第四章 絶望郷
第79話 地底湖
松明を掲げながら、奏は暗闇の中を歩いていた。
光源のない隧道の中では、松明の灯りだけが頼りだ。小さな灯りで照らせる範囲など限られているが――空いた左手を壁に添えながら、恐る恐る前に進むしかない。
蛇孕神社の下拝殿は、深遠なる暗闇に支配されていた。
まるで暗闇自体が粘度を帯びているように、全身に纏わりついてくる。湿度が高いという事は、地底湖に近づいているのだ。
薙原家が八百年も信仰の対象としてきた祭壇。奏には、存在すら秘匿されてきた神域。人喰いの妖怪共が、聖地と崇める場所だ。
ろくに前も見えない状況で、暗闇の中を延々と進む。
やがて左手が、壁から離れた。
暗闇の隧道を抜けて、広大な空間に出たのだ。
左手が壁に触れていない――という以外に、特に何も変わらない。墨汁をぶちまけたような暗闇は、地底湖に辿り着いても尚、奏の心に不安の影を落とす。
「時間通りね」
暗闇の奥から、聞き慣れた声が響いてきた。
「マリア姉……」
弱々しい声で呟き、奏は足を止めた。
朧のように夜目が利けば、地底湖を一望する事もできただろう。踝まで届く長い黒髪を扇状に広げながら、ぷかぷかと湖面に浮かぶ許婚の裸身を――その先の小島に建てられた祠も見えた筈だ。
奏の目には、果てしない暗闇しか見えない。
「下拝殿を訪れるのは、此度が初めてだから。多少の遅刻も止むを得ないと考えていたのだけれど……奏はいつも私の予想を覆す」
それゆえ、相手の姿が見えなくても、暗闇と会話するしかないのだ。
「理由はどうあれ、許婚として歓迎するわ。人払いをしたから、茶も菓子も用意できないけれど……余人に明かせぬ話をしたいのでしょう」
「……」
「此処には、私以外に誰もいない。おゆらも分家衆も巫女衆も渡辺朧も……誰も聞いていない。だから好きなように、奏の存念を語りなさい。私は奏の許婚なのだから。奏の心を蝕む闇を取り除き、安寧を取り戻す義務がある」
抑揚を欠いた声音だが――
幼い頃から、奏は彼女の声に安堵感を覚えていた。彼女の言動に振り回される事も多いが、彼女の言動に救われた事も多い。マリアの言葉に従えば、大抵の苦難は乗り越えられたのだ。
まるで母親に救いを求めるように、前方に悲嘆の視線を送る。
「僕はどうすればいいの?」
「奏の好きにしなさい」
抑揚を欠いた声音で、何事もないように応じた。
マリアは小声で話している筈なのに、意外なほど壁面に反響し、奇妙な余韻を残しながら奏の耳に届く。
「奏の望み通り、私の聖呪でおゆらの妖術を封印した。おゆらに洗脳されていた武州の民も解放した。蛇孕村を日ノ本から独立させ、主権通貨国にするという目論見は、私の手で打ち砕いた。それでも納得できないと?」
「……」
「奏が望むのであれば、おゆらを斬首するわ」
「――ッ!?」
淀んだ瞳に、激しい困惑の色が宿る。動揺を隠しきれないようで、咄嗟に口を開こうとするが、喉の奥から声が出てこないのだ。
「おゆらの所業が許せないというのであれば、躊躇なく処刑しなさい。他の女中衆も斬首し、その首を広場に晒しましょう。彼女達が粛清した難民の代わりに」
「でも……」
「私に『本家女中頭を粛清しろ』と命じれば、それで願いは叶う。多少は気が晴れるかもしれないわ」
奏の言葉を遮り、冷たい口調で言い放つ。
「……」
苦悩に満ちた顔を伏せて、奏は押し黙った。
マリアの誘いは、下拝殿に訪れる前から考えていた。
おゆらや本家女中衆を処刑する。主君を謀り、難民に叛乱を起こさせ、多くの民を虐殺したのだ。常盤の件がなくても、首謀者は死罪が妥当であろう。
もはや情けを掛ける気も起こらないが――
おゆらの首を刎ねた処で、犠牲者が蘇る事はない。罪人を処断しても、奏の心には絶望しか残られない。
「意趣返しをしても、奏は満足できないようね。それなら、こういうのはどうかしら? 新しい常盤を創るの」
「……は?」
突拍子もない話に、奏は怪訝そうな顔で佇む。
常盤を創る?
「常盤の卵子は自由に採取できるのだから。第二の聖呪――『
「有り得ない……」
奏は無意識のうちに、拒絶の言葉を発していた。
幾度も非常識な言動に驚かされてきたが、今回は次元が違い過ぎる。
自然の営みを介さずに、人間を創り出すなど――それも同一人物を創り出すなど、世俗の倫理を根底から覆す所業。
人が犯してはならない禁忌。
生命を冒涜する行為に他ならない。
然し具体的な反論の言葉も思い浮かばない。
然し何も知らない奏は、得体の知れない拒否感が先立ち、論外の二文字しか浮かんでこない。
「分家衆が私の聖呪に気づいた時――人間を創れると気づいた時、厚かましくも
森羅万象を統べる
「でも奏は別よ。もし奏が……ええと、なんと言ったかしら? そう――処女厨というのであれば、奏の為に常盤の
「――」
左手を握り締め、必死に怒りを抑え込む。無理に言葉を発すれば、胸の内に渦巻く激情が、口から溢れ出てしまう。
「これも気に入らないようね。では、どうするべきかしら? 何をすれば、奏は満足してくれるかしら?」
抑揚を欠いた声音で、マリアは冷然と尋ねてくる。
どこまで奏の心情を察しているのか?
抑も他人の気持ちを慮るつもりがあるのか?
奏の疑念をよそに、マリアは一糸纏わぬ姿で湖面に浮かびながら、謎解きでもするように考え込む。
暫し逡巡した後、奏は身を乗り出す。
「マリア姉、僕は――」
「それは無理よ」
奏の言葉を遮り、マリアは即座に否定した。
「私は
「――」
「一度起きた事象を変える事はできない。たとえ
「――」
「だから二日ほど時間を巻き戻し、常盤を窮地から救うなんて……そんな夢のような願いは、私の力では叶えられないの。どれだけ奏が悔やんだ処で――」
「マリア姉――」
「常盤が陵辱されたという事実は、永遠に消し去る事はできない」
「――ッ!!」
込み上げてくる怒りに身を任せ、怒鳴り散らしてやりたかった。
然し急激に激情が冷めていく。胸を引き裂く悲憤も、頭を埋め尽くす罵詈雑言も、全て無意味だと自覚してしまう。心のどこかで、許婚の言葉を認めているのだ。
誰も過去に戻る事はできない。
己の過ちを帳消しにする事はできない。
そんな都合の良い魔法も妖術も存在しない。仮に存在するとすれば、
奏の願望は、幼稚な現実逃避に過ぎない。
それでも――
「どうして、そんな事言うの?」
泣き出しそうな顔で、奏は真意を問うていた。
「常盤について相談した時、いつも真剣に話を聞いてくれたよね。いつも助言してくれたじゃないか。それなのに――どうして、そんな事を言うの?」
「それが事実だからよ」
悲痛な詰問も一言で切り捨てる。
「奏の心労を取り除く事が、許婚に課せられた義務。でも常盤は、奏の所有物だから。斬首しても奏が悲しむ。強制的に排除できないなら、知恵を使えばいい。奏を悩ます問題を解決し、心の安寧を取り戻す。でも奏も元服したのだから……そろそろ人形遊びから卒業してもいい頃よ」
「マリア姉には、僕と常盤の関係が人形遊びに見えたの?」
奏の言葉に怒気が混じる。
「天が与えた役割をこなすだけの
「常盤の代わりなんかいない! 世の中に一人しかいないんだ!」
奏は堪えきれず、荒々しい怒声を発した。
洞窟内に怒声が響いても、暗闇は反応を示さない。
反響が消えた後、
「本当に常盤を大切にしていたのね。意志を持たぬ傀儡ではなく、愛らしい飼い猫のつもりでいたのかしら? どちらでもよいけれど。所詮は些事に過ぎない。奏が迷うほどの事ではないわ」
冷たい声音で答えたが、火に油を注ぐだけだった。
「些事!? 蛇孕村で叛乱が起きて、百人以上の難民が死んで、常盤が巻き込まれて――それでもマリア姉からすれば、取るに足らない些事!? マリア姉には、人の心がないの!? 誰かを大切に思う気持ちはないの!?」
「三千世界の誰よりも、私は奏を愛しているわ。でも
「だから、どうしてそうなるんだ!? どうして弱者を理解しようとしないんだ!?」
奏は泣きながら叫んでいた。
幼い頃よりマリアを尊敬していた。心の底から、尊崇の念を抱いていたのだ。少しでも彼女に近づけるように、懸命に後ろ姿を追い掛けてきたのだ。たとえマリアが天才でなくても――狂気の世界の住人だとしても、彼女を想う気持ちは変わりない。
そう信じていたのに……
なんで僕に人を信じる心を教えてくれたマリア姉が、十年も掛けて築き上げてきたものをぶち壊そうとするんだ!
心の中の叫びに反応したのだろうか。
マリアは瞼を開いて、左手で湖面の水を
「私は
「『
奏が独白した。
薙原本家に伝わる妖術。天寿を全うするまで、誰にも殺される事はない。刀で身体を斬り裂かれても、槍で心臓を貫かれても、鉄砲の一斉射撃で蜂の巣にされても、致死性の猛毒を体内に注入されても、心臓の鼓動が停止した刹那、
恐ろしい妖術だが、決して不老不死というわけではない。寿命が尽きれば、本家の使徒も老衰で息絶える。
「妖術だけが、理由というわけではないの」
「……え?」
「私には、寿命なんてないの」
暗闇の奥底が、抑揚を欠いた声で告げる。
「人間でも妖怪でもない。比較の対象すら存在しない生命体。私の肉体は、満十九歳を迎えるまで成長を続ける。換言すれば、肉体の成長を終えた刹那、私という存在は完成し、永遠に老いる事はない。完全な不老不死へ至る」
「……」
「誰も私を殺す事はできない。符条巴は私の殺し方を模索しているけれど、全く期待していないわ。刀も槍も弓も鉄砲も猛毒も……まだ発明されていないけれど、核兵器を使用した処で、私を殺す事はできない。私ですら、私を殺せないのだから。他人に期待するだけ無駄というものね」
奏は何も応えられない。
荘厳なる暗闇の湖に、奏が入り込む余地はない。
「産まれたばかりの赤子が泣き叫ぶのは、平穏なる母胎から未知なる恐怖で溢れた
「僕は……」
「奏を視認した時、私を取り巻く環境は一変した。
洞窟の暗闇を見上げながら、当然の如く語るが――
今の奏には、世界が輝いて見えない。
たとえ下拝殿の外に出ても、世の景色が美しいと思えない。一ヶ月前のように、常盤と無邪気に、石段を降りる事はできないのだから。
「奏が教えてくれたのよ。大切な事は全て……愛と希望と敗北」
「敗……北? 僕は何もしていない。一度もマリア姉に勝った事なんかない。いつも僕はマリア姉の後ろをついていくだけで……ただ憧れていただけで……僕は何も……」
「謙遜しなくてもいいのよ。運命の邂逅を果たした時から、私は一度も奏に勝利した事がない。今月だけで二度も敗北している。一度目は、渡辺朧が死に掛けた時。奏は私に婚約の解消を仄めかした。渡辺朧を救う為の方便のつもりでいたのかもしれないけれど……私の耳には、世界が崩れ去る音が聞こえてきたわ」
「……」
「
「僕は普通の人間だ。魔法も妖術も使えない。ただの役立たずだ」
「
「英雄? 何もできない僕が? 馬鹿げてる。マリア姉の買い被りだ」
自虐的に、奏は言い捨てた。
奏が英雄なら、常盤を救う事ができた。大勢の難民も救えた筈だ。誰も救えない英雄など、誇張表現と言うより皮肉である。
「世の流れを動かすというのは、天下人になるというだけではないわ。武士も僧侶も商人も文化人も芸能民も賤民も、自らの意思で
「……」
「加えて奏が因果の起点なら、許婚の私は奏の傍に立つ
「……」
奏は言葉に詰まった。
だからどうしたというのだ?
民衆を苦難から救えない英雄に、何の価値があるというのか?
沈痛な面持ちで俯く奏に頓着せず、「因みに――」とマリアは、抑揚を抑えた声で説明を続ける。
「今月二度目の敗北は、巫女神楽の稽古の時。女装した奏が、あれほど美しいなんて……今でも奏の晴れ姿が、網膜に焼きついて離れないわ。清々しいまでに完敗ね。もはや佇まいで奏に敵うとは、微塵も思えないわ」
さらに容姿を褒められて……この遣り取りに、何の意味があるのか?
語り合うほどに、マリアが遠のいていく。
十年に渡る交際期間を経て、ようやく気づかされた。
次元が違い過ぎる。
天才と凡人という生易しいものではない。神仏を凌駕した
だが、
次元が違い過ぎて、意思疎通すら覚束ない。
人間に害を及ぼす妖怪の方が、
一度心を落ち着かせると、奏は無表情で暗闇を見据える。
まだ許婚から訊かなければならない事がある。
「
「あれは御伽噺。初代の
「……」
「でも
「偶然にしては、現状と接点が多過ぎる。例えば
「そうね。あまりにも出来過ぎているから、何かしらの因果があるのだろうと、薙原家も考え続けていたのよ。私や奏が生まれる前から、
「どういう事?」
奏は酷く陰鬱な声で尋ねた。
「すでに聞いていると思うけれど。薙原家の始祖は、自らの復讐を果たす為に、妹を生贄に捧げて、強力な妖術を手に入れた。
「――」
「でも初代の
薙原家でも数名しか知らない事実を打ち明けられ、奏は呆然と聞き入る。
「蛇神様の教へに従ふ者共よ。
永劫の
蛇神様受け入るる器を造れ。薙原家の嫡流に神の血を混ぜよ。十二柱の神の血混ぜ合はせしほど、
蛇神様と釣り合ふをひとを造れ。蛇神様の血を引く鼠神の(ねずみがみ)子。蛇の王国に君臨する者。
蛇神様を奉ずる魔女を造れ。蛇神様崇め奉る者。蛇の王国を建国する
蛇神様に命を捧げよ。鼠神の子求め
八百年目の転生祭の夜、
「――」
「……なんて幼稚な詐術は、道端で
「真のさま取り戻し……というのは?」
「蛇神が齎す妖術を指していたのよ。敬虔な使徒は、互いに争うも良し争わぬも良し。いずれ蛇神から神通力を授かり、自らが
「じゃあ、薙原家の娘と交わしても……」
「それは分からないわ。平易に考えれば、妖怪が産まれる筈よ。然し奏は、妖怪の
「……」
「不安を覚える必要はないわ。自然の営みで人間を創れないなら、私の聖呪で創ればいいのよ。分家衆の卵子から不要な遺伝情報を取り除き、奏の精子を受精させるだけで完了。後は受精卵を母胎に戻せば、確実に人間が産まれるわ。手間は掛かるけれど、薙原家の望みは叶う」
まるで他人事のように、暗闇の奥底が一人で語る。
「勿論、それも奏の存念次第よ。おゆらにも考えがあるようだから、無理強いするつもりはないわ。奏の好きにしなさい」
「……」
奏は静かに瞼を閉じる。
反駁する気力すら湧いてこない。
会話を続けるだけで、許婚に対する敬慕の念が、希望と共に消えていく。水を断たれた草花の如く、少年の精神が枯れていく。
「マリア姉の望みは何?」
全く感情を込めずに、冷然とした口調で尋ねた。
意図したわけではないだろうが、奏の声音が許婚と酷似する。
「奏と結ばれる事よ」
何の躊躇いもなく、暗闇の奥底は断言する。
「再来年の一月一日に祝言を行い、奏と結ばれて子を成す。でも私と奏は、種が違い過ぎる。仮に蛇と鼠が交配しても、子を成す事はできない。私の聖呪を行使すれば、二人の遺伝情報を組み合わせた
湖面に浮かぶマリアは、優しく下腹部に両手を添えた。
「十年前から、奏の子供を産む為に……可能な限り、私の遺伝情報を残しつつ、授精した時に人間の胎児として成長する卵子。でも、まだ完成していないのよ。私の存在が完成するまで、卵巣で調整中の卵子も完成し得ない」
「……」
「私も奏と肉体的に結ばれたいけれど、未完成の卵子に不確定要素を加えたくないの。もし性欲を持て余しているなら、他の
「……」
「二人の子供が生まれたら、私は奏の子孫を見守り続けましょう。
「……」
「他にも望みはあるけれど、私の美意識に関わる事だから。奏が気にする必要はないわ」
ようやく暗闇の言葉が途切れた。
「それがマリア姉の望み……なんだね」
奏が乾いた声で確認する。
「ええ、そうよ。それで奏の気持ちは晴れたのかしら? 結局、私の話ばかりしていたような気がするけれど」
「もういいよ。もう十分だから――」
これ以上、聞きたくもない。
心の中で吐き捨てながら、広大な暗闇に背を向けた。まだ何か話したそうな許嫁を置いて、奏は暗い隧道を引き返す。
確かにマリアの言う通りだ。
此処には、何もなかった。
筮棒……竹を細く削った棒で占いに使う
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