第77話 結末
奏が吊り橋から落ちた時、即座にお春は蛇孕川の上流を――お夏は蛇孕川の下流を捜索した。奏が『
隷蟻山に向かう為には、急流の蛇孕川を渡らなければならない。
今頃、吊り橋は埋火で爆破されているだろう。下流の浅瀬から渡河するにしても、今からでは時間が掛かり過ぎる。すでに本家女中衆が蛇孕川を渡り、難民の残党を殲滅しながら、奏が匿われた洞窟を目指している。最初に下流を目指したお夏が、最も早く奏を見つけるだろう。お夏は、首から下が
然し家人の使命は、
それでも遅いより、速いに越した事はないだろう。
お春は近道をする為、縄と
用心深いおゆらが、埋火の爆発で吊り橋が落ちた時の為に、川岸の木陰に縄と銛を隠していたのだ。
鬼の如き力で幹に縄を巻きつけ、対岸の樹木に向けて銛を投げつける。お春の豪腕で投擲された銛は、太い樹木の幹に突き刺さり、強風や雨ではびくともしないほど、完璧に縄は固定された。
蛇孕川の上流から川沿いを南下し、一直線に奏の下へ向かう。
俄に雨が上がり、視界も開けてきた。
やはり地面に仕掛けていた埋火が爆発し、吊り橋が落とされていた。無造作に、他の女中衆の屍も放置されている。おそらくお
奏が川に落ちてから、二刻ほど過ぎただろうか。ようやく隷蟻山の麓――深い森の中に辿り着いた。奏が匿われた洞窟は、森を越えた下流の近く。すでにお夏が奏様を確保している――と確信しているが、お夏が奏の許に辿り着いたのは、お春が到着した直前。意外に僅差と言うべきか、予想よりお夏が遅れていたのだ。
当初、家人は蛇孕川を渡らない予定だった。
一応視察の前に地図を見せられたが、下流の葦原が身の丈を超えるほど伸び放題で、五寸先も見えない難所と知らされておらず、隷蟻山の地理に疎いお夏が葦原を抜けるのに、二刻近くも掛かった。
奏の居場所が判明した時点で、家人の役目は主君の捜索から、身柄の確保に移行しており、お夏の遅参は失態と呼ぶべきものではない。寧ろ奏の身柄を確保したのだから、己の役目を全うしたと言える。
ともあれ。
泥濘に苦しむ事もなく、薄暗い森の中を駆けていると、銀髪の少女を見つけた。
咄嗟にお春は、木陰に身を隠した。
埋火の爆発で落ちた吊り橋の残骸や、味方の女中衆の屍を見ても、気にも留めない
奏を守る家人に限らず、本家の女中衆からすれば、それほど重要な存在ではない。あくまでも奏が所有する玩具。おゆらの妖術の人体実験の道具。いくらでも替えが効く南蛮人形。本家女中衆は、精神的に不安定な常盤の乱行を咎めず、寧ろ陰で物笑いにしていた。お春は、主君の着物を盗んで自慰に耽る変態に興味はなく、他の女中から常盤の話題を振られても聞き流していた。
今回の一件でも、他の女中衆は知らないが、家人に常盤暗殺の指令は出ていない。難民の叛乱に乗じて始末するなら、おゆらの『
実に女中頭らしい悪巧みだが、謀略の正否に関心はない。本来の責務を全うすべく、一刻も早く奏の下に駆けつけなければならないのだが――
常盤の挙動が、妙に気になるのだ。
今にも泣き出しそうな顔立ちに、ズカズカと乱暴な足取り。普段通りと言えばそれまでだが、不思議と歩き方に迷いがない。
どこを目指しているのか分からないが、何か行動を起こすと決意した雰囲気を感じさせる。人工頭脳が『雰囲気』を気にするというのも奇妙だが、とにかく何かおかしい。
何故、一人で行動しているのか?
どうして奏と洞窟の中に隠れていないのか?
まさかこの緊急時に、木陰で自慰というオチはないだろう。
奏様の謀略?
奏は片脚を怪我している。
自分は動けないので、常盤に智謀を授けたのか。
現時点で最も可能性が高く、最も厄介な事態である。
人工頭脳を持つお春からすれば、奏は不思議な人間だ。己の身に危険が迫ると狼狽するが、他人の厄介事に巻き込まれると、途端に抜群の判断力と行動力を発揮する。掴み所がないというか、流石は
さらに奏の性格を鑑みると、叛乱を起こした難民を救うつもりであろう。盤上の駒を全て覆し、おゆらの謀略を水泡に帰すほどの鬼手。
これは詰んでいます。
お春は木陰に隠れながら、冷静に状況を推察する。
この場で常盤を殺す事もできるが……それは得策とは言えない。
お春の憶測に過ぎないが、彼女は
斯様な虚言で押し通るつもりではないか。
マリアの第二の聖呪――『
仮にマリアが奏を通じて、『隷蟻山が騒がしい』と神託を下せば、奏の意志で自由に解釈できる。『隷蟻山が騒がしいので、女中衆は難民の生き残りを保護し、直ちに下山するように』と言われてしまえば、反論の余地もなく従うしかない。
やはり詰んでいます。
珍しく今回のおゆらの企みは失敗に終わった。
忽然と常盤が、金切り声で喚き始めた。
酷く冷静さを欠いているが、「
お春の推察通りだ。
何も考えずに常盤を始末していたら、面倒な結末を迎えていただろう。
この時点で常盤は、
十中八九、奏の考えた法螺話であろうが、堂々と
奏様は、お夏さんに任せるしかありません。
もはや知らないふりはできない。他の分家衆の眷属も聞いている。蛇孕神社の勅使を保護しなければ、
お春は木陰の外に出ようとした。
然し――
「……でも私は、薙原家の不利益になるような事はしない!
「――」
「だから父を助けて! 父は視察団を襲撃してない! まだ蛇孕村も襲ってない! 今なら女中衆の力で、父を拘束する事もできるでしょ! これは取引! 父を見逃してくれたら、私が
「――」
再び木陰に身を隠すと、お春は動きを止めた。
一体。
この娘は。
何を考えているのだ?
精神の均衡を崩した南蛮人形が、
これまで奏様の温情を生かされてきた玩具の分際で、
奏と常盤は、血筋も身分も違う。
たとえ妖術が使えないにしても、奏は
だから豪勢な生活もできる。ある程度の我が儘も許される。さらに
対して常盤は、先代当主が気紛れで連れてきた難民の子供。薙原本家の猶子とされているが、それも奏が後見人を引き受けたからで、今すぐ蛇孕村から追い出されても文句は言えない立場である。
愚劣の極み。
否定しかできません。
日頃から思慮の浅い娘と見下していたが、人工頭脳の想像を遙かに超えていた。
加えて
万死に値する大罪である。
丁度良い具合に、分家の眷属から連絡が来た。
お夏が、無事に奏を保護したという。
特に増援も必要ない為、隷蟻山に集結した女中衆は、逆賊を一人残らず成敗せよ。
お春は方針を改めた。
常盤は一度、
薙原家に叛意を抱く逆賊は、徹底的に排除しなければならない。
「女中衆か眷属が、どこかで隠れて聞いてるんでしょ! 早く答えて! 父が罪を犯す前に! でないと
怒鳴り散らす常盤と対照的に、人工頭脳が再起動したお春は、小石を常盤の眼前に投げつけた。一瞬、常盤も驚いたようだが、勝手に取引が成立したと思い込み、泣きながら引き返そうとする。
普段、他の難民が隷蟻山の麓に近づかないとしても、あれだけ大声で叫んでいれば、残党に発見されてもおかしくない。案の定、常盤の癇癪と取引にもならない暴言で居場所を気取られて、難民の残党に包囲された。
難民の残党が近づいている事に、お春は気づいていたのである。
戦国時代、貴人が一揆勢に襲われて絶命するなど、珍しい事ではない。明智光秀も穴山梅雪も一揆勢に討ち取られた。
たとえ眼前で幼気な娘が無体な仕打ちを受けたとしても、お春の心が乱れる事はない。抑も
人の皮を被る獣に三人掛かりで陵辱された挙句、竹槍で胴を十七回も突き刺され、心肺機能も停止している。念の為に近づいて生死を確認する必要はあるが――
その前に害虫を駆除しなければならない。
「ツイてるズラ。お福のヤツ、
地面に落ちた革袋を拾い上げ、金色に輝く
「これが
「隷蟻山の外に出れば、商人が
これ以上、見せびらかすと盗まれるのではないかと危惧した
「この
「「……」」
不服そうな視線を向けるが、
「い……一応玩具の鉄砲も貰っておくズラ。銭になるかもしれねえだに」
気まずい雰囲気を誤魔化すように、
その時、近くの茂みから小柄な女中が出てきた。
「薙原家の女中!?」
「ひえええ! もうお終いズラ!」
「う……狼狽えるな! 相手は一人ズラ! 仲間を呼ばれる
及び腰の
馬鹿三人組の小芝居に、お春は全く関心を示さない。襷を外しながら、怜悧な面持ちで方形槍を構える。
三人の中で一番気が短い
よく考えれば、こんな弱そうな娘に負けるわけがない。
「いつまでもウラたちが、薙原家にビビると思うなよぉ。視察団の襲撃には参加してねえが、蛇孕村の住民相手に大暴れしたのは、何を隠そうこの――」
お春が方形槍を振るうと、
「
突然の出来事についていけない
赤黒い鮮血が噴き出して、
対手の挙動に関係なく、お春は殺戮という作業を黙々と続ける。
地面に穴を掘るような動作で、方形槍を
「屍を掘ってるううううッ!!」
屍の胴体に刃を潜り込ませると、強引に方形槍を持ち上げた。数十本の胸骨が内側から弾け飛び、心臓や腸を巻き上げ、血肉の目潰しを
「ひイイイイイイイイッ!!」
複数の内臓や長い腸を顔面に被せられ、血液と肉片で目を塞がれた。動転した
「もぴい!」
横幅二尺の直刃が、
お春が左半身に構え直した時には、
「よ……寄るな! ウラに近づいたら、お福みてえに串刺しにしてやるズラ!」
尤も無様なほど腰が引けており、諸手で竹槍を繰り出しても、人体を貫けそうにない。竹槍の先端が、お春に届くかどうかも怪しいくらいだ。
徐にお春は構えを解いて、方形槍を地面に突き立てた。驚く
「ま……丸腰でウラと戦うつもりか!? 嘗めやがって……
「申し遅れました」
冷淡な口調で言うと、無造作に竹槍の先端を掴んだ。容易く片手で奪い取り、
「あでっ!」
大きく仰け反り、仰向けで泥の上に倒れた。
お春は、取り上げた竹槍を両手で横に持つ。竹槍で刺されるのかと、
「私は薙原本家の女中で、お春と申します。
「……へ?」
どうにか上体を起こし、両腕で顔を隠していた
「開発目的は、人間の代わりに経済活動を行う事。即ち『生産』して『所得』を得て、『支出』をするように造られています。然しこのように――」
淡々と語りながら、竹槍を両手で絞り上げる。
竹槍がバキバキと音を立てて、半ばから引き千切られていく。握り潰すのではなく、雑巾の如く絞り潰してるのだ。
「ひっ――」
「人間や使徒を超える力を持つ為、奏様の家人に選ばれました」
お春は何事もないように、二つに折れた竹槍を放り捨てると、地面に突き立てた方形槍を引き抜く。
腕力の違いに戦慄した
武具があろうとなかろうと、竹槍を素手で絞り潰す怪物に勝てる筈がない。
逃げなければ――
一刻も早く逃げなければ、他の仲間と同様に殺されてしまう。
「こうなったら、最後の手段を使うズラ!」
腰が抜けて立てない
「増税分は、社会保障に使います……からの消~費、税!」
両腕を十字に構えて、大声で呪文を唱えるが――
当然、何も起こらない。
「あ……あれ? おかしいズラ! 呪文を間違えただか!?」
「――」
「国民は、もっと痛みを感じなければならない! からの消~費、税!」
今度は右腕を突き上げてみたが、やはり何も起こらない。
「――」
悪魔崇拝者の愚かな一人芝居を怜悧な眼差しで見下ろしながら、両手で方形槍を頭上を掲げた。血で汚れた刃が、尋常ならざる殺気を放つ。
「なんで空間転移できないだか!? 中二病の神様は、ウラを見捨てただか!?」
新たに会得した魔法が、全く発動してくれない。
中二病の神様のお告げも降りてこない。
殺される。
このままでは、悪の伝説を作る前に殺される。
記憶の走馬燈の如く、懸命に生存本能を模索した
震える手で毛皮から革袋を取り出し、恐る恐るお春に差し出した。
「お福の
「貴方の存在を否定します。見るに堪えない」
お春は明確に言い放ち、醜悪な茶番劇に終止符を打つ。
「やまんぶう!」
六貫を超える金属の塊が、
人工頭脳……マリアが開発した機械人形を動かす機能。
一刻……二時間
二刻……四時間
五寸……約15㎝
半径三里……約11.7㎞
二尺……約60㎝
六貫……約22.5㎞
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます