第101話 渡辺朧対薙原奏
本家屋敷の一角に、清冽な空気が流れていた。
冷たい静寂というわけではない。風に揺れる梢のざわめきや小鳥の鳴き声が聞こえる。奏の住む庵の庭は、生命が奏でる音色で溢れているのだ。
然し両者の醸し出す緊迫感が、
奏と朧。
双方共に赤樫の木剣を構え、神妙な面持ちで相対する。
奏は木剣を両手で強く握り締め、滑らかな所作で正眼に構えた。
対する朧も木剣を『両手』で正眼に構えていた。
先度の狒々神討伐で消し飛ばされた右腕に、
暫時の後、二つの人影がぶつかった。
先に仕掛けたのは、意外にも奏である。
駆け引きも欺きもない。
緩やかに。
のんびりと。
正面からの唐竹割。
と甲高い音が響き、朧に木剣で受け止められた。
正眼からの攻め手を防がれた奏は、木剣を下段に構え直した。
朧は正眼の構えを解かず、摺り足で対手に近づく。
二人は試合をしているわけではない。
組太刀とは、師匠役と弟子役に分かれて行う型稽古だ。抑も型稽古は、練習試合ではない。定められた攻防を手順通りに行い、剣術の術理を肉体に覚え込ませる為の鍛錬。手順通りに動く型稽古だからこそ、双方共に躊躇なく木剣を打ち込める。
加えて奏は、弟子役の
他流で印可を持つ朧が、師匠役の
奏に型稽古を提案したのは、意外にも朧であった。
半ば日課と化していた稽古の最中、朧が「
特に拒否する理由がない――どころか、刃挽刀で本身の太刀を受け払うという荒稽古から解放される。
奏は剣術の型を実演しようとしたが、朧に「不要」と断られた。
「御曹司の一人芝居(型)など見学しても参考にならん。組太刀の方が、
「そうかもしれないけど……他流の遣い手と組太刀なんて危なくない?」
「伽耶様や蛇女の所作を観察してきたからの。如何なる技を使うてくるのか、大凡の見当はつく。ついでに打太刀を任せて貰えまいか」
「
「左様」
「打太刀の経験は?」
「ない」
「組太刀の経験は?」
「ない」
「……」
「そう深刻な顔を致すな。なんとかなるじゃろ」
結局、強引に押し切られる形で組太刀を始めたが……互いに木剣を構えた時、奏は現実を思い知らされた。
武術の専門家は、軽く打ち合わせをしただけで、他流の打太刀を難なくこなす。寧ろ攻防の手順を定めている為、基本的な技術の差が表れる。木剣の振り方から足の運び方に至るまで、双方の技倆の差が明確に出る。
無論、此度の組太刀の目的は、奏の成長を計る事ではない。朧に
少しずつ右足を前に出し、奏も間合いを詰める。仕太刀の間境を探るように、朧も距離を詰めていく。両者の距離が徐々に狭まる。
奏の右肩が沈み、静かに前方へ進む。
下段の構えから斬り上げ。
同時に飛び込んだ朧は、正眼の構えから木剣を振り下ろす。
両者の木剣が、双方の間で合致する。
次の刹那、両者が後方に下がった。
奏が小手を狙い。
朧が胴を狙う。
互いに間合いを空けていたので、両者の木剣は空を切った。
振り抜いた木剣を掲げながら、朧は一刀一足の間合いに入り込む。
奏は打ち合わせ通り、木剣で唐竹割を受け止める。木剣の峰に左手を添え、木剣の重なり合う部分が支点となり、梃子の原理で朧の首筋に木剣が迫る。
当然ながら、組太刀に勝敗は存在しない。定められた攻防の手順を守り、最後まで打ち合わせ通りに型稽古を終えた。
二人は木剣を下げて、間合いを広げて佇立する。
これで一之組太刀から十之組太刀を終えた。
二人とも全く息を切らせていない。
体力を消耗するほど速く動いていないからだ。
「どうですか?」
奏は不安そうに訊いた。
勿論、己の技倆について尋ねているわけではない。熟練の武芸者に、
暫時、朧は考え込んだ後、
「悪くない」
「古き良き鎧武者の
「ああ……良かった」
奏は胸に左手を当て、安堵の息を漏らした。
「子供の頃から学んできた流儀だからね。『斯様なものは、実戦の役に立たぬ』なんて言われたらヘコんでたよ」
「然れど斯様なものは、実戦の役に立たぬ」
「またまた~」
「……」
奏が軽い調子で応えると、朧は真顔で無言を貫く。
「マジで?」
「御曹司は、なんぞ勘違いをしておる。実戦に役立つ武術など有り得ぬ」
朧は溜息混じりに言った。
「実戦とは、理不尽極まりない地獄よ。此方が太刀を携えれば、対手は槍を携えてくる。此方が槍を携えれば、対手は弓を携えてくる。此方が弓を携えれば、対手は鉄砲を携えてくる。畢竟、確実に実戦で使える技術など存在せぬ」
「……」
「武術とは、理不尽極まりない地獄から生き延びた者共が、何もしないよりはマシであろうと、合戦で得た知識や経験を後世に伝え、偶然の積み重ねを技術に変えたものじゃ。何もしないよりはマシ。如何なる流儀を学ぼうと、
「……」
「尤も御曹司は、武を語る以前の問題じゃ。流儀の『型通り』が能わぬゆえ、流儀の『型破り』も能わぬ」
「型通り? 型破り?」
言葉の意味が分からず、不思議そうに首を傾げた。
朧は難しい顔で、左手を顎に当てて考え込む。
「ふむ……儂と立ち合うてみるか?」
「ふにゃ!?」
「言葉で説明するより、身体に教えた方が早い。本番に勝る稽古はないぞ」
「無理無理無理! 実力差が有り過ぎて勝負にならない!」
立ち合いを申し込まれた奏は、ぶんぶんと頭を振った。
攻防の手順を定めた型稽古と違い、剣術の試合は負傷の危険を孕む。奏の着物にヒトデ婆の眷属が貼り付いている為、『
『一人目のおゆら』を殺害してから、食事に気を配るようになり、奏は『
「不安を覚えるのであれば、場定めを設けてもよいぞ」
「例えば?」
「木剣を用いた三本勝負。二本先取した方が勝ち。無論、寸止めを決まりと致す」
妖艶な美貌に喜色を浮かべて、朧は諸々の条件を並べる。
「相手に木剣を当てたら?」
「当てた方が負け。場定めを破れば、その時点で負けじゃ」
嘲弄を込めて答えると、木剣を右肩に担いで胸を張る。
「もう少し御曹司を勝ちやすくしてやろう。儂は
露骨な挑発に、奏も表情を改めた。
確かに奏は強くない。それでも男子の意地がある。自分から不利な条件を提示してくる相手に、怖じ気づいて引き下がる事はできない。
「ただの試し合いなら。断る理由はないよ」
眉間に皺を寄せて言うと、奏は木剣を前に突き出す。
互いに木剣を軽く打ち合わせた。
これが試合開始の合図である。
朧は木剣を正眼に構えていた。
対手の出方を窺うように、奏も正眼に構える。
……いつもと違う。
注意深く対手を観察しながらも、奏は違和感を覚えた。
奏の知る朧は、周囲に殺気を撒き散らす剣鬼だ。真剣を片手で持ち、
然し今の朧からは、全く武威を感じない。
木剣を諸手で正眼に構える朧は、奏の目からも打ち込みやすく見える。意図的に隙を作り、後の先で返し技や抜き技を狙うつもりか。或いは身体能力の差を見せつけ、強引に先の先を奪うつもりか。
却って遣りづらいな……という考えは、朧の一閃で断ち切られた。
「面」
朧が攻め手を宣言した後、頭部に木剣を打ち込む。
「――ッ!?」
奏は目を丸くした。
いつの間にか、朧の木剣が頭上で停止していた。
速い――
初動の速さが違い過ぎる。
警戒していた筈が、全く反応できなかった。
「……膝落?」
「
「……」
「相打ちとならぬよう、対手より二寸五分馬手へズレる。継ぎ足で身体を前に運び、諸手で唐竹割を打ち込む。太刀を打ち込む際は、二の腕を振り上げて、二の腕を振り下ろす。右手で太刀の振りを行い、左手で微細な太刀筋を創る。拳に力を入れず、対手に当てる時だけ手の内を絞める。全て型通りじゃ」
「……」
奏は呆然とした様子で聞き入る。
「儂の一本で良いか?」
「ああ……うん、勿論」
「ならば、もう一本」
容易く一本目を先取した朧は、距離を置いて相対する。再び木剣を正眼に構えて、現実を受け止めきれない奏を睨んだ。
「いつまで呆けておる。まだ決着はついておらぬぞ」
「……そうだね」
対戦相手に注意されて、奏は気を引き締めた。
立ち合う前から警戒していたが――
実際に木剣を構えて正対すると、身体能力が違い過ぎて対応できない。朧が普通に木剣を打ち込むだけで、奏の動体視力を軽々と凌駕する。しかもこれで手加減しているというのだ。奏の勝機など皆無に等しい。
無論、命の遣り取りをしているわけではない。
あくまでも
負けて当然。
とにかく全力を出し切る。
「ふみゃあ!」
己を奮い立たせるべく、裂帛の気合いを声に乗せる。
「御曹司」
妖艶な美貌を歪めて、朧が試合を中断する。
「前から奇異と思うておったが……その掛け声はなんじゃ?」
「気合いの掛け声。マリア姉から『日本武術に伝わる伝統的な掛け声』と聞いてたんだけど……もしかして違うの?」
「――」
純粋な瞳で見つめられて、朧は返答に窮した。
全然違う――と一言で切り捨てたいが、『がらああああッ!!』と叫ぶ中二病に指摘されて、どれほどの説得力があるだろう。
「それで気合いが入るのであれば、よいのではないか。儂は中二病ゆえ、礼儀正しい叫び方など知らぬ」
「?」
「それより試合じゃ。先手は譲る。御曹司の好きなように攻めて参れ」
「はい」
朧に促されて、奏も意を決した。
抜き技や返し技に固執しても、一方的に攻め立てられるだけだ。此方からも積極的に攻めなければ、普通の練習試合にもならない。
「ふみゃあ!」
日本武術に伝わる伝統的な掛け声を発しながら、奏は小手打ちを放つ。
待ち構える朧は、左手に迫る木剣を受けようともしない。僅かに後ろへ下がり、奏の打突を回避する。
二之太刀。
三之太刀。
四之太刀。
五之太刀。
六之太刀。
七之太刀――
続けざまに木剣を打ち込むが、
奏も我武者羅に木剣を振り回しているわけではない。小手・面・胴と連続技を繋ぎ、突き技で牽制を行う。僅かに右腕を上げて、面を打つと見せかけ、素速く逆胴を狙う。
それらが全く通用しない。
朧は正眼の構えを崩しておらず、木剣で打ち払う事もない。
果敢に攻め続ける奏は、早くも肩で息をしていた。度重なる空振りが、体力を消耗させる。空振りを生み出しているのは、最小限の動きで躱す速さ。
攻め手を先読みする観察力。攻撃範囲を特定する間積り。神懸かり的な反応速度に、常人離れした身体能力。白砂の庭で戦いながら、床の上を滑るような足運び。
これほど差があるなんて……
奏は驚愕を隠しきれない。
才能の差もあるが、それ以上に技術と経験の差が出ている。
朧は具足も身につけずに、関ヶ原合戦に参加したのだ。刀槍は言うに及ばず、弓鉄砲を装備した軍隊と戦い、無傷で生還を果たした武辺者。関東の山奥で安穏と暮らしてきた奏とは、生きてきた世界が違う。
練習試合とはいえ、百戦錬磨の武芸者と対戦しているのだ。
正攻法では、対手の木剣に掠らせる事すらできない。
……少しズルいけど、朧の知らない技を使おう。
「ふみゃーっ!」
珍妙な掛け声を発しながらも、奏は下段に木剣を振り下ろす。寸止めを想定した打突ではない。朧の左脛に当てるつもりで打ち込む。
「お?」
軽く驚きながらも、朧は木剣で脚斬りを受け止めた。
躱そうと思えば躱せたが、場定めに反する意図が読めない。好奇心を覚えた朧は、奏が動きやすいように防御を選んだ。
奏は木剣を上段に掲げて、一気に間合いを詰めた。
左半身の姿勢から、妖艶な美貌を狙う横薙ぎ。
咄嗟に朧は、木剣を掲げて横薙ぎを防ぐ。
卓越した動体視力を誇る朧でも、至近距離から放たれた横薙ぎは躱せない。両者共に半身の姿勢で、木剣を押し合う鍔迫り合いとなった。
試合の前に「常より弱い力で立ち合う」と宣言したが、虚勢でも強弁でもない。普段の半分の力を出せば、容易に奏を突き飛ばせる。朧が木剣に力を込めた刹那、前足(右足)が弓手にズレた。
「おお?」
不意に重心を崩されて、朧は頓狂な声を放つ。
鍔迫り合いに持ち込むと同時に、朧の右脚の裏に左脚を重ねる。右膝裏に左膝を押しつけ、対手の前足から力を奪う。単純に言えば、膝かっくんの要領である。
対手の重心が崩れた処で、強引に木剣を押し出した。前足の力を奪われた朧は、堪えきれずに独楽の如く半回転して俯く。無防備な背面を晒す朧に向けて、上段の構えから諸手で打ち込む。
空振り。
「な……消えた!?」
忽然と朧の姿が消えた。
背面を晒して俯いていた朧が、奏の打突に対応できる筈がない。勿論、最後の斬り落としは、首に当たる寸前で止めるつもりだった。寸止めを想定した打ち込みでも、確実に一本奪えると確信していたのだ。
だが、完全に対手の姿を見失い、奏は左右を見回す。
「途中までは悪くなかったぞ」
「わああああッ!?」
急に背後から声を掛けられ、奏が驚きながら振り返る。
姿を消した朧が、何食わぬ顔で奏の背後に佇立していた。
狼狽する奏が木剣を構え直すと、朧は妖艶な笑みを浮かべた。
「相手が並の武芸者であれば、御曹司でも一本取れたかもしれぬ。惜しかったの」
「どうやって躱したの?」
試合の途中であるにも拘わらず、奏は呆然と尋ねていた。
「倒されて俯いた時、地面に左手をつけて、反動で馬手に跳んだ。御曹司が諸手右上段から打ち込もうとしていたのは、突き飛ばされる前から気づいておったからの」
諸手右上段とは、刀を頭上に掲げて、右足を前に出す構えだ。
利き足から踏み込み、全力で刀を振り下ろす。土壇場で
「突き飛ばされる前から!? なんで!?」
「鍔迫り合いの時、御曹司の右足が前に出ておった。無意識であろうが……利き足で踏み込んだ方が力を込めやすい。鍔迫り合いなら尚更じゃ」
「……」
「加えて間合いを詰め過ぎたの。諸手左上段から打ち込むと、間合いが広うなる」
諸手左上段は、左足を前に置いて、刀を右斜めに構える。
刀で斬り込む際、左半身の姿勢から左足で踏み込み、限界まで左腕を伸ばす為、片手打ちのように間合いが伸びる。換言すると、互いに身体を近づけた状態で、打ち込みの間合いを広げても意味がない。
「鍔迫り合いで上段に突き飛ばせば、仕上げは斬り落とししかあるまい。諸手右上段から、背面より首を狙い……理に適おうと思えば、選択肢も限られよう」
「……」
「上段の構えは、振り上げた両腕が左右の視界を遮る。諸手右上段なら、馬手は死角となろう」
傲岸な態度で言いながら、朧は木剣を下段に構えた。
「畢竟、御曹司が木剣を振り下ろす直前、馬手の死角から回り込み、無防備な背後を取った。常より遅く動いたが……儂の姿を見失ったか。やはり観の目を養う修練は、続けた方が良さそうじゃの」
「くっ――」
刃挽刀で真剣を受け止める稽古は、これからも続けるのか。
奏は軽く絶望しながらも、改めて眼前の相手に集中する。
「
「一応、
「カカカカッ、義理許しであろう?」
「……」
朧が嘲笑すると、奏は不快そうに押し黙る。
日本の武術では、弟子が未熟でも免許を与える事がある。弟子から金銭を受け取り、未熟と知りつつも免許を与える
然し奏が与えられた免許は、金許しでも義理許しでも術許しでもない。
萌え許しだ。
お陰で奏は、薙原家の者達から『
因みに――と朧が述べた後、躊躇なく間合いを詰めてきた。
「儂が先程の技を真似ると……斯様に型を破る」
軽い調子で言いながら、下段の構えから脚斬りを打ち込む。
奏も木剣を下段に打ち込み、両者の間でぶつかりあう。
朧なら後退して躱すという選択肢もあるだろう。然し間積りもできない奏に、体捌きで脚斬りを躱すなど無理だ。反射的に木剣で受け止めるしかない。
間髪を入れず、朧は左半身の姿勢で飛び込み、がら空きの上体に袈裟斬りを打ち込む。 咄嗟に木剣を高く掲げて、諸手の袈裟斬りを受け止めた。
またしても鍔迫り合い。
朧の意表を衝く為に、奏が仕掛けた連続技を真似ている。他者の技を盗むのは、覇天流の真骨頂だ。奏より正確に対手を誘導し、鍔迫り合いまで持ち込まれた。
早く後ろに跳んで逃げないと――
奏が後退する寸前、前足を弓手に崩された。左膝裏に右膝を当てられ、弓手に押し出されたのだ。重心を後ろ足に移し、なんとか転倒を免れたが、鍔迫り合いから逃れられていない。
強引に突き飛ばされる事を覚悟していたが――
奏の予想は完全に外れた。
「え――ッ!?」
自分でもよく分からないうちに、凄まじい力で後ろに引かれる。
朧は変則的な脚絡みで奏の前足を崩した後、即座に左手で奥襟を掴み、一気に後方へ引き倒した。
背中から地面に叩きつけられる衝撃。
ろくに受け身も取れず、奏は苦悶の息を吐いた。引き倒しの衝撃が肺を圧迫し、軽い呼吸困難を起こしている。
即座に『
奏は呼吸を整えながら、朧に諦観の眼差しを向ける。
倒れ伏す奏の右隣で
「対手を倒してから斬りたいのであれば、此方の方がよいのではないか?」
妖艶な美貌を喜色で歪めて、ぬけぬけと言い放つ。
奏は返す言葉もない。
これが命懸けの真剣勝負であれば、喉元に押しつけた刃を軽く引くだけで、気管を斬り裂かれて死亡する。『
「敢えて技に名をつけるなら、引き倒し斬りかのう」
朧は無邪気に嗤うが、奏は瞠目する他なかった。
改めて朧の実力を見せつけられて、背中に冷たい汗が滲む。
彼女を甘く見ていたわけではないが、素人の奏に推し量れる筈もなかった。一度見ただけで他流の技を盗むばかりか、奇抜な想像力で改善点を修正し、新しい技術を簡単に構築する。
驚愕する奏を尻目に、朧が愉快そうに微笑する。
「念の為に訊いておくが……
「ないです」
喉元に木剣を押しつけられて、奏は苦しそうに答えた。
「畢竟、場定めに反した儂の負けか。やはり試し合いは性に合わぬ」
朧は鷹揚に嗤いながら、木剣を肩に担いで立ち上がった。
場定めを設けた練習試合の勝ち負けに、命の遣り取りを好む朧が興味を抱く筈もない。相手が主君なら尚の事。徹頭徹尾、奏に現実を理解して貰う為の試合だった。
喉元を押さえつけていた木剣から解放されて、奏が神妙な面持ちで立ち上がる。
確かに言葉で説明されるより、身体で教えられた方が分かりやすい。今なら朧の発言の意味も、何となく理解できる。
「是が型破りじゃ。型通りを修得致せば、型破りに至るも能う。御曹司の場合、型通りを型通りに能うておらぬ。ただの
「……」
「何もしないよりマシと申したが、型無しの武術で実戦に挑むなど、他人の手を借りた自害と変わらぬ。大将の剣とやらを考える前に、御曹司は型通りを修めよ」
奏は立ち上がりながら、朧の言葉を心の中で咀嚼する。
「……基本ができていないから、基本から遣り直せって事?」
「左様」
朧は鷹揚に頷き、厚めの唇に左手を当てる。
「新しい稽古の内容が決まったぞ。先ず走り込みと真剣稽古」
「やっぱり真剣稽古は続けるんだ……」
「水を恐れる者に、泳ぎ方を教えても意味がない。刃物を恐れる者に、刃物の使い方を教えても意味がない」
「……」
「加えて観の目も養い能う。やはり真剣稽古は必要じゃ」
「……」
どうしても奏には、真剣稽古で観の目を養えると思えないのだが……実戦の素人は、実戦の玄人の言葉を受け入れるしかない。
「次に型稽古を取り入れる。御曹司の太刀打は、意味もなく雑過ぎる。型通りも能わぬくせに、無駄な所作が多いからじゃ。太刀の振り方や足の運び方。間合いの取り方や重心の移し方。前足を置く位置や手の内を絞る拍子。一から十まで叩き直す」
「……」
「後は素振りじゃ。木剣の素振りを二百本、毎日欠かさず続けよ」
「二百本でいいの?」
「うむ。
「……」
米付とは、刀を使う打突の形だ。
唐竹(
勅使河原九郎右衛門は、幼い頃に『抜き』を米付で一八〇〇〇本も遣らされたが……その十分の一でも、未熟な奏には辛い。
「他には、何をして貰おうかの」
朧が神妙な面持ちで考え込む。
「……お手柔らかにお願いします」
奏は諦観を込めて呟いた。
間境……間合いの境目
場定め……一時的な取り決め
無業の位……構えてない構え
後の先……対手の攻撃を防御、回避してから打つ。対手より後に打ち、制する心構え。
返し技……対手の攻め手を鎬で摺り上げ、対手の反対側を打つ技
抜き技……打突を躱しながら、対手に打ち込む技
先の先……対手の『起こり』に攻撃を仕掛ける。相手が動く直前を見極めて狙う。
運足……足捌き
二寸五分……約7.5㎝
継ぎ足……後ろ足を前方の近くまで引き付け、その勢いで前方に跳び出す足捌き
間積り……間合いの見切り
小半刻……三十分
奏が試合で使った技……薙原マリアが、
技の流れを説明すると、
右脚より歩み寄り、左脚を一歩引いて、えいと対手の脛を斬る。
↓
対手が太刀を巻き上げんとする為、右足左足と摺り込み、対手の太刀を平にて軽く押さえ、対手が上段に刀を押し上げた時、相手の右脚の後ろに左脚を踏み込む。
↓
横薙ぎか袈裟懸けで、鍔迫り合いに持ち込む。
↓
対手の右膝裏に左膝を押し当て、両肘を前に押し出す。
↓
片膝かっくんで前足(右足)の力を抜かれ、鍔迫り合いで押し出された対手は、左に回転しながら背面を晒し、俯いて屈んだ姿勢になる。
↓
諸手右上段の構えから無防備な首に斬り下げ。
引き倒し斬り……淺山一傳流の『阿吽』のアレンジ。奏との試合中に、朧が思いつきで編み出した技。
技の流れを説明すると、
右足より歩み寄り、左足を一歩引いて、えいと対手の脛を斬る。
↓
対手が太刀を巻き上げんとする為、右足左足と摺り込み、対手の太刀を平にて軽く押さえ、対手が上段に刀を押し上げた時、相手の右足の後ろに左足を踏み込む。
↓
横薙ぎか袈裟懸けで、鍔迫り合いに持ち込む。
↓
対手の右膝裏に左膝を押し当て、右半身の対手の奥襟を左手で掴み、後方に引き倒す。
↓
片膝かっくんで前足の力を抜かれ、対手は耐えられずに、後方へ引き倒される。
↓
引き倒した対手の喉に刀を当て蹲踞。
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