第四章 絶望郷

第79話 地底湖

 松明を掲げながら、奏は暗闇の中を歩いていた。

 光源のない隧道の中では、松明の灯りだけが頼りだ。小さな灯りで照らせる範囲など限られているが――空いた左手を壁に添えながら、恐る恐る前に進むしかない。

 蛇孕神社の下拝殿は、深遠なる暗闇に支配されていた。

 まるで暗闇自体が粘度を帯びているように、全身に纏わりついてくる。湿度が高いという事は、地底湖に近づいているのだ。

 薙原家が八百年も信仰の対象としてきた祭壇。奏には、存在すら秘匿されてきた神域。人喰いの妖怪共が、聖地と崇める場所だ。

 ろくに前も見えない状況で、暗闇の中を延々と進む。

 やがて左手が、壁から離れた。

 暗闇の隧道を抜けて、広大な空間に出たのだ。

 左手が壁に触れていない――という以外に、特に何も変わらない。墨汁をぶちまけたような暗闇は、地底湖に辿り着いても尚、奏の心に不安の影を落とす。


「時間通りね」


 暗闇の奥から、聞き慣れた声が響いてきた。


「マリア姉……」


 弱々しい声で呟き、奏は足を止めた。

 朧のように夜目が利けば、地底湖を一望する事もできただろう。踝まで届く長い黒髪を扇状に広げながら、ぷかぷかと湖面に浮かぶ許婚の裸身を――その先の小島に建てられた祠も見えた筈だ。

 奏の目には、果てしない暗闇しか見えない。


「下拝殿を訪れるのは、此度が初めてだから。多少の遅刻も止むを得ないと考えていたのだけれど……奏はいつも私の予想を覆す」


 それゆえ、相手の姿が見えなくても、暗闇と会話するしかないのだ。


「理由はどうあれ、許婚として歓迎するわ。人払いをしたから、茶も菓子も用意できないけれど……余人に明かせぬ話をしたいのでしょう」

「……」

「此処には、私以外に誰もいない。おゆらも分家衆も巫女衆も渡辺朧も……誰も聞いていない。だから好きなように、奏の存念を語りなさい。私は奏の許婚なのだから。奏の心を蝕む闇を取り除き、安寧を取り戻す義務がある」


 抑揚を欠いた声音だが――

 幼い頃から、奏は彼女の声に安堵感を覚えていた。彼女の言動に振り回される事も多いが、彼女の言動に救われた事も多い。マリアの言葉に従えば、大抵の苦難は乗り越えられたのだ。

 まるで母親に救いを求めるように、前方に悲嘆の視線を送る。


「僕はどうすればいいの?」

「奏の好きにしなさい」


 抑揚を欠いた声音で、何事もないように応じた。

 マリアは小声で話している筈なのに、意外なほど壁面に反響し、奇妙な余韻を残しながら奏の耳に届く。


「奏の望み通り、私の聖呪でおゆらの妖術を封印した。おゆらに洗脳されていた武州の民も解放した。蛇孕村を日ノ本から独立させ、主権通貨国にするという目論見は、私の手で打ち砕いた。それでも納得できないと?」

「……」

「奏が望むのであれば、おゆらを斬首するわ」

「――ッ!?」


 淀んだ瞳に、激しい困惑の色が宿る。動揺を隠しきれないようで、咄嗟に口を開こうとするが、喉の奥から声が出てこないのだ。


「おゆらの所業が許せないというのであれば、躊躇なく処刑しなさい。他の女中衆も斬首し、その首を広場に晒しましょう。彼女達が粛清した難民の代わりに」

「でも……」

「私に『本家女中頭を粛清しろ』と命じれば、それで願いは叶う。多少は気が晴れるかもしれないわ」


 奏の言葉を遮り、冷たい口調で言い放つ。


「……」


 苦悩に満ちた顔を伏せて、奏は押し黙った。

 マリアの誘いは、下拝殿に訪れる前から考えていた。

 おゆらや本家女中衆を処刑する。主君を謀り、難民に叛乱を起こさせ、多くの民を虐殺したのだ。常盤の件がなくても、首謀者は死罪が妥当であろう。

 もはや情けを掛ける気も起こらないが――

 おゆらの首を刎ねた処で、犠牲者が蘇る事はない。罪人を処断しても、奏の心には絶望しか残られない。


「意趣返しをしても、奏は満足できないようね。それなら、こういうのはどうかしら? 新しい常盤を創るの」

「……は?」


 突拍子もない話に、奏は怪訝そうな顔で佇む。


 常盤を創る?

 超越者チートが聖呪を使えば、人間を創造する事も可能なのか?


「常盤の卵子は自由に採取できるのだから。第二の聖呪――『傲慢ゴウマンナル蒼蛇想アオノヘビオモイ』で卵子を採取し、不要な核を取り除く。除去された卵子に、常盤の幹細胞から創り出した核を注入。後は『傲慢ゴウマンナル蒼蛇想アオノヘビオモイ』で適切な処置を施し、魂を植えつければ――来年の今頃には、もう一人の常盤が誕生する」

「有り得ない……」


 奏は無意識のうちに、拒絶の言葉を発していた。

 幾度も非常識な言動に驚かされてきたが、今回は次元が違い過ぎる。

 自然の営みを介さずに、人間を創り出すなど――それも同一人物を創り出すなど、世俗の倫理を根底から覆す所業。

 人が犯してはならない禁忌。

 生命を冒涜する行為に他ならない。

 然し具体的な反論の言葉も思い浮かばない。

 漫画マンガ板芝居アニメに精通していれば、奏も違う反応を示すだろう。否定するにしても、科学的な根拠や人道的な理由を挙げられた筈だ。

 然し何も知らない奏は、得体の知れない拒否感が先立ち、論外の二文字しか浮かんでこない。


「分家衆が私の聖呪に気づいた時――人間を創れると気づいた時、厚かましくも餌贄えにえを量産してくれと懇願してきたわ。でも指一本創るだけで、十日近くも掛かるのよ。おゆらではないけれど、とても合理的とは言えないわ。それに餌贄えにえを創るなんて、馬鹿らしいにもほどがある。妖怪は妖怪らしく、共食いでもしていなさい。それが在るべき姿なのだから」


 森羅万象を統べる超越者チートが、暗闇の奥底から悪魔の倫理を囁く。


「でも奏は別よ。もし奏が……ええと、なんと言ったかしら? そう――処女厨というのであれば、奏の為に常盤の複製体クローンを創るわ」

「――」


 左手を握り締め、必死に怒りを抑え込む。無理に言葉を発すれば、胸の内に渦巻く激情が、口から溢れ出てしまう。


「これも気に入らないようね。では、どうするべきかしら? 何をすれば、奏は満足してくれるかしら?」


 抑揚を欠いた声音で、マリアは冷然と尋ねてくる。

 どこまで奏の心情を察しているのか?

 抑も他人の気持ちを慮るつもりがあるのか?

 奏の疑念をよそに、マリアは一糸纏わぬ姿で湖面に浮かびながら、謎解きでもするように考え込む。

 暫し逡巡した後、奏は身を乗り出す。


「マリア姉、僕は――」

「それは無理よ」


 奏の言葉を遮り、マリアは即座に否定した。


「私は超越者チート。蛇神の転生者であり、万物の頂点に君臨する存在。知らない事の方が少ないし、不可能な事を探す方が難しい。でも言い換えれば、たとえ超越者チートであろうと、絶対にできない事はある」

「――」

「一度起きた事象を変える事はできない。たとえ超越者チートでも、過去に起きた事象を変える事はできない。過去を変える素粒子なんて存在しない」

「――」

「だから二日ほど時間を巻き戻し、常盤を窮地から救うなんて……そんな夢のような願いは、私の力では叶えられないの。どれだけ奏が悔やんだ処で――」

「マリア姉――」

「常盤が陵辱されたという事実は、永遠に消し去る事はできない」

「――ッ!!」


 込み上げてくる怒りに身を任せ、怒鳴り散らしてやりたかった。

 然し急激に激情が冷めていく。胸を引き裂く悲憤も、頭を埋め尽くす罵詈雑言も、全て無意味だと自覚してしまう。心のどこかで、許婚の言葉を認めているのだ。

 誰も過去に戻る事はできない。

 己の過ちを帳消しにする事はできない。

 そんな都合の良い魔法も妖術も存在しない。仮に存在するとすれば、漫画マンガ板芝居アニメの中だけだ。

 奏の願望は、幼稚な現実逃避に過ぎない。

 それでも――


「どうして、そんな事言うの?」


 泣き出しそうな顔で、奏は真意を問うていた。


「常盤について相談した時、いつも真剣に話を聞いてくれたよね。いつも助言してくれたじゃないか。それなのに――どうして、そんな事を言うの?」

「それが事実だからよ」


 悲痛な詰問も一言で切り捨てる。


「奏の心労を取り除く事が、許婚に課せられた義務。でも常盤は、奏の所有物だから。斬首しても奏が悲しむ。強制的に排除できないなら、知恵を使えばいい。奏を悩ます問題を解決し、心の安寧を取り戻す。でも奏も元服したのだから……そろそろ人形遊びから卒業してもいい頃よ」

「マリア姉には、僕と常盤の関係が人形遊びに見えたの?」


 奏の言葉に怒気が混じる。


「天が与えた役割をこなすだけの脇役モブ。己の意志を持たない惰弱。世の流れに身を任すだけの傀儡くぐつ。代役なら、いくらでも立てられる」

「常盤の代わりなんかいない! 世の中に一人しかいないんだ!」


 奏は堪えきれず、荒々しい怒声を発した。

 洞窟内に怒声が響いても、暗闇は反応を示さない。

 反響が消えた後、


「本当に常盤を大切にしていたのね。意志を持たぬ傀儡ではなく、愛らしい飼い猫のつもりでいたのかしら? どちらでもよいけれど。所詮は些事に過ぎない。奏が迷うほどの事ではないわ」


 冷たい声音で答えたが、火に油を注ぐだけだった。


「些事!? 蛇孕村で叛乱が起きて、百人以上の難民が死んで、常盤が巻き込まれて――それでもマリア姉からすれば、取るに足らない些事!? マリア姉には、人の心がないの!? 誰かを大切に思う気持ちはないの!?」

「三千世界の誰よりも、私は奏を愛しているわ。でも現世うつしよ諸人もろびとに……惰弱に興味など持てない」

「だから、どうしてそうなるんだ!? どうして弱者を理解しようとしないんだ!?」


 奏は泣きながら叫んでいた。

 幼い頃よりマリアを尊敬していた。心の底から、尊崇の念を抱いていたのだ。少しでも彼女に近づけるように、懸命に後ろ姿を追い掛けてきたのだ。たとえマリアが天才でなくても――狂気の世界の住人だとしても、彼女を想う気持ちは変わりない。


 そう信じていたのに……

 なんで僕に人を信じる心を教えてくれたマリア姉が、十年も掛けて築き上げてきたものをぶち壊そうとするんだ!


 心の中の叫びに反応したのだろうか。

 マリアは瞼を開いて、左手で湖面の水をすくい上げた。綺麗な指の間から水が流れ落ちる様子を、黄金に輝く瞳で見つめる。


「私は超越者チートだから。弱者の気持ちなんて理解できない。世の流れに逆らう意志も持たぬ傀儡の気持ちも理解できない。破滅を許される身でありながら……明日の生死も知れぬ身でありながら、人生という余生を汚す惰弱に関心を持てない」

「『残鬼無限ざんきむげん』……」


 奏が独白した。

 薙原本家に伝わる妖術。天寿を全うするまで、誰にも殺される事はない。刀で身体を斬り裂かれても、槍で心臓を貫かれても、鉄砲の一斉射撃で蜂の巣にされても、致死性の猛毒を体内に注入されても、心臓の鼓動が停止した刹那、現世うつしよに新しい肉体が再構築されて、魂が次の肉体に乗り移る。

 恐ろしい妖術だが、決して不老不死というわけではない。寿命が尽きれば、本家の使徒も老衰で息絶える。


「妖術だけが、理由というわけではないの」

「……え?」

「私には、寿命なんてないの」


 暗闇の奥底が、抑揚を欠いた声で告げる。


「人間でも妖怪でもない。比較の対象すら存在しない生命体。私の肉体は、満十九歳を迎えるまで成長を続ける。換言すれば、肉体の成長を終えた刹那、私という存在は完成し、永遠に老いる事はない。完全な不老不死へ至る」

「……」

「誰も私を殺す事はできない。符条巴は私の殺し方を模索しているけれど、全く期待していないわ。刀も槍も弓も鉄砲も猛毒も……まだ発明されていないけれど、核兵器を使用した処で、私を殺す事はできない。私ですら、私を殺せないのだから。他人に期待するだけ無駄というものね」


 奏は何も応えられない。

 荘厳なる暗闇の湖に、奏が入り込む余地はない。


「産まれたばかりの赤子が泣き叫ぶのは、平穏なる母胎から未知なる恐怖で溢れた現世うつしよに引き摺り出されたから……という話があるのだけれど。私の場合は、産まれた時から恐怖に値するものが存在しなかった。それ以前に肉眼で確認するほどの価値を持つものすらなかった。瞼を開けても、延々と暗闇が広がるだけ。初めは産まれたばかりだから、視力が未発達なのかもと考えたけれど。まさか昼と夜の区別もつかないなんて……いくら年月を重ねても、他人の区別がつかないわけね。あの頃に抱いていた感情を言い表すなら、失望の二文字が相応しい。現世うつしよの全ての存在に失望し、不死身の肉体を得ていた己に失望し、一四〇〇億年も続くであろう未来に失望し――奏にだけ告白するわ。あの頃の私は、中二病ではなかったのよ。超越者チートだけど、超越者チートだからこそ、希望や理想を抱く事ができなかった。望みは失うものであり、希望を抱くなんて愚かな事だと、遅疑もせずに決めつけていたのよ」

「僕は……」

「奏を視認した時、私を取り巻く環境は一変した。現世うつしよの景色は、本当に美しい……相変わらず他人の区別はつかないけれど、この世界は見守るに値するものだと、ようやく実感できた。恋は盲目なんて……最初に言い出した者は、本当の恋を知らなかったのね。これほどまでに、世界は輝いて見えるのに――」


 洞窟の暗闇を見上げながら、当然の如く語るが――

 今の奏には、世界が輝いて見えない。

 たとえ下拝殿の外に出ても、世の景色が美しいと思えない。一ヶ月前のように、常盤と無邪気に、石段を降りる事はできないのだから。


「奏が教えてくれたのよ。大切な事は全て……愛と希望と敗北」

「敗……北? 僕は何もしていない。一度もマリア姉に勝った事なんかない。いつも僕はマリア姉の後ろをついていくだけで……ただ憧れていただけで……僕は何も……」

「謙遜しなくてもいいのよ。運命の邂逅を果たした時から、私は一度も奏に勝利した事がない。今月だけで二度も敗北している。一度目は、渡辺朧が死に掛けた時。奏は私に婚約の解消を仄めかした。渡辺朧を救う為の方便のつもりでいたのかもしれないけれど……私の耳には、世界が崩れ去る音が聞こえてきたわ」

「……」

超越者チートであるにも拘わらず……数日後の未来と過去の光景を同時に視る事ができるにも拘わらず、容易く他者に負けたのよ。これは矛盾――超越者チートが存在する世界で、超越者チートが敗北するなんて矛盾極まりないわ。私は全宇宙の中心と成り得ない。少なくとも現世うつしよ超越者チートの為に存在しているわけではない。超越者チートに勝利した奏を因果の起点と定めなければ、世界が成立する筈がないのよ。宇宙を構成する因果の結合点は、超越者チートを超える奏でなければならない」

「僕は普通の人間だ。魔法も妖術も使えない。ただの役立たずだ」

現世うつしよの因果を制御する者は、常に普通の人間よ。織田信長も豊臣秀吉も超常の力など持ち得なかった。超越者チートも魔法使いも使徒も、天道を切り拓く者には敵わない。世の流れを動かす英雄には、万人が平伏すしかないの」

「英雄? 何もできない僕が? 馬鹿げてる。マリア姉の買い被りだ」


 自虐的に、奏は言い捨てた。

 奏が英雄なら、常盤を救う事ができた。大勢の難民も救えた筈だ。誰も救えない英雄など、誇張表現と言うより皮肉である。


「世の流れを動かすというのは、天下人になるというだけではないわ。武士も僧侶も商人も文化人も芸能民も賤民も、自らの意思で脇役モブを逸脱すれば、世の流れを動かす存在と成り得る」

「……」

「加えて奏が因果の起点なら、許婚の私は奏の傍に立つ正室メインヒロイン。他の女は、無駄に奏を誑かす雌豚サブヒロイン。つまり現世うつしよは、ラブコメハーレムと考えていたのだけれど……まさか十八禁のエロゲーだなんて考えもしなかったわ。確かによく考えてみれば、私の考察には瑕疵かし陥穽かんせいがあった。本当に奏の慧眼には、感服されられてばかりよ。誇りなさい。間違いなく、奏は私の英雄よ」

「……」


 奏は言葉に詰まった。

 超越者チートの瞳には、奏が英雄に映るのかもしれない。

 だからどうしたというのだ?

 民衆を苦難から救えない英雄に、何の価値があるというのか?

 沈痛な面持ちで俯く奏に頓着せず、「因みに――」とマリアは、抑揚を抑えた声で説明を続ける。


「今月二度目の敗北は、巫女神楽の稽古の時。女装した奏が、あれほど美しいなんて……今でも奏の晴れ姿が、網膜に焼きついて離れないわ。清々しいまでに完敗ね。もはや佇まいで奏に敵うとは、微塵も思えないわ」


 さらに容姿を褒められて……この遣り取りに、何の意味があるのか?

 語り合うほどに、マリアが遠のいていく。

 十年に渡る交際期間を経て、ようやく気づかされた。

 次元が違い過ぎる。

 天才と凡人という生易しいものではない。神仏を凌駕した超越者チートと、寿命を定められた生物の違い。捕食者の妖怪と非捕食者の人間の方が、余程共通点が多いだろう。話し合いさえすれば、妥協点を見出せるかもしれない。

 だが、超越者チートとは話にならない。

 次元が違い過ぎて、意思疎通すら覚束ない。

 超越者チートを自然災害と揶揄する者もいるそうだが、偶然にも正鵠を射ていた。地震や津波を相手に、如何に相互理解を深めればよいのか?

 人間に害を及ぼす妖怪の方が、超越者チートより理解しやすい。

 一度心を落ち着かせると、奏は無表情で暗闇を見据える。

 まだ許婚から訊かなければならない事がある。


アンラの予言は?」

「あれは御伽噺。初代の无巫女アンラみこが創作した法螺話。帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスから聞いた筈よ。薙原家に未来を予知する使徒なんかいないと。私ですら未来を確定する事はできても、未来を予知する事はできない。超越者チートができない事が、初代の无巫女アンラみこ如きにできるわけがないでしょう」

「……」

「でも超越者チートが生まれた。予言に記されたアンラの女神と思しき現人神。加えて蛇の血を引く鼠神の子まで現れたものだから、分家衆がアンラの予言に信憑性を感じたというだけで……私も奏も、アンラの予言とは無関係よ」

「偶然にしては、現状と接点が多過ぎる。例えばアンラの予言の一節で、八百年後に僕らが生まれてくる事を予測していた。同じ時代に超越者チートと人間が生まれるなんて。あまりにも出来過ぎてる」

「そうね。あまりにも出来過ぎているから、何かしらの因果があるのだろうと、薙原家も考え続けていたのよ。私や奏が生まれる前から、アンラの予言は薙原家に在り続けた。時に薙原家を救う天恵となり、時に権力争いの火種となり……紆余曲折を経ながらも、結局は伝承に過ぎなかった。でも私達が生まれた処で、アンラの予言に意味なんかないの。全ては初代の无巫女アンラみこの思惑通り。うまく行き過ぎたくらいね」

「どういう事?」


 奏は酷く陰鬱な声で尋ねた。


「すでに聞いていると思うけれど。薙原家の始祖は、自らの復讐を果たす為に、妹を生贄に捧げて、強力な妖術を手に入れた。現世うつしよの摂理を創り変える権能を得た村長と娘達は、村人を牛馬の如く従え、我が世の春を謳歌した」

「――」

「でも初代の无巫女アンラみこは、集落の現状に危機感を抱いていた。粗末な祠を守る娘は、少し離れた場所から蛇孕村を観察していたから。客観的な見方ができたのね。どれほど強力な妖術を行使しようと、所詮は暴力で支配された社会。集落の統治としては、異常を通り越えて下の下。正当性を欠いた支配体制は長続きしないと――暴力で弱者を虐げるだけの社会は、いずれ機能しなくなると、初代の无巫女アンラみこは見越していたのよ。だから蛇神信仰を浸透させた。自然崇拝を背景に宗教を創り、戒律という法度で分家衆を縛りつけ、民衆の利益と安全を保障し、薙原家が蛇孕村を支配する正当性を得ようとした。蛇神信仰は、蛇孕村の住民を抑える為ではなく、分家衆の暴走を防ぐ為に創り出された。そしてアンラの予言は、薙原家に思想を植えつける為に創られたの」


 薙原家でも数名しか知らない事実を打ち明けられ、奏は呆然と聞き入る。


「蛇神様の教へに従ふ者共よ。

 永劫のさかえを望まば、我が言の葉に従へ。

 蛇神様受け入るる器を造れ。薙原家の嫡流に神の血を混ぜよ。十二柱の神の血混ぜ合はせしほど、現世うつしよアンラの女神生誕す。

 蛇神様と釣り合ふをひとを造れ。蛇神様の血を引く鼠神の(ねずみがみ)子。蛇の王国に君臨する者。師府シフの王と成るべき者なり。

 蛇神様を奉ずる魔女を造れ。蛇神様崇め奉る者。蛇の王国を建国するため、無限の殺生をいとはぬ者なり。

 蛇神様に命を捧げよ。鼠神の子求め相争あいあらそひ、使徒の骨を祠に埋めよ。三十六人の生贄を捧げしほど、鼠神の子に権威を与ふ。

 八百年目の転生祭の夜、アンラの女神と師府シフの王は契りを結ぶ。外界の生類しょうるいは死に絶え、蛇の王国建国さる。敬虔なる使徒は真のさま取り戻し、永劫の栄えをむかへむ」

「――」

「……なんて幼稚な詐術は、道端で筮棒ぜいちくを鳴らす占い師がよく使う手よ。予言の内容に具体性は欠片もなく、徐々に不安を煽りながらも、最終的に幸福な未来を迎える。一応時間を定めているけれど、これも八百年も先の事だから。分家衆が争いを始めても、アンラの予言を成就させる為に仕方のない事で、蛇孕神社や薙原本家が和睦の仲立ちを務められる。分家衆の争いがなければ、蛇の血を引く鼠神の子が生まれていないのだから、決して予言を蔑ろにしているわけではない。初代の无巫女アンラみこが想定した通り、酷く曖昧な行動方針を定められた所為で、分家衆は肯定か否定か保留か。三つの選択肢の中から、一つを選ばなければならなくなった。お陰で八百年間、分家衆は本家に謀叛を起こした事がない。本家の権力を狙う者はいても、本家を潰そうと考える者は、一人も現れなかった。彼女達は、叛逆という選択肢すら思い浮かばなかった。本家の当主を弑逆した事自体、二年前の謀叛が初めての出来事。初代の无巫女アンラみこも、本当にアンラの女神と師府シフの王が生まれるなんて想像もしていなかった。奇異な偶然もあるものね」

「真のさま取り戻し……というのは?」

「蛇神が齎す妖術を指していたのよ。敬虔な使徒は、互いに争うも良し争わぬも良し。いずれ蛇神から神通力を授かり、自らが禍津神マガツガミになれるという発想ね。妖怪が神になれるわけがないのだけれど。現在と真逆の解釈をしていたのよ。歴史というのは、本当に滑稽で面白いわ」

「じゃあ、薙原家の娘と交わしても……」

「それは分からないわ。平易に考えれば、妖怪が産まれる筈よ。然し奏は、妖怪のはらから産まれた人間。単なる妖怪の突然変異なら、妖怪に人間の子供を産ませる事はできない。でも薙原家が過渡期だとするなら――奏が生まれた事が、変化の兆しだとすれば、薙原家の望む通り、奏は薙原家の救い主になれる」

「……」

「不安を覚える必要はないわ。自然の営みで人間を創れないなら、私の聖呪で創ればいいのよ。分家衆の卵子から不要な遺伝情報を取り除き、奏の精子を受精させるだけで完了。後は受精卵を母胎に戻せば、確実に人間が産まれるわ。手間は掛かるけれど、薙原家の望みは叶う」


 まるで他人事のように、暗闇の奥底が一人で語る。


「勿論、それも奏の存念次第よ。おゆらにも考えがあるようだから、無理強いするつもりはないわ。奏の好きにしなさい」

「……」


 奏は静かに瞼を閉じる。

 反駁する気力すら湧いてこない。

 会話を続けるだけで、許婚に対する敬慕の念が、希望と共に消えていく。水を断たれた草花の如く、少年の精神が枯れていく。


「マリア姉の望みは何?」


 全く感情を込めずに、冷然とした口調で尋ねた。

 意図したわけではないだろうが、奏の声音が許婚と酷似する。


「奏と結ばれる事よ」


 何の躊躇いもなく、暗闇の奥底は断言する。


「再来年の一月一日に祝言を行い、奏と結ばれて子を成す。でも私と奏は、種が違い過ぎる。仮に蛇と鼠が交配しても、子を成す事はできない。私の聖呪を行使すれば、二人の遺伝情報を組み合わせた合成体キメラを創る事もできるけれど……少しばかり味気ないわ。やはり愛し合う二人が結びつき、自然の流れに任せて子を成してみたい。それに産まれてくる子供は、限られた寿命を持つ人間にしたい。分家の娘達が人間の子を望む気持ちは、私にも理解できるわ。子供に限られた人生を堪能し、崇高なる死を与えてあげたい。だから特別な卵子を製造しているの」


 湖面に浮かぶマリアは、優しく下腹部に両手を添えた。


「十年前から、奏の子供を産む為に……可能な限り、私の遺伝情報を残しつつ、授精した時に人間の胎児として成長する卵子。でも、まだ完成していないのよ。私の存在が完成するまで、卵巣で調整中の卵子も完成し得ない」

「……」

「私も奏と肉体的に結ばれたいけれど、未完成の卵子に不確定要素を加えたくないの。もし性欲を持て余しているなら、他の雌豚サブヒロインを陵辱しなさい。現世うつしよは十八禁のエロゲーなのだから。全ての女達は、奏の欲望の捌け口として存在している」

「……」

「二人の子供が生まれたら、私は奏の子孫を見守り続けましょう。現世うつしよの景色を堪能し、現世うつしよの在り方を考察し、奏の血脈を観察する。それだけで、私は現世うつしよが滅びるまで……一四〇〇億年も続く世界を有為に生きられる」

「……」

「他にも望みはあるけれど、私の美意識に関わる事だから。奏が気にする必要はないわ」


 ようやく暗闇の言葉が途切れた。


「それがマリア姉の望み……なんだね」


 奏が乾いた声で確認する。


「ええ、そうよ。それで奏の気持ちは晴れたのかしら? 結局、私の話ばかりしていたような気がするけれど」

「もういいよ。もう十分だから――」


 これ以上、聞きたくもない。


 心の中で吐き捨てながら、広大な暗闇に背を向けた。まだ何か話したそうな許嫁を置いて、奏は暗い隧道を引き返す。

 確かにマリアの言う通りだ。

 此処には、何もなかった。




 筮棒……竹を細く削った棒で占いに使う

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