第82話 頭蓋骨
おゆらに案内されて、朧は主殿の中を歩く。
前を進む女中頭の後ろ姿を見ながら、朧は渋面を浮かべていた。
見覚えのある光景だ。馬手に主殿の広間。弓手に豪華な庭園。忘れたくても忘れられない。以前、おゆらと立ち合いを繰り広げた場所だ。
その廊下を逆方向に進んでいる。
即ち座敷牢に近づいているのだ。
「
「御安心ください。再び閉じ込めようなんて、露ほども考えていませんよ」
おゆらは振り返らずに、穏やかな口調で告げた。
何を企んでおるのやら……
女中頭の言葉を真に受けるわけもなく、さらに警戒を強める。ギリギリの間合いを保ちつつ、抜き付けで仕留める心構えをしていた。
暫く進むと、座敷牢に至る廊下へ辿り着く。
弓手に樫木の格子で仕切られた牢が並び、馬手に白い漆喰塗りの壁が続く。廊下の奥で燭台の炎が灯るも、薄暗くて陰気な風情を拭えない。朧が体当たりで破壊した格子も修復されており、両者の死闘を示す証拠は消されている。
当たり前か……と心の中で呟くと、前方を進むおゆらが足を止めた。目の前には、油塗りの壁。行き止まりだ。
「この先に隠し部屋でもあるのか?」
「似たようなものですね」
おゆらは軽く答えて、左袖から手燭を取り出し、燭台の炎を手燭に移した。手燭に小さな炎が灯る。壁に右手を添えると、小さな亀裂に指を差し込む。
「……?」
朧が眉根を寄せた刹那、前方から重たい音が響いてきた。
行き止まりの壁が弓手へ動き、人が入れるほどの入り口が現れたのだ。
「成程、隠し通路というわけか」
武家屋敷であれば、いざという時の為に、隠し通路を備えていたとしても、別に不自然な事ではない。透波の屋敷なら尚更だ。
「確かに通路の役割を果たしておりますが……」
おゆらは言葉を濁して、手燭を手に入り口へ入り込む。入り口の奥は、下り階段のようである。朧もおゆらの後に続く。
「足下にお気をつけください」
忠告通り、湿気で石造りの階段が濡れていた。
階段だけではなく、通路全体が埃臭い湿気で満ちている。用事が済んだら、早々にこの場から立ち去りたい。
朧が両目を細め、眼下の光景を見下ろす。
暗い。
夜目の利く朧でも、おゆらの手燭の灯りだけが頼り。光が届く範囲に、終着点は見えない。一段ずつ慎重に降りると、後ろから重たい音が響く。咄嗟に振り返ると、入り口は完全に塞がっていた。
自動的に開閉する仕組みなのだろう。
驚くほどの事ではないが、朧の脳裏に誘惑が忍び込んでくる。
「私を斬らないのですか?」
「――ッ!?」
女中頭に思考を見透かされて、反射的に小刀の柄を掴んだ。
「今の私は一人きりです。護衛の女中衆も控えておりません。『
世間話の如く、おゆらは平然と語る。
確かに女中頭の首を刎ねるだけなら、絶好の機会に違いない。小刀の抜き付けで、容易におゆらの首を飛ばせる筈だ。
然しこれは、朧の望むような状況ではない。
「お主は無様に死ぬべきじゃ」
朧が傲然と言い放つ。
「儂らの女中頭様は、あまりに業を背負い過ぎた。尋常な斬り合いや不意打ちで殺されるなど……斯様な在り来たりな結末は、お天道さんが許しても、この儂が許さん。お主は無様な死に様を晒せ。主君に見捨てられ、侮蔑の視線を浴びながら、虫けらの如く処分される。これぞ希代の魔女に相応しい結末よ」
「朧様が私に結末を用意してくださると?」
「然り。楽しみにしておれ」
「そうですね。それも良いかもしれませんね」
朧の挑発を聞き流し、地下牢の階段を進む。
……
豊満な胸の内で、朧は疑念を抑え込む。
いつものおゆらなら、下ネタや卑猥な冗談で会話を荒し尽くし、思惑通りに誘導しようとするが、今のおゆらは大人し過ぎる。
主君に隠してきた秘密が露見したくらいで、精神的に疲弊するほど脆弱な女ではない。今も頭の中で挽回する手立てを模索している筈だ。それを全く表に出さないのが、薙原本家女中頭の恐ろしさである。
加えて未だに、女中頭の任を解かれていない。奏から蟄居を命じられたが、罷免されたわけではないのだ。
奏は常盤の看護に掛かりきりで、おゆらの進退問題を先送りにしていた。
尤も役職を解かれるのは、時間の問題と言える。罷免される前に、なんとか狒々神を斃してしまいたのだろうが……
階段を降りると、狭い隧道が続いていた。
いくつも道が分かれており、巨大な地下迷宮のようだ。無数の隧道の入り口の一つに、おゆらは迷う事なく進んでいく。地下迷宮の構造を正確に把握しているのか。朧は呆れながらも、奇妙な違和感を覚えた。
遠くから人の声が聞こえてくる。
広大な迷宮ゆえ、正確な位置は分からない。ただ複数の女性の声が、遠くから反響して聞こえてくる。
「儂らの他に、誰ぞおるのか?」
「流石は朧様。あの声が聞こえるのですね」
見え透いた世辞を述べると、おゆらは肩を竦める。
「他愛もない妊婦さんの談笑です。気に留めるほどではありません」
「ああ……」
途端に興味をなくしたようで、朧は乾いた声を漏らした。
謀叛の顛末は、符条から聞かされている。
二年前の謀叛の際、捕縛された女中衆の生き残りは、血筋を残す為の道具として地下に幽閉されたという。暗い地下牢で二年も監禁された挙句、精神操作を施された男衆に陵辱され、望まぬ子を産み続けなければならない。正気でいられる筈もなく、壊れた妊婦の談笑が朗らかに続く。
別段、哀れとも思わない。
所詮は妖怪同士の内輪揉め。どれほど倒錯的な拷問を加えた処で、朧の興味を引くに足るものではない。
「偖――」
おゆらが不意に口を開いた。
「朧様は狒々神を御存知ですか?」
「存じておるよ。四十年前に妖怪共を喰い散らかし、御曹司の祖父に首を刎ねられたデカい猿」
「……殆ど何も知らないも同然ですね」
頭痛を堪えるように額を抑えて、哀れむように嘆息する。
「癪に障る物言いよのう。お主は詳しいのか?」
「私も年寄衆から聞かされた程度ですが……」
おゆらは黙考してから説明を始める。
「軽く概要を説明しますと、隻眼の大きな猿の化物です。身の丈が三丈。前傾姿勢で素速く動き、素手で獲物を捕らえて喰らいます。肉体の強さは語るまでもなく、膂力も牛馬と比較にならぬほど。一度捕まれば、抗いようがありません。それに強力な自己再生能力を有し、金痕ならすぐに治るとか」
「……」
「眼球は一つしかありませんが、かなり視界が広いそうで、弱点とは申せません。正面から一対一を挑んでも、全くの無意味と心得てください」
「……」
「主に人を好んで食べますが、妖怪と人間の二者択一なら、妖怪を選ぶ傾向にあるようです。妖怪の方が、狒々神の味覚に合うのかもしれません。知能は猿と同程度。道具を使うかどうかは、定かではありません。然し謎の破壊光線――『
「待て待て。儂を謀っておるのか?」
おゆらの解釈を容赦なく遮る。
「戯言を申しているわけではありません。薙原家の存亡に関わる事態です。此度に関しては、虚言を用いたりしません」
言いながら、おゆらが立ち止まる。
手燭の小さな灯りが、樫の扉を照らしていた。
黒い鉄で補強された重厚な扉だ。
錠前に鍵を差し込み、片手で扉を開けると、おゆらは暗い室内に入り込む。
朧も後に続くが、「灯りをつけるまで、動き回らないでください」と制された。仏頂面で立ち止まり、暗い部屋の中を観察する。
床も天井も壁も、全てが石造りの部屋。広さは八畳くらいか。大名屋敷の石牢を想起させるが、流石の朧も大名屋敷で幽閉された経験はない。
おゆらが四方の燭台に火を灯すと、石牢に橙色の光が広がる。
「ん――?」
真正面に、巨岩の如き物が置かれていた。
最後の燭台に炎を灯すと、鮮明に輪郭が浮かび上がる。
これは岩ではない。
骸骨だ。
巨大な岩と見紛うほど、大きな猿の頭蓋骨。大きな眼窩が、空洞のように一つだけ。加えて隻眼の頭蓋骨が、何重にも鋼鉄の鎖で押さえつけられ、鎖の先端を釘で打ちつけていた。まるで動き出すのを恐れるように――
「狒々神の髑髏か」
「そうです」
おゆらが答えながら、朧の左隣に立つ。
「触れてみますか?」
「良いのか?」
「どうぞ」
怪訝そうに尋ね返すと、おゆらが柔和な笑みを浮かべる。
「実は生きておるとか申さぬよな?」
好奇心を刺激され、無造作に右手を差し出す。
突如、激しい金属音が鳴り響いた。
鋼鉄の鎖を振るわせ、巨大な髑髏が動いたのだ。
「――おおッ!?」
反射的に右手を引き、おゆらに視線を向けた。
勧めた当人は、口元を隠しながら笑声を漏らす。
「実は生きているのです。この髑髏は――」
「――ッ!?」
「不滅だから神なのです。殺せないから神なのです。人間や妖怪とは、根本的に違うのです。一度
瞠目する朧に頓着せず、おゆらは狒々神の脅威を訴える。
「加えて最悪な事に、我々の妖術が効きません」
「――」
「『
得心したように、朧が鼻を鳴らす。
「薙原家の天敵というわけか」
「仰る通りです。実際、
「それほど恐ろしいなら、遠くへ捨ててしまえばよいではないか。何故、地下牢に閉じ込めておく必要がある」
朧が両腕を組みながら尋ねる。
「
ハッと何かに気づいて、おゆらの顔を凝視する。
「もしや村祭りの焚き火か!? あれは獣の肉ではなく、狒々神の髑髏を燃やしておったのか!?」
柔和な笑顔を維持しながら、おゆらは首肯する。
「勿論、村の衆には知らせておりませんが、堂々と髑髏を焼き払う機会は、村祭りの焚き火を於いて他にないのです」
「――」
「狒々神は首を切断されると、再生能力が著しく低下します。それでも一年も経てば、殆ど元通りに復元してしまうのです。それゆえ、念入りに髑髏を焼き清め、本家の御屋敷の地下牢に封印。一年後、村祭りの焚き火で焼き尽くす。我々は、これを四十年も繰り返してきました」
滔々と語りながら、おゆらは自嘲気味に笑う。
猪の肉でも焼いているのかと思えば、まさか狒々神の髑髏を焼いていたとは……流石に想像の埒外である。村人は言うに及ばず、朧や奏の知らない事実は、他にも多く残されているのではないか?
おゆらと話していると、疑念ばかりが浮かんでくる。
「畢竟、新たに出現する狒々神を討ち取ればよいのか?」
「左様です。然し御一人では、事を仕損じるやもしれません。手練の女中衆を五十名ほどお預けします。先手を任せるも良し。囮に使うも良し。全て朧様にお任せします。必ずや狒々神の首を挙げてください」
珍しく神妙な面立ちで、おゆらが懇願してくる。
だが、朧は生粋の中二病――骨の髄まで天邪鬼だ。
他人の指示通りに動くわけがない。
「女中衆の大半が、閉門を命じられておろう。御曹司の命に背くと?」
「朧様は気にしないでください。私が責任を取ります」
「……見知らぬ兵を預けられても、足手纏いにしかならぬ。初代の
「お気に召さないのであれば、御一人で動いて構いません。その時は、女中衆も自由に動きます」
「儂が狒々神の注意を引く囮で、女中衆が本命か」
「どちらが囮で、どちらが本命となるか……それこそ朧様の武勇が試されるというもの。博打好きの朧様なら、存分に楽しめるかと」
「――」
挑発的な物言いに、朧は妖艶な美貌を顰めた。
いい加減に、おゆらの思惑も読めてきた。
朧が無策で狒々神に斬り込み、女中衆は飛び道具で援護する。運悪く朧が流れ矢の犠牲になるかもしれないが、主家に反抗的な徒士など死んでくれて構わない。寧ろ狒々神討伐の捨て石になれ……と言外に命じているのだ。
理不尽な要求が、朧の闘争心を煽る。
大刀の柄に右手を添えた時、部屋の入り口から別の女中が現れた。
邸内を自由に動けるという事は、叛乱鎮圧に動員されていないのだろう。運良く蛇孕村の外に出ていたのか。
処分を免れた女中が、上役の耳元に顔を寄せる。
報告を受けると、おゆらは額に右手を寄せた。
「如何した?」
「千客万来と申しますか……招かれざる客人が、この非常時に本家の御屋敷へ訪ねてきたそうです」
「美作の牢人衆か?」
「いえ……篠塚家の
ついにおゆらは笑顔の仮面を外し、疲れた表情で溜息をついた。
三丈……約9m
金痕……負傷
相馬小次郎……平将門
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