第78話 悲劇

 すでに戌の刻近い。

 毒の粉末で両目を潰された朧は、杖の代わりに大刀の鞘で地面を叩きながら、夜の闇に閉ざされた田圃の畦道を進む。

 充血した両目を開いているが、当然の如く見えていない。民家も道の幅も判別できず、前方を鞘で叩きながら進む。

 それでも本家屋敷まで辿り着くのだから、並大抵の武芸者ではないのだろう。

 隷蟻山の館でお瑠麗るりを成敗した後、すでに薙原家が奏を保護していると見越して、一旦本家屋敷へ戻る事にした。自分で吊り橋を斬り落とした為、川沿いを下流に向けて進み、葦原まで辿り着くと、腰まで水に浸りながら、自力で蛇孕川を渡河。小作や下人に申し訳ないが、大刀の鞘で田圃の苗を踏み潰しながら直進し、朧もよく知る田圃の畦道へ出た。後は杉の香りが薄い方角――蛇孕岳と逆方向に向かえば、自然と本家屋敷に到着するというわけだ。

 体感時間で四刻も歩き続けた。

 眼が見えれば、本家屋敷まで一刻も掛からないのだが……体力面で問題はない。出血多量で命を落とすにしても、もう暫く猶予が残されている。

 今の朧の佇まいは、尋常なものではなかった。

 埋火の爆発に巻き込まれ、猩々緋の小袖は焼け焦げ、全身に軽度の火傷を負い、腹部を抉る釘の一撃は致命傷。加えて手甲鉤鎌鋸九宮袖箭で胴体の肉を削り取られ、鋸刃で左腕を切断寸前に追い込まれ、袖箭の矢を何度も受けた。

 とても戦闘を続けられる状態ではないが、妖艶な美貌は凄惨な笑顔に変貌している。五体から獰猛な殺気が迸り、微塵の隙も見当たらないのだ。

 手負いの虎ほど恐ろしいものはない。

 再び刺客が襲い掛かるなら、小刀一振りで返り討ちにするつもりだ。最低でも差し違えると考えない処が、朧の中二病足る所以ゆえんである。

 大手門の近くまで辿り着いた時、朧は足を止めた。


 見える。


 黒い霧が消えてなくなり、開け放たれた大手門が視認できる。大手に続く橋の手前に、二基の篝火が燃えていた。

 右手を右肩に当てると、袖箭の矢傷が消えていた。五寸釘で抉られた脇腹の深手も塞がり、血が滲み出る事もない。

 朧が気づかないうちに、『起死再生きしさいせい』が発動したのだ。地を這うように飛ぶ蚤に、いつの間にやら付着されていたのだろう。これが飛び道具なら死んでいた。

 不覚……と思うと同時に、疑念も湧いてくる。


 何故、儂の傷を癒やす?


 用心深い女中頭の手筈通り、度重なる死闘を潜り抜け、朧の戦闘力は削がれていた。ろくに眼も見えず、大刀も使い物にならない。

 人知れず朧を始末したいなら、千載一遇の好機である。

 だが、朧は無事に本家屋敷へ戻り、命に関わる深手を妖術で癒やされた。

 おゆらの性格を考えると、好機を逃すとは思えない。薙原家に仇成す者を始末すべく、ここぞとばかりに兵力を掻き集め、本家屋敷へ辿り着く前に決着をつけようとする筈だ。何か大勢の女中を差し向けられない理由でもあるのか。

 無造作に大刀の鞘を捨て去り、小刀の柄に右手を添える。待の姿勢で警戒心を露わにすると、大手門から黄色い小袖の女中が出てきた。

 件の女中頭である。

 珍しく小走りで橋を渡り、朧の姿を確認すると、大仰に安堵の息を漏らした。


「ああ、朧様……御無事だったのですね」

「先程まで死に掛けておったが、クソババアの妖術で完治したようじゃ」

「朧様を発見次第、怪我を治すように指示していたのです。奏様が吊り橋から転落し、朧様とお瑠麗るり様も行方知れずと聞かされた時は、心ノ臓が止まるかと思いました」


 朧が死闘を演じていた頃、本家屋敷でヒトデ婆と茶菓子を食べていた女中頭が、穏やかな表情で胸を撫で下ろす。


 なんじゃ、この三文芝居は……


 朧が知るおゆらは、奸知に長けた魔女。虚言と謀略を駆使し、己の偽装に抜け目なく、綿密な根回しと大胆な裏切りを用いて、本家女中頭の地位を得た毒婦。

 鉄砲衆やお瑠麗るりの死を承知している筈だ。おゆらが妖術で隷蟻山の難民を操り、叛乱に駆り立てた事も、戦闘の最中にお瑠麗るりが白状している。この期に及んで、言い逃れにもならない虚言を弄し、何の意味があるというのか。


「御曹司は如何に?」

「隷蟻山の麓で保護し、本家の御屋敷に連れ戻しました。浅からぬ手傷を負われていましたが、すでにヒトデ婆の妖術で治療を済ませております。今は庵で休息を取られているかと」

「左様か。御曹司が無事なら、それでよいが……」


 今更主君の安否について、虚言を弄しても無益。おゆらの言葉通り、無事に保護したと考えて差し支えない。

 やはり腑に落ちないのは、難民の叛乱と朧の始末を知らぬ存ぜぬで押し通す事だ。盛大に篝火を燃やしているので、朧を『毒蛾繚乱どくがりょうらん』で操作するつもりはないようだが――

 何かに気づいた様子で、朧が両目を細めた。


「もしや蛇女も来ておるのか?」


 出し抜けの問い掛けにも、おゆらの柔和な笑顔を崩れない。


「はい。奏様の側におります」


 穏やかに微笑みながら、豊かな胸の前で両手を合わせる。

 面の皮の厚い女中頭との遣り取りで、ようやく薙原家の実情を把握できた。

 此度の騒乱の第一義は、難民の殲滅や朧の始末ではない。徳川家か黒田如水か符条巴か……朧にも特定できないが、薙原家に実害を及ぼしかねない強敵が動き始めたのだろう。


「お冬さんから聞きました。視察団が襲撃された際、奏様を狙う逆賊に臆する事なく、進んで先手を務められたとか。誠に勇猛果敢と家人の方々も称賛しておりました」


 全面衝突が避けられないのであれば、薙原家も防衛戦の前に対応策を講じなければならない。つまり此度の騒乱は、おゆらが考案した対応策――事前準備の一環である。複数の勢力に包囲された時は、各個撃破が兵法の定石。敵方の連絡網を寸断し、可能な限り自軍の兵力を損なわれず、弱い勢力から潰していく。

 おゆらには、隷蟻山に住む難民が敵対勢力――と言うより、不確定要素に見えたのだろう。用心深いおゆらは、不確定要素の存在を許さない。最も脆弱な勢力を謀叛人に仕立てて殲滅。


渡辺源氏わたなべのげんじが如き豪傑ぶりに、私も感服した次第です。此度の武功を踏まえて、渡辺家の加増を検討致しましょう。勿論、朧様の借書も全て焼却します」


 次の標的が、士分に取り立てたばかりの朧だ。

 薙原家に敵意を抱き、无巫女アンラみこに忠義を持たない不穏分子。難民の叛乱に乗じて、朧も始末する予定だった。然し殺害を命じた女中衆は失敗。新たに増援を送り込めば、朧を討ち取れたかもしれないが、数名の女中を道連れにされる。これ以上の損害を避ける為、おゆらは一先ず朧の殺害を諦めた。

 おゆらからすれば、今すぐ朧を殺害する理由はない。難民の殲滅と違い、少ない兵で始末できれば、僥倖とでも考えていたのだろう。

 それらを含めたうえで、おゆらは一時的な和睦を持ち掛けているのだ。

 不確定要素というだけで難民を虐殺し、朧に刺客を送り込んで殺そうとした女中頭が、『これで手討ちにしよう』と持ち掛けているのだ。


「加増や借銭の話より、部屋替えの話をした方が、朧様の真意に適うかもしれません。女中長屋を引き払い、奏様の庵に近い部屋をお使いください。いつでも好きな時に、奏様と面会できますよ」


 全くあてにならない口約束を聞きながら、朧は上方に視線を送る。

 大手門の上に設置された矢倉から、二名の射手が火縄式の鉄砲を構えていた。篝火の中で薪が焼け焦げる臭いに紛れて、鉄砲手の火縄の臭いに気づかなかった。すでに火縄は白い煙を上げて、中二病の武芸者に巣口を向けている。

 燃え盛る篝火は、朧に対して『毒蛾繚乱どくがりょうらん』を使用しないという妥協の証。同時に篝火の灯りで朧の姿を照らし、鉄砲手が狙撃しやすいようにしている。和睦に応じなければ――少しでも不審な動きを見せれば、即座に射殺するという警告。


「然れど今宵の伺候は、御遠慮ください」

「何故?」

「奏様は休息を必要とされています。朧様も今宵は、ゆるりと休まれるべきでしょう。奏様と会うなら、明朝でも構わないかと存じます」


 左手で黒い首輪を触りながら、優しげな声音で言う。

 これも飴と鞭と言うのだろうか。

 怪我の治療は、裏取引の主導権を握る為の手付金。

 さらにおゆらと和睦すれば、借財の帳消しと家禄の加増。それに主君の側で仕える事が許される。若党の徒士を相手に、破格の条件を提示している。

 逆に和睦の提案を拒否すれば、矢倉に潜む鉄砲手が朧の頭部を撃ち抜く。遮蔽物のない場所では、鉄砲の弾丸を防ぐ手立てはない。これが棋盤の上なら、朧の敗北は確定している。

 然し命懸けの斬り合いは、碁や将棋と違う。己の首を斬り落とされるまで、敗北の二文字は存在しない。加えて外的な要因を加味すれば、形勢逆転の可能性も見えてくる。勝利を呼び込む外的要因は、薙原家に君臨する无巫女アンラみこだ。

 おゆらは、まだ奏の記憶を改竄していない。

 保護した奏を本家屋敷に連れ戻した直後、偶然にも无巫女アンラみこも本家屋敷を訪問し、就寝する奏の側に張りついていたのだろう。无巫女アンラみこの訪問は、完全に女中頭の想定の範囲外。おゆらも无巫女アンラみこの前で、奏の記憶を改竄するわけにもいかず、明日の明け方まで時間を稼ぎたいのだ。


 奏と面会したいなら、記憶の改竄を終えてからにしろ。


 おゆらの本心は、その一点に尽きる。


「これからも奏様の為に、類い希なる武勇をお示しください。それが薙原家の隆盛に繋がります」


 柔らかい笑みを浮かべながら、朧の返答を待つ。

 和睦を受諾すれば、これからも女中頭の権勢が続くだろう。和睦を拒否すれば、反抗的な徒士の人生に幕が下ろされる。

 おゆらは勝利を確信していたが、相手は中二病の武芸者。

 逆境を乗り越える事に、無上の喜びを覚える剣鬼。命を賭けた博打に目がなく、正面から敵を出し抜かなければ、勝利の余韻すら味わえない。


「儂は初めて経験したが……一揆の叛乱なるものは、実に過激なものよのう」


 唐突に嗤いながら、朧は話題を変えた。


「鉄砲を射掛けられるわ、急に地面が爆発するわ、袖箭を撃ち込まれるわ、ツインテールに針を仕込んでおるわ、毒の粉末で眼を潰されるわ……クククッ、散々な目に遭うた。今なら信長公の苦労がよう分かる。真宗一揆鎮圧に十年も掛かるわけよ」

「……」


 おゆらは笑顔の仮面を崩さず、朧の無駄話に付き合わない。

 矢倉に潜む鉄砲手も、場当たり的な時間稼ぎに気づいている。おゆらの合図を待つまでもなく、火縄式鉄砲の引き金に人差し指を掛けた。


「なんとか生き延びたがの。年増女中が討ち死にしたぞ」

「まあ――お瑠麗るり様が?」


 初めて聞かされたというふうに、おゆらが驚きの声を上げた。


「ふむ、一揆勢も死兵と化していたからのう。多勢を相手に戦い抜いたが、最後は力尽きて心ノ臓をぐさり……まあ、名誉の戦死というやつじゃ」


 焼け焦げた袖口に右手を差し込み、ごそごそと何かを探し始める。


「懇ろに弔うてやろうと思うたが、屍を屋敷まで運ぶのも面倒じゃ。それゆえ、遺体の代わりに、年増女中の首だけ持ってきた」


 事もなげに言うと、袖口からお瑠麗るりの首を取り出し、ひょいとおゆらに投げて渡す。


「こういう時は、おぐしを持ち帰るものですが……」


 おゆらが苦笑いを浮かべて、両手でお瑠麗るりの首を受け止めた。

 その刹那。

 疾風の如き速さで間合いを侵略し、おゆらの眼前に詰め寄る。

 おゆらの両腕を封じ込めた朧は、互いの身体が衝突しそうなほど接近し、耳元に妖艶な美貌を近づけた。


「調子に乗るなよぉ、雌狗プッタ


 小さな声が、おゆらの自尊心にひびを入れる。

 用は済んだと言わんばかりに、おゆらの脇を通り過ぎ、本家屋敷の大手門に向かう。

 おゆらは振り返る事ができなかった。

 背後から「おお、御曹司――」という朧の声が聞こえてきたからだ。

 虚言ではない。大手門を潜る足音から分かる。庵で寝ていたはずの奏が目を覚まし、おゆらを捜しているのだ。

 矢倉の鉄砲手が、狙撃を躊躇したのも正しい判断である。

 お瑠麗るりの首を投げられた時点で、おゆらも鉄砲手も虚を衝かれていた。加えて絡み合うように、両者の肉体が密着しており、発砲すれば女中頭も撃ち抜いてしまう。

 無論、与えられた役目を果たす為なら、鉄砲手は容赦なく引き金を引く。然しこの場に奏が現れた事で、おゆらの目論見は水泡に帰した。奏の眼前で狙撃などできるわけもなく、おそらく无巫女アンラみこも一緒に来ている。

 もう手の出しようがない。

 朧の推察通り、まだ奏の記憶を改竄していない。気絶した奏が運び込まれた直後、南蛮式の弩を携えた无巫女アンラみこが、一人で本家屋敷へ出向いてきたのだ。奏の負傷を癒やすのが精一杯で、記憶の改竄まで行う余裕がなかった。

 悪運の強い女だ。

 大手門に奏が現れたのは、単なる偶然に過ぎない。然し偶然だけでは片付けられない強運を兼ね備えている。

 この一ヶ月に満たない間に、何度の死地を乗り越えてきたか。

 不本意ながらも認めざるを得ない。

 渡辺朧という中二病の武芸者を軽んじていた。

 常人離れした身体能力や逆境を覆す機転に注目し、朧の本質を見過ごしていた。僻地の蛮族の如き粘り強さと、落ち武者の如き往生際の悪さ。武運に関しては、八幡大菩薩の加護でも授けられたのかというほど。加えて死闘を重ねる度に、石垣を積み上げるが如く、一足飛びに成長を遂げてしまう。

 いつの間にか、おゆらの笑顔の仮面は剥がれ落ちていた。

 ひくひくと唇の端を引き攣らせ、懸命に殺意を抑え込んでいる。

 左脚の太腿に小刀を突き立てられていたが、敗北の屈辱は激痛を打ち消す。湯巻が赤く染まろうと、お瑠麗るりの首を抱えたまま、おゆらは大手門の前で佇んでいた。




 朧は大手門を潜ると、寝巻姿の奏を見つけた。

 一瞬、微笑みを浮かべかけたが、朧の表情が固まる。奏の後ろに、蒼い巫女装束のマリアが佇んでいたからだ。

 久方ぶりに対面してみると、生理的な嫌悪感と獰猛な殺戮衝動が膨れ上がり、この場で斬り捨てたくなる。


「――朧さんッ!? 大丈夫ですか!? 早く手当を――」


 落ち武者の如き朧の姿に驚き、奏はヒトデ婆を呼ぼうとするが、中二病の武芸者は片手で制した。


「大事ない。すでにクソババアの妖術で完治しておる。儂より御曹司こそ無事か?」

「左足を怪我しましたけど……気絶してる間に『起死再生きしさいせい』で癒やされたみたいです」

「お互い無事で良かった……で終わりそうもないの」

「え?」

「気づいておらぬのか? 先程から酷い顔をしておるぞ。人でも殺してきたか?」

「――」


 朧に指摘されて、奏は顔に手を当てた。

 自分では分からないが、端整な面立ちが死人のように青褪ている。

 朧は胡乱げな視線をマリアに投げ掛けた。


「お主、御曹司に何を致した?」

正室メインヒロインである私が、奏の負担になるような事をするわけがないでしょう。他人の所業に疑念を抱く前に、自らの行動を省みなさい。蛇孕村に来て一ヶ月近くも経つというのに、サービスシーンの一つもないなんて……嘆かわしいわ。根本的に雌豚サブヒロインという自覚がないようね。だから奏に攻略して貰えないのよ」


 左手の人差し指を立てながら、抑揚を欠いた声で反論した。奏は言うに及ばず、中二病の朧ですら、マリアの言動は理解に苦しむ。


「とにかく心身共に疲れ果てているのは確かね。奏は庵で寝ていなさい。クロスボウの解説は、明日でも構わないわ」

「大丈夫……僕は大丈夫だから」


 自分に言い聞かせるように、奏は消え入りそうな声で答えた。

 身体の震えが止まらない。

 曲がり刃で左馬助の心臓を貫いた感触が、今でも身体に刻み込まれている。

 それでも休むわけにはいかない。

 奏が目覚めた時、視界に飛び込んできたのは、自分の部屋の天井だった。

 白い寝巻を着せられて、柔らかい布団で寝かされていた。細かな傷や左足の怪我も消えており、一瞬悪い夢でも見ていたのかと思いかけたが……夢である筈がない。

 布団から飛び起きて、周囲を見回すと、燭台に炎が灯されていた。

 加えてマリアが部屋の隅で端座しながら、びーんと南蛮式の弩を空射からうちしていた。奏が目覚めるまで、暇を持て余していたのだ。

 起きたばかりの奏が、


「僕はどれくらい寝てたの?」


 と尋ねると、


「四刻という処かしら。すでに日も落ちている。明日まで寝ていなさい」


 マリアは抑揚を欠いた声で答えた。

 額に手を当てながら、悪夢のような出来事を少しずつ思い出す。

 突然、常盤の父親に襲われて――

 自らの手で殺害したのだ。

 殺人に対する嫌悪感に耐えきれず、頓狂な悲鳴を発した。その直後の記憶がないので、おそらく恐怖で気絶したのだろう。荷物の如く本家屋敷まで運ばれて、怪我の治療を受けて現在に至る。

 完璧ではないが、現状を把握した奏は、マリアに必死で懇願した。「一揆勢の制圧から生け捕りに変更。負傷した者は難民であろうと、最善の手当てを行うように」と御命を下すように、マリアを説得したのだ。マリアも婚約者の願いに応えて、『傲慢ゴウマンナル蒼蛇想アオノヘビオモイ』で本家女中衆や分家衆に御命を伝えており、すでに各々が行動を起こしている。

 一揆勢の襲撃を受けたのが、午の刻の手前。

 あれから四刻も経過している。

 とても生存者がいるとは思えないが……諦めてしまえば、希望を抱く事すらできなくなる。一人でも多くの難民を救い出し、叛乱の罪で裁かれないように、行動を起こさなければならない。おゆらの妖術で操られた挙句、子供や老人に至るまで処刑するなど、絶対に許してはならない事だ。

 奏は寝巻姿で庵から飛び出し、マリアを連れておゆらの許に向かった。これもマリアの『傲慢ゴウマンナル蒼蛇想アオノヘビオモイ』で即座に居場所を特定し、真っ直ぐに大手門を目指す。

 おゆらを拘束する。

 身内の情に流されて、おゆらの処分を保留してきたが、もはや私情を挟む余地はない。マリアを連れてきたのも、確実におゆらを拘束する為である。

 本家女中頭を拘束する事により、一時的に薙原家が混乱するかもしれないが、それこそ些末な事柄に過ぎない。

 とにかくおゆらの身柄を抑えて、一人でも多くの難民を救う。

 それに――

 常盤の父親を殺した。

 奏自身が、一番理解している。あれは事故ではない。自分が生き延びる為に、常盤の父親を殺めたのだ。

 死にたくないから、常盤の肉親を殺した。

 己の命と他人の命を比べたら、己の命の方が遙かに重かった。

 周囲から清廉な人柄と評されても、所詮は恥知らずの臆病者。加えて切腹して果てる度胸もなく、まだ生き延びる道を模索している。

 それだけではない。

 薙原家が人を喰う妖怪だと知りながら、具体的な行動を起こさなかった。

 罪悪感を覚えながらも人身売買を半ば黙認し、「時期尚早」という理由をつけて、大勢の奴婢を見殺しにしてきた。生類の絶滅を望む悪魔崇拝者と何も変わらない。奏が最も忌み嫌う『選択と集中』を繰り返し、他人の命を軽んじてきたのだ。

 挙句、おゆらの残虐性を見抜いていながら、今日まで拘束を躊躇った。

 奏におゆらを責める資格はない。否、おゆらの挙動に不信感を抱きながらも見逃してきたのだから、愚かな主君も残忍な女中頭と同罪だ。裁かれるのであれば、奏も裁かれなければならない。

 罪の意識が重く肩にし掛かり、奏の心を蝕んでいく。気持ち悪くて、胃液を吐き出してしまいそうだ。

 黙して頷いていた奏が、ふと周りを見回した。


「……常盤は?」




 戌の刻……午後八時


 四刻……八時間


 一刻……二時間


 渡辺源氏……渡辺綱わたなべのつな


 午の刻……正午

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