第92話 村人

 田圃の畦に落ちたと気づいた時には、奏は斜面を転がり落ちていた。止まらない。止められない。凄まじい勢いで、田圃に叩きつけられた。

 受け身を取る事もできず、泥の上に背中を打ちつけた。

 衝撃と苦痛で顔を顰めたが――

 すぐに痛みは消え失せた。

 『起死再生きしさいせい』が発動して、打撲を治療したのだ。无巫女アンラみこの許婚が、無様に足を滑らせて転落死するなど、絶対に起きてはならない事態である。ゆえに奏の纏う着物には、ヒトデ婆の眷属が貼り付いており、対象者を監視している。

 女中部屋で起きた事は、ヒトデ婆に筒抜けだった。おゆらは奏だけではなく、ヒトデ婆にも真相を打ち明けていたのだ。己の絶対的な優位を見せつけ、裏切りを封じ込めようとしたのだろう。

 超越者衝撃チートショックなど教えられて、誰が魔女を裏切るというのか?

 魔女を裏切れば、十万人の中に選ばれなくなる。尤も己の命すら執着しない老婆は、気にも留めないかもしれないが……今の奏にはどうでもよかった。

 要するに負けたのだ。

 戦う前から負けていた。

 悲惨な現実や絶望に抗う覚悟がなかった。思い返せば、誰かと本気で戦い抜いた記憶がない。争い事を嫌う奏は、他者と競い合う事すら避けてきた。加えて問題が起きたとしても、マリアが解決してくれた。年寄衆が常盤を売り飛ばそうとした時も、奏は何もしていない。ただ最高権力者の許婚に直訴しただけ。自分の力で食い止めたわけでも、年寄衆を説き伏せたわけでもない。无巫女アンラみこの威光を背景に、年寄衆を掣肘せいちゅうしただけ。彼女達からすれば、奏もおゆらと似たようなものだ。当人が否定した処で、超越者チートという虎の威を借る狐に過ぎなかった。

 その程度の人間が、誰かを守るなんて……身の程知らずとしか言いようがない。

 今ならマリアが『人形遊び』と評した理由も分かる。許婚の権力で取り戻した人形に執着し、「人形が壊れたから、なんとかしてくれ」と許婚に懇願していたのか。さぞかし滑稽に見えた事だろう。愚鈍な許婚に失望したかもしれない。それも仕方のない事だ。現実に抗う術を持たず、強い意志すら持ち合わせていない。力を持たない弱者は、全てを奪われて這いつくばるのみ。誰の言葉であろうか……覚えていない。誰でも構わないか。どうでもいい事だ。

 もう何も考えたくない。

 瞼を閉じようとした時、ぼんやりと何かが見えた。

 最初、奏はそれを認識できなかった。幻覚や幻聴を体験したので、これも現実のものと思えなかった。

 薄く瞼を開くと、次第に何かが大きく見える。動くものが、此方に近づいてきたのだ。人間と同じ姿をしている。

 いや――人間だ。

 黒い影法師ではない。自分と同じ年頃の娘だ。蛇孕村の住民であろうが……見覚えがない。抑も奏は、住民の顔や名を覚えていない。本家屋敷の外で擦れ違うと、彼らは平身低頭する。直に顔を合わせる機会はなく、住民に名を訊いた事もない。住民の名を知りたいと考えた事すらなかった。

 蛇孕村の住民の一人――百姓の娘が、奏の顔を覗き込んでくる。


「あの……大丈夫ですか?」


 百姓の娘は、恐る恐る問い掛けた。

 薙原本家の若君が、田圃で大の字に寝ているのだ。尋常な状況とは言えないだろう。蛇孕村の住民なら、至極当然の反応である。


「……」


 純粋な善意で話し掛けているのだろうが……奏は何も応えなかった。


「怪我をしてるんですか? 御屋敷の女中さんを呼んできます。すぐに戻りますから、無理に動かないでくださいね」


 重傷で声も出せないと誤解した娘が、慌てて本家屋敷へ駆け込もうとする。


「……大丈夫です」


 酷く掠れた声で、奏は娘を呼び止めた。


「怪我はしていません。疲れたから、田圃で寝転んでいただけです。気にしないでください」

「はあ……」


 困惑した様子で、百姓の娘が佇立する。

 とても納得できる説明ではないが、本家の若君が「気にしないでください」と答えているのだ。質問を重ねるのも非礼となろう。然りとて何もせずに、この場から離れてよいものか。泥塗れで倒れた貴人を放置する事もできない。

 思案に暮れていると、


「僕の話を聞いて貰えますか?」


 唐突に奏が喋り出した。


「は……はい。勿論」


 動揺しながらも、百姓の娘は首肯した。

 彼女も蛇孕村の住民だ。薙原家には逆らえない。万に一つも有り得ないが、この場で身体を求められても従う。従わなければ、蛇孕村で生きていけない。彼女にできる事は、行為に及ぶ前に「光栄至極」と応えるくらいだ。

 緊張する娘をよそに、奏は曇天を見上げながら語り始めた。


「実は僕……秀吉公の隠し子なんですよ」

「は?」


 脈絡のない発言に、百姓の娘が絶句した。


「僕の母が……先代の无巫女アンラみこが、秀吉公を暗殺する為、大坂城へ差し向けられたんです。でも城兵に取り押さえられて……秀吉公に辱めを受けました。その時にできた子供が僕です」

「ええと……」

「尤も秀吉公の血筋であろうと、手籠めにした虜囚が産んだ子供。公式には、秀吉公の庶子と認められず、美作の山奥で育てられました。豊臣家に後継者が産まれない時の予備だそうです」


 混乱する娘を尻目に、奏の独白が続く。


「美作には、長く居られませんでした。血腥い政争から逃れる為に、母は僕を連れて蛇孕村へ帰還したんです。でも母は命を落として……僕だけが生き残りました。无巫女アンラみこ様の許婚として――」


 相手の意志に関係なく、薙原家の機密事項を語り続ける。


「それから十年間は、本当に平穏な日々が続きました。勿論、辛い事もありましたけど、家族と呼べる人達がいたから。楽しい生活を送る事ができたんです。でも外界の権力者が薙原家に介入してきて……急に事態が一変しました。誰も彼もが、僕の首級や身柄を求めてくる。身の危険を感じた僕は、蛇孕村に籠もる道を選びました」

「……」

「それが裏目に出たんだと思います。女中頭の暴走を抑えられず、叛逆者の濡れ衣を着せられた難民は粛清され、常盤も謀略に巻き込まれました」

「……」

「運良く命を拾いましたが、二度と目覚める事はないそうです。その事を問い詰めたら、おゆらさんが笑いながら言うんですよ。一年半後に超越者衝撃チートシヨツクが起きて、脳を持つ生類が絶滅する。超越者衝撃チートショックの被害を最小限に抑えられるのは、『毒蛾繚乱どくがりょうらん』を使える自分しかいないと……本当に嫌というほど、自分の矮小さを思い知らされました」


 まるで他人事のように、感情を込めずに述懐する。

 なぜだろう。

 自分でも理由は分からないが、急に心の底を打ち明けたくなった。相手は誰でも構わない。極端な話、庭の松や庵の柱でもよかった。ただ己の心の内を吐露したくなった。

 もう奏が思い悩む必要はない。

 無様に敗北した弱者が、今後について悩んでも詮無い事。奏が何を話した処で、百姓の娘は記憶を書き換えられる。『毒蛾繚乱どくがりょうらん』で記憶を改竄され、奏と対面した事すら忘れるだろう。

 『冷徹な奏』は、すでに結論を出している。

 魔女は殺せない。

 おゆらを殺してしまえば、最大で二十万の民すら救えなくなる。次の魔女に期待するのも危うい。次の魔女に新しい魂を吹き込む事もできると言うが……肝心な魂を吹き込むのは、常識の対極に位置する超越者チートだ。許婚が蹴鞠に勝てない――という理由で、蹴鞠玉を開発した人物だ。良識を尊ぶ魂を吹き込んでくれ、と超越者チートに懇願したら、如何なる人物が生まれるであろうか。実際に試してみなければ分からないが、『冷徹な奏』は最悪の事態を想定した。分別のつかない者が、次の魔女になれば……救える筈の民すら見捨てられる。蛇の王国の民を十万人未満に減らされるかもしれない。一万で十分と言い出す可能性もある。それだけは避けなければならない。

 マリアに頼んで、おゆらの封印を解除する。

 封印を解かれたおゆらは、再び『毒蛾繚乱どくがりょうらん』で武蔵国の民を洗脳する。蛇の王国を建国する前に、武蔵国を傀儡国家に創り変える。よく考えれば、蛇孕村と『職人集落』で十万人も生活できないから当然か。蛇孕村を日ノ本から独立させ、蛇の王国を主権通貨国に引き上げる。その過程で多くの民が命を落とすだろう。然し『超越者衝撃チートショック』が起これば、生類の大半が死滅する。おゆらを止めた処で、必ず犠牲者は出るのだ。

 『超越者衝撃チートショック』の前に死ぬか。

 『超越者衝撃チートショック』の後に死ぬか。

 その程度の違いでしかないと、『冷徹な奏』が結論を出していた。

 だから負けたのだ。

 奏は自分に負けた。

 負け犬にできる事は、惨めに泣き言をさえずるくらいだ。


「僕は何を間違えたのかな? 先生みたいに計画を立てれば、こんな結末にならずに済んだのかな? それとも統治者の責任を軽んじていたのかな? 人の命に優劣をつけるべきだったのかな?」

「……」

「いや、違う……そうじゃない。そうじゃないんだ。僕は答えを得ていた。でも答えから目を逸らしていたんだ」


 無機質な声音に、感情の色が加えられていく。無自覚のうちに言葉と共に激情も吐き出されていく。


「怖かった……怖かったんだ。自分が死ねば、全ての問題が解決するなんて考えたくなかった。自害する以外に、最善の方法があると信じたかった」


 奏の声は震えていた。

 屈辱と後悔と恐怖で、子供のように震えていた。


「本当は気づいていたんです。帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスさんの話を聞いた時に――秀吉公の隠し子が死ねば、天下大乱なんか起こらない。僕さえ存在しなければ、徳川家も黒田如水も野心を抱く事はない。美作の牢人衆も一人だけなら仕官できる。薙原家もそうだ。アンラの予言なんて、愚かな言い伝えから解き放たれる。蛇孕村を日ノ本から独立させて、主権通貨国に変えるなんて野望も潰える。僕が死ねば、全ての問題が解決するのに……僕は嘘をついた」

「……」

「常盤に嘘をついたんです。その場凌ぎの美辞麗句を並べて、我が身を危険から遠ざけようとしたんです。だってほら……反徳川勢力の旗印に掲げられたら、徳川家に命を狙われるじゃないですか。だから嘘をついたんです」

「……」

「『冷徹な奏』とやらが、すでに決断していたのに……臆病な僕が拒んだんだ! 『温厚な奏』? そんな者はいない! 腰抜けの奏だ! 民を慈しむ心なんかない! 深遠な理想も立派な志も……自分の遣りたい事すら見つからない! ただ死にたくなかった! 死ぬのが怖かった! 怖くて怖くて……綺麗事に縋らないと、僕は動く事すらできなかった! その結果がこれです……」


 自然と目頭が熱くなる。

 悔恨の涙が、両目から溢れ出ていた。


「常盤を守ると約束したのに……僕は守れなかった。御屋敷に来たばかりの常盤は、本当に不安そうで。脆くて儚くて、自分の置かれた状況を全く理解できていない。まるで昔の自分を見ているようでした。だから常盤を守りたかった。僕がマリア姉に助けて貰ったように、常盤も助けてあげたかった。僕みたいな人間が幸せになれるなら、常盤も幸せにならないとダメなんだ!」


 激しい怒気に煽られ、右の拳を田圃に叩きつけた。

 泥水が飛び跳ね、百姓の娘がびくりと震えた。


「それも僕の幻想です。全て僕の望む理想の世界。僕はマリア姉に理想を押しつけて、真実を見ようとしなかった。陽炎を追い掛けてるなんて考えたくなかった。誰も彼もが一人きりで……誰とも分かり合えないから。残酷な世界にも尊いものがあると思い込んでいたんです。僕は馬鹿だから……」


 涙の滴が、目元から両耳に伝わる。

 いずれこの涙も枯れ果てるだろう。おそらく涙が止まる頃には、残酷な現実を受け入れている筈だ。どうせ自決などできないのだから。意志もなく理想もなく。世の流れに従いながら、傀儡の如く生きていく。

 それが運命なのだろう。

 世の流れに逆らえるほど強くないから――


「私は学問を修めていないで、お話の内容がよく分かりません」


 奏が口を閉ざした時、百姓の娘が怖々と喋り始めた。

 理解できなくて当然である。錯乱した本家の若君が、「自分は豊臣秀吉の隠し子だ」と喚き散らしているのだ。正気を疑いこそすれ、理解を示す道理がない。それでも狂乱する若君を捨て置く事もできず、彼女なりに話を合わせようとする。


「ただ奏様のお話を聞く限り、何かに悩んでいるわけではなく、何かに迷っているのではないですか? 道に迷っているだけなら、すでに目的地は定められている筈です。先代の无巫女アンラみこ様なら、左様に仰せられると思います」


 何気ない言葉に、奏の表情が激変した。


「母と面識があるんですか!?」


 田圃に両手を突いて、泥塗れの上体を起こし、百姓の娘に尋ねた。


「私ではありません! おっとおが子供の頃に……あ」


 思わず娘は口を滑らせた。

 蛇孕神社の祭主と、蛇孕村の百姓に接点などある筈がない。住民の大半は、直に无巫女アンラみこの顔を見た事すらないのだ。当代の无巫女アンラみこは、戒律や慣習を気にも留めていないが、先代の无巫女アンラみこは違う。蛇孕神社の内拝殿に籠り、極力神域の外に出ようとしなかった。先代の无巫女アンラみこが、住民に接していたというのも初耳である。

 表情を強張らせて、娘は田圃の上で平伏した。


「申し訳ありません! 絵空事を申しました! 薙原家に叛意なんかありません! どうか御慈悲を――」

「貴方の父親を処断したりしません! 勿論、貴方や貴方の家族の安全も、僕が責任を以て保障します! たとえ薙原家が許さなくても、僕がなんとかしてみせます! だから教えてください! 僕の母は……貴方の父親に何を話したんですか?」

「……」


 娘は平伏しながら、必死に考え込んでいるのだろう。奏に真実を話すべきか、沈黙を貫き通すべきか。

 暫時の沈黙の後、娘は土下座しながら語り始めた。


「私の父は、蛇孕村の百姓です。无巫女アンラみこ様と謁見の機会など得られません。だから先代の无巫女アンラみこ様と対面できたのは、単なる偶然なんです……」


 消え入りそうな声で聴き取りづらく、内容も分かりにくいが、まんで言えば、このような話である。

 今から二十年前。

 百姓の娘や奏が生まれる前の事。

 当時、血気盛んな娘の父親は、同年代の仲間と悪事を働いていた。尤も薙原家に飼い慣らされた住民の一人。畑仕事をしないとか、隣家が飼育する鶏を逃がすとか、薙原家に差し出す検注帳けんちゅうちょうに落書きをするとか……子供の悪戯の域を出ない。特に薙原家から咎められる事もなく、両親から拳骨をくらうだけ。当然、その程度で悪童も改心しない。寧ろ余計に悪事を働きたくなる。

 在る時、彼は言った。


「俺は蛇孕岳を登るぜ」


 蛇孕村を囲む四方の山々は、薙原家が厳重に管理しており、無許可で山に立ち入る事はできない。尤も薙原家も暇ではない。勝手に猿頭山や馬喰峠に立ち入る者は、基本的に黙認していた。ただし、蛇孕岳は別だ。蛇神信仰の原点であり、薙原家の聖地と呼ぶべき場所。常に巫女衆が鳥居を見張り、住民は近づく事さえ許されない。然し奇妙な事に、蛇孕岳に侵入した者を処罰する掟がなかった。普通に考えれば、論を待たずに死罪であろう。ただ蛇孕村の歴史上、蛇孕岳に侵入した住民が一人もいないので、罰則すら定められていなかった。

 そこで悪童の一人が考えた。


 罰当たりでも構うものか。

 八百年も続いた慣習を、俺がぶち壊してやる。


 特に信念や美意識など持ち合わせていない。他の者が恐れる事を、自分が成し遂げてみたい。中二病と言うより、無知ゆえの無鉄砲。

 流石に他の悪童に止められたが、周囲から止められるほど意欲が高まり、ついに巫女衆の監視を潜り抜け、一人で蛇孕岳に入り込んだ。そして小半刻もしないうちに、蛇孕岳の中腹辺りで迷子になった。

 猿頭山や馬喰峠と違い、蛇孕岳は原生林が生い茂る難所。様々な種類の樹木が不規則に立ち並び、侵入者の行く手を遮る。闇雲に頂上を目指すと、己の位置すら掴めなくなる。山登りに慣れた悪童も例外ではない。

 途中で遭難した事に気づき、慌てて下山しようとするが……如何にして引き返せばよいのか分からない。高い場所から低い場所に移動しているので、間違いなく下りているのだろう。だが、大きな岩を迂回したり、狭い獣道に入り込むうちに、徐々に不安が押し寄せてくる。


 俺は本当に下山しているのか?


 さしもの悪童も焦燥感を隠しきれず、泣きそうになりながら彷徨い続けていると、偶然にも蒼い巫女装束の娘と出会った。

 剣術の稽古をしているのだろう。蒼い巫女装束の娘は、竹藪の中で白木拵えの野太刀を振り回していた。

 端麗な美貌と優雅な所作に心を奪われて、悪童は呆然と立ち竦む。

 年齢は十代の半ば。悪童より一つか二つほど年上だろう。長い睫毛に、淡い薄桃色の唇。湖面のように静かな瞳。陶磁の如く白い肌。巫女装束の娘が野太刀を振るう度に、鴉の濡れ羽色の髪がなびく。

 初対面ではあるが。

 彼女が蛇孕神社の祭主――无巫女アンラみこであると、すぐに悪童も気づいた。蛇孕岳に立ち入る住民がいないように、无巫女アンラみこの尊顔を拝した住民もいない。無礼討ちにされるのではないかと、悪童はおそおののいた。


其方そなたは悩んでいるのか? それとも迷うているのか?」


 震える悪童に頓着せず、唐突に无巫女アンラみこが告げた。

 悪童の気配に気づいていたのだろうか。

 質問の意味が分からない。

 言葉を取り繕う余裕もなく、悪童は現状を打ち明ける。

 度胸試しのつもりで蛇孕岳に登り、遭難して下山できなくなった。薙原家に逆らうつもりはない。蛇神様を侮辱する気もない。自分が愚かでした――

 平身低頭して命乞いをする悪童。


「其方は迷うているようだ」


 无巫女アンラみこは遠くを見つめながら、感情を込めずに語る。


「もし悩んでいたら、其方を斬らねばならなかった。懊悩を抱えて神域を侵したのであれば、其方の首を蛇神に捧げなければならぬ。自らの命を捨てるほど思い詰めていたのであれば……世事に疎い私は、其方の苦悩を解する事もできず、楽に死なせてやる事しかできなかった。然し其方は悩んでいない。道に迷うているだけだ。私も民の首を刎ねたくはない」

「……」

「迷うているのであれば、すでに目的地は定められている。後は己の進む道を決めるだけ――」


 静かに語りながら、无巫女アンラみこは後方を指差す。


「下山したいのであれば、私の指差す方へ進みなさい。巫女衆に見つかる事はないでしょう」


 悪童は言われた通り、无巫女アンラみこが指差す方向へ進んだ。そして巫女衆に見咎められる事もなく、無事に下山できたのだ。

 それだけの物語。

 幼稚な冒険譚に過ぎないが、悪童を改心させるほどの衝撃的な出来事だった。二十年も時が経ち、結婚して子供ができても、夕餉の時に「『悩む』と『迷う』は違うんだぞ」と偉そうに語り始めるのだ。

 娘は父の話を信じていない。

 母に頭が上がらず、蛇孕岳に登る度胸もない。

 加えて父の話が本当だとすれば、死罪を命じられてもおかしくない暴挙だ。父がその話をする度に、母が「滅多な事は口にするな!」と叱責するのも当然。思わず口を滑らせた娘が、本家の若君に許しを請うのも当然というわけだ。


「全部、おっ父の法螺話だと思うんです! おっ父は悪い人じゃないです! 頭が悪いだけなんです! どうかおっ父を許してください!」


 田圃に這い蹲り、父の助命を懇願する娘。

 彼女の言葉は、奏の耳に届いていなかった。


「『悩む』と『迷う』は違う……?」


 口元に右手を当て、神妙な面持ちで考え込む。

 奏は悩んでいた。

 どう考えても、選択肢が一つしか導き出せなかった。だから絶望的な未来に悲観していたのだが……他にも選択肢があるのか?


 僕が向かう目的地?

 僕の目的は――常盤を絶望から解き放つ事だ。

 『共同体みんな』を破滅から救う事だ。

 他に有り得る筈もない。

 そんな事に気づかないなんて――


「ふ……ふふふふ」


 不意に笑声が漏れた。


「はは、はははは……」

「?」


 娘が怪訝そうに沈黙するも、奏は哄笑を止められなかった。腹の底から溢れ出る喜悦を抑えきれない。


「ははははははははッ!!」


 童の如く両手で田圃を叩き、恥も外聞もなく笑い続ける。

 なんと不気味な光景であろうか。先程まで泣き続けていたかと思えば、今度は笑い始めたのだ。娘が戸惑うのも無理からぬ事。

 奏自身、これほど声を荒げて笑うなど、生まれて初めての経験だ。身分の高い者は、己の所作を律しなければならない。幼い頃より世話役から貴種の嗜みを叩き込まれており、礼節を弁えぬ笑い方など知らなかった。

 今の自分は、異常な振る舞いをしている。

 自覚はしているのだが――

 これが笑わずにいられようか。

 毎度の如く勢いで娘に「なんとかします!」と断言したが、具体的な方法を何一つ考えていなかった。これまでもそうだ。一体、何度同じ台詞を繰り返してきた事か。当然、長続きする筈もなく、自縄自縛に陥った。

 ならば、どうすればよいのか?

 簡単だ。

 実現すればよいのだ。

 自分の言動に責任を持つ。

 有言実行を心得る。

 その場の勢いで断言したのなら、自分の責任で実行するのだ。たとえ一時の情動といえども、その時の気持ちは本物だった。『温厚な奏』か『臆病な奏』か知らないが、偽りのない本心だった。

 それなら、なんとかしてみせよう。

 有言実行するだけで、目的地へ辿り着けるなら、もはや迷う必要はない。自分の望みを叶える為に、自分の選んだ道を進むだけだ。

 徐に立ち上がると、平伏する娘を見下ろす。


「気持ちが落ち着いてきました。解放されたというか、雑念が吹き飛んだというか……貴方のお陰です」

「恐悦至極!」

「貴方の父親や貴方を裁くつもりはありません。無罪放免。納得できないなら、恩赦と捉えてください。僕の話を聞いてくれた御礼です」

「ははーっ!」


 決して顔を上げない娘に、奏は困り顔で考え込む。

 きちんと対面して感謝の気持ちを伝えたいが、恩人に「面上げ」と命令したくない。改めて名を訊くのも躊躇われる。ヒトデ婆が、二人の遣り取りを盗聴しているのだ。無関係な娘を薙原家の暗闘に巻き込みたくない。


「誰の弔いですか?」


 暫し考えた後、奏は別の事を尋ねた。


「……川沿いに住む船頭の親子です」


 百姓の娘が暗い声で言う。

 民家を襲撃したのは、悪魔崇拝者と聞いている。狡猾な魔女に操られていたとはいえ、必要以上にむごたらしく殺されたのだろう。運良く難を逃れた住民が、不安に陥るのも当然の成り行きである。


「本当に痛ましい事件でした。薙原家の……いや、僕の力不足が招いた結果です。みなさんに統治能力を疑われても仕方がない」


 奏は渋面を浮かべながらも、優しい口調で語り掛ける。


「そのような事は決して――」

「貴方にお願いがあります」

「な……なんなりと」

「いずれ薙原家から、御遺族に弔事の文と香典が贈られます。それと別に……僕の言葉も御遺族に伝えてください」

「……」

「全ての罪科つみとがは、統治者の責務を軽んじた僕にあります。どうか僕を恨んでください。僕も御遺族の無念を忘れません。もう二度と、この村で悲劇を起こさないと約束します」


 決然と伝えると、奏は踵を返した。


「本当に……貴方に会えて良かった」


 奏は去り際に、消え入りそうな声で呟いた。

 最後まで平身低頭していた娘は、去り行く奏の目を見られなかった。先程まで泣き叫んでいたと思えないほど、強い意志を秘めた眼差し。覚悟を決めた少年の双眸を見る事ができなかった。




 検注帳……耕作地の面積や家屋の数を調査した帳簿。蛇孕村の場合、住民が調べた検注帳と、薙原家が調べた検注帳を見比べて、内容に矛盾点が見つかると、再度住民に検注帳の提出を求める。他の地域なら厳罰に処される処だが、蛇孕村では罪に問われない。


 小半刻……三十分

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