第91話 幻覚
本家屋敷から飛び出した奏は、田圃の畦道を走り続けた。
行き先を考える余裕もなかった。おゆらから逃げたい。薙原家から離れたい。絶望的な現実から解き放たれたい。あの場から逃げる事しか頭になかった。
我武者羅に。
無我夢中で。
周りも見えず、延々と走り続けた。
尤も奏の体力は、半里の半分で底をついた。すぐに息も切れた。喉が痛い。肺が痛い。身体が重たい。それでも闇雲に前へ進んだ。
途中から一定の速度を保てなくなり、歩いては駆けてを繰り返す。自分でも駆けているのか、よたよたと歩いているのか、ぼんやりと佇んでいるのかも分からない。顎が上下に揺れているので、おそらく動いているのだろう。
己の状況を把握できないほど、奏は恐怖心に衝き動かされていた。
少しでも遠くへ。
薙原家という伏魔殿から遠くへ逃れたい。
それだけを願いながら、肉体を酷使し続ける。
やがて意識が朦朧としてきた。心臓が壊れてしまいそうだ。呼吸をする度に、ひいひいと喉の奥が鳴る。
何故、これほど苦しい想いをしなければならないのか?
よく分からない。
自分が逃げる理由も頭から遠のいていく。
限界の一歩手前で、奏の脚が動かなくなった。両手を膝について、必死に空気を吸い込む。過呼吸に近い状態だが、自分でも呼吸を制御できない。
俯いて肩を揺らすと、肉体に思考が追いついてきた。
どこへ逃げればいいんだ?
薙原家には帰りたくない。おゆらの待つ屋敷に戻るなど、想像しただけで吐き気が込み上げてくる。邪悪な魔女と暮らすくらいなら、外界へ逃げた方がマシだ。
常盤を連れて、蛇孕村から逃げ出そう。朧が一緒に来てくれるなら、奏の首を狙う牢人衆を返り討ちにできる。一つの場所に留まらず、流浪の旅を続ける。誰にも迷惑を掛けないように、人目を忍んで生きていく。
それができれば、どれほどよいか。
豊臣秀吉の忘れ形見を放置しておくほど、世の中は甘くない。徳川家や黒田如水が、奏を捕縛しようとする。
十中八九、奏の身柄を抑える為に、常盤を捕らえようとするだろう。
常盤が人質にされた時、朧は常盤を見捨てる。たとえ奏の命令でも、常盤を見殺しにする。難民が叛乱を起こした時も、朧は常盤を助けようとしなかった。
渡辺朧と悠木ゆら。
全く性格の異なる二人だが、一つの価値観を共有している。
奏と常盤では、命の重さが違う。二人の命を天秤に掛けたら、必ず奏の命が重くなる。常盤の命を考えてくれない。
諸国放浪ができないなら、徳川家に投降するか?
自ら江戸城に赴き、大手門の前で素性を明かすか?
有り得ない。
徳川家の末端の兵は、奏の存在すら知らされていない。義元左文字や秀吉の朱印状を見せたとしても、偽者と決めつけられて斬り捨てられる。運良く無礼討ちを免れて、徳川家の宿老と面会できたとしよう。豊臣秀吉の御落胤と認められたとしよう。それで奏の身の安全を保障してくれるだろうか?
否だ。
熟考するまでもない。
徳川家は、関ヶ原合戦で武功を立て損ねた武士が、家中の大半を占めている。奏の存在を最大限利用し、和睦に応じない島津征伐を望むだろう。島津征伐で手柄を立てれば、徳川家の武士も
然し彼らに、天下の大事を決めるほどの権限はない。嫡男の秀忠でも無理だ。当然の如く、伏見城の徳川家康に裁可を仰ぐだろう。そして家康の答えは、すでに示されている。
豊臣奏を秘密裏に葬り去れ。
それ以外に考えられない。
結論が出ているからこそ、側近の本多正信は黒田長政と結託し、作州の牢人衆を焚きつけたのだ。間違いなく奏は殺される。常盤も口封じに暗殺されるだろう。
ならば、黒田如水に助けを求めるか?
天下大乱に目を瞑れば、奏の安全を保障してくれる。見知らぬ民を見捨てれば、如水の傀儡として生存を許される。血腥い政争や大規模な戦争に勝ち続ければ、傀儡でも切り捨てられる事はない。
然し常盤は、軟禁生活を余儀なくされる。
奏を
その時、如水は生きているのだろうか?
如水が天寿を全うすれば、常盤を救い出す事ができるだろうか?
それまで何十万の民を犠牲にしなければならないのか?
奏には見当もつかない。
いや、抑も考えるまでもない事だ。
昏睡状態の常盤を連れて、蛇孕村の外に出られるわけがない。
加えて再来年には、
初めから逃げ場なんて
奏の思考は、無益な現実逃避に過ぎなかった。
なんと滑稽な有様か。常盤が昏睡状態である事すら失念し、
視界が熱くぼやけて、色々な記憶が溢れ出す。
初めて常盤と対面した時の事。常盤に小鼓の打ち方を教えた時の事。常盤と蹴鞠をして遊んだ時の事。常盤に源氏物語を読み聞かせた時の事。常盤と鹿狩りに興じた時の事。常盤の事ばかり……楽しい思い出ばかりが頭を過ぎる。
不意に――
常盤の声が聞こえてきた。疑いようもなく幻聴であろう。ただ酷く鮮明に、高くて透き通った声が耳の奥で蘇る。
『鹿狩り。今からでも間に合う』
『私は気にしてないから。奏も疲れてるんだよ』
『行きたい……私も奏と一緒に行きたい』
『……奏の馬鹿』
なんで常盤が、酷い目に合わないといけないんだ。なんで常盤が巻き込まれないといけないんだ。なんで僕は、こんな所にいるんだ……
帰りたい。
偽りの日常に帰りたい。
常盤が微笑んでいた頃に帰りたい。
「そうだ……帰らないと」
死人のように青褪た顔で、ぼそりと呟いた。
邪悪な魔女の住処に帰るわけではない。妖怪が巣くう屋敷に戻るわけではない。常盤の待つ庵へ帰ろう。あんな恐ろしい場所に、常盤を一人きりにしておけない。世界で一番安全な庵に戻り、常盤を守るのだ。
突然、甲高い鴉の喚声が響き、びくりと顔を上げた。
自分でも気づかないうちに、蛇孕村の広場まで来ていた。
本家屋敷から蛇孕神社へ伺候する時に。蛇孕神社から本家屋敷へ戻る時に。何度も通り過ぎた場所だ。
普段通りの光景である。
広場に晒された難民の首がなければ――
二本の栗の木を立て、その間にネムの木を架ける。縄で髪を縛り、一本の横木に二十近い首を吊していた。髪の毛の生えていない老人や赤子は、側頭部を糸で縫い、横木に縛りつける。洗濯物でも干すように――首を晒す木組みが六組も設置され、誰も近づけないように竹矢来で仕切られていた。尤も屋根がない為、数十羽の鴉が難民の首を
別に蛇孕村が特別なわけではない。
一度に多くの首を晒す時、木の棒に縄で頭を縛りつけ、照る照る坊主を吊すように並べて晒すのだ。
酷く残酷な光景だが、戦国乱世の通例である。
「……え? なんで?」
奏が唖然と呟いた。
何故、難民の首が晒されているのだ。
勿論、奏は難民の首を晒せと命じていない。おゆらも拘束されていたので、難民の首を広場に晒すように、住民に指示を出す余裕はなかった。
誰も命じていないのに、叛逆者の汚名を被せられ、難民の首が晒されている。
二十代の男性の首。
壮年の男性の首。
痩せ衰えた老人の首。
十に満たない女童の首。
奏が殺した左馬助の首も晒されている。
左馬助の頭に鴉が止まり、がつがつと嘴で眼球を啄みながら、食欲を満たす喚声を上げていた。
「ひい――」
死肉を啄む鴉と視線が合い、奏は悲鳴を上げた。
咄嗟に踵を返すと、今度は反対の方向から、住民の行列が近づいてくる。
装束こそ普段と変わらないが、三個の棺桶を担ぐ遺族を中心に、皆一様に沈痛な面持ちで蛇孕岳を目指していた。
葬儀が行われているのだ。
難民の叛乱に巻き込まれ、住民が命を落とした事は、奏にも報されていた。蛇神信仰の戒律に従い、住民の亡骸を蛇孕神社まで運び、鳥居の前で巫女衆に預ける。八百年も続く蛇孕村の慣例――彼らの葬儀とは、こういうものだ。亡骸を喰らうと知りながら、唯々諾々と薙原家に遺体を捧げる。もはや家畜の発想としか思えない。八百年も妖怪に支配されて、外界の倫理観など殆ど知らず、山間の隠れ里で安穏と暮らしてきたのだ。今更、疑念を抱く筈がない。
「あ……ああああ……」
現状に気づいた奏は、呻き声を漏らして佇む。
難民の叛乱を鎮圧した後、外界から蛇孕村に帰還した女中が、本家屋敷で
気持ち悪い。
彼らは、村祭りで騒いでいた住民ではないのか?
今の奏には、木偶人形が動いてるようにしか見えない。以前、マリアが視覚で他者の区別がつかないと話していたのは、こういう事なのか?
黒い影法師の群れが、ゆらゆらと近づいてくる。
奴婢を見捨てた奏を
難民を救い損ねた奏を
住民を守れない奏を責める為に。
常盤を巻き込んだ奏を裁く為に。
常盤の父親を殺した奏を罰する為に。
多くの罪が、逃げ場のない奏に押し寄せてくる。
「違う……違う……違う……」
何度も頭を振りながら、奏は怯えて後退る。
やがて広場の端まで追い詰められ、急に足下の感覚がなくなった。
半里の半分……約975m
髀肉の嘆……実力を発揮する機会を得られぬ事
自家薬籠中の物……自分の薬箱の中にある薬のように、自分の思うままに使える物。或いは人。
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