第75話 聖呪
蛇孕神社に通じる石段の近くで、がさりと茂みが揺れた。物陰から大きな狸が現れて、杉の木を這い上がり、太い枝に座り込む。大きな狸は、蛇孕神社に続く石段を見下ろし、薄い笑みを浮かべた。
大きな狸……ではなく、狸の皮を被る秋山狸之助は、蛇孕神社の巫女衆と三日間も山の中で逃走劇を繰り広げ、ようやく最高の狙撃地点を確保した。
嵐が通り過ぎて、現在は無風に近い。先程まで降り続けていた雨が、腐葉土や樹木を濡らし、蛇孕岳全域が樹皮と泥濘の臭気に覆われ、嗅覚で居場所を特定される恐れもない。
これを逃せば、次の時宜は訪れない。
徐に狸の毛皮で包んだ武具を取り出し、十字型の弓に目を遣る。狸之助が取り出したのは、ハンドルがついた南蛮式の弩。十数年前に南蛮人から入手した武具である。現在の日本で、狸之助と同じ型の弩を持つ者は、極めて稀であろう。
武士団が台頭するまで、弩は日本でも使用されていた。律令軍は、一団(五十人)に二人の弩手が選抜され、貴重な兵器として扱われていた。
だが、律令軍の解散に伴い、全国的に戦術や武具の見直しが行われた。
弩は矢を放つと、次の矢を放つまで時間が掛かる。加えて
やがて戦国時代に入ると、南蛮人から再び弩が持ち込まれたが、同時期に火縄式の鉄砲も伝来していたので、南蛮式の弩に注目する者などいなかった。
準備に掛かる時間は同じでも、破壊力は火縄式鉄砲に劣る。耳を劈く銃声で、敵を威嚇する事もできない。和弓と比較しても、矢を放つまで時間が掛かる。
無価値な骨董品という烙印を押されたが、遣い手次第で道具の価値も変わる。狸之助からすれば、南蛮式の弩は鉄砲を超える兵器だ。
狸之助は、森林を伐採する
杣人の歴史は、平安時代まで遡る。
武家屋敷の建築や寺院を造営する為、必要な木材を切り出すべく、多くの杣人が山野に分け入り、林業に従事していた。作業期間中、
さらに時代が下ると、城下町の建造や城塞の普請の為、木材の需要が急激に増加し、杣人の仕事も一気に増えた。
然し狸之助は、現状に満足できなかった。
懸命に木を切り倒し、立派な木材を供給した処で、事情を知らない里の民から『狩猟を生業にする蛮族』と恐れられ、偏見の眼差しを向けられる。そんな生活に嫌気が差した狸之助は、貴重な塩を盗んで杣人の里から飛び出し、臨時雇いの足軽として諸国を転戦。乱取の快感や金銭の欲望に取り憑かれ、
日本人の商人から相手にされないようで、しつこく手頃な値段で買わないかと勧めてくる。鉄砲なら買い手もつくだろうが、好んで弩を買い取る者はいない。容易に転売先が見つからないからだ。然し狩猟生活を営んでいた狸之助は、南蛮式の弩の真価を一目で見抜いた。
彼の一族は、狩りに弓ではなく、旧式の弩を使用していた。狸之助の先祖は、杣人になる前に地方豪族の鎮圧に参加しており、賊軍から弩を略奪すると、先祖代々故障と修理を繰り返し、騙し騙し五百年も続けてきたのだ。
弩について詳しい狸之助は、南蛮式の弩の形状に驚かされた。十字型の
和弓のように習熟も必要なく、命中精度は火縄銃を凌駕する。火縄が燃える独特の臭いもしない。合戦に向かないかもしれないが、暗殺に向いているではないか。
足軽仲間から盗んだ
手始めに猪や鹿を射殺し、次に空を飛ぶ鴉や
今では半町も離れた場所から、正確に心臓を射貫くほどの業前を誇る。暗殺者として雇われて、仕留め損ねた者は一人もいない。極めて成功率の高い仕物専門の透波。徐々に裏の筋で狸之助の名は広まり、土豪や有徳人などの上客もいる。今回、
否、
狸之助は木の上でハンドルを回す。弦を引いて、翼に矢をつがえた。後は
暫く樹上で待ち続けていると、予想通り奇妙な巫女装束の女が現れた。
白衣の上に蒼く染め抜かれた千早を羽織り、下は紫色の袴。眦を吊り上げた仮面で美貌の上半分を隠し、踝まで届くほどの長い黒髪をなびかせている。
依頼主の符条から聞いた通りだ。
狸之助にも理屈は分からないが、マリアは聴覚や嗅覚を封じられても、空気中に漂う微弱な稲妻を察知し、周囲の状況を完璧に把握できる。半径一里に及ぶ不可視の円陣に足を踏み込めば、瞬時に居場所を特定され、思考まで読まれてしまう。普通に考えれば、南蛮式の弩を用いた処で、狙撃による暗殺は至難。マリアに殺意を抱く者は、目視できる距離まで近づく事すらできない。
然し
世の中に完璧な者など存在する筈がない。
万民から
世に知られていないだけで、マリアの第一の聖呪――『
突然の暴風雨などで、空気中の微弱な稲妻の流れに乱れが生じると、膨大な知覚情報を脳内で処理しきれなくなり、一時的に『
今の処、符条の言葉に嘘はない。
事実、嵐が過ぎ去ると、マリアは蛇孕神社の外へ出てきた。標的の行動が、情報の正確さを裏付けている。
だが。
予想はしていたが。
南蛮式の弩を構えながら、狸之助は息を飲んだ。
なんという怪物……ッ!?
無防備な姿で石段を降りているだけだが、禍々しいほどの武威を感じる。
数え切れないほどの武芸者を射殺してきたが、狙いを定めただけで得体の知れない恐怖を覚えたのは、生まれて初めての経験だ。
自然と心臓が早鐘を打ち、掌に汗が滲む。
およそ人間の纏う気配ではない。
人智を超えた
もはや
天下無双の武威に圧倒されながらも、狸之助は平静を取り戻す。
『
狸之助には、もう一つ有利な点がある。
南蛮式の弩だ。
飛び道具が剣士の弱点というのは、武芸者に於ける通説だ。如何なる剣豪であろうと、遮蔽物のない場所で飛び道具に狙われると、防御も回避もできなくなる。
天下無双と謳われた
後世になるが、塚原卜伝について書かれた『
『およそ真剣の試合は十九度、
天下無双に相応しい戦歴だが、それでも戦場で矢傷は受けたのだ。塚原卜伝ほどの剣豪といえど、視界の外から飛び来る矢は躱せなかった。ならば、たとえ
あと二歩……
確実にマリアを葬り去る為、
一射必殺。
これで外せば、狸之助の未来もない。
あと一歩……
嵐が通り過ぎたばかりで、曇天の空から陽光が差し込み、少し横風が強くなり始めた。誤差の範囲ではあるが、無風の状態で発射しても、次の刹那に横殴りの突風が吹き、大きく標的を外すのが、飛び道具の宿命である。弩も例外ではない。最後に信用できるのは、己の技倆と発射前の正しい姿勢だけ。
狸之助の存在に気づいた様子もなく、マリアは石段の踊り場に踏み込む。
くたばれ、邪鬼眼!
心の中で罵倒し、狸之助は引き金を引いた。
南蛮式の弩から放たれた矢は、和弓の倍近い速さで一直線に飛翔し、マリアの右側頭部を貫いた。左側頭部から鏃が飛び出し、血飛沫が飛び散る。
びーんと弦が震える音が響き、蛇孕岳に沈黙が訪れる。
……これで終わりか?
あまりの呆気なさに、狸之助はぽかんとなった。
いや、呆けている場合ではない。すぐにも蛇孕神社の巫女衆が追い掛けてくる。依頼通りにマリアを始末した以上、一刻も早く蛇孕村から脱出しなければならない。
偉業を達成したという高揚感を抑えきれず、喜色の笑みを浮かべながら、クロスギから飛び降りると、
「弩使いとは珍しい」
狸之助の前に、マリアが佇立していた。
「わァアアアアッ!?」
狸之助が絶叫を上げた。
眦を吊り上げた仮面で絶世の美貌を覆い隠し、腰まで届く長い黒髪。白衣の上に蒼く染め抜いた千早を羽織り、下は紫色の袴姿。秀麗極まる容貌も奇抜な衣装も、何もかもが瓜二つである。
「それも大陸式ではなく、南蛮式の弩……後にライトクロスボウと呼ばれる物ね」
「なんだ、お前は!? なぜ、お前が此処にいる!? まさか影武者か!?」
狸之助が混乱するのも当然だ。
先程、南蛮式の弩で頭蓋骨を貫いた筈のマリアが、事もなげに佇んでいるのだから。
慌てて背後を振り返るが、マリアの屍は踊り場に倒れている。白い仮面の巫女衆は、特に動揺した様子もなく、丁重に
「ナンダオマエハ……?
錯乱する狸之助を尻目に、マリアは抑揚を欠いた声で告げた。
「お前は符条から何も聞かされていないのね。私の存在を
「『
混乱から脱しきれない狸之助が、鸚鵡返しに尋ねた。
「古代より蛇神が転生を象徴する神格であるなど、今更語るまでもないでしょう。他の妖術を上回るからこそ、薙原本家は八百年も分家を従えてきたのよ」
「……」
「尤も薙原家は、伝統的に妖術の名を誇張したがるから。『
「世迷い言を!」
狸之助は、マリアの説明を切り捨てた。
話の内容が浮き世離れしており、到底信じられるものではない。やはり影武者と入れ替わり、射手による暗殺を警戒していたのだろう。
余裕綽々という佇まいで、妄言を語る今こそ最後の好機。狸之助は急いでハンドルを回し、弩の弦を引き上げた。
「だから私が母上を斬首した時、分家衆は動揺していた。私の母上も『
狸之助が弩を放つ準備を始めても関係なく、マリアは滔々と機密事項を語る。
「でも符条巴は、『
「俺が捨て石だと!?」
「珍しい南蛮式の弩を使う射手。惰弱なりに、私の興味を引くに足る存在。だから刺客に選ばれた。クロスボウを使えば、私が防御しないと見越していたのよ」
「――ッ!?」
瞠目する狸之助をよそに、マリアは残酷な真実を告げる。
「この先は、とても滑稽な話なのだけれど。お前は蛇孕村に侵入した直後から、符条巴の監視下に置かれていた。符条巴の『
「そんな馬鹿な事があるものか!?」
弩の準備を進めながら、思わず狸之助は弓手を見遣る。
普通の杉だ。
他の杉と何も変わらないが、狸之助は魔法と妖術の区別もつかない。
マリアの言動を論理的に否定する知識も持たない為、狸之助の心の中に依頼人に対する疑念が膨らんでいく。
「そんな馬鹿な事があるから、惰弱の人生ほど愉快な余興はない。抑も己の眷属を変更するなんて、長続きする筈がない。あくまでも一時的な措置に過ぎない。でも符条巴は、この時の為に三日三晩、まともに食も睡も取らず、他人が差し出す髪の毛を囓りながら、私が蛇孕神社の外へ出るのを待ち続けていたのよ。如何なる智謀や執念も、限度を超えると喜劇にしかならないという実例ね」
抑揚のない声で呟くと、眦を吊り上げた仮面を樹木に向けた。
「奏に明晰夢を見せたり、樹木を眷属に変えたり……お前の小細工は、私を楽しませるに足るものだった。此度の件は不問とする。精々
黒い杉の木に話し掛けると、奇怪な仮面を狸之助の方に戻す。
両者の間で話がついたようだが、狸之助はそれどころではない。大慌てで毛皮の背面から、新しい矢を取り出す。
「それとお前は、こうも問うていたわ。『なぜ、私が此処にいるのか?』と――別に驚くほどの事でもないわ。三日前に蛇孕村へ潜り込んできた時点で、私はお前の位置を特定していた」
「『
狸之助は怒鳴りながらも、臂の上に矢を載せる。
「満月が欠けるように、太陽が東から昇るように、子供が大人になるように――
「三里だと!?」
なぜか弩を構える作業を止めて、律儀に驚く狸之助。
「それに天候不順が原因で『
「くそくそくそ!」
うまく弦に矢をつがえられない。焦り過ぎて、指が震えているのだ。
然し今すぐ狸之助を斬首する気はないようだ。明らかにもう一度、弩を
その自尊心が命取りになるのだ。
狸之助は、マリアの言葉を信じていない。末期的な中二病の妄言だ。不死身の者など存在する筈がない。
やはり影武者以外に考えられない。
次に放つ矢で心臓を貫き、今度こそ仕留めてくれる。
「勿論、『
飛び道具を持つ刺客を前に、マリアは冷然と語り続ける。
「お前は狸の毛皮を纏い、汚い泥化粧で体臭を掻き消した。呼吸も極めて浅く、私を射殺した時も獣と同程度の息遣いをしていた。気配の消し方も悪くない。本家女中衆と同程度の
南蛮式の弩を発射する準備を終え、狸之助は会心の笑みを浮かべた。
「狸も人間も細胞の働きは同じ。細胞の中のミトコンドリアが食物と酸素を使い、エネルギーを作り出す。エネルギーはATPという物質に蓄えられ、様々な生命活動に使われる。この時、発生される熱が動物の体温の源。例えば象や鼠、狸や人間のような哺乳類は、細胞内で発生した熱を身体の表面から逃がし続ける事で、常に一定の体温を保ち続ける。発生した熱と身体の表面から逃げていく熱が、丁度良い温度で釣り合うのよ」
「――」
「狸と人間を比較しましょう。狸の体重(体積)は、人間の八分の一。表面積は四分の一。体重を増やしても減らしても、狸と人間の細胞の数は殆ど同じ。熱を発する細胞の数が変わらないのに、表面積は人間の四分の一しかない。何もしていなくても、狸の表面から熱がどんどんと逃げていく。だから狸は、人間より多く呼吸して熱を作り出す。呼吸数は毎分八十回程度。その分、細胞が働き続ける為、人間より老化が早くなり、十五年から二十年で命を落とす。つまり狸に化けたいなら、細胞内のミトコンドリアを酷使して、二十年以内に死んでくれないと、私は騙されたりしない。そして何より――」
南蛮式の弩を前方に構え、狸之助は引き金に指を掛ける。
同時にマリアは、右手で仮面を外した。
ゆるりと瞼を開いた時、黄金に輝く双眸が強烈な光を放つ。
「こんなに大きなタヌキはいない」
「死ね!」
狸之助が叫びながら、マリアの心臓目掛けて矢を放った。
張り詰めた弦が引き戻され、ぶんっと空を裂く音が響いた刹那――
マリアは音も立てずに、左手で飛来する矢を掴んでいた。
「はアあアアアアッ!?」
狸之助が頓狂な声を発した。
至近距離から射られた弩の矢を掴み取るなど、武芸者にできる筈がない。
否、間合いも武術も関係なく、弩の速度は人間の動体視力や反射神経を凌駕している。仮に『
加えて握力と腕力が、人類の規格を遙かに逸脱している。人間程度の腕力では、飛んできた矢の勢いを殺しきれず、胸の中心を貫かれているだろう。挙句、空中で飛来する矢を掴み取るだけの力で握り締めながら、木製の矢は全くの無傷である。握り潰してもおかしくない筈だが――
もう訳が分からない。
両目を見開いて、唖然とする狸之助。
マリアは木製の矢を視認しながら、抑揚を欠いた声音で語る。
「私を狙うのであれば、もう少し予習しておくべきね。どうして関ヶ原合戦で東軍と西軍が入り乱れる中、東西一里四方の戦場を自由に動き回り、数多の武将の首を挙げる事ができたのか? 如何にして人間の肉体を二百余りの肉片に解体したのか? 答えは簡単。未来に起こる事象を確定し、音を超える速さで動けるから」
「あ、ああ……」
「私は蛇神の転生者であり、万物を超越する
「……」
「私の聖呪は、森羅万象の『感知と予測』から『創造と支配』に移行する。両目を開いた私は、素粒子の創造と支配が可能となる。軽く素粒子の説明をしましょう。先ず物質を細かく分ける。例えば氷を細かくすると、やがてこれ以上小さくできない限界が訪れる。それが分子であり、原子と呼ばれる物質の最小構成単位。酸素原子と二つの水素原子。その周りを回るのが電子。これが地球上で安定している物質の最小単位であり、これ以上小さくする事は、容易ではない」
「……」
「然し此処に高いエネルギーを加えると、分子や原子より細かい単位に分けられる。それが素粒子。素粒子を大きく分けると、物質を構成するクォークと呼ばれる粒子。電子に代表されるレプトン。力を伝えるゲージ粒子。質量を与えるヒッグス粒子。他にも様々な素粒子が組み合わさる事で、物質になるだけでなく、光や電気、磁力、重力など、全ての事象が素粒子の影響を受けている」
「……」
「奏と温泉で完全な未来予知はできない……という話をしたけれど。ならば、素粒子を創造して支配し、未来に起こる事象を確定すればよい。位置を特定すれば、運動量が不確定となり、運動量を確定しようとすると、位置が不確定になる。時刻を特定すると、エネルギーが不確定となり、逆も然り。だから全物理量の特定が不可能というなら、全物理量を私の魔法で確定する。もはや未来予知すら必要ない。私が思い描いたように、未来の事象を確定し、己の都合の良いように造り替える。これが第二の聖呪――『
「……」
後にフランスの数学者――ピエール=シモン・ラプラスは『確率の解析的理論』で斯様に述べている。
『もしもある瞬間に於ける全ての物質の位置と運動量を知る事ができ、且つもしもそれら全ての情報を解析するだけの能力を持つ知性が存在するとすれば、その知性にとって不確実な事は何もなくなり、その目には未来も過去同様に見えているだろう』
後世の物理学者から否定されたラプラスの悪魔だが、全ての物質の位置と運動量を知る必要はないのだ。素粒子を創造して支配し、全ての位置と運動量と時刻とエネルギーを確定すれば、結果的にラプラスの悪魔と同じ現象が起こる。
即ち
「加えて素粒子を創造して支配する為に、莫大なエネルギーが必要となる。だから
マリアは釈迦のように、左手を天に突き上げた。
「ブラックホールから送られてくる無限のエネルギーを使えば、素粒子の創造と支配など容易な事。私の肉体的な潜在能力も存分に発揮できる。握力や腕力は、両目を閉じていた時の百億倍。握力は一兆貫。デットリフトに挑戦すると二兆貫。それに空気抵抗も受けなくなるから、終端速度という概念から解放されて、重力値に従いながら加速する。
「ひ……いいいい!」
音速を超える
「空気中の微弱な稲妻を感知するなど、素粒子を創造して支配する副産物に過ぎない。素粒子で圧縮した空気を身に纏い、衝撃を吸収するように空気の膜を張れば、飛び来る矢を破壊せずに掴み取る事も可能。
南蛮式の弩に視線を向けながら、独り言のような解説を締め括る。
「音より速く動けるのだから、関ヶ原全域を自由に移動できて当然。鎧武者を二百余りの肉片に解体して当然。石炭を握れば、ダイヤモンドができて当然。反応速度が人間の一三〇〇倍を超えて当然」
左袖に仮面を仕舞い、冷然とした声音で告げる。
「私は
「――ッ!?」
「偖……私は、お前に『
「ざ……斬首しないでくれ!」
弩を捨て去り、慌てて命乞いを始めた。
マリアの解説の百分の一も理解できないが、狸之助の想像を遙かに超えた存在。
全身がガタガタと震えて、どさりと尻餅をついた。恐ろしさのあまり、腰が抜けて動けないのだ。祈るように両手を組んで、狸之助は降伏の意思を示す。
「俺は銭で雇われていただけだ! 符条について知りたいなら話す! なんでも話す! 勿論、あんたの力については、絶対に誰にも話さない! 天地神明に誓う! なんなら起請文を書いてもいい! だから――」
「何を誤解しているの?」
「……へ?」
ぽかんとする狸之助を尻目に、マリアは南蛮式の弩を拾い上げ、興味深そうに観察しながら、抑揚を欠いた口調で言葉を紡ぐ。
「おゆらはともかく、私は符条巴の情報など欲していない。私が本家の妖術や聖呪について話したのは、お前に対する褒美よ」
「……褒美?」
「お前は危険を顧みず、私に南蛮式の弩を献上した。わざわざ遠国から蛇孕村まで足を運び、私に珍しい進物を捧げてくれた。お陰で奏に贈るプレゼントが増えたわ。奏は珍品の類を渡すと、とても喜んでくれるから。しかも南蛮式の弩で頭を貫かれるなんて、貴重な体験も語り聞かせてあげられる。お前の献身を称賛しよう。ゆえに斬首しない」
「本当ですかアアアア!?」
予期せぬ命の保証を得て、狸之助は両目を輝かせた。
「本当よ。お前を斬首するつもりはないわ。自分で首を飛ばしなさい」
「はああああッ!?」
頓狂な声を発すると、忽然と狸之助は両腕を挙げた。自分の側頭部を両手で掴み、首から上を強引に持ち上げようとする。
「これは!? 身体が勝手に!?」
「騒ぐほどの事ではないわ。『
「そんなの酷い……ぐがああああ! 痛いよぉおおおお!」
苦悶の表情を浮かべながら、狸之助は悲鳴を上げた。
ぶちぶちと首の筋が千切れている。徐々に首が伸びており、いつ頭と胴体が斬り離されてもおかしくない。
「どうも理解に苦しむわね。先程から思考が乱れていたけれど、今は恐怖と苦痛で塗り潰されている。蛇神の転生者である私を射殺したのだから、自らの命で償うのは当然。寧ろ武士のように自決できるのだから、己の散り際を誇りに思うべき……と考えていたけれど、痛みに耐えられないようであれば、痛覚を性的快楽に変えてあげるわ」
冷然とした声音で告げると、狸之助に異変が起こった。
「な……何これ!? 気持ちいい!? すげえ気持ちいい! ぎもち良すぎて止められないイイイイッ!!」
苦痛に歪んでいた表情が、恍惚のそれに豹変する。快楽に酔い痴れた顔で、だらだらと唇から涎を垂らし、自分の首を引き伸ばす。
「未来を確定する事もできなければ、音の速さを超える事もできない。妖術を使わなければ、記憶の改竄や精神操作も行えず、怪我の治療も解毒剤の製造も城郭の破壊も空間転移も情報の送信も気圧を下げる事もできない。しかもこの程度の些事で一喜一憂する。本当に惰弱というのは、度し難いほど愚かしい存在ね」
狂乱する狸之助の醜態を見遣り、マリアは冷たい口調で告げた。
狸之助が隠していた木製の矢を奪うと、もはや用済みと言わんばかりに、
「ちょっと待ってええええ!! 俺を置いていかないでくれええええ!! もうすぐイキそうなのぉおおおお!! 俺がイクまで待ってええええ!!」
間近に迫る死に対する恐怖と、相反する性衝動の暴走で精神が崩壊し、支離滅裂な絶叫を上げる狸之助。
快楽と絶望に歪む死相は、直視に耐え得るものではない。無論、マリアは一瞥もしないで、蛇孕神社の石段へと向かう。
「もうダメええええええええ!! もうダメなのぉおおおおおおおお!! もう我慢できないイイイイイイイイ!! イクいくイグいぐ逝くイっちゃううううううううう!!」
自らの手で頭部を引き抜いた狸之助が、森の中で絶叫を上げた。
無理矢理、引き千切られた胴体の傷口から、赤い棒のように鮮血が噴き出し、血飛沫を飛ばす。血飛沫は周囲に飛散したが、マリアの衣装には届かない。
マリアの背中に透明な膜が張られており、空気の壁を赤い血が伝わり落ちていく。
狸之助が自らの首を落とし、糸の切れた人形の如く倒れた。
同時にマリアが再び瞼を閉じて、『
マリアは南蛮式の弩と矢を調達し、踊り場から石段を下り始めた。
太矢……矢羽根のついていない太い矢
木庭……焼き畑
半町……三十間。約56.7m
一里……約3.9㎞
黄泉津大神……
葦原中津国……地上世界
半径一里……半径約3.9㎞
三里……約11.7㎞
道元……曹洞宗の開祖
ATP……アデノシン三リン酸
カーボンナノチューブ……炭素によって作られる六員環ネットワーク(グラフェンシート)が単層、或いは多層の同軸管状になった物質。炭素の同素体で、フラーレンの一種に分類される事もある。ダイヤモンドより硬い。
百貫……375㎏
二百貫……750㎏
一兆貫……37億5000万t
二兆貫……75億t
終端速度……物体が重力、或いは遠心力などの体積力と、速度に依存する抗力を受ける時に、それらの力が釣り合い、変化しなくなった時の速度
武田物外……幕末の曹洞宗の僧侶、武術家。
チーター……哺乳綱食肉目ネコ科チーター属に分類される食肉類。最高時速120㎞で草原を駆けるが、薙原マリア(時速8億2000㎞)より遅い。
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