第94話 奮起

「一体、いつまで待たせるのだ。我々は急いでいるのだぞ」


 塙が不満そうに愚痴を漏らすが、佐藤も全く同感だった。

 他の護衛衆も同様である。

 千鶴が本家の若君を捜しに出掛けた後、護衛衆は撤退戦の準備を進めていたが、なぜか朧が千鶴を連れて戻り、「本家の御屋敷にて待つように」と言い出した。理由を尋ねても、「儂も知らぬ」の一点張り。雇い主の千鶴も青白い顔で「上意ですわ!」と喚き散らすだけ。

 皆一様に首を傾げたが、雇い主の意向も無視できないので、指示通りに本家屋敷へと向かった。

 本家屋敷の大手門を潜り、ぞろぞろと虎口に入り込んだ時、護衛衆の一人が感嘆の声を漏らした。大手門も見事な造りをしていたが、虎口内部も趣向を凝らしている。縦横二十間の空間を漆喰塀で取り囲み、屋根も立派な瓦葺き。流石に地面は剥き出しの土だが、これで石畳なら大坂城か伏見城だ。

 山奥に隠れ潜む土豪とは思えないほど豪華な造りだが、機能的とは言い難い。城郭の虎口とは、敵方に攻め寄せられた際、最後の防衛拠点となる。虎口を抜かれるという事は、城の陥落を意味する。ゆえに築城する際、虎口の設計に手抜かりは許されない。

 例えば、四方を取り囲む塀の上に、弓兵や鉄砲手を配置し、城内に攻め込んできた敵兵を射殺する。これも虎口の重要な役割だ。然し本家屋敷の塀は、傾斜の激しい瓦屋根。瓦屋根の上に射手を配置する事もできるが……射手の動きが制限されてしまう。実用性を考えるなら、武者走むしゃばしりにするべきだ。射手が動きにくいと、敵兵の包囲殲滅も難しくなる。

 加えて狭間はざまが見当たらない。

 狭間とは、櫓や塀に空けられた穴の事だ。壁や塀などの遮蔽物に隠れつつ、狭間から弓矢や鉄砲で攻撃する。虎口を囲む塀に狭間が存在しないという時点で、敵襲を想定していないも同然。

 朧から「虎口より出るべからず」と言われた時、護衛衆も警戒を強めたが、これでは寺院と変わらない。漆喰塀の美しさに心を奪われても、危機感など抱きようもなかった。

 千鶴と朧が邸内に消えてから、すでに半刻ほど過ぎている。

 いつまで我々を待たせるつもりか?

 薙原家は一体、何を考えているのか?

 誰も疑問に答えられず、時間だけが無為に過ぎていく。


 このままでは、出立前に日が暮れてしまいます。恩賞さえ貰えれば、薙原家のルミアなど見捨てるものを……カブロン!


 心の中で罵倒しながら、佐藤はほぞを噛む。

 不運が重なる。

 関ヶ原合戦で敗北してから、不運が重なり続けている。

 理不尽な現状に、佐藤は不快感を隠せない。

 佐藤さとう片政かたまさは、美濃国の名門――佐藤家の嫡子だった。祖父の佐藤さとう清信きよのぶは、美濃武儀むぎ上有知こうずちを拠点に持つ武将で、美濃国守護代の斎藤家に仕えていた。知行地は上有知こうずち鉈尾山なたおやま城五千貫。石高制に直すと、およそ一万石程度か。同じ時期、織田おだ信秀のぶひでが尾張国守護代の家臣で一万石を領していたので、地位も所領も信長の父親と同じくらい。

 父の佐藤さとう秀方ひでかたは、信長に服属して各地を転戦。後に織田おだ信忠のぶただ付となり、東美濃衆の一員として活躍した。天正十年、本能寺の変が起こると、信長と信忠が横死した為、美濃に引き返して中立を貫いた。山崎合戦の後、羽柴秀吉と織田おだ信孝のぶたかの対立が深まると、秀吉の幕下に入り、武儀郡の大半――二万五千石を宛がわれた。長男が病弱の為、次男の方政が家督を継承。小田原征伐では、豊臣関白とよとみのかんぱく太政大臣だじょうだいじん秀吉ひでよしの馬廻組頭に任じられ、六百人を率いて参加。文禄の役にも参加しているが、名護屋城で秀吉の警護を務めていた為、渡海はしていない。父の死後、河内国かわちのくに八上やかみ郡金田かねだ二万石を宛がわれ、本領と併せて四万五千石に加増。秀吉の意向で織田おだ秀信ひでのぶの寄騎大名となった。信秀は織田信長の嫡孫。織田信忠の忘れ形見である。清洲会議で織田弾正忠おだだんじょうのちゅう家の当主となり、豊臣政権下で岐阜ぎふ十三万石を領し、岐阜中納言と呼ばれていた。

 まさに順風満帆の人生。

 佐藤家の繁栄に陰りなし――と佐藤自身も思い込んでいたが、三年前の太閤薨去から、途端に雲行きが怪しくなる。

 秀吉は晩年、五大老及び五奉行の制度を整え、十一箇条の遺言状を書き残し、諸大名に秀頼への忠誠を誓わせた。

 だが、秀吉の死後一ヶ月もしないうちに、家康が独自の行動を取り始めた。独断で大名同士の婚約や加増宛行を取り仕切り、政治的影響を強めようとしたのだ。利家を含む四大老は、家康の政治行動に猛反発。一時は伏見城(徳川側)と大坂城(前田側)が軍事衝突寸前に陥り、豊臣政権の脆弱さを露呈した。

 その翌年に利家が亡くなると、豊臣家の内部分裂が表面化する。

 武断派七将が、五奉行の一人――石田三成の大坂屋敷を襲撃した。豊臣政権の成立に軍事面で貢献した武断派と、経済政策や統治政策など内政で活躍した文治派は、政権発足当初から政治的に対立していたが、唐入りの戦略方針の違いや武将の賞罰を巡る確執で、両派の溝は埋めがたいものとなった。

 利家という重石をなくした武断派七将は、文治派筆頭の三成に恨みの矛先を向けた。三成は難を逃れるも、家康の介入で事件の責任を取らされ、居城の佐和山城に蟄居。奉行職を解かれて、政権の中枢から追われた。

 前田利家と石田三成という政敵が消えた事で、家康の暴走を止められる者がいなくなった。前田まえだ利長としながに謀叛の嫌疑を掛け、母親の芳春院ほうしゅんいんを人質に取る。京都に広まる家康暗殺の噂を利用し、秀吉の遺言に背いて大坂城に入る。しかも秀頼が住む本丸の天守閣の他に、自分が住む西の丸にも天守閣を建造する。高台院こうだいいんを大坂城から追い出し、自らの権勢を天下に誇示したのだ。

 慶長五年に入ると、会津の上杉景勝に謀叛の嫌疑を掛ける。神指こうざし城の築城や牢人の召し抱え、武具の調達を叛意と決めつけたのだ。

 無論、これも家康の言い掛かりだ。

 秀吉が存命の頃、上杉家は大規模な国替えを命じられていた。関東の徳川家を抑える為に、越後国から会津国へ加増転封である。早急に領国経営を安定させる為に、会津一二〇万石に相応しい居城が必要。家臣団を増やす為にも、牢人の召し抱えは止むを得ない。新築した神指城や増加した家臣の為、新しい武具を仕入れていた。

 同年三月十一日、家康と景勝の関係修復に尽力していた藤田ふじた信吉のぶよしが、直江なおえ兼続かねつぐから『信吉は買収されており、家康と内応している』と讒言ざんげんされた為、上杉家を出奔する。

 同年四月十日、家康は景勝に対して、伊奈いな昭綱あきつな河村かわむら長門ながとの両名を派遣。この時、家康は西笑承兌さいしょうじょうたいに弾劾状をしたためさせている。

 承兌は京都五山の相国寺そうこくじの住持を務め、当時は五山の禅僧を統括する立場だった。秀吉の信頼も厚く、豊臣政権の外交顧問のような役割を果たしており、兼読とも旧知の間柄である。

 弾劾状の内容は、景勝の軍事増強を咎め、異心がないのであれば、誓書を差し出したうえで上洛し、家康に弁明するというもの。

 弾劾状を呼んだ兼続は、承兌に返書を認めている。巷説、家康への挑戦状と言われる直江状だ。返書の内容を纏めると、藤田信吉や堀直政ほりなおまさの言い分を鵜呑みにする一方、景勝には『謀叛の意志がなければ直ちに上洛せよ』と求めるのは、あまりに不公平である。徳川家に讒訴ざんそした者を究明してからでなければ、上洛する事はできないというものだ。

 家康に対する挑戦状かどうかはともかく、直江状は上杉家の公式見解だ。家康は上杉家の公式見解を認めず、ついに会津征伐を決断した。

 同年六月二日、諸大名に会津征伐の陣触れが出され、家康自らが討伐軍を率いると発表した。同時に反対する奉行衆を軍事的に威嚇し、強引に豊臣政権から主命を出させる。同年六月十六日、家康は大坂城を出陣。武断派諸将を率いて江戸へ向かう。会津討伐の準備は着々と進んでいた。

 然し一ヶ月で事態が急変する。

 佐和山城で蟄居していた三成が、大谷義継おおたによしつぐと挙兵したのだ。

 加えて毛利もうり輝元てるもとが一万余の大軍を率いて、瞬く間に大坂城を占領した。家康が大坂城から離れた隙を狙い、秀頼の身柄を確保。三成や義継の軍と合流する。おそらく三成が佐和山城に蟄居した直後から、毛利家の外交僧――安国寺あんこくじ恵瓊えけいを通じ、水面下で輝元と謀議を重ね、捲土重来けんどちょうらいを期す時を待ち続けていたのだ。

 家康不在の状況で、毛利家の大軍に大坂城を占領されては、奉行衆も三成の方針に従うしかない。元々奉行衆も、家康の強硬姿勢に危機感を募らせていた。毛利という後ろ盾を得た事により、家康や武断派諸将に対抗できる。

 三成が義継に謀議の内容を明かしたのは、同年七月一日の事だ。その六日後には、毛利家の軍事力を背景に、豊臣政権に徳川討伐の方針を表明させる。実に鮮やかな政権交代劇と言えよう。

 同年七月十七日、奉行衆は『内府ちがひの条々』を全国の諸大名に発する。家康の非法を十三箇条に書き連ねて糾弾した書状だ。

 内容は以下の通り。


 一、石田三成と浅野長政を奉行職から追い込んだ事。

 二、前田利長を追い詰めて、人質(実母の芳春院)を取った事。

 三、何の落ち度もない上杉景勝の討伐を進めた件で、理非を述べて反意を促したが、聞き入れずに出陣に及んだ事。

 四、忠節のない者に知行を与えた事。

 五、伏見城に自分の兵を入れた事。

 六、五大老・五奉行以外と誓紙を数多く取り交わした事。

 七、北政所きたまんどころ(高台院)の大坂城西丸御殿に移り住んだ事。

 八、西の丸にも本丸と同じように天守閣を建てた事。

 九、自分が贔屓にしている大名の妻子を帰国させた事。

 十、豊臣政権の許可を得ず、勝手に諸家と婚姻を結んだ事。

 十一、若手を扇動して、徒党を組ませた事。

 十二、五大老の連署で処理すべき政務を一人で専断した事。

 十三、側室の内縁を以て、石清水八幡宮の検地を免除した事。


 豊臣奉行衆により糾弾された家康の所業が列挙された後、秀吉の遺命に背く家康を捨て置く事はできない。家康の手で大老や奉行衆が一人ずつ排除されれば、秀頼を守る者がいなくなるという趣旨で、『内府ちがひの条々』は締め括られている。

 この十三箇条に添える形で、五奉行の連署状も発せられた。即ち三成や義継の個人的な意見ではなく、豊臣政権の決定事項であると宣言。秀頼に忠誠を誓う諸大名は、『豊臣政府軍』に馳せ参じるように、と全国に檄文を飛ばした。

 何しろ『内府ちがひの条々』に列挙された非法は、諸大名も知る事実ばかり。大義名分は、大坂城の奉行衆や毛利輝元にある。宇喜多秀家も賛同し、上杉景勝を含めた四大老と五奉行が家康討伐で一致。豊臣正規軍――西軍は十万人近くに膨れ上がり、七月中に畿内を制圧。岐阜城を所有する織田秀信も西軍に参加した為、美濃国も手中に収まる。

 当初、西軍の勢いは凄まじかった。

 秀頼の身柄を確保したうえで、西軍の総大将に毛利輝元を置き、徳川征伐の正当性も確保している。何より豊臣政権の意向だ。実力も正当性も西軍が圧倒的に有利。『内府ちがひの条々』を読んだ諸大名が、続々と大坂城に集結する。

 対する会津討伐軍――東軍は反政府軍に転落した。

 家康や武断派からすれば、三成の挙兵と輝元の軍事行動は寝耳に水。盟友の大谷義継ですら、挙兵の五日前に謀略を知らされたのだ。西軍の真田さなだ昌幸まさゆきが、三成宛に『行動を起こすなら、事前に知らせてほしかった』と書状で不快感を示したほどである。味方も騙し通すくらいだから、家康や武断派諸将は知る術もなかった。

 同年七月二十五日、家康は従軍した諸将を集めて、今後の対策を協議する。

 後の世に謂う小山評定だ。

 先ず家康が、諸将に三成挙兵の事実を伝える。諸将の妻子を人質に取られている為、東軍につくか西軍につくか自由に決めて構わないと伝える。

 重苦しい沈黙が続いた後、福島正則が「大坂の事など気にしない。自分は徳川様に御味方致す」と大見得を切る。この発言が呼び水となり、諸将は家康につく事を申し出た。

 次に会津征伐を取り止め、三成討伐を最優先事項に決定。先鋒として武断派諸将は、尾張国清洲きよす城に終結する事となった。

 続いて遠江国掛川城とおとうみのくにかけがわの城主――山内一豊やまうちかずとよが、家康に居城の提供を申し出た。この発言を受けて、東海道筋の諸将も居城の提供を申し出る。さらに正則が非常用兵糧二十万石も家康に提供すると表明。東海道筋の諸城と兵糧を確保した事で、東軍の軍事展開と前線への兵力投入が容易になった。

 三成討伐で評定を終えると、諸将は清洲城を目指して出陣。家康は、徳川秀忠とくがわひでただ榊原さかきばら正康まさやす大久保おおくぼ忠隣ただちか、本多正信を加えた三万八千の軍勢を任せ、中山道より美濃方面への進軍を命じる。

 家康は江戸城に戻るが、そこから動けなくなった。

 『内府ちがひの条々』が東軍にも伝わり、豊臣恩顧の武将達の動向が不透明となる。突然、豊臣政府軍から反政府軍に転落したのだ。家康はともかく、武断派諸将の動揺は計り知れない。

 反政府軍に転落した武断派諸将が、三成討伐に動いてくれるだろうか?

 寧ろ敵方に寝返るのではないか?

 江戸を留守にすれば、上杉・佐竹の連合軍が関東に押し寄せてくるのではないか?

 石田三成が真田昌幸に宛てた書状には、西軍の戦略の一つが記されている。


『岐阜城主の織田秀信と相談して尾張に出陣する予定だ。尾張清洲城主の福島正則には、西軍につくように説得しているが、正則が承知すれば三河に攻め込む。もし正則が承知しなければ、伊勢征圧中の軍勢と共に清洲城を陥とす。(中略)家康は会津の上杉景勝や常陸の佐竹さたけ義宣よしのぶに備える為、三万の兵を領国である関東の十五の城に振り分ける必要がある。西上するとなれば、関東を守る三万の兵を差し引いた人数にならざるを得ない。上杉家討伐の為に家康に従う豊臣家諸将にしても、秀吉に対する二十年の恩を捨てて家康に味方し、秀頼を粗略に扱う筈がない。大坂で人質に取られている妻子を見捨て、家康に従うであろうか。それでも西上するならば、尾張・三河で討ち取るつもりだ。昌幸は景勝や義宣と共に関東へ攻め込んでほしい』


 実際、三成の読み通りとなった。

 上杉と佐竹を牽制する為、三万八千の徳川本隊を宇都宮に待機させ、家康は江戸から動けない。事実上、西軍の行く手を阻むのは、清洲城に立て籠もる武断派諸将だけ。東軍三万五千と西軍十万余の戦いとなる。西軍が負ける筈がない。

 だが、さらに事態が急変する。

 同年八月十二日、清洲城に籠もる武断派諸将が、国境を越えて岐阜城へ攻めてきた。家康が清洲城に使者を送り、『諸将が美濃に陣取る敵を前に何もしないので、徳川軍も動く事ができない。自分の敵なのか、或いは味方なのか。証明して見せてほしい』と発破を掛けたのだ。家康の剛胆さを示す逸話というより、武断派諸将に西上を急かされて逆上したのだろう。結果的に家康の挑発は奏功し、武断派諸将は隣国へ侵攻した。

 尤も標的にされた織田家は、それほど動揺していなかった。織田軍の兵数は五千余り。三成から送られた増援を加えても、岐阜城には六千しかいない。方や東軍は三万五千である。単純な兵数は六倍近くに及ぶが、岐阜城は堅牢と名高い要塞。籠城戦に持ち込めば、時を稼ぐ事ができる。

 先月に起きた伏見城の戦いでは、西軍四万で城を取り囲んだが、僅か二千の城兵に手こずらされて、攻めとすまで十日も掛かった。

 織田家の場合、伏見城に取り残された鳥居とりい元忠もとただと違い、犬山いぬやま城と大垣おおがき城から援軍を期待できる。犬山城には、西軍に与した石川貞清いしかわさだきよを含む西軍六千。大垣城には、三成の他に島津義弘や小西行長など九州勢が集い、一万四千の兵が詰めていた。

 二日ほど岐阜城で持ち堪えれば、岐阜城・犬山城・大垣城併せて二万六千で、武断派諸将の三万五千を挟撃できる。それでも武断派諸将が抵抗を続けるなら、上方に援軍を求めてもよい。五万を超える大軍を相手に、武断派諸将は為す術もなく壊滅するだろう。


 飛んで火に入る夏の虫。

 大局も読めぬ虚氣うつけめ。

 鬼島津(島津義弘)に首を取られてしまえ。


 織田家中は、無策で飛び込んできた武断派諸将を嘲笑った。

 然し――

 本当の衝撃は、秀信より齎された。

 岐阜城の居館に家臣団を集めると、秀信が緊急会談を始めたのだ。


「レジ袋有料化を決めたのは、私ではありません。どうも。幼名は三法師。織田中納言秀信です。えーと、これから東軍に野戦を仕掛けます」


 何やら軽いノリで、秀信は胡乱な事を言い出した。


「小勢の私達が野戦を仕掛けると!?」

「西軍は三万五千! 此方は六千! 城を出ても勝ち目は非ず!」

「犬山と大垣に使者を送り、後詰を待つしかござらん!」

「岐阜城に籠もり、御味方の援軍を待つべし!」


 佐藤や宿老が猛反対すると、信秀は爽やかに笑った。


「くっきりとした姿が見えているわけではないけど、朧げながら浮かんできたんです。46という数字が。シルエットが浮かんできたんです」

「……は?」

「城に籠もると、岐阜城下が東軍に焼かれます。城下町が燃えると、煙が出ます。煙って意外と知られてないんですけど。煙なんですよね。煙が出ると、地球が汚れます。地球を守る為に、セクシーな総力戦を仕掛けます」

「何を仰っておられる?」

「私は信長公の嫡孫です。でも中央の政治に関わらせて貰えないんです。武功を立てる機会も与えてくれないんです。私も祖父のように、戦場でセクシーに活躍したいです」

「……」

「私が武功を立てれば、五大老に選ばれます。五大老に選ばれたら、岐阜城下にIRを誘致します。それに南蛮寺の施療院――思い切って、病床を半分に減らしましょう。年寄りが長生きしたら、日ノ本の人口が増えてしまいます。日ノ本の人口を半分にしないと、セクシーじゃないです。ついでに中小の座と土倉も再編します。全て一つに纏めて、不採算部門を精算して。業務内容が被る従業員を首にして。座も土倉も身綺麗にして、頭取衆に売り飛ばしましょう。頭取衆に貸しを作りながら、日ノ本の技術を南蛮諸国に売り飛ばします。セクシーな政策です」

「日ノ本の技術を諸外国に売り払うなど……中二病でも左様な真似は致さぬ」

「寧ろ悪魔崇拝者の如き発想……」

「売国奴ではないか」


 慄然りつぜんとする宿老に、秀信はセクシーに応えた。


「中二病とか悪魔崇拝者とか売国奴とか国境とか共同体とか地方自治体とか政府とか。そういう古臭い考えは一掃すべきなんです。私は地球市民グローバリストです。地球市民グローバリストは、地球の為に働くべきなんです。国民の為に働くとか、地球市民グローバリストの遣るべき事じゃないです」

「……」

「それに出世しないと、中央の政治に関わらせて貰えないです。頭取衆も相手にしてくれないです。セクシーに現状を打破しないと、セクシーじゃないです」

「……」


 秀信は滔々と語るが、佐藤や宿老は唖然としていた。


 この若者は何を話している?

 誰が秀信に意味不明な妄想を吹き込んだ?


 全く話が通じない。

 言葉が通じない怪物と対峙しているようだ。得体の知れない恐怖を覚えて、佐藤も宿老も背筋が凍える。


「……申し訳ございません。暫し休憩を挟んでも宜しいですか?」


 耐えかねた佐藤が話を打ち切ると、


「いいですよ。セクシー」


 秀信はセクシーに応じた。

 急遽、佐藤は緊急会談を打ち切り、宿老と談合を始めた。

 秀信は何を考えているのだ?

 支離滅裂で要領を得ないが、己の境遇に不満を抱いているようだ。確かに秀吉は、秀信を政治の表舞台から遠ざけた。織田信長の嫡孫という事もあり、政治的に扱いづらい存在だ。正三位・中納言まで官位を高めたので、粗略に扱われていないが、特に重用もされなかった。

 合戦もそうだ。

 秀信は本当の戦争を知らない。

 十一歳の時、豊臣軍の関東征伐に従軍したが、傅役の堀秀政ほりひでまさの陣でくつろいでいただけで、戦闘に参加していない。一応唐入りにも参戦しているが、織田軍の指揮は宿老に任せ、秀信は名護屋城で待機していた。万に一つも信長の嫡孫を傷つけられない。宿老が過保護に育てた為、秀信は本物の戦争を見た事がなく、合戦を甘く見ていた。

 西軍に加勢するのも、豊臣家の為ではない。三成に「勝利した暁には、美濃・尾張二ヶ国を宛がう」と勧誘されたからだ。岐阜十三万石の大名から、濃尾のうび一一一万石の太守に転身。さらに新政権で五大老の一人に就任。豊臣政権の一翼を担い、自分の思い通りに日ノ本の政治を動かす。

 秀信の妄想は、どこまでも膨らんでいくが――

 東軍を足止めしたくらいで、五大老に選ばれるだろうか?

 自分の将来を思い描いていたのは、岐阜城に籠もる秀信だけではない。豊臣政権に復帰した三成や西軍総帥の座に就いた輝元も、家康打倒後の政権構想を思い描いていた。

 第一に新政府の中枢を確立する。

 大坂城と伏見城を占領した後、畿内の完全制圧を目指す。大谷義継が北陸方面を抑え、毛利もうり秀元ひでもとが伊勢方面を制圧。丹後たんご田辺たなべ城に籠もる細川幽斎を屈服させ、畿内から敵対勢力を排除する。

 戦力を分散する愚策と思われるかもしれないが、早期決着を望むのであれば、政治的にも戦略的にも最善の手段だ。畿内を平定してしまえば、大坂城に『勅使』を招く事ができる。関白とは、天皇から政務を委託された代行職。関白不在ゆえに起きた争乱なら、禁裏に裁可を仰げばよい。後陽成天皇ごようぜいてんのうより『治罰ちばつ綸旨りんじ』を授かる事で、内大臣討伐の正当性を強化する。家康を朝敵に仕立て上げ、反政府軍を賊軍に貶める。

 逆に西軍は、朝廷に認められた官軍だ。

 淀殿の政治信条は、秀信や宿老も分からない。だが、大坂城に『勅使』が入城すれば、西軍に豊臣家の馬印――千成瓢箪せんなりびょうたんの使用も認められるだろう。

 後陽成天皇の勅命を受けた西軍が、赤字の錦の金色日像きんしょくにちぞうが刺繍された錦旗きんきをなびかせ、千成瓢箪を高々と掲げるのだ。

 家康が懐柔の書状を何百枚送ろうと、朝敵に寝返る武将などいようか。寧ろ賊軍の烙印を押された東軍諸将が、助命を求めて降参してくるだろう。それでも東軍が抵抗を続けるなら、徳川・前田抜きで新政権を発足させる。小早川秀秋を関白職に就任させ、関白の意向の下に諸将を従属させるのだ。

 即ち『治罰の綸旨』が発給された瞬間に、西軍の勝利が確定する。

 山崎合戦のように、天下分け目の合戦を行う必要もない。真田昌幸に関東征伐を勧めたのも、家康を関東に留めておく為の布石だ。

 三成と輝元の本当の狙いは、後陽成天皇と豊臣政権から家康討伐の大義面分を得る事。朝廷の権威と豊臣政府軍の軍事力を用いて、家康と武断派諸将を駆逐する事だった。

 それゆえ、畿内制圧を進める西軍は、江戸から動けない家康や清洲で苛立つ武断派諸将より、細川幽斎の動向に関心を寄せていた。

 同年七月十九日に、西軍は細川忠興ほそかわただおきの居城――田辺城の攻略を開始した。会津征伐に参加していた忠興は、丹後の兵の大半を連れて出たので、田辺城に残る城兵は五百。西軍の小野木おのぎ重勝しげかつが一万五千の兵で取り囲んだ為、月末には落城寸前となった。

 だが、公家衆の間で幽斎の助命運動が起こる。

 幽斎は三条西さんじょうにし実枝さねきから古今伝授ここんでんじゅを相伝されており、弟子の一人である八条宮はちじょうのみや智仁親王としひとしんのうや後陽成天皇も幽斎の討死と古今伝授の断絶を恐れており、八条宮を遣わせて降伏を勧めたが、幽斎は討死の覚悟を伝えて田辺城に残った。死を覚悟した幽斎は、『古今集証明状』を八条宮に贈り、『源氏抄』と『二十一代和歌集』を朝廷に献上したという。

 幽斎を討ち取るだけなら簡単だ。然し後陽成天皇や公家衆の恨みを買う。裏を返すと、幽斎を生け捕りにすれば、八条宮や公家衆を動かせる。『治罰の綸旨』発給も容易となろう。

 朝廷より『治罰の綸旨』を授かり、大坂城で新政権を樹立。豊臣家の一門衆と文治派諸将で畿内を治める。秀吉亡き後、三度目の唐入りは有り得ないので、豊臣恩顧の大名を九州に置く理由がない。特に小西行長と立花宗茂たちばなむねしげは、新政権の成立に必要な人材だ。行長の行政手腕を上方で生かし、宗茂の武力を東国安定に使う。

 次期関白職は、小早川秀秋が内定している。

 三成から「大坂中納言様が成人するまでの関白職と上方二ヶ国」という破格の条件を出されており、秀頼の名代という地位も約束されていた。秀頼が成人するまでの暫定措置だが、秀頼に関白職を譲り渡した後も、太閤として影響力を持ち続けるだろう。秀秋が暴走しない限り、五大老と五奉行が関白を支える体制となる。

 また豊臣家が関白職を独占し続けるので、左大臣・右大臣・内大臣の三職を公家衆に返上する。秀吉は諸大名を統制する為、官位の序列を利用していた。自らが公卿くぎょうの最高位――関白及び太政大臣の地位を占め、諸大名に大納言や中納言など公卿の地位を与えた。

 これを武家関白制という。

 その為、公家の公卿就任者が激減。秀吉没後には、家康が公家武家の最高位という異常事態が起きた為、同じ轍を踏まない為の方策だ。

 第二に軍事基盤を確立する。

 政権中枢を守る為、五大老に東国と西国を抑えて貰う。

 五大老筆頭は、西軍の総大将を務める毛利輝元だ。大坂城を占領しただけではなく、四国や九州にも食指を動かしている。

 阿波を領有する蜂須賀はちすか家政いえまさは、嫡男の至鎮よししげに家康の養女を娶らせており、西軍の動きに批判的だった。至鎮も家康の会津征伐に従軍し、武断派諸将と行動を共にしている。その為、大坂にいた家政は、豊臣政権に咎められて逼塞ひつそく。阿波は領主不在の地となり、輝元は毛利軍を渡海させる。同年七月二十九日、奉行衆と連署で家臣の佐波さなみ弘忠ひろただに阿波侵攻を命じた。程なく渡海した毛利軍は、徳島城占領に成功。

 阿波制圧を終えると、讃岐も支配下に置いてしまう。生駒いこま政親まさちかの嫡男――一正かずまさが会津討伐に従軍しており、蜂須賀家政と同じ立場に置かれる。豊臣政権から逼塞を命じられ、難なく讃岐も手に入れた。

 勿論、阿讃あさん制圧の報せは、岐阜の秀信や宿老にも伝えられた。然し版図拡大を目論む輝元は、二ヶ国の加増で満足できない。

 後の話になるが、毛利軍は伊予にも侵攻している。伊予は複数の武将が分割で統治しており、その中で加藤嘉明と藤堂高虎が東軍に参加していた為、正木城と宇和島城の攻略を進める。

 さらに黒田如水の侵攻を防ぐ――という名目で、毛利軍は九州へ渡海。豊前の門司もじ城及び小倉城を占領。次に大友吉統おおともよしむねを遣わし、九州の敵対勢力を寝返らせようとする。文禄の役で改易された大友家再興を支援する形で、豊後も手に入れようとしていたのだ。

 仮に全ての企みが実を結ぶと、毛利家は一〇一万石から二二五万石になる。西軍の長宗我部に領地を与える為、豊臣政権に阿波を返上するかもしれないが、代替地に筑前名島を貰う。これで二三七万三千石だ。瀬戸内海から博多に通じる海上交易を掌握し、豊臣政権で最大の勢力に躍り出る。

 五大老の次席は、上杉景勝で決まりだろう。

 事前に三成や輝元の謀議を知らされていたわけではないが、家康を畿内から遠ざけた功績は大きい。関東に進軍しなくても、戦後に最上もがみ領と伊達いだて領の一部を割譲される予定だ。関東に侵攻できれば、越後も取り戻せるだろう。最低でも一四四万石。最大で二百万石以上。五大老次席の地位は安泰だ。

 五大老の第三席は、西軍の副将――宇喜多秀家で間違いない。豊臣家の一門衆で、小早川秀秋に次ぐ次席。誠実で優秀な人物と評判も良い。すでに伏見城攻略で手柄を立てており、家康討伐が早期決着を迎えても、大幅な加増が見込まれている。播磨はりま・丹後・但馬たじま加増で一一四万石という処か。

 問題は、五大老の第四席と第五席だ。

 現時点で候補者が三人もいる。

 一人は佐竹義宣。

 常陸五十四万石を領有する戦国大名だ。

 新羅三郎義光しらぎさぶろうよしみつを祖とする常陸源氏の嫡流。平安時代から続く名門だが、有力家臣団の独立性が非常に強かった。組織体系も国衆の連合体という趣で、家臣団に組み込んだ国衆の支配も覚束ない。それゆえ、豊臣政権の権威を背景に、国衆の所領で検地を行い、領国支配の強化を目指した。

 義宣の政策は功を奏し、秀吉から五十四万石の安堵を認められ、家中の知行割ちぎょうわりを転換。伝統的な主従関係を断絶させ、佐竹宗家の支配強化を実現する。

 豊臣政権の後ろ盾を得た結果、政務を取り仕切る三成とも関係が深い。風聞によると、三成が武断派七将の襲撃を受けた際、三成を宇喜多秀家の屋敷まで逃がしたという。

 三成挙兵以降、具体的な動きを見せていないので、東軍とも西軍とも言い難いが、家康を関東に引き止めておくだけでも、上総かずさ下総しもうさを宛がわれるだろう。加増宛行分を併せると、義宣の所領は一三〇万石に届く。十分に五大老の資格を持ち得る。

 もう一人は毛利秀元。

 秀元は、毛利輝元の従弟だ。

 毛利輝元の四男――穂井田ほいだ元清もときよの長男として生まれ、実子のいない輝元の養子に迎えられた。秀吉からも輝元の継嗣けいしと認められていたが、輝元と側室の間に松寿丸しょうじゅまるが生まれたので、世嗣せいしを辞退して別家を立てる事になった。

 秀元は豊臣秀長とよとみひでながの娘――即ち秀吉の姪を正室に迎えており、豊臣家の一門衆として扱われていた。それゆえ、秀吉から「秀元が毛利家を継げないのであれば、相応の所領を与えて貰いたい」と強く求められ、豊臣政権も「秀元に出雲いずも石見いわみ(合計三十万石)を与えるように」と裁定を下されている。

 ただし、当時の毛利家には、秀吉の要求に応える余裕がなかった。そこで秀吉の死後、輝元が奉行衆に働きかけ、裁定の見直しに踏み切らせた。

 秀吉の死や三成の失脚を間に挟みながらも、最終的に長門一国と周防すおう吉敷よしき郡及び安芸あき佐伯郡を含め、十七万石余が秀元に分地された。

 当初の予定より、かなり少ない所領である。

 輝元は三成に政治的な借りを作り、秀元本人に対して負い目があった。

 彼が三成の誘いに応じた理由の一つは、豊臣一門に相応しい所領を与え、代わりに毛利家の所領を返して貰う事だ。秀元から所領を返還されると、毛利家の所領は二四二万石になる。

 三成も秀元の上方移封を考えていた。

 小早川秀秋や宇喜多秀家が機内の近くに所領を持ち、秀元だけ西国に所領を持つのも不自然だ。可能であれば、小早川家の養子となり、武家ぶけ清華せいが家に転身して貰いたい。

 秀元が小早川家を継承すれば、五大老入りも見込める。小早川こばやかわ隆景たかかげが生きていた頃のように、五大老に毛利家の血縁が二人も加わり、輝元の権勢は家康に近づく。

 家康と輝元の違いは、三成と個人的な親交を深めており、豊臣家を簒奪するつもりもない為、下克上を起こす心配がない。毛利家の権勢を高める為に、これからも豊臣家に尽くしてくれるだろう。

 織田秀信は三人目の候補者である。

 寧ろ『三番目の候補者』と言うべきか。

 次期政権の五大老を三成と輝元が選ぶのであれば、毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家・佐竹義宣・毛利秀元の五人で枠を埋められてしまう。それどころか、島津義弘や立花宗茂に『補欠』の地位すら奪われかねない。

 岐阜城へ加勢に来た三成の家来から、西軍の戦略や畿内の情勢を聞いていたので、秀信も宿老も自軍の勝利を確信していた。

 それゆえ、秀信の心に焦りが生まれた。桶狭間合戦で勝利した信長や武田を攻め滅ぼした信忠のように、天下万民の耳目じもくを驚かせるような武功を立てないと、五大老に列せられる事はない――という現実に気づかされたのだ。

 不安な気持ちも分かるが……東軍三万六千に織田軍六千で野戦を挑むなど、玉砕としか言いようがない。


「中将様は、御乱心なされたのです。悪魔崇拝者になられたのです。『格差拡大』と『自由貿易』と『市場原理』と『全体主義』の四段重ね。もう私達の手に負えません。座敷牢に閉じ込めるべきです」


 佐藤も必死に宿老を説得したが、


「暗君といえど、主命に背くわけには参らぬ」


 と中途半端に身分の高い武士特有のマゾヒズムを発動し、寄騎大名の言い分を聞こうとしない。

 加えて「悪魔崇拝者」や「売国奴」と口を滑らせた宿老二名が、秀信に無礼打ちで処断された為、岐阜城に秀信を止められる者がいなくなった。

 秀信のセクシーな指示通り、織田軍はセクシーに野外決戦を挑んだ。少しでも勝率を高める為、周辺の村落に住む百姓まで動員し、合計九千の兵で東軍を迎え撃った。


 結論から言おう。

 織田軍壊滅。


 桶狭間のような奇跡が起こる筈もなく、岐阜城から押し出した織田軍は、完膚無きまでに叩き潰された。

 当然の如く逃亡兵が続出し、佐藤も戦場から逃げ出した。僅かな郎党を引き連れて、鉈尾山城に隠れたのである。岐阜城に立て籠もるつもりはなかった。岐阜城には、二千程度の兵しか残されていないのだ。今更、籠城戦を始めた処で守り切れる筈がない。

 追い詰められた秀信は、遅まきながら犬山城や大垣城に救援を求めたが、犬山城は井伊直政の調略により無血開城。大垣城の援軍は間に合わなかった。

 秀信は岐阜城で籠城戦を決意。生き残りの家臣と奮闘したが、本丸以外は全て東軍に占領されてしまう。秀信は自害を覚悟するが、生き延びた家臣団の説得により、東軍に降伏して開城。岐阜城は、僅か一日で陥落した。

 現在では高野山に追放されたと聞くが……本当に何を考えていたのだろう。秀信は切支丹大名である。戒律で自害を禁じられており、自決など認められない。伴天連の教えが頭から抜け落ちるほど、悪魔崇拝にのめり込んでいたのだろうか。

 岐阜城陥落で潮目も変わった。

 戦況の好転を確信した家康が西上してきた事で、西軍は美濃に戦力を集中。同年九月十五日の関ヶ原合戦に繋がる。それも小早川秀秋の寝返りと吉川広家きっかわひろいえの戦闘不参加で惨敗。大谷義継は戦場で討死。石田三成と小西行長と安国寺恵瓊は捕らえられ、京の三条河原で処刑された。

 大坂城で徹底抗戦という話も出たそうだが、輝元は無条件降伏を選ぶ。輝元の従弟(吉川広家)が、勝手に東軍と密約を交わしていたのだ。誰が裏切るか分からないような状況では、毛利家も戦闘を継続しようがない。

 毛利家は大坂城を退去し、東軍に秀頼を引き渡した。

 結局、『治罰の綸旨』は発給されなかった。

 細川幽斎が降伏したのが、同年九月十三日――関ヶ原合戦の二日前。美濃に東西併せて二十万に及ぶ大軍がひしめく情勢で、禁裏より『治罰の綸旨』が発給される筈がない。西軍は、田辺城の攻略に時間を掛け過ぎたのだ。

 敵勢力を一掃すると、家康は戦後処理に着手。佐藤家の知行地――美濃国武儀郡上有知は、金森かなもり長近ながちかに宛がわれた。偶然にも長近は、佐藤の母方の叔父である。佐藤は長近に助けを求めたが、「儂に切支丹の親戚などおらぬ」と言われ、鉈尾山城から追い出された。

 切支丹云々は方便である。

 長近からすれば、たとえ姉の子供であろうと、旧領の領主など統治の邪魔でしかない。すでに姉も病死しており、佐藤家に拘る理由もなかった。

 家子郎党いえのころうとうも離散。行き場をなくした佐藤は、父の代から懇意にしていた大坂の有徳人を頼る。衣食住に困らないが、肩身が狭くて落ち着かない。

 然りとて次の仕官先も容易に見つからない。

 慣れない居候生活に鬱々としていると、大坂に拠点を置く豪商――篠塚家から護衛衆に加わらないかと誘いが来た。有徳人が言うには、畿内でも新参の頭取だが、銭払いが良くて評判も悪くないという。

 軽い小遣い稼ぎのつもりで引き受けたが、最悪の貧乏籤びんぼうくじを引いたようだ。護衛衆が八王子に到着した後、初めて悪名高い薙原家の分家筋と教えられ、篠塚家の令嬢から本家の若君を守るように命じられた。しかも他の者が現状を把握する間もなく、塙が一人で美作の牢人衆を討ち取り、その武功を以て護衛衆筆頭に選ばれた。

 塙が筆頭に選ばれた時点で、佐藤は労働意欲をなくした。元四万五千石の大名が、塙の如き猪武者より格下など有り得ない話だ。然し篠塚家から恩賞を授けられていない。畿内に戻る為の路銀がないのだ。お陰で護衛衆は、篠塚家の命令を拒否できなかった。済し崩し的に蛇孕村へ連れて来られ、不気味な妖術で操られた挙句、狒々神討伐を強制させられたのである。

 薙原家に刃向かうつもりはない。妖術を使う妖怪に刃向かう度胸もない。ただ一刻も早く蛇孕村から立ち去りたいだけだ。

 暫く待たされた後、一之曲輪の門が開け放たれた。

 重厚な門の向こう側から、朧が本家の若君を連れてくる。

 女子と見紛うほど端整な顔立ちに、小柄で華奢な立ち姿。高価な練緯ねりぬきで仕立てられた狩衣。腰に太刀を帯びているが、殆ど武術の心得もあるまい。幼弱で華美な佇まいが秀信と重なり、佐藤は軽侮の念を抱くが……同時に奇妙な違和感を覚えた。

 狒々神討伐の前にも立ち姿を見ているが、あの時は幽鬼の如き有様であった。覇気の欠片もなく、軽く押せば倒れそうなほど儚い存在に見えた。

 然し今は、神妙な面持ちで護衛衆を見渡している。脆弱な雰囲気は微塵もなく、容易に話し掛けにくい。


 この私が、武威で気圧されている?

 そんな馬鹿な事があるものか!

 佐藤家の当主であるこの私が、斯様なマネケン・ピスに気圧されるなど、断じて有り得ません!


 佐藤は胸中で叫びながら、苦々しい面持ちで顔を伏せた。

 他の護衛衆と同種だ。奏の怜悧な雰囲気に戸惑い、その場から動く事もできず、呆然と立ち竦むしかない。

 硬直する護衛衆を尻目に、本家の若君が口火を切る。


「僕は薙原本家当主の従弟――薙原奏です」

「――」

「此の度、狒々神という恐ろしい妖怪が出現しました。人肉を好む狒々神は、この村に狙いを定めています。無辜の民を喰い殺し、蛇孕村を壊滅させようとしているのです。僕は状況を把握しようとせず、護衛衆に狒々神討伐を一任しました。その結果、十八名の犠牲者を出し、護衛衆を半壊に追い込みました。全ては僕の状況判断の甘さが招いた事。お詫び申し上げます」


 高価な狩衣を着た若者が、深々と頭を下げる。

 彼の言動の意図が読めない。

 今更、本家の若君が謝罪した処で、薙原家に対する不信感を拭えようか。奇怪な妖術で操られ、妖怪相手に捨て駒の如く扱われたのだ。それを詫び言で済ませるなど許し難い。蛇孕村に来てから溜め込んでいた不満が溢れ出る寸前、塙が堂間声で言い放つ。


「詫び言など不要! 我々は退却戦の支度で忙しいのだ! 汝の相手をしているいとまはない! 失礼させて頂く!」

「お待ちください!」


 奏は、踵を返す塙を呼び止めた。


「みなさんが当家に不信を抱くのも当然の事。また現状を鑑みると、長々と語り合う時間も残されていません。だから僕と三つの約束をしてください」

「三つの約束? 汝は何を申しておるのだ?」

「一つ。一切の身動きを禁じます。僕が命じるまで、その場から動かないでください。二つ。決して声を出さないでください。三つ。僕が刀を振り上げたら、一斉に鯨波ときを上げてください。この三つを守れば、みなさんの命は保障します」


 言葉の意味を理解できず、護衛衆は唖然となる。

 後方から重々しい音が響いた時、ようやく護衛衆は状況を理解した。

 一斉に振り返ると、解放されていた大手門が動いている。自動的に大手門が閉ざされ、護衛衆は虎口を閉じ込められた。

 動転した護衛衆の一人が、大手門の扉に張りついて叫ぶ。


「閂だ! いつの間にか、閂を架けやが――ねらしい!」


 銃声が鳴り響き、左の袖に穴が空く。左肩から血飛沫を撒き散らし、重厚な門に貼りつきながら、力無く馬手へ倒れた。

 左上方に視線を向けると、屋根瓦の上で女中が鉄砲を構えていた。巣口から白い煙が立ち上り、何食わぬ顔で次弾を装填している。その間に、多くの人影が瓦屋根の上に出現した。虎口を取り囲む塀の上に、鉄砲を携えた女中衆が配置される。さらに一之曲輪の門から鉄砲を構えた女中衆が飛び出し、主君と護衛衆の間に割り込む。


「おのれ! 謀りおったな!」


 兵の一人が大刀を抜いて、本家の若君に跳び掛かった。

 然しダ~ンという音が響くと、大刀を抜いた兵は動きを止める。横矧胴の左脇腹に穴が空いており、赤黒い血が溢れ出ていた。銃撃を受けた兵は、ごふりと口から血を吐き出しながら、左側の漆喰塀を見遣る。

 いつの間にか、漆喰塀に菱形の穴が空いている。菱形の穴から巣口を突き出し、漆喰塀の外側から鉄砲手が狙いを定めていた。


「隠し狭間……でしょん!」


 三度目の銃声が響き、大刀を抜いた兵が撃ち倒された。

 右側の漆喰塀にも菱形の穴が空いており、火縄式鉄砲の巣口が突き出されている。それも一箇所だけではない。左右の漆喰塀に複数の隠し狭間が設けられ、両側面から護衛衆に巣口を向けていた。

 隠し狭間とは、関ヶ原合戦後の姫路城普請で採用された最新式の防衛設備だ。普段は漆喰塀の窓で隠し狭間を隠しており、普通の壁のように偽装しているが、敵兵が雪崩れ込んでくると、漆喰塀の窓を外して射掛ける。虎口の外側から巣口を向けているので、鉄砲手が危険に晒される事はない。

 鉄砲手の数は、六十名を超えていた。正面にも鉄砲衆が配置されているので、虎口内に逃げ場は何処にもない。奏が一斉射撃を命じれば、護衛衆は一瞬で壊滅する。


「僕は声を出すなと命じた筈だけど……あと何人くらい殺せば、僕の言う事を聞いてくれるんですか?」


 驚愕する護衛衆を見回し、奏が困り顔で言い放つ。

 彼の言葉は、些末な挑発ではない。命令に従わないのであれば、躊躇なく護衛衆を皆殺しにするだろう。実際に二名の兵を撃ち殺しても、涼しげな顔をしているではないか。

 虎口内が不穏な空気に包まれると、奏は微笑を浮かべた。


「女中衆。屍を片付けてください。邪魔です」


 奏が命じると、四名の女中が鉄砲を下げ、護衛衆の前に立つ。全く動けない護衛衆に頓着せず、二体の屍を持ち上げ、一之曲輪まで引き摺る。


「それでは、これより論功行賞を行います」

「――ッ!?」


 護衛衆は目を剥いた。

 二人も殺して論功行賞だと?

 奏の一挙手一投足に驚愕し、護衛衆は地蔵の如く固まる。


「本家の意向を示す前に、先の戦いのケジメをつけます。狒々神を討ち取る事はできませんでしたが……武功を立てた者を賞し、武功の拙い者に罰を与える。信賞必罰を徹底しなければ、組織を保てません」

「……」

「で――僕は武家の作法に疎いのですが。賞罰の沙汰を直立して聞くつもりですか?」


 本家の若君が、武士を前に呆れ顔で言い放つ。

 無論、護衛衆に非はない。奏から動けば殺すと脅されているので、阿呆の如く佇んでいただけだ。

 動けない護衛衆の中で、塙が地面に左拳をついて頭を垂れた。他の兵もつられて、次々と奏に礼を尽くす。

 膝行する武士達を見下ろし、奏は微笑を取り戻す。


「名を呼ばれた者は、前に出てきてください。塙団右衛門直之」

「……」


 恭しげに、護衛衆筆頭が前に出る。

 膝行する塙を見下ろしながら、奏は小声で「まだ使えそうだな」と呟いた。常なら聞き取れないほど小さな声だが、静寂の中に響いて聞こえる。


「護衛衆筆頭という立場でありながら、兵卒の如く先馳さきがけに拘り、己の責務を蔑ろにしました。部隊を崩壊に導くほどの失態ですが、一番鑓の武功を立てたのも事実。此度に限り不問とします。次の戦いで挽回してください」

「……」


 塙は何も応えず、問責の沙汰を受け入れた。「有難き幸せ」と答えようものなら、鉄砲手に撃ち殺されるからだ。


「佐藤・ルカ・才次郎方政」

「――ッ!?」


 名を呼ばれた佐藤は、びくりと身体を震わせた。

 狼狽しながらも、狒々神討伐の顛末を思い出す。

 副将の獺に命じられた通り、幾度も狒々神に長槍を突き刺した。信賞必罰と言うなら、賞与を以て報いられるべき武功だ。然し佐藤は退却の下知を待たず、無断で戦場から離脱している。味方を見捨てて逃げたのだから、敵前逃亡で死罪――


 いやいやいや!

 私は篠塚家に雇われた護衛。篠塚家の家来ではありません。それに塙の失態も武功と相殺されたではありませんか。私も武功を立てたのです。坂東の土倉如きが、私を罰せられる筈がない!


 心の中で己の正当性を主張しながら、恐る恐る前に進み出る。


「貴殿は長柄組を率いて、狒々神と正面から戦いました。その武勇は、先の戦いで比類のないものです。貴殿の功績を称えます」


 奏の話を聞いて、佐藤は安堵の吐息を漏らす。


 やはり失態を武功で相殺するのですか。まあ、それも当然でしょう。私は美濃の名門――佐藤家の当主! エスペシアルな存在! 佐藤家の当主が、斯様な僻地で命を落とす筈が――


「でも槍を捨てて逃げ出す兵はいらない」


 奏は酷薄な声音で言い捨て、左手を前方に伸ばす。


「ありげッ!?」


 袖口から飛び出した曲がり刃が、佐藤の右肩に突き刺さる。曲がり刃が抜けると、ハウバーグの重さに負けて、弓手に倒れ込んだ。


「ひいいいい――あ?」


 兵の一人が同輩の急死に動転し、悲鳴を上げて立ち上がる。然し途中で気づいた。声を出せば、問答無用で殺される。

 がたがたと歯を鳴らす兵と、朧の視線が重なる。

 一瞬で間合いを詰めて、大刀を袈裟に斬り上げた。


「やはてむ!」


 斜めに胴を斬り上げられた兵は、頓狂な声を発して倒れる。

 朧は血振りを行い、大刀を鞘に収める。空いた左手の人差し指を厚めの唇に当て、しーっという仕草で嗤った。

 今の護衛衆に同輩の死をいたむ余裕はない。ただ自分が殺されない事を願うばかりで、圧倒的な恐怖の前に他者を気遣う心も吹き飛ばされた。加えて「邪魔な屍を片付けろ」という命令も続いているようで、女中衆が二体の屍を一之曲輪に運ぶ。

 硝煙と血臭が漂う虎口内は、奏の独壇場であった。


「御覧の通りです。狒々神討伐失敗の責任を取り、護衛衆次席――佐藤・ルカ・才次郎方政殿は、潔く腹を斬りました」

「――ッ!?」


 挙句の果てに自分で殺しておきながら、ぬけぬけと佐藤の自決を主張する。もはや理不尽を通り越えて、全く意味が分からない。

 本家の主君は、乱心しているのではあるまいか?


「佐藤殿の武勇は、後世に語り継がれるべきもの。彼の散り際は、薙原家から御遺族に報告します。相応の見舞金が渡されるでしょう」

「――ッ!?」


 跪く護衛衆の中で、数名が唾を飲み込む。

 本家の若君が、正気かどうか定かではない。

 ただ彼は、佐藤の親族の話を持ち出した。

 佐藤の親族を把握しているなら、他の兵の家族も同様であろう。どうして失念していたのか。元々薙原家は、仕物を生業とする透波。その気になれば、護衛衆の家族を始末する事など容易い。篠塚家に召し抱えられた瞬間から、家族を人質に取られていたのだ。

 この恐るべき事実を他の兵にも伝えたいが、動くなと命じられているので、互いに視線を合わせる事すらできない。

 混乱する護衛衆に頓着せず、奏は粛々と話を続ける。


「佐藤殿の高潔な魂は、僕達に受け継がれました。必ずや狒々神討伐を完遂し、蛇孕村を守るという意志を継いだのです。蛇孕村を救う為に、みなさんの力を貸してください。次の狒々神討伐は、僕が総大将を務めます」

「――ッ!?」

兵共つわものどもよ、聞きたもう!」


 急に武家の言葉遣いで声を張り上げた。


「いで聞き給う! 我が下知は、死守に非ず! は死地に非ず! 我が求めるは、必定の勝利也しょうりなり! 各々方、我に狒々神の首級みしるしを捧げよ!」


 奏が刀を引き抜き、高々と天に掲げた。


「良いか!」

「応!」


 即座に塙が立ち上がり、右拳を突き上げた。

 堂間声に応じて、他の兵も慌てて立ち上がった。刀を掲げたら、鬨を上げろと命じられていたからだ。


えい!」

「「「おう!」」」

「鋭!」

「「「応!」」」

「鋭!」

「「「応おおおおおおおおッ!!」」」


 虎口内に、護衛衆の叫声が響き渡る。命懸けで鬨の声を上げる様子は、さながら血に酔う悪鬼の如き有様であった。




 二十間……約37.8m


 武者走……土塁や塀の上の小道


 半刻……一時間


 ルミア……スペイン語であばずれ


 カブロン……スペイン語でくそったれ


 織田信忠……織田信長の長男


 天正十年……西暦一五八二年


 織田信孝……織田信長の三男


 馬廻組頭……親衛隊の部隊長


 五大老……徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家


 五奉行……浅野長政、石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以


 武断派七将……福島正則、加藤清正、池田輝政、細川忠興、浅野幸長、加藤嘉明、黒田長政


 前田利長……前田利家の長男


 高台院……豊臣秀吉の正室


 慶長五年……西暦一六〇〇年


 慶長五年三月十一日……西暦一六〇〇年四月二十四日


 慶長五年四月十日……西暦一六〇〇年五月二十二日


 伊奈昭綱……徳川家康の家臣


 河村長門……増田長盛の家臣


 掘直政……堀秀治ほりひではるの家臣。堀秀政の従兄。


 慶長五年六月二日……西暦一六〇〇年七月十二日


 慶長五年六月十一日……西暦一六〇〇年七月二十一日


 安国寺恵瓊……伊予国和気わき郡六万石の領主


 慶長五年七月一日……西暦一六〇〇年八月九日


 慶長五年七月十七日……西暦一六〇〇年八月二十五日


 鳥居元忠……徳川家の家臣


 慶長五年七月二十五日……西暦一六〇〇年九月二日


 慶長五年八月十五日……西暦一六〇〇年九月二十二日


 石川貞清……尾張国犬山城一万三千石の城主。信濃国木曽の太閤蔵入地十万石の代官も兼務。


 島津義弘……九州の蛮族王


 後詰……救援部隊


 綸旨……天皇の口宣を元にして、蔵人が作成・発給した公文書


 錦旗……錦の御旗の略称


 小野木重勝……丹波福知山ふくちやま城四万石の大名


 古今伝授……古今和歌集の解釈の秘伝


 八条宮智仁新王……後陽成天皇の弟


 立花宗茂……筑後国柳川やながわ十三万石の領主。豊臣家の直臣。


 公卿……公家の中で国政を担う高官


 逼塞……幽閉


 慶長五年七月二十九日……西暦一六〇〇年九月六日


 生駒政親……讃岐国十七万八千石の領主


 大友吉統……大友宗麟の嫡男


 武家清華家……豊臣政権の大老家


 慶長五年九月十五日……西暦一六〇〇年十月二十一日


 吉川広家……出雲三郡・伯耆ほうき三郡・安芸一郡及び隠岐おき一国併せて十四万石の領主。毛利輝元の従弟。


 慶長五年九月十三日……西暦一六〇〇年十月十九日


 金森長近……美濃武儀郡上有知及び関・河内国金田及び飛騨一国併せて五万八八〇〇石の領主。関ヶ原合戦の後、佐藤家の旧領を加増された。佐藤方政の母方の叔父。


 マネケン・ピス……スペイン語で洟垂はなたれ小僧


 鯨波……鬨の声


 巣口……銃口


 エスペシアル……スペイン語で特別

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