第101話 渡辺朧対薙原奏

 本家屋敷の一角に、清冽な空気が流れていた。

 冷たい静寂というわけではない。風に揺れる梢のざわめきや小鳥の鳴き声が聞こえる。奏の住む庵の庭は、生命が奏でる音色で溢れているのだ。

 然し両者の醸し出す緊迫感が、長閑のどかな景観を一変させる。

 奏と朧。

 双方共に赤樫の木剣を構え、神妙な面持ちで相対する。

 奏は木剣を両手で強く握り締め、滑らかな所作で正眼に構えた。

 対する朧も木剣を『両手』で正眼に構えていた。

 先度の狒々神討伐で消し飛ばされた右腕に、機械からくり仕掛けの義手を装着している。間違いなくマリアが開発した玩具だ。具体的な性能は分からないが、曲がり刃と同じように、持ち主の思い通りに動く筈である。

 暫時の後、二つの人影がぶつかった。

 先に仕掛けたのは、意外にも奏である。

 駆け引きも欺きもない。

 緩やかに。

 のんびりと。

 正面からの唐竹割。


 かつ――


 と甲高い音が響き、朧に木剣で受け止められた。

 ね上げられた木刀が弧を描いて、頭部を狙う横薙ぎに変化する。二之太刀も難なく弾かれ、奏は下段から三之太刀を打ち込む。木刀が無防備な右脚に接触する寸前、朧が右脚を上げて躱す。

 正眼からの攻め手を防がれた奏は、木剣を下段に構え直した。

 朧は正眼の構えを解かず、摺り足で対手に近づく。

 二人は試合をしているわけではない。

 雅東がとう流剣術に伝わる組太刀くみたちを実演しているのだ。

 組太刀とは、師匠役と弟子役に分かれて行う型稽古だ。抑も型稽古は、練習試合ではない。定められた攻防を手順通りに行い、剣術の術理を肉体に覚え込ませる為の鍛錬。手順通りに動く型稽古だからこそ、双方共に躊躇なく木剣を打ち込める。

 加えて奏は、弟子役の仕太刀したち

 他流で印可を持つ朧が、師匠役の打太刀うちたちを務めている。

 奏に型稽古を提案したのは、意外にも朧であった。

 半ば日課と化していた稽古の最中、朧が「雅東がとう流の剣術を拝見したい」と言い出した。奏から「大将の剣を学びたい」と言われた事を気にしていたようで、朧なりに指導方法を考え直したいという。

 特に拒否する理由がない――どころか、刃挽刀で本身の太刀を受け払うという荒稽古から解放される。

 奏は剣術の型を実演しようとしたが、朧に「不要」と断られた。


「御曹司の一人芝居(型)など見学しても参考にならん。組太刀の方が、雅東がとう流の術理を理解しやすい」

「そうかもしれないけど……他流の遣い手と組太刀なんて危なくない?」

「伽耶様や蛇女の所作を観察してきたからの。如何なる技を使うてくるのか、大凡の見当はつく。ついでに打太刀を任せて貰えまいか」

雅東がとう流の技を知らないのに打太刀やるの?」

「左様」

「打太刀の経験は?」

「ない」

「組太刀の経験は?」

「ない」

「……」

「そう深刻な顔を致すな。なんとかなるじゃろ」


 結局、強引に押し切られる形で組太刀を始めたが……互いに木剣を構えた時、奏は現実を思い知らされた。

 武術の専門家は、軽く打ち合わせをしただけで、他流の打太刀を難なくこなす。寧ろ攻防の手順を定めている為、基本的な技術の差が表れる。木剣の振り方から足の運び方に至るまで、双方の技倆の差が明確に出る。

 無論、此度の組太刀の目的は、奏の成長を計る事ではない。朧に雅東がとう流剣術の術理を理解して貰う事だ。

 少しずつ右足を前に出し、奏も間合いを詰める。仕太刀の間境を探るように、朧も距離を詰めていく。両者の距離が徐々に狭まる。

 奏の右肩が沈み、静かに前方へ進む。

 下段の構えから斬り上げ。

 同時に飛び込んだ朧は、正眼の構えから木剣を振り下ろす。

 両者の木剣が、双方の間で合致する。

 次の刹那、両者が後方に下がった。

 奏が小手を狙い。

 朧が胴を狙う。

 互いに間合いを空けていたので、両者の木剣は空を切った。

 振り抜いた木剣を掲げながら、朧は一刀一足の間合いに入り込む。

 奏は打ち合わせ通り、木剣で唐竹割を受け止める。木剣の峰に左手を添え、木剣の重なり合う部分が支点となり、梃子の原理で朧の首筋に木剣が迫る。

 当然ながら、組太刀に勝敗は存在しない。定められた攻防の手順を守り、最後まで打ち合わせ通りに型稽古を終えた。

 二人は木剣を下げて、間合いを広げて佇立する。

 これで一之組太刀から十之組太刀を終えた。

 二人とも全く息を切らせていない。

 体力を消耗するほど速く動いていないからだ。


「どうですか?」


 奏は不安そうに訊いた。

 勿論、己の技倆について尋ねているわけではない。熟練の武芸者に、雅東がとう流剣術の印象を訊いているのだ。

 暫時、朧は考え込んだ後、


「悪くない」


 雅東がとう流剣術について感想を述べた。


「古き良き鎧武者の太刀打たちうちを受け継いでおる。斯様に太刀を打ち合えば、己の太刀も無事では済まぬが……百年前の武士もののふは、戦場いくさばに太刀を三振りも四振りも携えていたからのう。左様なものと心得ておれば、気後れする事もあるまい」

「ああ……良かった」


 奏は胸に左手を当て、安堵の息を漏らした。


「子供の頃から学んできた流儀だからね。『斯様なものは、実戦の役に立たぬ』なんて言われたらヘコんでたよ」

「然れど斯様なものは、実戦の役に立たぬ」

「またまた~」

「……」


 奏が軽い調子で応えると、朧は真顔で無言を貫く。


「マジで?」

「御曹司は、なんぞ勘違いをしておる。実戦に役立つ武術など有り得ぬ」


 朧は溜息混じりに言った。


「実戦とは、理不尽極まりない地獄よ。此方が太刀を携えれば、対手は槍を携えてくる。此方が槍を携えれば、対手は弓を携えてくる。此方が弓を携えれば、対手は鉄砲を携えてくる。畢竟、確実に実戦で使える技術など存在せぬ」

「……」

「武術とは、理不尽極まりない地獄から生き延びた者共が、何もしないよりはマシであろうと、合戦で得た知識や経験を後世に伝え、偶然の積み重ねを技術に変えたものじゃ。何もしないよりはマシ。如何なる流儀を学ぼうと、の現実は変わらぬ」

「……」

「尤も御曹司は、武を語る以前の問題じゃ。流儀の『型通り』が能わぬゆえ、流儀の『型破り』も能わぬ」

「型通り? 型破り?」


 言葉の意味が分からず、不思議そうに首を傾げた。

 朧は難しい顔で、左手を顎に当てて考え込む。


「ふむ……儂と立ち合うてみるか?」

「ふにゃ!?」

「言葉で説明するより、身体に教えた方が早い。本番に勝る稽古はないぞ」

「無理無理無理! 実力差が有り過ぎて勝負にならない!」


 立ち合いを申し込まれた奏は、ぶんぶんと頭を振った。

 攻防の手順を定めた型稽古と違い、剣術の試合は負傷の危険を孕む。奏の着物にヒトデ婆の眷属が貼り付いている為、『起死再生きしさいせい』で手傷を癒やす事もできるが、木剣でも打ち所が悪ければ即死だ。

 『一人目のおゆら』を殺害してから、食事に気を配るようになり、奏は『惣転移そうてんい』の影響を受けていない。今の奏は危難に遭遇しても、安全な場所に緊急避難できない。


「不安を覚えるのであれば、場定めを設けてもよいぞ」

「例えば?」

「木剣を用いた三本勝負。二本先取した方が勝ち。無論、寸止めを決まりと致す」


 妖艶な美貌に喜色を浮かべて、朧は諸々の条件を並べる。


「相手に木剣を当てたら?」

「当てた方が負け。場定めを破れば、その時点で負けじゃ」


 嘲弄を込めて答えると、木剣を右肩に担いで胸を張る。


「もう少し御曹司を勝ちやすくしてやろう。儂は雅東がとう流剣術の技しか使わぬ。常より遅く動き、常より弱い力で立ち合う。是でも不服か?」


 露骨な挑発に、奏も表情を改めた。

 確かに奏は強くない。それでも男子の意地がある。自分から不利な条件を提示してくる相手に、怖じ気づいて引き下がる事はできない。


「ただの試し合いなら。断る理由はないよ」


 眉間に皺を寄せて言うと、奏は木剣を前に突き出す。

 互いに木剣を軽く打ち合わせた。

 これが試合開始の合図である。

 朧は木剣を正眼に構えていた。

 対手の出方を窺うように、奏も正眼に構える。


 ……いつもと違う。


 注意深く対手を観察しながらも、奏は違和感を覚えた。

 奏の知る朧は、周囲に殺気を撒き散らす剣鬼だ。真剣を片手で持ち、無形むぎようくらいで対手の攻め手を誘い、圧倒的な武威で味方すら畏怖させる。

 然し今の朧からは、全く武威を感じない。

 木剣を諸手で正眼に構える朧は、奏の目からも打ち込みやすく見える。意図的に隙を作り、後の先で返し技や抜き技を狙うつもりか。或いは身体能力の差を見せつけ、強引に先の先を奪うつもりか。

 却って遣りづらいな……という考えは、朧の一閃で断ち切られた。


「面」


 朧が攻め手を宣言した後、頭部に木剣を打ち込む。


「――ッ!?」


 奏は目を丸くした。

 いつの間にか、朧の木剣が頭上で停止していた。


 速い――


 初動の速さが違い過ぎる。

 警戒していた筈が、全く反応できなかった。運足うんそくどころか、体捌きすら捉えきれない。


「……膝落?」

に非ず。儂は型通りに動いただけじゃ」

「……」

「相打ちとならぬよう、対手より二寸五分馬手へズレる。継ぎ足で身体を前に運び、諸手で唐竹割を打ち込む。太刀を打ち込む際は、二の腕を振り上げて、二の腕を振り下ろす。右手で太刀の振りを行い、左手で微細な太刀筋を創る。拳に力を入れず、対手に当てる時だけ手の内を絞める。全て型通りじゃ」

「……」


 奏は呆然とした様子で聞き入る。


「儂の一本で良いか?」

「ああ……うん、勿論」

「ならば、もう一本」


 容易く一本目を先取した朧は、距離を置いて相対する。再び木剣を正眼に構えて、現実を受け止めきれない奏を睨んだ。


「いつまで呆けておる。まだ決着はついておらぬぞ」

「……そうだね」


 対戦相手に注意されて、奏は気を引き締めた。

 立ち合う前から警戒していたが――

 実際に木剣を構えて正対すると、身体能力が違い過ぎて対応できない。朧が普通に木剣を打ち込むだけで、奏の動体視力を軽々と凌駕する。しかもこれで手加減しているというのだ。奏の勝機など皆無に等しい。

 無論、命の遣り取りをしているわけではない。

 あくまでも雅東がとう流剣術の試し合い。練習試合に負けた処で、対戦相手に打ち殺されるわけではない。それに勝ち目がない事は、奏も承知で挑んでいる。

 負けて当然。

 とにかく全力を出し切る。


「ふみゃあ!」


 己を奮い立たせるべく、裂帛の気合いを声に乗せる。


「御曹司」


 妖艶な美貌を歪めて、朧が試合を中断する。


「前から奇異と思うておったが……その掛け声はなんじゃ?」

「気合いの掛け声。マリア姉から『日本武術に伝わる伝統的な掛け声』と聞いてたんだけど……もしかして違うの?」

「――」


 純粋な瞳で見つめられて、朧は返答に窮した。

 全然違う――と一言で切り捨てたいが、『がらああああッ!!』と叫ぶ中二病に指摘されて、どれほどの説得力があるだろう。


「それで気合いが入るのであれば、よいのではないか。儂は中二病ゆえ、礼儀正しい叫び方など知らぬ」

「?」

「それより試合じゃ。先手は譲る。御曹司の好きなように攻めて参れ」

「はい」


 朧に促されて、奏も意を決した。

 抜き技や返し技に固執しても、一方的に攻め立てられるだけだ。此方からも積極的に攻めなければ、普通の練習試合にもならない。


「ふみゃあ!」


 日本武術に伝わる伝統的な掛け声を発しながら、奏は小手打ちを放つ。

 待ち構える朧は、左手に迫る木剣を受けようともしない。僅かに後ろへ下がり、奏の打突を回避する。

 二之太刀。

 三之太刀。

 四之太刀。

 五之太刀。

 六之太刀。

 七之太刀――

 続けざまに木剣を打ち込むが、ことごとく紙一重で躱される。

 奏も我武者羅に木剣を振り回しているわけではない。小手・面・胴と連続技を繋ぎ、突き技で牽制を行う。僅かに右腕を上げて、面を打つと見せかけ、素速く逆胴を狙う。

 それらが全く通用しない。

 朧は正眼の構えを崩しておらず、木剣で打ち払う事もない。

 果敢に攻め続ける奏は、早くも肩で息をしていた。度重なる空振りが、体力を消耗させる。空振りを生み出しているのは、最小限の動きで躱す速さ。

 攻め手を先読みする観察力。攻撃範囲を特定する間積り。神懸かり的な反応速度に、常人離れした身体能力。白砂の庭で戦いながら、床の上を滑るような足運び。


 これほど差があるなんて……


 奏は驚愕を隠しきれない。

 才能の差もあるが、それ以上に技術と経験の差が出ている。

 朧は具足も身につけずに、関ヶ原合戦に参加したのだ。刀槍は言うに及ばず、弓鉄砲を装備した軍隊と戦い、無傷で生還を果たした武辺者。関東の山奥で安穏と暮らしてきた奏とは、生きてきた世界が違う。

 練習試合とはいえ、百戦錬磨の武芸者と対戦しているのだ。

 正攻法では、対手の木剣に掠らせる事すらできない。


 ……少しズルいけど、朧の知らない技を使おう。


 雅東がとう流剣術にも対手の意表を衝く技はある。


「ふみゃーっ!」


 珍妙な掛け声を発しながらも、奏は下段に木剣を振り下ろす。寸止めを想定した打突ではない。朧の左脛に当てるつもりで打ち込む。


「お?」


 軽く驚きながらも、朧は木剣で脚斬りを受け止めた。

 躱そうと思えば躱せたが、場定めに反する意図が読めない。好奇心を覚えた朧は、奏が動きやすいように防御を選んだ。

 奏は木剣を上段に掲げて、一気に間合いを詰めた。

 左半身の姿勢から、妖艶な美貌を狙う横薙ぎ。

 咄嗟に朧は、木剣を掲げて横薙ぎを防ぐ。

 卓越した動体視力を誇る朧でも、至近距離から放たれた横薙ぎは躱せない。両者共に半身の姿勢で、木剣を押し合う鍔迫り合いとなった。

 試合の前に「常より弱い力で立ち合う」と宣言したが、虚勢でも強弁でもない。普段の半分の力を出せば、容易に奏を突き飛ばせる。朧が木剣に力を込めた刹那、前足(右足)が弓手にズレた。


「おお?」


 不意に重心を崩されて、朧は頓狂な声を放つ。

 鍔迫り合いに持ち込むと同時に、朧の右脚の裏に左脚を重ねる。右膝裏に左膝を押しつけ、対手の前足から力を奪う。単純に言えば、膝かっくんの要領である。

 対手の重心が崩れた処で、強引に木剣を押し出した。前足の力を奪われた朧は、堪えきれずに独楽の如く半回転して俯く。無防備な背面を晒す朧に向けて、上段の構えから諸手で打ち込む。


 空振り。


「な……消えた!?」


 忽然と朧の姿が消えた。

 背面を晒して俯いていた朧が、奏の打突に対応できる筈がない。勿論、最後の斬り落としは、首に当たる寸前で止めるつもりだった。寸止めを想定した打ち込みでも、確実に一本奪えると確信していたのだ。

 だが、完全に対手の姿を見失い、奏は左右を見回す。


「途中までは悪くなかったぞ」

「わああああッ!?」


 急に背後から声を掛けられ、奏が驚きながら振り返る。

 姿を消した朧が、何食わぬ顔で奏の背後に佇立していた。

 狼狽する奏が木剣を構え直すと、朧は妖艶な笑みを浮かべた。


「相手が並の武芸者であれば、御曹司でも一本取れたかもしれぬ。惜しかったの」

「どうやって躱したの?」


 試合の途中であるにも拘わらず、奏は呆然と尋ねていた。


「倒されて俯いた時、地面に左手をつけて、反動で馬手に跳んだ。御曹司が諸手右上段から打ち込もうとしていたのは、突き飛ばされる前から気づいておったからの」


 諸手右上段とは、刀を頭上に掲げて、右足を前に出す構えだ。

 利き足から踏み込み、全力で刀を振り下ろす。土壇場で科人とがびとの首を刎ねる時も諸手右上段。斬撃の威力に特化した構えと言える。


「突き飛ばされる前から!? なんで!?」

「鍔迫り合いの時、御曹司の右足が前に出ておった。無意識であろうが……利き足で踏み込んだ方が力を込めやすい。鍔迫り合いなら尚更じゃ」

「……」

「加えて間合いを詰め過ぎたの。諸手左上段から打ち込むと、間合いが広うなる」


 諸手左上段は、左足を前に置いて、刀を右斜めに構える。

 刀で斬り込む際、左半身の姿勢から左足で踏み込み、限界まで左腕を伸ばす為、片手打ちのように間合いが伸びる。換言すると、互いに身体を近づけた状態で、打ち込みの間合いを広げても意味がない。


「鍔迫り合いで上段に突き飛ばせば、仕上げは斬り落とししかあるまい。諸手右上段から、背面より首を狙い……理に適おうと思えば、選択肢も限られよう」

「……」

「上段の構えは、振り上げた両腕が左右の視界を遮る。諸手右上段なら、馬手は死角となろう」


 傲岸な態度で言いながら、朧は木剣を下段に構えた。


「畢竟、御曹司が木剣を振り下ろす直前、馬手の死角から回り込み、無防備な背後を取った。常より遅く動いたが……儂の姿を見失ったか。やはり観の目を養う修練は、続けた方が良さそうじゃの」

「くっ――」


 刃挽刀で真剣を受け止める稽古は、これからも続けるのか。

 奏は軽く絶望しながらも、改めて眼前の相手に集中する。


さても偖も型にない技よ。雅東がとう流の奥義か?」

「一応、雅東がとう流の免許皆伝なんで」

「カカカカッ、義理許しであろう?」

「……」


 朧が嘲笑すると、奏は不快そうに押し黙る。

 日本の武術では、弟子が未熟でも免許を与える事がある。弟子から金銭を受け取り、未熟と知りつつも免許を与える金許かねゆるし。何らかの事情で、弟子の技倆に関係なく免許を与える義理許ぎりゆるし。大名諸侯の武術の免許は、殆どが義理許しである。弟子の技倆を認めたうえで、免許を与えると術許じゅつゆるし。当然、朧は覇天流兵法の術許し。

 然し奏が与えられた免許は、金許しでも義理許しでも術許しでもない。

 萌え許しだ。

 超越者チートの指導に従い、「ふみゃあふみゃあ」と素振りをしていたら、勝手に「何も教える事がない」と錯覚したマリアが、奏に雅東がとう流兵法の印可状と奥義を与えたのだ。

 お陰で奏は、薙原家の者達から『雅東がとう流兵法免許皆伝で義理許し』だと思われている。今も恥ずかしくて「実は萌え許しです」と答えられない為、真相は永遠に闇の中だ。

 因みに――と朧が述べた後、躊躇なく間合いを詰めてきた。


「儂が先程の技を真似ると……斯様に型を破る」


 軽い調子で言いながら、下段の構えから脚斬りを打ち込む。

 奏も木剣を下段に打ち込み、両者の間でぶつかりあう。

 朧なら後退して躱すという選択肢もあるだろう。然し間積りもできない奏に、体捌きで脚斬りを躱すなど無理だ。反射的に木剣で受け止めるしかない。

 間髪を入れず、朧は左半身の姿勢で飛び込み、がら空きの上体に袈裟斬りを打ち込む。 咄嗟に木剣を高く掲げて、諸手の袈裟斬りを受け止めた。

 またしても鍔迫り合い。

 朧の意表を衝く為に、奏が仕掛けた連続技を真似ている。他者の技を盗むのは、覇天流の真骨頂だ。奏より正確に対手を誘導し、鍔迫り合いまで持ち込まれた。


 早く後ろに跳んで逃げないと――


 奏が後退する寸前、前足を弓手に崩された。左膝裏に右膝を当てられ、弓手に押し出されたのだ。重心を後ろ足に移し、なんとか転倒を免れたが、鍔迫り合いから逃れられていない。

 強引に突き飛ばされる事を覚悟していたが――

 奏の予想は完全に外れた。


「え――ッ!?」


 自分でもよく分からないうちに、凄まじい力で後ろに引かれる。

 朧は変則的な脚絡みで奏の前足を崩した後、即座に左手で奥襟を掴み、一気に後方へ引き倒した。

 背中から地面に叩きつけられる衝撃。

 ろくに受け身も取れず、奏は苦悶の息を吐いた。引き倒しの衝撃が肺を圧迫し、軽い呼吸困難を起こしている。

 即座に『起死再生きしさいせい』が発動し、体内を蝕む激痛から解放された。

 奏は呼吸を整えながら、朧に諦観の眼差しを向ける。

 倒れ伏す奏の右隣で蹲踞そんきょし、諸手で木剣を奏の喉元に当てていた。


「対手を倒してから斬りたいのであれば、此方の方がよいのではないか?」


 妖艶な美貌を喜色で歪めて、ぬけぬけと言い放つ。

 奏は返す言葉もない。

 これが命懸けの真剣勝負であれば、喉元に押しつけた刃を軽く引くだけで、気管を斬り裂かれて死亡する。『起死再生きしさいせい』で致命傷を癒やす事もできるが…その時は、改めて首を切断されるだろう。


「敢えて技に名をつけるなら、引き倒し斬りかのう」


 朧は無邪気に嗤うが、奏は瞠目する他なかった。

 改めて朧の実力を見せつけられて、背中に冷たい汗が滲む。

 彼女を甘く見ていたわけではないが、素人の奏に推し量れる筈もなかった。一度見ただけで他流の技を盗むばかりか、奇抜な想像力で改善点を修正し、新しい技術を簡単に構築する。

 驚愕する奏を尻目に、朧が愉快そうに微笑する。


「念の為に訊いておくが……雅東がとう流剣術に斯様な技はあるか?」

「ないです」


 喉元に木剣を押しつけられて、奏は苦しそうに答えた。


「畢竟、場定めに反した儂の負けか。やはり試し合いは性に合わぬ」


 朧は鷹揚に嗤いながら、木剣を肩に担いで立ち上がった。

 場定めを設けた練習試合の勝ち負けに、命の遣り取りを好む朧が興味を抱く筈もない。相手が主君なら尚の事。徹頭徹尾、奏に現実を理解して貰う為の試合だった。

 喉元を押さえつけていた木剣から解放されて、奏が神妙な面持ちで立ち上がる。

 確かに言葉で説明されるより、身体で教えられた方が分かりやすい。今なら朧の発言の意味も、何となく理解できる。


「是が型破りじゃ。型通りを修得致せば、型破りに至るも能う。御曹司の場合、型通りを型通りに能うておらぬ。ただの型無かたなし(形無し)じゃ」

「……」

「何もしないよりマシと申したが、型無しの武術で実戦に挑むなど、他人の手を借りた自害と変わらぬ。大将の剣とやらを考える前に、御曹司は型通りを修めよ」


 奏は立ち上がりながら、朧の言葉を心の中で咀嚼する。


「……基本ができていないから、基本から遣り直せって事?」

「左様」


 朧は鷹揚に頷き、厚めの唇に左手を当てる。


「新しい稽古の内容が決まったぞ。先ず走り込みと真剣稽古」

「やっぱり真剣稽古は続けるんだ……」

「水を恐れる者に、泳ぎ方を教えても意味がない。刃物を恐れる者に、刃物の使い方を教えても意味がない」

「……」

「加えて観の目も養い能う。やはり真剣稽古は必要じゃ」

「……」


 どうしても奏には、真剣稽古で観の目を養えると思えないのだが……実戦の素人は、実戦の玄人の言葉を受け入れるしかない。


「次に型稽古を取り入れる。御曹司の太刀打は、意味もなく雑過ぎる。型通りも能わぬくせに、無駄な所作が多いからじゃ。太刀の振り方や足の運び方。間合いの取り方や重心の移し方。前足を置く位置や手の内を絞る拍子。一から十まで叩き直す」

「……」

「後は素振りじゃ。木剣の素振りを二百本、毎日欠かさず続けよ」

「二百本でいいの?」

「うむ。米付こめつきで二百本……併せて一八〇〇本か。慣れれば小半刻で終わる」

「……」


 米付とは、刀を使う打突の形だ。

 唐竹(切落きりおとし)・袈裟・逆袈裟・右薙(胴)・左薙(逆胴)・右切上・左切上・切上(逆風さかかぜ)を組み合わせると、漢字の『米』に見える。それに『付(刺突つき)』を加えて、九種類の打突を二百回繰り返す。

 勅使河原九郎右衛門は、幼い頃に『抜き』を米付で一八〇〇〇本も遣らされたが……その十分の一でも、未熟な奏には辛い。


「他には、何をして貰おうかの」


 朧が神妙な面持ちで考え込む。


「……お手柔らかにお願いします」


 奏は諦観を込めて呟いた。




 間境……間合いの境目


 場定め……一時的な取り決め


 無業の位……構えてない構え


 後の先……対手の攻撃を防御、回避してから打つ。対手より後に打ち、制する心構え。


 返し技……対手の攻め手を鎬で摺り上げ、対手の反対側を打つ技


 抜き技……打突を躱しながら、対手に打ち込む技


 先の先……対手の『起こり』に攻撃を仕掛ける。相手が動く直前を見極めて狙う。


 運足……足捌き


 二寸五分……約7.5㎝


 継ぎ足……後ろ足を前方の近くまで引き付け、その勢いで前方に跳び出す足捌き


 間積り……間合いの見切り


 小半刻……三十分


 奏が試合で使った技……薙原マリアが、淺山あさやま一傳齋いちでんさい重晨しげあきの『阿吽あうん』を盗んだ技。明治時代になると、淺山一傳流の『阿吽』が、警視けいし木太刀形きだちかたの六本目に選定される。

 技の流れを説明すると、


 右脚より歩み寄り、左脚を一歩引いて、えいと対手の脛を斬る。

    ↓

 対手が太刀を巻き上げんとする為、右足左足と摺り込み、対手の太刀を平にて軽く押さえ、対手が上段に刀を押し上げた時、相手の右脚の後ろに左脚を踏み込む。

    ↓

 横薙ぎか袈裟懸けで、鍔迫り合いに持ち込む。

    ↓

 対手の右膝裏に左膝を押し当て、両肘を前に押し出す。

    ↓

 片膝かっくんで前足(右足)の力を抜かれ、鍔迫り合いで押し出された対手は、左に回転しながら背面を晒し、俯いて屈んだ姿勢になる。

    ↓

 諸手右上段の構えから無防備な首に斬り下げ。


 引き倒し斬り……淺山一傳流の『阿吽』のアレンジ。奏との試合中に、朧が思いつきで編み出した技。

 技の流れを説明すると、


 右足より歩み寄り、左足を一歩引いて、えいと対手の脛を斬る。

    ↓

 対手が太刀を巻き上げんとする為、右足左足と摺り込み、対手の太刀を平にて軽く押さえ、対手が上段に刀を押し上げた時、相手の右足の後ろに左足を踏み込む。

    ↓

 横薙ぎか袈裟懸けで、鍔迫り合いに持ち込む。

    ↓

 対手の右膝裏に左膝を押し当て、右半身の対手の奥襟を左手で掴み、後方に引き倒す。

    ↓

 片膝かっくんで前足の力を抜かれ、対手は耐えられずに、後方へ引き倒される。

    ↓

 引き倒した対手の喉に刀を当て蹲踞。

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