途中に間炊かんすいと称し、饂飩うどん素麺そうめんなどの麺類を食べていた。度々禅寺をもうでていた室町幕府第四代将軍――足利義持あしかがよしもちは、禅寺できょうされる麺類や揚げ物料理、旬の食材による煮物、抹茶や菓子を楽しみにしていたという。大凡の民に『緊縮財政』を強いていたくせに、当人は美食家という傲慢さ。室町幕府第六代将軍――足利義教あしかがよしのりは、嘉吉かきつの乱で赤松あかまつ氏に暗殺されるが、その伏線は義持の頃から張られていたのだ。

 閑話休題それはさておき

 中食の習慣は、武士や百姓にも浸透した。特に合戦続きの武士や雑兵は、体力を養う為に一日三食の食事を必要とした。

 朧が食べているのは、夏の盛りに丁度良い冷麦ひやむぎだ。

 硝子の器に盛りつけられた麺。漆塗りの折敷おしき麺汁めんじるを入れた小壺。刻み葱や生姜しょうがなどの薬味が、他の器に盛りつけられている。

 朧が勝手に台所から持ち出したのか、囲炉裏の上座に冷麦が用意されていた。


「食わぬのか?」


 機械からくり仕掛けの義肢で箸を持ち、鷹揚な態度で尋ねてくる。


「安心致せ。毒蛾の鱗粉は含まれておらぬ。雌狗プッタの臭いもせぬゆえ、他の女中が拵えたのであろう」


 警戒する奏を尻目に、朧は麺を口に運ぶ。

 毒味役という意味では、朧ほど信頼に足る人物はいない。奏は安堵の表情を浮かべて、上座に腰を下ろす。


「頂きます」


 用意された中食に、礼儀正しく頭を下げた。

 ぱらぱらと小壺に薬味を入れると、冷麦を麺汁に浸してから、音を立てて麺をすする。


「美味しいー」


 自然と奏の頬が緩んだ。

 井戸水で冷やしても、これほど冷たくならないだろう。熱湯で麺を茹でた後、氷塊を浮かべた冷水で冷やしたのではあるまいか。

 猛暑が続く夏場に、貴重な氷塊を使い潰す贅沢な中食だ。薙原家の金銭感覚に呆れながらも、奏は冷麦を口に運ぶ。剣術の稽古で腹を空かせていた事もあり、箸を動かす手が止まらない。

 尤も奏は、他人より食事に時間が掛かる。おゆらから食事の礼法を叩き込まれているので、急いで食べる習慣がないのだ。

 何気なく庭を見ると、朧が冷麦相手に苦戦していた。


「おのれ……麺が滑りおる」


 朧は眉間に皺を寄せて、滑り落ちる麺を睨んでいた。

 先程から麺を摘まんでは、つるつると滑り落とし……を繰り返していた。箸で麺を摘まむだけで、百戦錬磨の武芸者が苦労している。


「手伝おうか?」

「気遣い無用。是もサイバー義肢を使う鍛錬じゃ」


 朧は鷹揚に言いながら、奏の方に向き直る。


「マリア姉から『日常生活に支障はない』と聞いてたんだけどなあ」

「息を潜めて暮らすのであれば、の義手も不便ではないぞ。指をバラバラに動かし、物を掴み能う」


 箸を折敷の上に置き、チタン製のサイバー義肢を動かす。義肢の内部に組み込まれた電子装置が、脳内で発生した電気信号を受信。キシキシと稼働音を鳴らし、小指から親指まで内側に折り畳む。


「然れど斬り合いは難しい。握力を調整能わぬうえに、物を握る感触も非ず。本気で義肢を振るえば、太刀が手の内から飛んでいこう。御曹司と木剣で打ち合う程度なら、何の問題もないが……」


 朧は苦笑しながら、新しい右手で箸を持ち直す。

 先の狒々神討伐の折、朧は右腕を消し飛ばされた。白い光を浴びた右腕は、肉片の欠片も残さず、現世うつしよから消えてなくなった。ヒトデ婆の『起死再生きしさいせい』を用いても、完全に消滅した右腕を再生する事はできない。

 この当時の常識を鑑みると、四肢切断で助かる見込みは先ずない。それゆえ、一刻も早く最先端の縫合手術を施す必要があった。狒々神の首級を挙げた後、朧をヒトデ婆の荒ら屋に運び込み、すぐに血止めの丸薬を飲ませた。丸薬の原料は、大陸から渡来した三七草さんしちそうというキク科の植物だ。合戦で負傷した際、武士の応急処置に使われる薬品で、患者の血圧を下げて、出血を抑える効果がある。通常なら一個で十分だが、朧は毒や薬が効きにくい体質。念には念を入れて、血止めの丸薬を十個も飲ませた。

 次に九州より取り寄せた焼酎で傷口を消毒。切断された血管をごてで焼き塞ぐ。最後にのこぎりで右腕の骨を切り詰め、強引に傷口を畳針たたみばり木綿糸もめんいとで縫い合わせる。一連の処置を麻酔無しで行うのだ。拷問以外の何物でもない。患者の中には、激痛に耐えきれず絶命する者もいるという。

 手術自体は、特に問題なく終了した。最後まで悲鳴を上げずに耐え抜いたのは、不屈の精神が成せる業か。ともあれ、失血死は免れても、利き腕を喪失した事実は変わらない。

 当人は「覇天流は片手打ちを専らと致す。隻腕は不利にならぬ」とうそぶいていたが、真剣勝負で隻腕が有利に働かない事は、奏にも容易に想像できる。それに狒々神討伐で立てた武功を忘れてはならない。武功に報いる褒美はないものか……と考え抜いた末に、「サイバー義肢を下賜しよう」と思いついた。

 去年の夏、許婚から「暑気払いにどうぞ」という言葉を添えて贈られてきた。両腕両脚を備えたサイバー義肢である。「中二病は、これで暑気を払うのか……」と衝撃を受けたが、毎度の如く使い道がない為、本家屋敷の蔵に放置していた。


 どうせ誰も使わないし。

 是を以て、狒々神討伐の恩賞としよう。


 妙案を思いついたとばかりに、朧にサイバー義肢の接合を提案したが、容易に受け入れて貰えない。「儂の身体より強い義肢などいらぬ」と言い張るので、「僕の身体を基準に設計された筈だから。朧からすれば、枯れ木より脆いと思うよ」と答えた処、天邪鬼の中二病も「生便敷結構おびただしきけっこう」と納得した。

 右腕の付け根にサイバー義肢を装着しただけだが――接合手術も無事に終わり、奏が安堵したのも束の間。今度は、サイバー義肢の使いづらさが問題となった。元々戦闘用に造られたわけではない。マリアが暇潰しに開発した玩具だ。しかも奏の右腕を基準に設計した為、武具として使えるわけもなく、朧が持て余すのも当然であった。


「一度、マリア姉に調整して貰えば? 今より使いやすくなる筈だよ」


 と何度も勧めているのだが、


「御し易い義肢などいらぬ」


 中二病の武芸者は、断固として聞き入れない。


「せめて立ち合いの時は、左腕で刀を使うとか……」

「折角の道楽に水を差すでない。儂は悍馬かんばを乗りこなしてみたいのじゃ。今更、駿馬しゅんめに乗り換える気などないぞ」

「悍馬に拘り過ぎると、落馬して死んじゃうよ。身の危険を感じた時は、素直に左手で刀を使う事。分かった?」

「善処致す」

「なんて強情なんだ……」


 意地を張る従者に呆れ果て、主君は溜息をついた。


「義肢はさておき――」


 説教嫌いの朧が、露骨に話題を変えた。


「儂に話す事があるのではないか?」

「――」

「獺殿より聞いておる。御曹司が下克上を決意したと」

「――」

「なれど謀叛を起こす気はない。一滴の血も流さず、上座をとしてみせるという。政略や謀略の類であろうが……如何せん、獺殿の説明は分かりにくい。やはり主君の意向は、主君に伺うた方がよかろう」


 クククッと嗤いながら、若き主君の顔を見据える。


「畢竟、御曹司の望みはなんじゃ?」

「……僕の望みは、大きく分けて二つ」


 箸を折敷の上に置いて、奏は神妙な顔で応えた。


「一つは超越者衝撃チートショックを未然に防ぐ事」

「……」

「生類の絶滅なんて絶対に認められない。勿論、おゆらさんが進めていた『蛇の王国構想』も論外だ。超越者衝撃チートショックを未然に防ぐ為に、僕達の手でマリア姉をなんとかする」


 心の迷いを断ち切るように、奏は凜然と宣言した。


「御曹司が覚悟を決めてくれたようで嬉しいぞ。是で後顧の憂いなし」

「精神的な憂いが消えても、物理的な憂いが消えてない」


 朧が好戦的に嗤うと、奏は頭を振った。


「相手は天下無双の中二病。史上最強の邪鬼眼だ。奈良の大仏を片手で持ち上げ、日ノ本から伊西把儞亜イスパニアまで一瞬で駆け抜け、雲燿ウンヨウの四二六五倍の速さで野太刀を振り回す。さらに聖呪と称する魔法を使えば、対手の思考を読み取る事も可能。加えて両目を開けば、数日後の未来と過去を同時に視認し、都合の良い未来を確定できる」


 奏は傅役から仕入れた情報を冷静に語る。


「聖呪の結界の中は、マリア姉の掌の上。結界内に取り残された者は、生殺与奪の権を握られる。敵意や害意を感じ取れば、結界内の敵を殲滅できる。狒々神の否定砲を弾き返すくらいだから、結界の外側から攻撃しても通用しない」

「……」

「蛇神の使徒が使う妖術も聖呪で再現可能。『太陽の向こう側』から活力を供給しているから、不眠不休で活動しても体力を消耗しない。極めつけは、薙原本家に伝わる妖術――『残鬼無限ざんきむげん』」


 朧も獺から事前に聞かされていたようで、荒唐無稽な話に動じる事もなく、ぱらぱらと麺汁に薬味を入れていた。


「斬り伏せられても、現世うつしよに新しい肉体を創造し、魂を移し替える妖術か。まさに狒々神を超える怪物よ。儂も正面から立ち合えば、苦戦は免れぬであろう」


 朧は忌々しげに言う。


 本気でマリア姉に勝てる気でいたのか……


 二人の認識の違いに驚きながらも、奏は無表情を保つ。

 鬼神の如き身体能力や俊敏軽捷しゅんびんけいしょうな剣技に心を奪われがちだが、彼女の強さを支えているのは、己こそ最強と信じて疑わない精神力だ。一対一で狒々神に殺され掛けても、半日足らずで恐怖を克服し、狒々神の首級を挙げてみせた。


「勿論、朧の強さは信じてるけど……僕は臆病者だから。超越者チートに対抗する方法を見つけてからなんとかする」


 狒々神討伐で自信を深めた朧に、現実を諭しても逆効果となろう。朧の機嫌を損ねないように、奏は言葉に気をつけながら語る。


「よいのではないか」

「――えッ!?」


 奏は鳩のように目を丸くする。


「何を驚いておる」

「いや……朧の事だから。『超越者チートに対抗する方法を見つけてもつまらぬ』とか『儂の美意識に反する』とか言い出すのかなと」

はかりごとを定めてしこうして、後に敵を討つ。兵法の心得ではないか。数多の命を預かる大将が、合戦に矜持を持ち込んでも死人しびとを増やすだけじゃ」

「朧……」

「尤も儂は中二病の武芸者ゆえ、主君の下知より美意識に従う。寧ろ儂に今後の方針を打ち明けるという事は、『超越者チートの倒し方を見つける前に、一対一で超越者チートを討ち果たせ』という下知ではあるまいか?」

「全然違う」

「おや? 儂なりに御曹司の心情を忖度そんたくしたつもりじゃが」

「僕がそんな事考えるわけないだろ」

しかれば、儂は何を致す?」

「朧は僕を守る太刀だ。僕を守る事に専念してくれ」

「ん……承知した」


 主君の内心を気に留めず、朧は気楽に冷麦を啜る。

 やはり奏は、織田信長でも豊臣秀吉でもない。我の強い中二病を思い通りに動かすなど無理だ。朧が単独行動を始めないように、奏の側に置いて監視するしかないだろう。主君の心労が増えるばかりである。


しかして御曹司は、如何なる策を考えておるのじゃ? 蛇女に定石など通用しまい。さぞかし奇抜な戦法を思いついたのであろう」

「都合良く奇抜な戦法なんて思いつかないよ。僕は軍師じゃないからね。無難に常道を歩もうと思う」


 身を乗り出す朧に、奏が困り顔で言う。


「取り敢えず、マリア姉に『超越者チートに対抗する方法』を訊いてみたんだけど――」

「ごほごほっ!」


 突然、朧が麺を吐き出して、激しく咳き込んだ。


「御曹司……ラスボスの倒し方をラスボスに訊いたのか?」

「ラスボス?」


 遊戯箱ゲームについて無知な奏が、朧の質問に首を傾げた。


「蛇女の事じゃ」

「何か拙かった?」

「拙くはないが……改めて御曹司の器量に驚かされた」


 呼吸を整えた朧が、呆れた口調で言う。


「まあ、自分でも自分に対抗する方法が分からない――と公言していたからね。どうも弱点はなさそうな感じ。でも手掛かりは見つけたかな」

「獺殿の十年に及ぶ苦労を一瞬で乗り越えたか」

「それ……先生の前で言わないでね。僕に捕まった事も含めて、かなり気にしてるみたいだから」

「斯様な事は致さぬ。それより手掛かりとはなんぞや?」

「先生とも相談したんだけど。超越者チートに対抗する方法がないなら、超越者チートを弱体化させよう」

「?」


 言葉の意味を掴めず、朧は首を傾げた。


「つまり『魔法や妖術を無効化できる魔法使い』を捜し出す。他に超越者衝撃チートショックを防ぐ手立てはない」

「斯様な者が、うつつにおるのか?」

「分からない。分からないから捜すんだ」

「……」

「一応、マリア姉にも訊いてみたんだけど、やはり『分からない』と答えていた。超越者チートが存在を確認できないんだ。それだけで捜す価値はある」


 奏は意気込んで語るが、朧は冷ややかに麺を啜る。


「ふ~ん。で――勝算は?」

「マリア姉が『百億分の一の確率』って言ってた」

「……漫画マンガの受け売りで申し訳ないが、世界の人口は二十億もおらんぞ」

「人間以外にも生類はたくさんいるよ! 犬とか猫とか狐とか狸とか……獣を含めれば、簡単に百億超えるよ!」

「やはり漫画マンガの受け売りで申し訳ないが、隕石に当たる確率と変わらん」

「当たるから! 僕なら当たるから! 本当に命中したら怖いけど……でも一生懸命捜せば、隕石が頭に当たる事もあるよ!」

「落ち着け、御曹司。隕石に当たる事が目的ではないぞ」

「朧が変な事を言うから、話題が隕石に飛んだんだよ! 僕は『魔法や妖術を無効化できる魔法使い』を捜すんだ! 隕石を見つけたら朧にあげるよ!」


 興奮した奏が声を荒げるも、朧は冷静に冷麦を食べていた。

 はあ~と溜息をついて、奏も平静を取り戻す。

 因みに――

 『魔法や妖術を無効化できる妖怪』を捜しても意味がない。

 狒々神に妖術が効かないからだ。

 現世うつしよに受肉した禍津神マガツガミを超越したマリアに、妖怪の妖術が通用する筈がない。然し『魔法や妖術を無効化できる魔法使い』なら話は別だ。マリアに尋ねても、「私に効くかどうか分からない」と答えていた。それだけで十分に捜す価値はある。


「とにかく。双方が禍津神マガツガミや怪異の調査を進め、『魔法や妖術を無効化できる魔法使い』を捜し出す――という条件で、先生と和睦したばかりなんだ。軽はずみな行動で和睦をぶち壊さないように。これも上意だからね」

粗相聊爾そそうりょうじなくと……儂の得意分野じゃ」

「嘘をつけ」


 奏が突っ込むと、朧は大仰に肩を竦めた。「戯れの通じぬ主よ」と愚痴を零しながら、朧は話を促す。


て……もう一つの望みは?」

「薙原家の政を改善する」

「……」

「本当は使徒を人間に戻したいんだけど……『妖怪を人間に戻す魔法使い』を捜す余裕がない。だから薙原家が抱える問題を解決する」

「御曹司……まだ左様な事を申しておるのか」


 朧は露骨に美貌をしかめた。


「薙原家の政を正して如何致す? 彼奴きゃつらは駆逐くちくすべき敵じゃ」

「蛇神の使徒も妖術に目覚めるまでは、普通の人間と何も変わらないんだ。人間を食べる事に忌避感を抱く娘も多い。それに子供は処断できないよ」

「薙原家の女童めのわらしは、例外なく妖怪となる。人を喰らう化物に変わる。それでも御曹司は、薙原家を守ると?」

「そうだよ。僕は『共同体みんな』を守りたい」

「御曹司の申す『共同体みんな』は、欲深い年寄衆も含まれておるのか? 今でも饗会きょうらいなる儀式で人間を喰い散らかしておるぞ。加えて人が定めた法を犯し、多くの奴婢を買い集めておる。もう一度問おう。それでも薙原家を守るか?」

「それでも薙原家を守るよ」


 奏が即答すると、朧は眉根を寄せた。


「御曹司……」

「僕は理想論や綺麗事の為に、薙原家を守るつもりはない。蛇孕村を守る為に、薙原家を守るんだ」

「如何なる意ぞ?」


 朧が怪訝そうに美貌を歪めた。


「蛇神の使徒がいなくなると、蛇孕村がどうなるか……考えた事ある?」

「……」


 質問に質問で返されて、朧は返答に窮した。


「例えば油壺家。油壺家は、蛇孕村の物流を差配している。複数の『職人集落』が生活に必要な物資を製造し、油壺家の使徒が『惣転移そうてんい』で蛇孕村に物資を運び込む。逆に蛇孕村は、『職人集落』に『惣転移そうてんい』で生活必需品や原材料を送り込む。で……突然、油壺家の使徒がいなくなると、蛇孕村と『職人集落』はどうなると思う?」

「……」

「先ず蛇孕村は、極供給能力不足ハイパーインフレに陥る。物価の高騰は、蛇孕神社と本家の力で抑制できるよ。『神符』の支出を抑えて、住民から『神符』を徴税すればいい。でも蛇孕村の物流は滞り、住民に生活必需品が行き渡らなくなる」

「……」

「それでも穀物の備蓄があるから、蛇孕村が飢えで苦しむ事はない。その代わり、『職人集落』が飢饉で壊滅する。『職人集落』に食料を運ぶ手段がないからね。蛇孕村から『職人集落』に続く道を拓くまで何年掛かるか……油壺家の使徒が不在というだけで、何百何千という人が死ぬ」

「……」

「郁島家の使徒がいなくなれば、山の管理ができなくなる。山は天然資源の宝庫だ。肥料(枯れ草)・飼料(雑草)・燃料(枯れ木や流木)・食料(山菜や鳥や獣)・衣料(植物の繊維)を始め、染料・薬種・用水(灌漑事業や生活に使う水)・用土(普請に使う埋め立て用の土砂)・鉱物など、多種多様な資源が存在する。これらの資源を管理できなくなれば、蛇孕村の供給能力が低下する。やはり蛇孕村は、極供給能力不足ハイパーインフレに陥る。肥沼家の使徒がいなくなれば、蛇孕村は医療崩壊を引き起こし――」

「もうよい。講釈など聞きとうない」


 朧はサイバー義肢を挙げて、奏の言葉を遮った。

 良くも悪くも朧は、生粋の武芸者だ。政治や経済に関しては、符条やおゆらより英才教育を受けてきた奏に遠く及ばない。


「先生も薙原家を壊滅するつもりだけど……どうして過激な方法を選びたがるのかな? 革命や改革なんて悪魔崇拝者の遣り口だ。後先考えずに政変を起こして、蛇孕村の住民に迷惑を掛けないでくれ。政の問題は、きちんと政で解決する。薙原家の問題は、僕の手で解決する」

「で……具体的に薙原家の何を改善致す?」


 朧が冷麦を啜りながら尋ねると、奏は我が意を得たりと微笑んだ。


「先ず人喰いと人身売買を禁止する」

「ぶほっ――」


 唐突な発言に驚いて、朧は再び冷麦を吐き出した。


「大丈夫?」

「儂の事は気に致すな。それより仔細を申せ」


 冷麦を吐き出す姿を二度も見られた朧は、珍しく頬を赤く染めて、妖艶な美貌をサイバー義肢で隠しながら、話の続きを促す。


「あー……うん。要するに、餌贄えにえに代わるものがあればいいわけで。餌贄えにえの代替物があれば、人喰いや人身売買も止められるなって」

「斯様に都合良きものが、その辺にあるものか」

「あるある。朧は気づかない?」

「?」

「先生も気づいてなかったからなあ。そういうものなのかなあ」


 困惑する朧をよそに、奏は顎に手を当てて考え込む。


「え~と、狒々神討伐の前に、蛇孕神社の下拝殿に赴いて、マリア姉から色々な話を聞いたんだけど」

「存じておる。アンラの予言が、初代の无巫女アンラみこの創作やら。蛇女が再来年の元日に拘る理由やら。訊いてもおらぬのに、クソババアが教えてくれたわ」


 あ~、成程……と納得すると、奏は話を先に進める。


「その時、マリア姉が奇妙な話をしてたんだよ。『妖怪は妖怪らしく、共食いでもしてなさい。それが在るべき姿なのだから』って」

「……」


 予想以上にマリアの声真似が似ていたので、朧は反応に困った。


「あの時は、僕も常盤の事で頭が一杯で……深く考える余裕がなかったんだけど。改めて考えてみたら、随分と奇妙な言い回しだよね。『妖怪なら妖怪らしく、人間でも食べていなさい』なら分かるけど。なんで共食いなんて言葉が出てくるのかな?」

「……」

「で――先生に訊いてみたんだよ。妖怪も餌贄えにえの代わりになるのかなって。そしたらドンピシャ。薙原家の歴史の中で、餌贄えにえ不足に耐えきれずに、同胞はらからの屍に手をつけた使徒が、何人かいたんだって。勿論、その者達は罰せられたけど、『神寄カミヨリ』に堕落する事もなければ、肉体が衰弱する事もなかった。つまり――」

「狒々神の肉体で代替能うと」

「やったね、薙原家。長年の悲願が叶ったよ。ぱちぱちぱちぱちー」


 朧がサイバー義肢で美貌を覆いながら呻くように言うと、奏は何事もないように、笑顔でぱちぱちと柏手を打った。


「念の為に、先生に狒々神の肉を捧げて、『睡蓮祈願すいれんきがん』を発動して貰ったよ。普通に発動できた。鐚銭一枚をお願いしたら、空から鐚銭一枚が落ちてきて。先生も凄い驚いてたな~。まあ、でも狒々神の肉が、餌贄えにえと証明できたわけだから。良かった良かった」

「……」

「今回の狒々神討伐で、狒々神の首から下も手に入れたから、心ノ臓や肺を食べる使徒も困らない。狒々神の肉体は勝手に再生するから、餌贄えにえを補充する必要もない。万事解決。いや~、僕も狒々神討伐、頑張った甲斐があったよ」

「……」


 軽い。

 あまりにもノリが軽い。

 然し奏に悪気があるわけではない。

 薙原家の抱える問題を解決できた――と純粋に喜んでいるだけなのだ。


「……薙原家の八百年に及ぶ苦労を一瞬で乗り越えたの」

「そうだね。ああ……でもマリア姉の助言があったからだよ。それとこの話も先生にしないように。『私は、こんな事にも気づかなかったのか……』て絶望してたから」


 奏の声真似が似ている所為か、獺の絶望が朧の胸に迫る。

 符条が気づかないのも無理はない。狒々神を斃せない蛇神の使徒が、狒々神を喰おうと考える筈がないからだ。抑も狒々神は、蟲毒こどくの秘術を使わないと、都合良く現世うつしよに召喚できない。蟲毒の秘術の存在は、符条家の神官と年寄衆しか知らない為、彼女達が気づかないと、永遠に誰も気づかないで終わる。

 勿論、難易度の高い禍津神マガツガミに拘らず、他の妖怪で済ませる事もできよう。例えば河童や天狗なら、蛇神の使徒でも捕獲できるが……妖怪は、外界の人間より数が少ない。抑も河童や天狗の生息域など、蛇神の使徒も知らない事だ。

 結局、蛇神の使徒が餌贄えにえの安定供給を望むなら、外界から買い集めた奴婢の方が無難という結論に辿り着く。それも奏の手で覆されたわけだが――


「今月の評定で、人喰いや人身売買を禁止する。饗会きょうらいは……下人の代わりに、狒々神を喰わせればいいか。それと年寄衆には、死なない程度に報いを受けて貰おう。僕の知らない処で、散々悪事を働いてきたからね。相応の罰を与える。これで薙原家が抱える問題は、半分くらい解決できるんじゃないかな?」

「……」


 は過激な改革にあらずや……と朧は心の中で呟くが、奏が嬉しそうに話すので、無表情で押し黙った。気分の良い時の奏は、無自覚に中二病を黙らせる。


「後は黒田如水や徳川家……美作の牢人衆と、僕が関わる外交問題ばかりだね。これは先生と相談しながら、時を掛けて慎重に進めよう。僕も外交は、先生やおゆらさんに丸投げしてきたからなあ。これからは僕も真面目に遣らないと――」

「分かった分かった。御曹司の好きに致せ」


 政の話に飽きてきた朧は、延々と続きそうな話を遮り、呆れた様子で冷麦を啜る。


「ああ……うん」


 奏は頷きながら、朧のサイバー義肢を見遣る。

 箸で摘まんだ麺が滑り落ちない。

 奏と会話をしている間に、箸の使い方が上達しているのだ。朧がサイバー義肢で真剣を振り回す日も近そうだ。


「然れど雌狗プッタの処遇は別じゃ。何故、処断致さぬ?」

「きちんと処断したよ。ただ『二人目のおゆらさん』が現れて、『一人目のおゆらさん』の屍を裏山に埋めてたけど」

「……蛇女同様、新しい肉体に魂が移ったか。然れど『残鬼無限ざんきむげん』というわけでもあるまい。予備の肉体がなくなるまで、何度でも殺し続けよ」

「気持ちは分かるけど……僕の望みを叶える為には、おゆらさんの知識が必要だ。薙原家の銭の遣り取りを把握し、一度も顔を合わせた事がない黒田如水と頭の中で碁が打てるほどの切れ者。怪異については、先生やヒトデ婆より詳しいくらいだ。それに保険も掛けておきたい」

「儂らが負けた時の保険か?」

「あまり考えたくないけど。超越者衝撃チートショックを防げなければ、『二人目のおゆらさん』に頼るしかなくなる」

「二十万人を救う為に、銀髪や難民の件は忘れると?」

「僕はおゆらさんをゆるせない。彼女には、然るべき報いを受けさせる。でも今は、その時じゃない」


 奏の言葉に怒気が混じった。


「おゆらさんの処遇については、先生とも相談して決めたんだ。全ての役職を解いて、御屋敷の座敷牢に幽閉。加えて先生と千鶴さんは、薙原家の評定に復帰して貰う。分家衆の調停役を務めてきた符条家と、分家衆随一の家蔵を誇る篠塚家。二つの家が組めば、薙原家を掌握できる」


 奏に見限られた時点で、おゆらの支配体制は崩壊していたのだ。

 おゆらは下克上を成し遂げた梟雄だ。他家からの信望など皆無。薙原本家という後ろ盾がなければ、欲深い年寄衆もおゆらから離れていく。加えて年寄衆から権力を奪い取り、符条家と篠塚家が復帰すればどうなるか。慌てふためく分家衆は、符条家に本家への取り成しを願う者と、篠塚家の金銭になびく者の二つに分かれるだろう。おゆらが畏怖と欲望で纏めてきた分家衆を二つに分断すれば、奏も政に介入しやすくなる。即ち一滴も血を流さず、上座を陥とす下克上である。


「僕が剣の稽古に励んだり、本家女中頭や世話役の後任を考えたり……のんびりと中食を食べていられるのも、先生や篠塚家のお陰だ。今や本家の所務や財政は、篠塚家の奉公人に任せきりだよ」

「よいのか、それで?」

「いいんじゃない。千鶴さん……と言うか、篠塚家の先代は、おゆらさんの後釜に千鶴さんを推してるし。それで僕も困らないし」

「成金を本家女中頭に据えるのか? 政が滅茶苦茶となろう」

「流石に千鶴さんに、全てを取り仕切らせるつもりはないよ。向こうも所務は、奉公人に丸投げするだろうし。僕や先生が、所務や財政の監査も行うから。篠塚家が影響力を発揮できるようになるまで、暫く時間が掛かるかもね」


 あまり千鶴に期待していないのか、奏は軽い口調で言う。


雌狗プッタがおらねれば、本家の所務が滞ると聞いたが――」

「滞るだろうね」

「?」


 奏の真意を掴めず、朧は眉根を寄せた。


「いずれ……いや、すぐに行き詰まると思う。でもそれでいいんだよ。薙原家は、停滞する事を覚えた方が良い」

「如何なる意ぞ?」

「薙原家の政は異常だった。伯母上然りおゆらさん然り……特定の誰かに全てを任せて、他の者達は権力争いに集中する。これで薙原家が良くなるわけないよ。政で問題が起これば、みんなで知恵を出し合うような体制を作らないと」

「……」

「それまで政が停滞するのも、止むを得ない事だと思う。勿論、一ヶ月も二ヶ月も掛かるようなら、僕と先生が相談して解決策を講じるけど。乱世であろうとなかろうと、政の地歩は、上から下に……ではなく、下から上に固めていくべきだ」


 奏は神妙な面持ちで告げる。

 然し朧はぴんときていないようで、小首を傾げたままだった。


「正直、納得能わぬが……御曹司の判断を尊重致そう。然れば、篠塚家が集めた護衛衆は如何いかん? くだんの魔法使いを捜す為に使うのか?」

「いや、魔法使いの捜索に護衛衆は使わない。其方そちらは先生や歩き巫女に任せるつもり。餅は餅屋と言うからね。護衛衆は、狒々神討伐の恩賞を与えて解散。小規模とはいえ、武装した兵隊が蛇孕村に常駐すると、何も知らない民が不安を覚える」

「篠塚家が認めるのか? 彼奴きゃつらが掻き集めた牢人共であろう」

「不承不承という感じだけど、篠塚家の先代は認めてくれたよ。元々向こうが勝手に護衛衆を押しつけてきたんだ。今度は、此方こちらの都合を優先しよう。常盤が目覚めたから、黒田如水と手を組む必要もなくなった。蛇孕村に置いておく必要はないよ」


 因みに奏と篠塚家の先代の遣り取りは、千鶴の眷属を用いて行われた。蛇神の使徒は、遠方の人物と対話する時に便利である。


「然し勿体なくないか?」

「勿体ない?」

「確かに護衛衆は、未熟者ばかり。然れど御曹司の手駒が増えた事に変わりなし。有事なるものは、いつ起こるか見当もつかぬ。信長公も秀吉公も馬廻うままわりや旗本を増やしておった。常備軍を増強致すは、決して無益に非ず」

「……」

「加えて護衛衆は、薙原家の事情を知り過ぎておる。蛇孕村の外に出れば、薙原家の内情を手土産に他家へ仕官致そう。護衛衆を村の外に出しても、厄介事が増えるだけではないか?」

「……朧の考えは杞憂だと思う」


 朧の話を聞き終えると、奏は黙考してから答えた。


「何故?」

「護衛衆の記憶は、マリア姉の聖呪で改竄している。狒々神討伐の記憶を消し去り、人に害を成す狒々を退治した――という記憶に書き換えた。蛇孕村の地勢も改善し、全く別の村の地理を刷り込んでる。護衛衆が他家に仕官しても、薙原家は何も困らない」

「用意周到じゃの」

「いや、常備軍という発想はなかったけどね」


 それで少し考え込んでいたのか。

 一ヶ月前の奏とは、全く違う。およそ十年ぶりに再会した幼馴染みは、朴訥な若者だった。それが権力を振るう統治者になりつつある。

 最高の主君を得た喜びを感じつつ、朧は小壺の麺汁を飲み干す。


「ああ……でも塙さんと笠原さんは例外。本家に仕官して貰う」

「ほう」

「朧もそうだけど……塙さんと笠原さんは中二病だ。近い将来、魔法を会得するかもしれない。特に塙さんは、すでに魔法を使える可能性が高い。詳しく調べる為にも、本家の側に置いておきたい」

「全ては超越者衝撃チートショックを防ぐ為か?」

「ほんの僅かでも、可能性を高めておきたいんだ」

「……」


 奏が神妙な面持ちで言うと、朧も難しい顔をした。


「他の連中はともかく、儂は御曹司の期待に応えられぬぞ」

「朧は魔法に興味がないの?」

「興味はあるが……御曹司が捜しておるのは、超越者チートを弱め能う魔法使いであろう。儂は超越者チートを弱めたいと思うておらぬ。正面から堂々と出し抜いてこそ幽玄オサレ。斯様な美意識に拘る中二病が、御曹司の望むような魔法を会得しようか。魔法や妖術を無効化する魔法など、会得したとて使いとうない」

「朧が魔法使いになれる――なんて都合の良い事は、僕も考えてないよ。でも万が一、朧が超越者チートを弱体化できる魔法を会得したら……その時は、朧の意志に関係なく利用させて貰う」

「善処致す」

「なんて強情なんだ……」


 奏が眉根を寄せると、朧は愉快そうに嗤う。


「押忍は、御家の再興を望んでおる。否やはあるまい。問題は馬鹿甲冑か」

「当家に仕官するように、塙さんを勧誘しているんだけど……悪名高い薙原家だからね。どう説得したものやら」


 奏が考え込むと、


「本家の若君はおるか!

 吾輩は塙団右衛門直之である!

 本家の若君に御目通り願いたい!」


 本家屋敷の外から、忽然と銅鑼声が響いてきた。

 件の猪武者が、大手門の前で大声を張り上げているのだ。確実に邸内で働く女中衆の耳にも届いているだろう。


「噂をすれば、御本人様の登場じゃ」

「はあ~」


 無邪気に嗤う朧をよそに、奏は何度目かの溜息をついた。

 中二病という生き物は、騒動を起こさないと生きていけないのか。

 奏は慌てて冷麦を食べると、朧と共に大手門へ向かった。




 中食……昼食


 雲燿の四二六六倍……時速二億七〇〇〇万㎞


 太陽の向こう側……ブラックホールの事


 活力……エネルギーの事


 供給能力……物を造る力やサービスを提供する力


 極供給能力不足……ハイパーインフレーション。国家・地域的に物価が極端に跳ね上がる事。本来の供給能力(潜在GDP)が総需要(GDP)を圧倒的に下回る事。国家・地域的に異常な供給能力不足の状態。物価が一年間で百倍以上に跳ね上がった状態。


 家蔵……資産


 馬廻衆……主君の親衛隊


 旗本……主家の直臣

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