第93話 先生

 奏が田圃から転がり落ちてから、半刻ほどが過ぎている。

 百姓の娘と別れた後、真っ直ぐに蛇孕神社へ立ち寄り、内拝殿で目的の書物を見つけ、本家屋敷へ戻る途中――

 田圃の畦道で、奏の前に獺が立ち塞がった。

 別段、驚きはしなかった。

 符条の眷属が現れるなら、本家屋敷に戻る前と確信していたからだ。奏は右手に書物を握り、憑き物でも落ちたような顔で微笑む。


「御無沙汰しております、先生」

何処どこへ行くつもりだ?」


 挨拶も抜きに、傅役が硬い声で尋ねてきた。


「本家の御屋敷に戻るんです。僕には遣らなければならない事がある」

「『狒々神の生き血は、万病を癒やす薬に候』か」


 獺は書物に視線を移し、呆れたように言う。


「お前……その本の内容を信じているのか? 狒々神の生き血を飲ませれば、常盤が目を覚ますと?」

「……」

「それは肥沼家の先祖が、外界の山伏から聞いた話だ。誰も試した事はない。アンラの予言と同じだ。何の根拠もないデタラメ。願望と希望を履き違えるな」

「四十年前の狒々神討伐の時、誰も試さなかったんですか?」


 足を止めた奏が、怪訝そうに尋ねた。


「数多の同胞はらからが喰い殺されたのだ。狒々神の生き血で傷を癒やすなど、ヒトデ婆でも考えまい」


 獺の言い分に、奏は徒労感を覚える。

 薙原家と対立する符条ですら、人を喰らう妖怪を同胞はらからと言う。同胞はらからの悪行に憤りを感じているが、根本的に価値観が人間と違うのだ。


「それに常盤の身体を蝕んでいるのは、疫病ではない。心の病だ。狒々神の生き血を飲めば、心の病が治るなど……万に一つも有り得ぬ」

「万に一つなんて高望みはしてません。百万に一つで構わない……狒々神の生き血がダメなら、その時は他の方法を考えます」

「お前らしくないぞ。普段のお前なら、与太話を信じたりしない。常盤の事で冷静さをなくしているのだ。いい加減に目を覚ませ」


 傅役が苛立ちを込めてなだめた。

 対する教え子は――

 物憂げな面持ちで、獺の冷たい視線を送る。


「普段の僕ってなんですか?」

「?」

「僕には、普段の僕が分かりません。『冷徹な奏』か『温厚な奏』か……自分でも区別がつかないけど、どちらも僕の本質なんだと思います。でも本質なんて関係ない。普段の僕は、統治者の責任を軽んじてきた。本家の血筋でありながら、薙原家の政に関わろうとしなかった」

「それはお前の責任ではない! 全て沙耶が決めた事だ! お前を庵に押し込め、政に関与させなかった! 御し難いマリアを手懐け、本家の家蔵を増やす為に、実の甥を人質にしたのだ!」


 傅役は厳しい口調で訴える。


「誰が人質のお前を責める! お前は何も悪くない! お前は被害者だ! 妖怪共に利用された被害者! 断じて加害者ではない!」

「でも叛乱が起きた時、僕は自由を手に入れたんです。自分で考えて行動し、その結果に責任を持つ義務が生まれました」


 語気を強める傅役に対し、奏は冷静に応えた。


「『毒蛾繚乱どくがりょうらん』で記憶を改竄されていただろう! 朝から晩までヒトデ婆に監視されていた! 挙句の果てに、おゆらに夜伽を強要されていたのだ! この二年間、お前に自由はなかった! 薙原家がお前の未来を奪ったのだ!」


 奏は目を丸くする。

 これほど感情的に怒鳴る傅役を見た事がない。

 おゆらと同様に、彼女も本心を隠していたのだ。薙原家の暗部から親友の忘れ形見を守る為、優しい嘘を吐いていたのだ。


「それでも僕は、常盤と約束したんです。必ず彼女を守ると……もう僕も元服式を終えたんですよ。先生から見たら子供でも、世間から見たら大人です。いい加減に、自分の言動に責任を持つべきです」

「朧の影響か……お前は中二病を拗らせているだけだ。何年か経てば、その気持ちも消えてなくなる。いつか若い頃を振り返り、己の過ちをかえりみながら生きていく。諸人の一生とは、そういうものだ。豊臣家の血を引いているが……お前は諸人だ。もし伽耶が生きていたら、私と同じ事を言うだろう。母親の意志を無駄にするな。全て私に任せておけ。決して悪いようにはしない」


 言葉を積み重ねるほどに、傅役の口調に焦りがにじむ。

 奏の身を案じているからこそ、焦燥感を隠しきれないのだ。傅役の優しさに感謝しながらも、奏は穏やかな口調で言う。


「結局、僕は中二病になれませんでした」

「……」

「マリア姉のように強ければ、未然に不幸を防ぐ事もできた。朧のように信念を貫く意志があれば、無様に逃げ出す事もなかった。帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスさんのように純粋なら、己の夢に殉じる事もできた。でも僕は諸人なんです。先生の言う通り、大凡の民と何も変わらない。だからこそ現状を変えたいんです。先生には理解できないかもしれませんけど……諸人は残酷な現実に耐えられない。極限まで追い詰められたら、首を吊るしかなくなるんです」

「……」


 奏の切実な想いに、傅役は言葉を失う。


「本当に僕の決断が正しいのか……今でも確信が持てません。天が命じる処をせいい、性にしたがうをみちと謂い、道を修めるを教えと謂う。中庸の教えですけど……天は僕に何も命じてくれなかった。だから僕は自分の道を模索するしかない」

「……」

「天は道を示してくれない。中二病みたいに、己の道を切り拓く力もない。まるで暗闇の中を彷徨い歩いているみたいで……諸人の人生は辛いです。前に進んでいるのか、後ろに退いているのかも分からない。それでも歩みを止める事はできません。立ち止まれば、残酷な現実に負けてしまう」

「……」

「現実に負けたくなければ、足掻あがいて藻掻もがいてジタバタするしかない。僕にできる事は、初めから殆どないんです。だからこそ何度も足掻いて何度も藻掻いて何度もつまづいて、最悪の結末を迎えるまで、見苦しく抵抗する。百万分の一の可能性を十万分の一の可能性に引き上げる」


 奏の話は、夢の世界で獺が話していた事だ。

 獺は奏に明晰夢を見せたが、夢の内容を正確に把握していない。夢の世界の獺は、奏が作り出した虚像。『冷徹な奏』か『温厚な奏』か知らないが、奏が自分で答えを出していたのだ。


「まだ最悪の事態を迎えていません。僕達には、ほんの僅かでも未来を変える力があります。全ての人間が持つ力。最後まで諦めない精神力。明日を変える勇気です」

「やはり朧の影響か? 漫画マンガを読んだ事もない筈が、漫画マンガのような与太話をくどくどと……本当にお前は世間知らずだ。現実が見えていない。外界の諸人を知らないくせに、偉そうに講釈を垂れるな」


 子供の我が儘を叱りつけるように、傅役は声を荒げた。


「いいか。大凡の民は、自分の手で現状を変えたりしない。残酷な現実を突きつけられても、足掻きもしなければ藻掻きもしない。外界の諸人は首を吊りたくないから、現実から目を背けているのだ。何故、豊臣政権が租税貨幣論を理解していながら、不換紙幣を発行しないか分かるか?」

「……」

「政府の負債という形で不換紙幣を発行すれば、日ノ本の有効需要を満たし、今より国内総生産を引き上げられる。国内の供給能力を高めれば、日ノ本を主権通貨国に変える事もできよう。失業者が減れば、治安も回復する。然し豊臣秀吉も徳川家康もやらなかった。なぜか? 不換紙幣を発行すれば、畿内の頭取衆が困るからだ」

「……」

「畿内の頭取衆は、米相場で莫大な利益を得ている。米の価値は豊作不作、さらには地域ごとに異なる。豊作の地域から安値で米を買い集め、不作の地域に高値で売り捌く。これを繰り返すだけで、畿内の頭取衆は濡れ手に粟だ」

「……」

「万が一、日本各地で豊作が続いても、豊臣政権が金賦かねくばりを行う。秀吉が諸大名に黄金きがねを配り、『米安金高』を『金安米高』に戻す。逆も然り。豊臣政権が全国に米を配ろうが、金を配ろうが、米と金を蓄える頭取衆は、絶対に損をしないという仕組みだ」

「……」

「然し豊臣政権が兌換紙幣の発行を止めて、不換紙幣を発行すれば――金銀米と紙幣が兌換できなくなれば、頭取衆は銭儲けの手立てを失う。頭取衆は既得権益を守る為に、豊臣政権に圧力を掛けて、不換紙幣の発行を阻止し続けてきたのだ。豊臣政権の中枢を担う諸大名も、織田信長が生きていた頃から、頭取衆から銭を借りてきた恩がある。頭取衆の意向を無碍にはできない。内府も含めてな」


 奏は状況も忘れて、獺の話を無言で聞き入る。


「加えて豊臣政権も、貧富の格差を解消できない理由がある。まだ刀狩りを終えてない」

「……」

「外界を知らぬお前は、想像もできないだろうがな。外界では、誰も彼もが刀を帯びて歩いているのだ。決して比喩表現ではない。武士も僧侶も神官も商人も職人も小作も……童以外は、皆刀を携えて外出する。斯様な状況で、権力者が所得格差の是正に努めると思うか?」

「……」

「真宗門徒兵や雑賀衆や根来衆……例を挙げたらりがないほど、権力者達は武装した民衆に苦しめられてきた。武家が百姓に愛着など抱く筈がない。寧ろ武力であれ、財力であれ、民から力を奪わなければ、謀叛を恐れる武家の不安は拭い切れん。如何なる大義名分を掲げようと、武家社会など軍事独裁政権。民衆の武装解除を終えなければ、武家は不換紙幣を発行しないだろう」

「……」

「民も民だ。信長や秀吉に対する恐怖が心魂に達し、軍事政権に抗う事もできない。『三好経世論』の写本を読んでいながら……武家や頭取衆の横暴を承知していながら、所得格差の是正を訴える事もできない。聚楽じゅらくの壁に落書らくしゅをするのが精々。漫画マンガ板芝居アニメの中で、民主制について語るのが精々。おゆらではないが……俗物共(武家と政商)の支配を受け入れた意志なき傀儡かいらいだ」


 当時の世情を示す興味深い話がある。

 九州征伐を終えた後、秀吉は聚楽建設や北野きたの大茶会だいさかい東山大仏殿建立ひがしやまだいぶつでんこんりゅうなど、豊臣政権の権勢を誇示する催事さいじを催していた。特に大仏殿建立は、聖武天皇しょうむてんのう以来の偉業である。

 誇張表現も多いが、ルイス・フロイスの『日本史』によれば、『人々は自身を仕合わせ者と呼び、随喜ずいきの涙を流した』とある。百年以上続いた戦国乱世を終結させ、天下泰平に導いた豊臣秀吉に感謝し、京都の民が泣いて喜んだというのだ。然し『日本史』には、先述と相反する記述もある。『上下の別なく、人はおそおののいて暮らしている』と――日ノ本の民は、豊臣秀吉を恐れていた。正確に言えば、織田信長や豊臣秀吉など、武家の支配者を恐れていた。比叡山や上京かみぎょうの焼き討ち。真宗門徒や謀叛人の根切り。敵将を葬り、家臣をほうり……民衆の視座に寄れば、敵味方関係なく暴れ回る天魔鬼神てんまきじん――理解不能な化物に他ならない。信長の後継者足る秀吉も同様に見えただろう。穿った見方をすれば、信長より秀吉の方が理解しやすい為、『織田信長より対処しやすい祟り神』の降臨に安堵し、随喜の涙を流したのだろうか。どちらにしても、信長や秀吉の武威に屈服し、民は自らの意志を持つ事すら止めてしまった。

 獺のような第三者からすれば、日ノ本の民の有り様を苦々しく思うのだろう。民が気骨を以て軍事政権に抗い、漫画マンガの如く民主制を実現すれば、民の意志で権力者を自由に選べる。同時に民が武具を捨てれば、権力争いが内戦に発展する恐れもない。身分の上下を問わず、所得格差の是正や供給能力の向上に努め、日ノ本を主権通貨国に導く。後は民衆が吏僚や大衆媒体に騙されないように、知識と技術を蓄え続ければ、伝説に語られる『戦後復興』や『高度経済成長期』や『国民層中流』や『終身雇用』や『伊弉諾イザナギ景気』も実現できるだろう。

 然し現実の日ノ本は、漫画マンガの景色と異なる。

「政商に頭が上がらない」とか「民が怖い」とか「武士が怖い」というつまらない理由で不換紙幣を発行できず、所得格差を是正できず、経済成長率を高められず、関ヶ原合戦を終えても治安は悪化する一方。主権通貨国を目指す地歩ちほすら固められず、南蛮諸国の侵略に怯える始末。獺が苛立つ理由や黒田如水が天下大乱を望む理由が、漫画マンガを読んだ事がない奏にも想像できた。


「いずれ漫画マンガ板芝居アニメ遊戯箱ゲームも武家に規制されるだろう。内府が天下を取れば尚更だ」

「どうしてですか?」


 本当は民主制について尋ねたい処だが、獺の話を逸らさないように、注意深く冷静に尋ねた。


「内府は中二病ではない」

「――」

「三河武士の気質なのか、頭が堅いのか……私にも理由は分からないが、徳川家で中二病の武士など殆どいない。数寄者オタク趣味に理解を示す者も稀だ。すでに上方では、風紀取り締まりの兆候が出ている」

「……」

「今にして思えば、織田信長や豊臣秀吉が数寄者オタク趣味に寛容過ぎたのだ。民衆が数寄者オタク趣味を通じて賢くなっても、権力者に良い事など何もない。武家社会が完成すれば、中二病も数寄者オタクも弾圧され、民は搾取されるだけの存在に墜ちる」

「……」

「常日頃、お前が語る『共同体みんな』の正体がこれだ。私利私欲にはしる俗物共と意志なき傀儡の群れ。それ以上でも以下でもない。それでもお前は、『共同体みんな』とやらを守る為に、屍山血河の修羅道を歩むというのか?」

「はい。そうしないと『共同体みんな』を守れません」

「――」


 奏が平然と答えると、獺が歯ぎしりをする。

 然し傅役の不興を買おうと、奏は『共同体みんな』を守る為に動くだろう。別に難しい理由はない。『共同体みんな』を守る為に行動しないと、脆弱な自分の精神を守れなくなる。自分という『共同体みんなに属する一人』すら守れなければ、本当に大切な者など守れはしない。今の奏のように――心の中で「怖い怖い帰りたい」と呟きなら、平静を装いつつ強敵に挑む。その相手が軍事政権だろうと、狒々神だろうと、心持ちは大して変わらない。


「抑も俗物やら傀儡かいらいやら……他人様ひとさまに難癖をつけて見下すのは良くないです。それではおゆらさんと変わりません。それに僕の進む道が、修羅道かどうかも分かりませんし……ただ常盤を救います。僕が現実に負けない為に、常盤を目覚めさせます」


 奏は儚げな表情で、獺を見下ろす。


「先生の目的は何ですか?」

「薙原家を滅ぼす事だ」


 毫も迷わずに、獺は断言した。


「私は蛇孕神社の神官だ。物心ついた時から、薙原家の所業を見てきた。正直、昔の方がマシだったよ。諸人から妖怪と恐れられ、俗世と交わらずに暮らしていた頃の方が、今より被害も少なくて済んだ。然し世俗の価値観が浸透するにつれ、薙原家は変わった。慢性的な餌贄えにえ不足を補う為に、仕物の依頼を引き受けていた筈が、銭の欲望に取り憑かれて、分家同士で利権争いを始めた。本家は争いを調停するどころか、逆に分家衆の対立を煽る始末。もはや屍を積み上げなければ、薙原家は存続できない。いずれ徳川家とも戦うだろう。今より豊かな暮らしを望む分家衆は、必ず関東の覇権を狙う。関東の武士を一掃し、関東の利権を奪い取る。その為の超越者チートだ。無論、関東だけでは満足できまい。超越者チートの武威を背景に、権益の拡大を求める。二年前の謀叛の際、娘や孫を生贄に捧げたんだ。相応の見返りを期待しているのさ。何も知らない年寄衆が、おゆらに従う理由はそれだよ」

「分家衆に真実を話せば――」

「一年半後に超越者衝撃チートショックが起こるから、権益の拡大を目指しても無駄だと伝えるのか? 収拾がつかなくなるぞ」

「……」


 奏は沈思黙考する。

 超越者衝撃チートショックについて教えた時、分家衆はどうするだろうか?

 蜂の巣を突いたように、混乱するのは確かであろう。然し超越者チートに挑む度胸はない。寧ろ本家に忠誠を示す為、外界から穀物を奪い合う競争でも始めそうだ。この争いに篠塚家が参加すれば、穀物の略奪では済まなくなる。関東の穀物の買い占めに動く。穀物を廻船で大坂に運び入れ、油壺家の『惣転移そうてんい』で蛇孕村へ転移する。

 決して不可能な事ではない。間違いなくおゆらは、蛇孕村に帰還した千鶴を手懐け、篠塚家の先代当主を動かそうとする。千鶴も母親も断らない筈だ。十万人に選ばれる為に、分家衆は蛇の王国を築く為に奔走する。

 確かに獺の言う通りだ。

 奏にも収拾がつかなくなる。


「私も傍観していたわけではない。自分なりにかれと思う事をしてきたつもりだ。金銭欲や物欲は、外界から齎されたもの。外界の知識や倫理観を教え込めば、妖怪にも理性が芽生えるかもしれない。だから薙原家の娘達に、様々な知識を授けた。武家や公家や寺社の作法。大陸から齎された経書。禅宗や伴天連の教え。分かるか? 土着の禍津神マガツガミを奉じる神官が、禅寺の坊主や南蛮寺の伴天連から教えを請うたのだ。外界の仕来りを伝授して貰えれば、信仰も宗派も思想も問わなかった。とにかく外界の知識や戒律を学び、若い娘達に伝えれば、己を律する術を学べると信じていたのだ。本当に甘かったよ。外界の知識や宗教を教えれば教えるほど、若い娘達は過激な思想に取り憑かれた。親の世代より蛇神信仰に執着し、アンラの予言に傾倒する者が増え始めた。私が気づいた時には、取り返しのつかない処まで来ていた。おゆらという魔女が生まれたのだ」

「……」

「誰も魔女を生み出そうなどと考えていなかった。私も奏の世話役に、学問と兵法を教えていただけだ。それも将来、奏の為になると思えばこそ。然し私の他にも、多くの者達がおゆらの才覚に目をつけていた。歩き巫女を統括する帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスは、おゆらに謀略の術を教えていた。悠木家の嫡子として、母親から武術と房事を叩き込まれていたからな。優秀な手駒になると期待していたのだろう。だが、おゆらの才覚は帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスの予想を超えていた。これも結果論に過ぎないが……おゆらは分家の娘達から拷問を受けていた。己の肉体で拷問の技術を学び、ヒトデ婆から経脈けいみゃくを操る鍼術しんじゅつを習い、帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスも手に負えなくなった。誰も望んでいないのに、我々の手で魔女を育てていたのさ」


 忌々しげに、傅役が悔恨の念を漏らす。


「挙句の果てに、薙原家から超越者チートが誕生した。超越者衝撃チートショックを引き起こし、現世うつしよを破滅に導く現人神。日ノ本より十万の民を選別し、蛇の王国を建国するなど……正気の沙汰ではない。マリアを討たなければ、殆どの生類が死滅する。未だマリアを斃す方法を見つけられずにいるが……必ずや超越者チートの弱点を探し出し、マリアを現世うつしよから消滅させる。勿論、おゆらや分家衆も例外ではない。現在の薙原家は現世うつしよに害を齎す存在だ。薙原家の血を引く者は、一人残らず始末する」

「……」

「全てを見届けた後で、私も命を絶とう。それで終わりだ。妖怪の血統は、現世うつしよから完全に消し去る。不幸の連鎖は、私の代で断ち切る」


 熱心な傅役の口振りに、奏は返す言葉を失う。傅役の声音は、慚愧の念と悲壮感で満ちていた。


「だが、お前は違う。薙原家の血を引いているが、妖怪でもなんでもない。間違いなく人間だ。蛇孕村で起きた事を忘れて、外界の権力者から身を隠せば、平穏な人生を送る事もできよう。お前が『共同体みんな』を守る必要はない。お前は自分の事だけ考えて、平穏な暮らしを望んでいいんだ」

「どうして、そこまで僕の事を……」


 傅役の決意に、奏は圧倒されてしまう。

 何故、奏一人を特別扱いするのか?

 薙原家に対する失望もあるだろう。親友の忘れ形見という事もあるだろう。然しそれ以上に、傅役の言葉から強い意志を感じる。


「確かに私は、弱者の気持ちが理解できない。外界に限らず、蛇孕村の俗物共(年寄衆)や意志なき傀儡かいらい(蛇孕村の住民)の気持ちも理解できん。その点では、おゆらと五十歩百歩であろう。然しお前は、妖怪の気持ちを理解していない」


 奏の目を見つめながら、獺が重々しい口調で語る。


「お前の母――薙原伽耶は『残鬼無限ざんきむげん』の使い手だ。誰にも殺される筈がない。天寿を全うしない限り、決して死に至る事はない。十六年前、沙耶が伽耶に秀吉暗殺を命じた。私も他の分家衆も反対したが……最終的に伽耶の意思が尊重された。たとえ返り討ちにされたとしても、新しい肉体に転生するだけ。大坂城に伽耶の死体も残るから、相手に気取られる心配もない。沙耶の望み通り、伽耶の名誉に傷がつくだけ。それで事が収まると、私も年寄衆も考えていた。実際に命じた沙耶もそうだろう。然し我々は、豊臣家を甘く見ていた」

「――」

「日ノ本で最大の版図を誇る織田家を簒奪し、朝廷の権威も手に入れた秀吉は、天下に比類のない人材を揃え、諸国の資源と情報が中央に集まる仕組みを構築した。全国各地で収穫される作物や特産品。鉱山から採掘される金や銀。諸国に流布する風聞に限らず、怪異の噂も集めていた。当時の中央政権は、薙原家より妖術の研究を進めていた。禍津神マガツガミや妖怪だけではない。我々も理解できない未知の能力――魔法についても研究していた。豊臣秀吉を含めて、周りは中二病だらけだからな。研究対象なら掃いて捨てるほどいる。組織的に妖怪討伐を始めた武芸座も、発祥の地は大山崎――京都に近い商業都市だ。挙句の果てに、漫画マンガ板芝居アニメ遊戯箱ゲームなどの娯楽品。南蛮幼姫ゴスロリ運動靴スニーカーなどの衣料品。鉄甲船や大筒を製造する頭取衆と通じている。関東の山奥に潜む妖怪如きが、中央に拠点を持つ最大勢力に敵う筈がなかった」

「――」

「加えて大坂城は、難攻不落の要害だ。信長が手に入れた石山本願寺跡地に、北と西は大和川やまとがわ。東の木津川きづがわに南の大海。天然の水堀に加えて、各曲輪に三十を超える隅櫓すみやぐらと隅櫓同士を繋ぐ多聞櫓たもんやぐら。各曲輪に攻め寄せた兵を馬出うまだしより挟撃する。さらに極楽橋門ごくらくばしもん青屋門あおやもん玉造門たまつくりもん櫻門さくらもん、大手門、京橋門きょうばしもん……六カ所の城門にて籠目紋かごめもんを形成し、天橋立あまのはしだて久天須麻くぶすま神社、伊勢神宮、熊野三山、日ノ御崎、姫路城……畿内を囲む六カ所を抑え、完全なる多重結界を構築した。妖術対策や魔法対策も万全。十万余の大軍や妖怪の群れが押し寄せてもとせない大要塞。伽耶一人ではどうにもならなかった」

「――」

「伽耶が捕らえられたのも、秀吉に見初められたから――というだけではない。当時の中央政権が、研究対象として妖怪を求めていたからだ。特に黒田如水は、秀吉に姫路城を譲渡する前から、怪異の研究に取り組んでいた。刺客を捕縛するように進言したのも、中国で毛利と和睦交渉を進めていた如水だと言われている。伽耶が畿内に入り込む前から、秀吉暗殺計画は中央政権にバレていたのさ」


 恐るべき事実に、奏は息を呑む。

 小寺おでら考高よしたかが秀吉に姫路城を譲り渡したのが、天正七年――天下布武を唱える信長が中央を支配し、中国方面軍の司令官に秀吉が抜擢され、播磨国はりまのくにに侵攻を始めたばかりの頃である。二十年以上前から、如水は中央政権に近づきながら怪異の研究をしていたのだ。事前に暗殺計画が察知されていた件も含めて、情報収集能力に差が有り過ぎる。諜報活動を担当していた帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスは、薙原家の誰よりも情報格差を実感していた筈だ。坂東の山奥で権力争いに励む同胞はらからに愛想を尽かし、博多へ逃げたのも分かる。


「我々も伽耶を捜したが、手掛かりすら見つからない。当時から薙原家も一枚岩ではなかった。本気で伽耶の安否を気遣うのも、私や年寄衆くらいで……沙耶を担ぐ中老衆は、手放しで喜んでいたよ。結果的に政敵を排除できたのだからな。中老衆が勢力を拡大する最中……急に伽耶が帰還したのだ。お前を連れてな」

「……」

「薙原家は大混乱に陥った。本家の血を引く男子を連れてきた事もそうだが……中老衆は伽耶の復帰を恐れた。年寄衆が息を吹き返すのではないかと、沙耶の危機感を煽った。だから沙耶はマリアに命じて、伽耶の身柄を拘束した。表向きは病死と発表し、蛇孕村の外で幽閉したのだ」

「……」

「伽耶もお前も人質に取られた時点で、私は沙耶の軍門に降った。他に道がなかった。中立の立場を捨て、中老衆に加わらなければ、沙耶に近づかなければ……伽耶が幽閉された場所を見つける事もできない。私は沙耶の走狗と成り下がり、沙耶の望む通りに薙原家を動かした。伽耶を救い出す為なら、信念を捨て去る事など容易い。多くの同胞はらからが粛清されても、見て見ぬフリもできる。だが、見つからない! 何年捜しても見つからない!」


 妖怪の慟哭を、奏は無言で聞き入る。


「二年前、私は中立を謳いながら、年寄衆の謀叛を黙認した。ようやく伽耶が幽閉された場所を発見したと、おゆらから聞かされていたからな。今度はおゆらに近づいて、伽耶が幽閉された場所を突き止めようとした」

「……」

「だが、予想外の事が起きた。マリアが沙耶を斬首した。『残鬼無限ざんきむげん』の使い手を現世うつしよから消滅させたのだ」

「……」

「考えたくなかった。信じたくなかった。然し状況証拠が揃い過ぎていた。もはや現実を受け入れるしかなかった。伽耶は幽閉などされていない。私は魔女の虚言に踊らされていたのだ。おそらく沙耶も首を刎ねられる寸前まで、妹を蛇孕村の外で幽閉していると信じていただろう。私も確証を得るのに、一年半も費やしたが……伽耶は十年前に殺されていたよ。道理で捜しても見つからないわけだ。すでに死んでいるのだからな」


 傅役の声音から、絶望と悲壮が滲み出ていた。


「薙原家は絶望しか生まない。その事に気がつくまで、私は三十年余りも掛かった。お前は私と同じ過ちを犯すな。伽耶だけでなく、お前まで死なれたなら、私はどうすればいいんだ……」

「……」


 奏は返答に窮した。

 初めて傅役の弱音を聞いた。

 初めて妖怪の苦悩を聞いた気がする。

 それでも止まらない。常盤を救う為に。蛇孕村の住民を救う為に。『共同体みんな』を守る為に行動すると、奏は覚悟を決めている。

 何も言わずに、獺の横を通り過ぎる。


「お前の母親を殺したのは、お前の許嫁だ」


 然し真実が、奏の歩みを止めた。


「十年前、母親から伽耶を幽閉しろと命じられた時、マリアは独断で伽耶を殺した。あまつさえ伽耶を蛇孕村の外に幽閉したと、沙耶に虚偽の報告をしていたのだ。直接、マリアに訊いたよ。何故、母親の命に背いて殺害したのか……あいつは何食わぬ顔で答えた」


『ラブコメハーレムの主人公に、実家の母親なんかいらないわ。主人公の両親は、海外に出張するか、現世うつしよから消えて貰わないと――天から与えられた試練を克服できない。仮に十八禁のエロゲーだとしても、母親を攻略するとか……気持ち悪いわ』


「気持ち悪いのは、邪鬼眼の中二病だ! 素粒子を支配する現人神など、現世うつしよに存在してはならない! 超越者衝撃チートショックは、現世うつしよの摂理を根底から覆す! 今更、伽耶の仇討ちを望んでいるわけではない! これは生存競争だ! 全ての生類の未来が託されているのだ! それでもお前は、この先に進むというのか?」

「もう決めたんです」


 奏は前方を見据えながら答えた。

 逡巡を振り払うように、力強く歩き出すと、背後から傅役の声が響いた。


「本当にお前は、伽耶とよく似ているよ。頑固で真面目で融通が利かない。母親の記憶などない筈だが……『共同体みんな』の為、『共同体みんな』の為と真顔で語り、挙句の果てに『共同体みんな』とやらを守る為、自ら進んで死地へ飛び込む。残された者の気持ちなど考えもしない」

「……」

「馬喰峠の伐採場に、狒々神対策用の罠を仕掛けている。おゆらの差し金だが……お前が好きに使え」

「先生……」


 奏が驚いて振り返る。


「お前に情けを掛けるのは、これが最後だ。行く道が違うのであれば、もはや躊躇う理由もない」


 獺も振り返り、黒曜石の如き双眸で睨みつける。


「今日よりお前も私の敵だ。心しておくがよい」


 傅役の宣戦布告に、奏は頷いて応じた。

 やがて書物を強く握り締め、奏は前に歩き出す。


「ありがとうございます」


 奏は感謝の言葉は、辛うじて獺の耳にも届いた。


「『人間は希望に打ち勝てぬ』か……」


 諦観を込めて、獺が暗い声で言う。

 『神寄カミヨリ』討伐の前に、朧が何気なく呟いた言葉だ。中二病の戯言と聞き流していたが、彼女の発言は当を得ていた。

 獺は振り返る事もなく、独り立ちした奏を見送った。




 これも予想通りと言うべきか。

 本家屋敷に辿り着くと、大手門の前で朧が待ち構えていた。

 双方共に無惨な姿を晒している。

 奏は泥塗れの狩衣を着ており、落馬でもしたのかという風情だ。

 もう一方の朧は、さらに悲惨な佇まいである。

 右腕を喪失している事にも驚いたが、素人の奏が見ても満身創痍で、とても戦闘を継続できそうもない。今すぐヒトデ婆の荒ら屋に担ぎ込むべきだ。それでも朧は、左手に打刀を持ちながら、凶暴な笑みを浮かべていた。腰に大小を帯びているので、刀を三振りも用意している。

 訝しむ主君に頓着せず、従者が妖艶に嗤う。


「『士別れて三日、即ちさらに刮目して相待あいたいすべし』と申すが……良き面構えじゃ」

「その怪我は……」

「大事ない。右腕を消し飛ばされただけじゃ。一度ひとたび駆けて跳んで……狒々神の首を打つは能う」


 朧は断言すると、左手の打刀を渡した。


「それより合戦へ赴くのであろう? 実際に使うかどうかは別として……太刀の一振りもなくば、格好がつくまい」

「そうですね」


 奏は微笑を浮かべて、二尺二寸の打刀を左腰に帯びた。


「狒々神討伐はどうなりましたか?」

「返り討ちにされた。生き残りは、儂を含めて三十余名。護衛衆の損害が半分近い。それと成金が御曹司を捜しておったぞ」

「僕を?」

「護衛衆は逃げ支度を始めておる。民を村の外に避難させ、狒々神に退却戦を挑むと意気込んでおるが……この村から逃げ出す為の方便よ。配下に押し切られた成金は、御曹司に判断を委ねたいようじゃ」

「敗残兵を掻き集めて、民の護衛を任せると? 馬鹿馬鹿しい。話にならない」


 奏は吐き捨てるように言う。


「護衛衆を御屋敷の虎口に集めてください」

「良いのか? 御屋敷は男子禁制であろう」


 朧が嬉しそうに尋ねると、


「構いません。僕は他の手配をします」


 奏は神妙な面持ちで答えた。

 流石に泥塗れの姿で挑むつもりはない。井戸の水で身を清めて、別の衣装に着替える。その他にも準備が必要だ。


「御曹司――」


 朧の問い掛けに、奏の足が止まる。


「儂はともかく、護衛衆は臆病風に吹かれておる。如何致す所存か?」

「なんとかします」


 振り返らずに言い放ち、奏は屋敷の奥へ向かう。

 主君の後ろ姿を見ながら――

 中二病の武芸者は、唇の端を吊り上げた。




 半刻……一時間


 本家の家蔵……本家の資産


 元服式……成人式


 諸人……圧倒的大多数の民。普通の人。


 不換紙幣……金や銀や米や銅銭と兌換が保障されていない法定紙幣。日本紙幣(日本銀行借入券)の事。金や銀や米や銅銭と兌換が保障されていない法定紙幣。日本紙幣(日本銀行借入券)の事。


 有効需要……貨幣的支出の裏付けを持つ需要。金銭的な支出を伴う欲望として、単なる欲望とは区別される。「有効」という言葉は、貨幣支出(購買力)に基づく。有効需要を増やす方法は簡単。政府が財政拡大に舵を切り、減税政策を続けるだけ。四半世紀もデフレが続く国で、政府が「経済を回せ。消費しろ」と民間に『お願い』しても、「ふざけんじゃねえよ。使う金がねえよ」と一蹴される。逆に政府が支出を増やし、国民の税負担を減らせば、政府に『お願い』されなくても、国民は勝手にお金を回す。当たり前の話である。


 頭取衆……畿内の経済を支配する豪商連合。堺の会合衆が解体し、諸国の豪商を取り込んで再編された。


 上京……戦国期の京都は、北の上京、南の下京しもぎょうと二つの町に分かれていた。上京が富裕層が住む町。下京が貧民層が住む町である。


 伝説に語られる戦後復興や高度経済成長期や国民総中流や終身雇用や伊弉諾景気……大正生まれの日本人は、これら全てを成し遂げました。令和を生きる我々も見習いたいものです。


 吏僚……豊臣政権の奉行衆


 大衆媒体……大手マスメディア


 房事……性行為の技術


 怪異……妖怪や魔法などオカルト全般


 大和川……現在の寝屋川


 馬出……城門前の堀対岸に設けられた小さな曲輪。三方を土居に囲まれ、人馬の出入りを秘匿すると共に、虎口を防御する機能がある。


 籠目紋……六芒星


 小寺考高……後の黒田如水


 天正七年……西暦一五七七年


 二尺二寸……約66㎝

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