第81話 狒々神
西の空で遠雷が閃き、やや間を置いて雷鳴が轟く。
灰色の雲に黒い澱みが混じり、いつ雨が降り出してもおかしくない。二日前、蛇孕村に暴風雨が到来し、激しい雷雨は家屋を揺るがすほどであった。その日を境に雨こそ降らないが、太陽は雲に覆い隠され、陰気な空気が本家屋敷に留まり、
庵の縁側で胡座を掻きながら、豪快に
左腰には、大小二人の刀を帯びている。武具庫から勝手に持ち出したのだろう。刀工も産地も分からない数打物だ。
ぐびぐびと酒を煽りながら、厚めの唇を左腕で拭う
と、黒と灰で塗り潰された空の景色を見上げ、ふんと鼻を鳴らした。
「お天道さんも御機嫌斜めよのう」
正面に視線を戻し、妖艶な美貌に喜悦の笑みを浮かべる。
「いい加減、妖怪共の戯れに嫌気が差したのではないか? なあ、
朧の視線の先には、おゆらが佇んでいた。
緩く波打つ栗色の髪に、柔らかい微笑み。黄色の小袖に茶色の湯巻。黒革の首輪と佇まいこそ変わらないが、死人のように顔色が悪い。
「奏様の御様子は?」
「良くはなかろう。二日も寝ておらぬのじゃ。然れど水は飲んでおる。儂が用意した
相手の異変に気づいていながらも、朧も鷹揚に応えた。体調不良に見せかけて、奏と面会しようという腹積もりか。
「左様でございますか。安堵致しました」
如才ない笑みを貼り付け、おゆらは胸の前で両手を合わせる。
「それで――御曹司の勘気を蒙り、蟄居を命じられた奸臣が、斯様な場所で何をしておる?」
「奏様を守る為に……成すべき事を成す為に参りました。処刑は覚悟の上でございます」
「御曹司には会わさぬぞ」
牽制するように、殺気を滲ませながら告げた。
「御曹司から、この庵に誰も入れるなと命じられておる。獺殿は例外としても、お主は通せぬ。押し通ると申すのであれば、儂も太刀を抜かねばならぬ」
瓢を縁側の廊下に置き、大刀の柄に右手を添え、むくりと立ち上がった。億劫そうな物言いと裏腹に、楽しそうに庭へ飛び降りる。
如何なる理由があるにせよ、主命に背くのであれば、上意討ちにされても文句は言えない。胸糞悪い淫売が、自らを処断する大義名分をくれたのだ。それを見逃すほど、朧も甘くない。
「奏様に面会を求めているわけではありません。朧様に御助勢頂きたく、恥を偲んで罷り越した次第です」
怪訝そうに眉根を寄せるが、大刀の柄から手を離さない。
「今日の昼頃、馬喰峠に狒々神が現出します」
一瞬、朧は目を丸くしたが、すぐに笑顔を取り戻す。
「真か?」
「
「狒々神……クククッ、あの狒々神か」
両目を細めて、朧は独り言のように呟いた。
四十年前に蛇孕村を襲撃した
剣鬼の血が滾る。
中二病の矜持が疼く。
是が非でも、狒々神の首を刎ね飛ばしてやりたい処だが……朧にも守らなければならない者がいる。
「興味深い話ではある。然れど庵から離れるわけには参らぬ」
「狒々神をのさばらせておけば、必ずや本家の御屋敷にも害を齎します。勿論、その前に蛇孕村の民が犠牲となりましょう。奏様は、斯様な結末を望みません。何卒、高所大局からの御判断を――」
「儂はお主を信用しておらぬ」
おゆらの言葉を強引に遮る。
「己の所業を鑑みよ。突然、下知に背いて庵へ赴き、狒々神が来るから助けてくれと申した処で、信を得られると思うか? 因果応報。当然の末路じゃ。それほど御家とやらを守りたいなら、お主一人で狒々神に挑めばよかろう。蛇女に妖術を封じられて、
「……」
「御曹司は情け深いからのう。墓くらいなら建ててくれよう。合戦に敗れた武将や叛乱を起こした難民の如く、衆目に首を晒される事もあるまい。実に羨ましい死に様よ。代われるものなら、儂が代わりたいくらいぞ」
炯々と眼光を輝かせ、痛烈な皮肉を叩きつける。
それでも笑顔の仮面を外さず、おゆらは両腕を広げた。
「何のつもりじゃ?」
「如何にすれば、朧様の信を得られるのか……私なりに考えてみました。今更、金銭や借書をちらつかせても、不興を買うだけでしょう。然りとて出世欲や所有欲を惹起しても無意味。ならば、私の命で満足して頂けませんか?」
無抵抗を示すつもりなのか――丸腰で両手を広げて、無防備な姿を晒す。加えて護衛の女中衆を連れていない。おゆらを斬り捨てる好機ではあるが……やはり頭の片隅に、邪悪な陰謀に巻き込まれるのではないかという懸念が残る。
相手は、薙原家の裏側を支配する魔女。虚言と謀略で政敵を排除し、利権という餌で分家衆を抱き込み、本家女中頭の地位に上り詰めた梟雄だ。自分の命を対価にすると言いながら、その裏で如何なる陰謀を企てているのか、知れたものではない。
無謀と中二病は、似て非なるもの。
標的が自分一人なら構わないが、奏を巻き込みたくない。
此度は、慎重に事を成すべきか。
女中頭を成敗する機会は、すぐにでも訪れよう。
「ふむ、よかろう。仔細くらいは聞いてやる」
「ありがとうございます。これで蛇孕村も救われます」
「それはどうかの。儂の役目は、この庵の警備じゃ。御曹司の許しを得ずに、この場からは離れられぬ」
「今の私は
「
朧は口角を吊り上げて尋ねた。
「……」
柔和な笑みを浮かべるだけで、おゆらは何も応えない。
「かなり追い詰められておるのう」
「……」
「お主の窮地を救う義理などないが……この遣り取りを続けても、堂々巡りになるだけじゃ。致し方あるまい。いまいち頼りないが、獺殿を信じようではないか」
大刀の鞘から右手を離し、厚めの唇を舐めた。
おゆらは黒革の首を触りながら、安堵の吐息を漏らす。
「私についてきて貰えますか?」
「御曹司の下知に背く事になるが、儂も尋常の
妖艶な仕草で嗤うが、全身から殺気が溢れている。
「儂は御曹司を守る為の太刀じゃ。御曹司が狒々神討伐に異を唱えた時、儂は太刀を抜かぬ。蛇孕村から出て行くだけじゃ」
「奏様を連れて、蛇孕村から出奔すると?」
「斯様な事も有り得よう。獺殿から薙原家の内情を知らされ、知己と呼べる者も眠り続けておる。もはや蛇孕村に拘る必要はあるまい」
「――」
「カカカカッ、他意はないぞ。お主の好きな道理の話じゃ」
おそらく何かを思いついたのだろう。主君に命じられた職務を一旦放置しても、それ以上の成果が得られると、朧の中で目算がついたのだ。
おゆらがそうであるように、朧も命令を遵守するだけの傀儡ではない。主君の為になると思えば、堂々と主命に背く。各々が柔軟な発想を持ちながら、各々の定めた方針で主に尽くすのが、戦国乱世の主従関係である。
「左様な事にならないように、全身全霊を
おゆらは頭を下げた後、優雅な所作で踵を返した。
今の蛇孕村は、事実上の無政府状態だ。分家衆は己の屋敷に籠もり、評定を行う事もできない。難民の粛清に直接関与した女中も閉門。八割近い本家女中衆が、女中部屋の外に出られない。
朧の職務放棄をどう思うか?
おゆらの独断専行を認めるのか?
全ては奏の胸三寸である。
世話役の所業を顧みれば、随分の分の良い賭けだ。
寧ろ負ける理由が見当たらない。
自然と頬が緩む。
朧は意気揚々と、おゆらを追い掛けた。
焼飯……表面を焼いたおにぎり
閉門……拘束期限が限られた自宅軟禁
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