第76話 決着
隷蟻山に建つ館は、不気味な沈黙に包まれていた。
三間ほど距離を置き、両者は室内で向かい合う。
お
対する朧は、激痛に歪む美貌を左手で覆い隠し、奥歯を噛み締めて震えている。
誰が見ても満身創痍だ。痛みで瞼を開ける事もできず、鋭敏な嗅覚や聴覚で対手を探る余裕もない。
首の後ろから、どろりと血が溢れ出ていた。胸の谷間に血が伝わる。お
然し朧の首は落ちていない。
「反省したぜ、朧さん」
先に沈黙を破ったのは、眉根を寄せていたお
「美作の牢人衆を仕留めた時か。脇差が首筋に触れた刹那、斬撃と同じ速さで回転していなす――なんて離れ業ができるンだったな。次からは首じゃなくて、胴を二つに割るつもりで振り抜くぜ。ンで……問題はその後なンよ。なンで反撃できンの?」
左腕の手甲鉤鎌鋸九宮袖箭で隠していた箇所――
「朧さんに、ルーリーの気配を探る余裕はなかった。これは間違いのねえ事実だ。ルーリーも声や足音で悟られないように、刃を振り下ろす寸前に弓手へ廻り込み、完全に虚を衝いた……筈なンだけどなアアアア。なンで反撃できるのかなアアアア」
「がるるるるッ!!」
平静を取り戻した女中と、獣の如き咆吼を発する女武芸者。
対手に冷たい視線を投げ掛けつつ、お
「ふ~ん、成程ね。激痛に身を委ねる事で、視覚以外の感覚を高めたわけか」
何かに感づいたお
「人間てな、不思議な生き物だからなア。極限の苦痛と引き替えに、神懸かり的な力を得たりする。ルーリーも何度か体験した事あるぜえ。身体を矢で射貫かれたり、刃物で背中を斬られたりすると、火事場の馬鹿力を発揮したりする。朧さんの場合は、両目を襲う激痛と引き替えに、聴覚と嗅覚がビ~ンビンになったわけだ」
加えてお
「然し全く制御できてねえようだなア。視覚以外の感覚が暴走しても、肝心の集中力が乱れてンだよ。都合良く制御できるわけがねえ」
暫しの間を置いて、激痛で悶え苦しんでいた朧の動きが止まり、妖艶な美貌から左手を外した。目元は赤く腫れており、だらだらと血の涙を流している。
「……お主の申す通りじゃ」
多少痛みに慣れてきたのか、朧が弱々しく呟いた。
「眼が
「ルーリーが投げた毒の粉末は、
「であろうな。お陰で聴覚と嗅覚が、驚くほど研ぎ澄まされておる。然れどお主の推察通り、痛うて痛うて集中できん。今の処、大刀の間合いに入り込む物を斬るだけで精一杯という処か。無論、光明もあるがの」
血涙で汚れた美貌を緩めて、唇の端を吊り上げた。
「儂の太刀、お主の脇腹を掠めたであろう。当てられたのは、まぐれに過ぎん。然れど
「だから?」
お
「取るに足らぬ浅手。加えて『
「全く思わねえ。何が言いたい?」
「確かに眼を潰されたのは、不覚と言わざるを得ぬ。然れどお主の姿は、頭に焼きついておる。年増女中の姿が、暗闇の中に浮かんできおるわ。咄嗟に儂が斬りつけたのは、腰骨から三寸ほど上であろう。傷が消えても、血の臭いが消えておらぬ。今の儂なら、煙管の臭いに紛れた血の臭いが分かる。お陰様で、常より感覚がビ~ンビンじゃからの」
「ルーリーの真似してンじゃねえよ。いい加減に結論を話してくれませンかねえ」
「意外に察しが悪いのう。心ノ臓の位置は掴めたと申しておる。立ち合いに障りはない」
朧は両目を瞑りながら、カチリと大刀の鍔を鳴らした。
半死半生という凄惨な状態だが、苦し紛れの虚勢とは思えない。全身から殺気が満ち溢れ、空気が軋むほどの凄みがある。
だが、お
「ぷっ……ぷぷっ――」
失笑どころか、堪えきれずに哄笑していた。
「ヤベえ! マジでヤベえよ、朧さん! 本物の馬鹿じゃねえか! 別に疑ってたわけじゃねえけどよぉ! ここまでぶっ飛ンでるなんてよぉ! 逆に清々しいンじゃねえかアアアア!」
お
「確かに……夜の山奥で、地面に落ちた松明の灯りを見つける朧さんだ。見えない敵の心ノ臓を貫くとか、
押し黙る朧を蔑むように、お
一拍遅れて大刀を振るうが、虚しく空を切るだけ。狙いを違わず、朧の腹部に矢が刺さり、ぐふっと呻き声を上げた。
「依然、ルーリーの圧倒的有利に変わりねえンだよ! ひょいと投げた煙管なら切断できるかもしれねえ! 然し袖箭の矢は、たとえ眼が見えていたとしても躱せやしねえ!
勝ち誇るお
「で――追い詰められた朧さんは、次にこう考える。このままではジリ貧だ。此方から仕掛けなければ、勝機を見出す事はできない。とにかく声のする方向に――」
お
待の姿勢から、瞬時に間合いを侵略する。
膝落。
初速から最高速度に達した朧は、勢いを殺さず大刀の切先を突き出す。
然しそれすらも予測していたお
「斬り込もうってな。でも人間は、最初に視覚で物を確認する生き物なンだよ。イヌみてえにクンカクンカしながら、物を確認する習性はねえ。如何に朧さんの視聴覚が常人離れしていようと、身体の方が都合良くついてきてくれねえのさ。どうしても行動が一拍子遅れちまう。それに間積りも曖昧。得意の先読みはどうした? 普段から身体能力に頼った戦い方してるからだよ、バ~カ!」
大刀を真横に薙ぐが、これも容易に躱された。
弓手に逃げたお
「こうなると、歴戦の武芸者も哀れだなア。結局、眼の見えない朧さんは、ルーリーの動きを捕捉できない。逆にルーリーからは、朧さんの動きが丸見え。だからよぉ……うけけけけ。出鱈目に大刀を振り回すふりをしながら、床に落ちた着物を蹴り上げて、ルーリーの視界を塞ごうとしてンのもバレてンだよ!」
急にお
彼女の喚声と朧の行動は同時だった。大刀を逆袈裟に振り下ろした後、刀を返すと見せかけて、お
だが、これもお
左腕の手甲鉤鎌鋸九宮袖箭で黄色の小袖を引き裂き、弧を描く動きで右腕を振り抜く。
朧も対手の行動を読んでいたのか、単なる気紛れかもしれないが、左腕で美貌を隠すように防御する。手甲鉤鎌鋸九宮袖箭を腕で防ぐという事は、即ち左腕の上腕部に鋸の刃が食い込むという事。ギザギザの鋸刃が、上腕部に深々と突き刺さる。続けて左腕の鋸刃も叩きつけ、朧の左腕を手甲鉤鎌鋸九宮袖箭で固定。お
鋸刃を引こうとした刹那、お
半円を描くように、朧が固定された右腕を振るうと、お
「――ッ!?」
腕力で投げ飛ばされたわけではない。
覇天流に伝わる捕手の技術だ。
己の失態に舌打ちしながらも、猫科動物の如き俊敏さで床の上を転がり、すくりと立ち上がる。朧は追い討ちを仕掛けない。否、眼が見えていないので、仕掛けたくても仕掛けられないのだ。
「ひゅ~。危ねえ危ねえ。太刀を浴びせると見せかけて、狙いは組討か。確かに単純な組み合いなら、眼が見えなくても関係ねえ。一度掴んでしまえば、膂力と技術で勝負が決まる」
距離を置いたお
「短い時間によく考えたなア。こりゃやっぱり近づかねえ方が良さそうだ。あまり格好良くはねえが、のんびりと間合いを取りながら、朧さんが息絶えるまで袖箭撃ち続けるわ」
再び手甲鉤鎌鋸九宮袖箭を前方に向け、朧に狙いを定める。再び飛び込んできたら、袖箭を撃ち込んで逃げる算段だ。
血塗れの朧は、退屈そうに鼻を鳴らす。
「ふん、実につまらぬ。お主と斬り合うても、一向に気持ちが昂ぶらぬ。小原と立ち合うた時は、存分に楽しめたがのう」
「別に朧さんを楽しませる為に、毒の粉末投げつけたり、重たい手甲鉤鎌鋸九宮袖箭振り回してるわけじゃねえ。あくまでも殺しは、ルーリーの仕事の一つ。本家屋敷の廊下を雑巾掛けしたり、ハタキで埃を落とすのと変わらねえ。勿論、仕事だからこそ、絶対に手は抜かねえ」
「……」
「殺し合いの前に、対手を弱らせておくのは兵法の基本。事前に対手の情報を仕入れておくのは、透波の基本だア。眼が見えなければ、半月ノ太刀も使いようがねえなア。天井があるから、梟爪剣も使えねえ。奥の手の虎ノ爪も、元々使い勝手の悪い技だ。独特の構えを取る時間と、三間を超える間合いが必要。加えて一度駆け出したら、途中で軌道を変更できねえ。対手の手前で制止するのが精一杯。ンで……もう一つの秘太刀は、対手の懐に潜り込まなければ、存分に威力を発揮できねえ。違うか?」
「――ッ!?」
初めて朧の表情に動揺の色が表れ、お
「テメエの情報は筒抜けなンだよ! 朧さん対策は
下品な笑声を発すると、朧の表情が曇る。
「どうにも解せぬ」
「ああン?」
「何故、それほどの業前を持ちながら、邪鬼眼蛇女に従う?
不思議そうに語る途中で、右肩に衝撃が奔る。
手甲鉤鎌鋸九宮袖箭の矢が、無防備な左肩に突き刺さった。
「一介の武芸者風情が、
忽然と豹変したように、お
どれだけ気性が激しかろうと、金銭や物欲に囚われようと、
「なぜ、
激しく怒声を放ちながらも、途中から気分が落ち着いてきたようで、優越感に満ちた表情を浮かべた。
「視力が戻るまで時間を稼ぎたいンだろ? 残念でした! 確実に失明しておるよぉおおおおん! 『
ニタニタと残酷な笑みを貼り付け、考え込むような仕草をしながら、ゆらゆらと足音を立てずに左右へ移動する。油断しているように見せかけつつ、己の位置を特定させないようにしているのだ。
「いいぜ、教えてやンよ。なンでルーリーが
お
「もう二十年以上も前の話だ。ルーリーは
乱世を生き抜く透波からすれば、特に珍しい話でもない。
透波の役割は、多岐に渡る。敵国に侵入して内情を探る。流言飛語を広めて、敵国を混乱させる。他にも村落の焼き討ち、敵陣の攪乱、要人の暗殺など様々な任務を果たす為、戦国大名からすれば、実に使い勝手の良い存在だった。
然し公にできない仕事を任せる為、戦国大名は透波を重用しなかった。
それを理解しているので、透波も主君に忠義を尽くさない。金銭になると思えば、平然と雇い主を裏切り、味方を欺く虚言を流布する。雇い入れた透波に寝込みを襲われて、命を落とした武将も多い。それゆえ、余計に戦国大名から信用されなくなり、彼らの待遇が改善される事はなかった。
織田信長や豊臣秀吉は言うに及ばず、
「ルーリーの役目は、主に敵陣の攪乱やお偉いさんの暗殺だった。当時の合戦の陣中は、敵味方問わず物売りで溢れたからなア。雑兵に米や味噌や酒や梅干を売る商人。矢も火薬も尽きた武将に、高値で武具や玉薬を売る商人。深手の兵に止血の散薬を売る医者や足軽に春を売る遊女……そういや按摩や鍼灸を行う座頭もいたなア。特に真宗門徒の陣中は、規律が緩くてよぉおおおお。ルーリーが貧乏臭い格好で敵陣に忍び込めば、戦災で二親を亡くした孤児だと勝手に思い込ンでくれるンだよ。欲望丸出しの門徒兵が、わざわざ敵陣へ引き込んでくれるンだ。ンで……馬鹿な門徒兵の腸抉り抜いて、兵糧や玉薬に火をつける。後は火災の混乱に乗じて、敵方のお偉いさんを暗殺。ルーリーは、のんびりと味方の陣へ戻るって寸法さア」
お
「油アまいて火イつけてよぉ。見ず知らずの他人を殺すだけで銭になる。まだ二十代のルーリーは、これが天職だと思い込ンだね。『北陸の
「……」
「本能寺の変で、信長が光秀に殺された。その仇討ちをしたのが、毛利攻めからトンズラしてきた
「……」
「勿論、ルーリーは四国みてえなド田舎に行くつもりはねえし。家康は
「盗賊か?」
「当たりイイイイ。流石に簡単過ぎたか?」
慶長六年でも天正年間でも、それほど世情は変わらない。仕官を望めぬ牢人や汚れ仕事に慣れ過ぎた透波の行き着く先は、盗賊か野伏と相場が決まっている。合戦が起きて主家が滅亡する度に、諸国の治安を乱す悪党が増え続けるのだ。
「これまた転職って感じでよぉおおおお。ルーリーの性に合ってた。ぶくぶく肥えた有徳人や偉そうな武士の屋敷に乗り込ンで、家族から奉公人まで皆殺しにしてやンのさ。特にぶひぶひと命乞いする有徳人や、『盗賊風情が――』とか
陰惨な昔話を語りながら、お
「そんな生活が十年くらい続いてよぉ。その頃、ルーリーは籠もりに熱中していた。籠りって言っても、引き篭もりじゃねえぞぉ。立て籠もりだ。有徳人や
「……」
「けど護衛を始末するのに、少しばかり手こずらされてよぉ。餓鬼の身柄を確保した時には、
忽然とお
「思い出しただけでも、身震いが止まらねえ! 気づいた時には、役人共の首が飛んでいた! まるで
お
奇妙な具合に頬を引き攣らせながら、両腕の手甲鉤鎌鋸九宮袖箭を振るわせる。
「踝まで届く黒いお
『そう言えば、
「ルーリーは死地から生還した! いいや! ルーリーは
両腕を手甲鉤鎌鋸九宮袖箭を振り回し、両目を見開くお
「後から聞いた話だが、ルーリーが人質にした餓鬼の親族が、薙原家から銭を借りてたンだと。そンで借りた銭を返さず、一族郎党根絶やしにされたってわけだ。いくら銭儲けの為とはいえ、
おゆらの昔話は、途中から自慢話に突入していた。
話を聞いていた朧は、妖艶な美貌を伏せている。もはや反論する気力もないと見定め、お
「ルーリーの
「……」
「そして二年前、おゆらさんの招集を受けて、現在に至るってわけだ! 冷静に現実を見極め、最善の選択をした者が勝利する! これぞ最高の人生を歩む近道ってやつよ! 薙原本家女中衆は、
不気味に目を輝かせながら、興奮気味に両腕を広げた。
話を聞き終えた朧は、俯きながら肩を震わせている。恐怖で震えているわけでも、毒で痙攣しているわけでもない。左手で美貌を覆うと、クククッと笑声を漏らす。次第に喜悦を堪えきれなくなり、
「ヒャハハハハハハハハハッ!!」
豊かな胸を反らして、豪快に呵々大笑を始めた。
「何がおかしい!」
興奮の余韻に水を差され、お
「何がおかしいと問われても、何もかもおかしいとしか答えられぬが……カカカカッ、道理で斬り合うても、気分が高まらぬわけよ。是では勝負にもならぬ」
「うけけけけ。ルーリーもトーシロじゃねえンだ。いくら挑発した処で、猪武者みてえに突撃したりしねえぜ。
「もう近づかんでよい」
「ああン?」
朧が断言すると、苛立たしげに眉を寄せた。
「これ以上、お主と遊んでいても暇潰しにもならぬわ。ゆえに近づいて斬り合う必要も非ず。痩せ衰えた難民の方が、お主より遙かに手強かったぞ」
「言合戦には乗らねえっつってんだろ!」
「その割には、随分と荒れておるの。まあ、言合戦でもなんでもない。単にお主の底が知れたというだけの事。勝負とは、互いの存在が近しいから成り立つのじゃ。人と蟻では、勝負にならぬ」
「ルーリーの実力を見極めたと言うのか? そのうえで、ルーリーは蟻だと?」
唇の端を振るわせ、お
「見極めたのは、お主の実力ではなく本質じゃ。真面目に働くだけ、蟻さんの方が遙かに立派よ。随分と楽しげに話しておったが、要約すると笑い話に過ぎん。人殺しと
朧がニヤリと嗤うと、お
「悪魔崇拝者じゃねえし! 八大罪の『選民思想』と被らねえように、凄え真面目に勉強したし! カフカの『変身』とか、翻訳本の批評もできるし! カフカを広める為に、推薦文付きの同人誌とか書いたし! いや――違う! 書いてねえ! ルーリーは売れもしない同人誌なンか、一度も書いた事がねえ!」
「急に物語について語り出すゆえ、何事かと思えば……思い返せば、京洛でお主の同類と会うた事があるぞ。儂にはよう分からぬが、『冒険者ギルドから追放された俺! レアスキルに目覚めて世界最強の剣士に! ギルドにざまぁでハーレムも創るけどもう遅い!』という題名だと気持ち悪くて、『キモオタニートが異世界転生!? チートな俺が本気を出してハーレムを創る件!』みたいな題名だと、まだマシなのであろう? カカカカッ、五十歩百歩。欲望丸出しの異世界チーレムなんぞ書いておる時点で、諸人から見れば大差なし。どちらもイタい。病んでおる。重病じゃ。お大事に」
「だから書いてねえし! 物の試しにハイファンタジー部門で日間ランキング1位目指してみただけだし! 異世界で幼馴染みや義妹や姫騎士と祝言挙げて、子作りしながら無双する話なんか書いてねえし! 異世界転生チーレムとか異世界追放ざまぁ系とか異世界婚約破棄とか異世界婚約解消とか、読ンでも気持ち悪いだけだし! ただ頭の悪い読者の為に、
お
眉一つ動かさずに女童を踏み殺した悪党が、ぐるぐると目玉を回しながら、錯乱気味に朧の推理を否定する。然し人生の勝ち組を自認するお
精神的な優位を確信した朧は、両目を見開いた。
真っ赤に充血した双眸が爛々と輝き、血の涙も出てこない。
「テメエ、視力を取り戻したのか!?」
「失明しておると申したのは、お主であろうが。痛みを堪えて瞼を開けてみたが、やはり全く見えぬ。然れど儂は蛇女の如く、
朧は虚空を見つめながらも、泰然とした態度を崩さない。
「お主には、己を顧みるだけの知恵がない。然りとて中二の美意識を貫くだけの覚悟もない。殺し合いに慣れておるだけで、己の未熟さと向き合う度胸もない。蛇女を神仏の如く敬い、御上の指図通りに動く
「――」
「三十三歳は、己の夢を叶える為に、
「どいつもこいつも弱者じゃねえか! 勝ち組のルーリーと比べてンじゃねえ!」
「強者も弱者も勝ち組も負け組も、各々が勝手に決めるもの。声高に喚き散らすほどの事ではない。
「――」
「人生は
「――ッ!!」
反論しようと口を動かすも、感情が昂ぶり過ぎて声が出ない。
どうやら身に覚えがあるらしい。
「葛藤を嫌い懊悩を嫌い勤労を嫌い野心を嫌い非難を嫌い失敗を嫌い責任を嫌い……常に楽な方法を模索するだけ。運良く結果を得たとて、長続きするわけもなし。人生に近道も回り道も存在せぬ。道がないから、己の力で道を切り拓くのじゃ。自国を富ませる為に、他国へ攻め入るのが武田信玄。自らを毘沙門天の化身と真顔で言い張るのが上杉謙信。天下の静謐を逸るあまり、悪魔崇拝者の弾圧を始めたのが三好長慶。西上する武田信玄に対抗し、『信玄が
「ぐぬぬぬ……」
「頭の悪い年増女中の為に、もう一度だけ言うてやる。他人を見下さなければ、自我も保てぬような間抜けと、本気で勝負などできるものか」
血塗れの朧は、艶然と嗤いながら痛罵した。
面目を潰されたお
煮え滾る激情を抑え込み、何度も深呼吸をしていた。
悪魔崇拝者とバレたのは、見過ごせないほどの痛手。然しお
「御高説どうも。人斬り馬鹿かと思いきや、意外に弁も立つンだな。然し朧さんは、説教嫌いと聞いてたンだがね。挑発と説教に区別でもあるのかい?」
「是は然たり。尼寺に預けられておったゆえ、説教には飽いておったつもりが……幼き頃より叩き込まれた習性は、そう容易く抜けるものではないのう。儂も大いに反省し、己の言動を顧みなければならぬ」
悠然と語りながら、朧は大刀を軽く振るう。
「偖……馬鹿騒ぎを終える前に、最初に問い掛けに答えておくか。多くの者を斬り捨ててきた儂が、一人の女童の命を惜しむなど、片手落ちで一貫性に欠けるとか……ふむ、どうでもよいわ。中二病の武芸者に何を求めておるのじゃ。誰を斬り捨てるかなど、儂がその時の気分で決める。気が昂ぶれば斬り伏せる。面白そうなら斬り斃す。お主はつまらぬ。蟻を踏み潰すが如く仕留めよう」
「言い残す事は、それだけか? 辞世の句でも中二の台詞でも、最後に格好つける時間くらいは与えてやンぜ」
余裕を取り戻した朧を見据えながら、両腕の手甲鉤鎌鋸九宮袖箭を前方に構える。
「異な事を申す。時間稼ぎは無意味と怒鳴り散らしていたのは、お主の方であろう。是より先は言葉も不要――」
途中で口を止めて、朧は意味ありげに嗤う。
「否、大事な事を言い忘れておった。室内の状況を把握しておるのは、お主だけに非ず。儂もじゃ」
泰然と語りながら、朧は大刀を唇に近づけた。刀身を唇で挟んで固定し、両手を
次の刹那、猩々緋の着物が宙を舞った。抜群の瞬発力を活かして、五尺近くも跳躍すると、天井の梁に飛び移る。大刀を口に咥えたまま、猫の如く梁の上に座り、クククッと笑声を漏らした。
お
「――なッ!? ルーリーの技をパクりやがったな!」
他人の技を盗むのは、朧の十八番である。だが、両目が見えない状態で、対手の戦闘方法を真似るとは、全く予想していなかった。
咄嗟に発射した袖箭の矢は、狙いを外して天井の梁に突き刺さる。朧は火矢のように飛翔し、畳の床に着地。即座に跳んで壁を蹴り、反作用を用いて上昇すると、再び梁の上に飛び移り、別の方向に跳んでいく。
安易な模倣ではない。
完璧にお
「クソが!」
お
同じ場所に留まり続けると、いずれ朧に居場所を捕捉されるだろう。それに高速移動する敵を仕留められるほど、お
紅と黒の人影が、目にも留まらぬ速さで、広い室内を縦横無尽に飛び交う。壁や畳を蹴る音や、天井の梁が軋む音が響く。
空中で朧の後を追いながら、お
自らの黒歴史を解き明かされて錯乱しかけたが、見え透いた挑発に乗るほど浅はかではない。寧ろ局面の変化に対応し、頭も冷えて思考も冴えていく。小さな身体を俊敏に躍動させながら、様々な選択肢を思い浮かべては消去し、勝利の方程式を構築する。
一時撤退。
最も安全で確実な方法は、この館から飛び出す事だ。
己が編み出した技術であるがゆえに、空中戦闘の長所も短所も熟知している。一先ず朧を追い掛けている限り、迎撃される恐れはない。空中戦闘に短所があるとすれば、移動中に反転できない事だ。それこそ
加えて朧は両目を塞がれて、半死半生の状態である。お
中二病の思考を考えれば、敢えて壁を壊して脱出するかもしれない。然し朧が外に飛び出した時点で、お
万が一にも有り得ない事だが、朧の始末に手間取るようなら、塀を乗り越えて逃げるだけだ。樹木と泥濘の臭いに包み込まれて、お
方針転換を決めたお
朧が梁から壁に飛びついた時、お
逆方向に飛んだ朧は、両手を壁につけながら、両膝を身体の内側に折り曲げていた。天井から飛び込んだ衝撃を両腕で吸収した事にも驚かされるが、それよりお
――
奏の家人であるお春の得意技。お春の体術も盗んでいたのか。これが朧の狙い。やはり蹴足を含む体術で勝負を仕掛けるつもりか。わざわざ大刀の刀身を噛んで、両手を空けたのも、お
途中で朧から距離を置く為に、梁から逆方向に飛び移る前には、お
無論、心臓の鼓動が止まらない限り、ヒトデ婆の妖術で即座に治療される。即死にさえ気をつければ、事実上不死身と言えるが、脳に強い衝撃を加えられて気絶すると、当人が意識を取り戻すまで無抵抗。眼が見えない朧でも、気絶したお
人斬り馬鹿の狙いはこれか!
お
壁に両手をつけた朧は、大砲の砲弾の如き迫力で飛び出す。
朧の両足が、×字に組んだ両腕を打ち砕く。ぐるぐるとお
然し不幸中の幸いと言うべきか。
軽やかに受け身を取れた。些かも脳への影響はない。
何の問題もない。
不幸中の幸いというのは、朧も
お
どちらが早く立ち上がるかで、長く続いた戦いに決着がつく。
毫秒の差で、お
だが、右足の踵が何かに当たり、ぐらりと体勢が崩れた。後ろへ倒れそうになり、よたよたと蹈鞴を踏んで、背中を壁にぶつけて止まる。
一瞬、何が起きたのか分からず、驚いて下方に視線を向けた。
お
「なンでこンな処に、餓鬼の屍があるンだよぉおおおおおおおおッ!!」
思わず瞠目して叫んだ。
無論、戦闘に応じて室内の状況も変わるが、その都度頭の中で修正を加えている。切断された煙管の位置や、朧が蹴り上げた着物の位置。天井の梁に刻んだ傷跡の場所すら把握している。
戦いの最中に、間積りを誤る筈がない。
混乱するお
朧が着物を蹴り上げた時――
ズタズタの着物で視界を塞がれた時、屍は朧の斜め後ろにあった。
蹴り足を戻す時に、踵で女童の屍を後方に転がしていたのか。それを悟らせない為に、露骨な言合戦で己に注意を引きつけた。空中戦闘も
「クククッ、
正面へ視線を戻すと、朧が嗤いながら身を低く屈めていた。
覇天流の秘太刀を放つ寸前の構え。互いの距離は、およそ三間半。獲物を貫くには、絶好の位置。眼を閉じていても、前方に駆け出せば正中線を抜ける。
「ナンテコッタイ /(^о^)\ 」
次の刹那、朧の姿が霞んだ。
陽炎の如き紅い残像を置き去りにして、一歩目で超高速に達した虎ノ爪は、真槍の如き鋭さで薄い胸の中心を貫いた。
「ゆかぎょッ!!」
お
火薬でも爆発させたように、木片が飛び散る。中空に跳躍した朧は、大刀の柄を逆手に持ち替え、槍投げの如く刀を投げつけた。
「がらああああああああッ!!」
お
視力で外の状況を把握できない朧は、獣の如く両手両足をつけて着地。ゆらりと立ち上がると、会心の笑みを浮かべた。
串刺しにされたお
「あー、スッキリしたー」
晴れ晴れとした表情で両腕を挙げて、誇らしげに豊かな胸を反らす。一仕事終えたと言わんばかりに、首を鳴らしながら前へ進む。
「然れど……」
大刀を引き抜こうと、前方に手を伸ばす。
眼が見えないので、うまく大刀の柄を掴めない。何度も虚空を掴んだ後、ようやく右手の指先が柄尻に触れた。
珍しく朧が、深々と溜息をついた。
大刀を引き抜くと、お
「まーたやってしもうた」
これも確認するまでもない。
剣客ならば、刀を手にした瞬間に理解できる。
刃筋も何も考えずに、勢い任せで大刀を投げつけたので、鞘に収まらないほど、ぐにゃりと刀身が曲がっていた。
三間……約5.67m
二寸……約6㎝
羅宇……雁首と吸い口を繋ぐ棒状の部分
三寸……約9㎝
薄濃……人間の頭蓋骨に金箔で飾り立てた物
柴田修理……
三ツ者……甲州忍者
軒猿……越後忍者
軍忠状……参陣や軍功などを証する書類
クソ又左……前田利家
長百姓……村落の有力者
禿奉行……前田玄以
若衆……京都の有志による自警団
黄金百枚……天正大判百枚。現在の価値で一億八〇〇〇万円。
言合戦……挑発や脅迫を用いた神経戦
ヘルメス文書……古代エジプトの神秘学や哲学などを記述した書物
チーレム……チート&ハーレム
嫡男……武田義信
役人共や大衆媒体……財務官僚と大手マスメディア
上古……太古の昔。最も古い文献に記載される時代。
五尺……約150㎝
三間半……約6.61m
油土塀……赤土に菜種油を混ぜて築いた塀。通常の塀より強度が高く、耐候性にも優れる。
※参考資料
『防衛費の財源、国債発行は許されない』
朝日新聞社説 (2022/12/15)
https://www.asahi.com/articles/DA3S15502265.html
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