第73話 狂乱
あんな奴、父親じゃない。
常盤は心の中で罵倒しながら、薄暗い森の中を歩く。
葦原を抜ける筈が、隷蟻山の麓へ向けて進んでいた。
加えて左馬助の姿がない。
青い双眸に涙を溜めながら、黙々と洞窟から離れる。
洞窟に身を潜める奏に、常盤の声が届かないほど遠くに――葦原ではなく、眷属や女中衆に見つかりやすい森へ向かう。
あんな奴、私と関係ない……
洞窟の外に出た直後、左馬助から聞かされた。
自分も叛乱に加担した首謀者であると――
たとえ思惑通りに進もうと、叛乱の首謀者は確実に処刑される。私は最後まで薙原家と戦うつもりだが、常盤を巻き込みたくはない。私しか知らない抜け道がある。村を襲う混乱に乗じて逃げろ。
左馬助の話を聞いた後、常盤は罵声を浴びせた。
正気じゃない。
薙原家に逆らうなど、無駄に命を散らすだけ。単なる自殺行為でしかない。左馬助も他の難民も、薙原家に一矢報いる事しか考えていないのだ。
左馬助は常盤の話も聞かず、『奏の身の安全』だけ約束すると、一人で洞窟へ引き返していった。
すぐに追い掛けようとしたが――
常盤は唇を噛み締め、左馬助と逆方向に歩き始めた。葦原に向かうのではなく、隷蟻山の麓を目指したのだ。
常盤の力では、左馬助を止められない。
三年も顔を合わせていないが、それでも左馬助が正常な状態ではないと、常盤は一目で理解した。おそらくおゆらの妖術で操られているのだろう。『
今の常盤には、左馬助に襲われる百姓を哀れと思う余裕すらなかった。
奏は時間を気にしていたが、確かに猶予は限られている。
今日中に、難民は根切りにされる。
奏の言う通りにしても、難民の運命は変わらない。今回の叛乱がおゆらの手引きによるものなら、二重三重の罠を仕掛けている筈だ。仮に生き残りを救えたとしても、所詮はその場凌ぎ。残忍で冷酷な女中頭は、主君の命令を無視してでも、必ず難民を根絶やしにする。
これで難民集落も終わりだ。
弱くて愚かな難民も。
常盤を蔑んでいた悪魔崇拝者も。
叛乱を主導した左馬助も。
善人も悪人も例外なく処刑される。
それが弱肉強食の掟だ。
少数の強者が多数の弱者を虐げ、生殺与奪を決定する。強者の意に背く弱者など、蟻の如く踏み潰されるだけ。己の意志を通したければ、誰よりも強くなるしかない。
支配者に背いたのだから、難民集落は滅んで当然。左馬助が返り討ちにされて、蛇孕村の広場で首を晒しても、弱者の末路としか言いようがない。
左馬助は、常盤に残酷な真実を伝えなかった。
薙原家が母親の墓を掘り返し、餓鬼の如く遺体を喰い尽くした事。亡き妻の無念を晴らす為、常盤が慕う若者を討つと告げなかった。
残酷な真実から、娘を遠ざけようとしたのだ。
ゆえに常盤は、己の知る情報を頼りに選択するしかない。
自分が生き残る為に、不要なものを切り捨てなければならない。
もう左馬助は、常盤の父親ではないのだ。
実の娘を薙原家に売りつけたのだから。
左馬助に父親を語る資格はない。
別れ際に、強引に渡された革袋を見つめる。
右手に握り締めた革袋の中身は、煌びやかに輝く
この
常盤は屈辱に打ち震え、色素の薄い唇を噛み締めた。
青い双眸から、自然と涙が溢れ出てくる。
左馬助は「これだけの
蛇孕村の外は、
追い剥ぎに
だから――
常盤は右腕の袖で涙を拭うと、深い森の中で立ち止まった。
「私は薙原常盤! 薙原家の猶子!」
突然、意を決して名乗りを挙げた。
「奏様が
大声を出さないように、奏から念を押されていたが、感情の高ぶりを抑えきれず、無意識に声を張り上げていた。
「……でも私は、薙原家の不利益になるような事はしない!
奏を説得する方法など思いつかないが、行き当たりの弥縫策で突き抜けるしかない。
喉に痛みを覚えるほど、常盤は叫び続ける。
「だから父を助けて! 父は視察団を襲撃してない! まだ蛇孕村も襲ってない! 今なら女中衆の力で、父を拘束する事もできるでしょ!? これは取引! 父を見逃してくれたら、私が
薄暗い森は、何も応えてくれない。
何の反応も示さない相手に苛立ち、常盤は恫喝するように叫び散らす。
「女中衆か眷属が、どこかで隠れて聞いてるんでしょ! 早く答えて! 父が罪を犯す前に! でないと
不意に常盤の目の前に、びゅんと小石が通り過ぎた。小石は近くの樹木に当たり、ころころと地面に転がり落ちる。
「――ッ!?」
相手の意図を察し、常盤は青い双眸を輝かせた。
やはり本家の女中が、この近くにいるのだ。
人前に姿を見せられない事情があるのだろう。小石を投げる事で、常盤の要求に了承の意を示した。
再び両手から熱い涙が溢れ出し、何度も袖で泣き顔を拭う。涙で視界が歪んで見える。張り裂けそうな心の内を表しているかのようだ。
いらないのに……
私を売り飛ばした奴なんかいらないのに……ッ!
自分でも、自分の行動が理解できない。
どうして薙原家に取引など持ち掛けたのだろう。他の難民と同様に、左馬助も見捨てるつもりでいたのに――
頭の中がグチャグチャで、自分の考えが纏まらない。
とにかく奏の言い付けを破った。
玉砕覚悟の父親を止める事もできず、薙原家と場当たり的な取引を交わし、他の難民を見捨てたのだ。
奏になんて言えば――
「おぉおおおおふううううくうううう!」
常盤の葛藤は、酷い
「与太郎……」
充血した目を見開き、常盤は呆然と呟いた。
蛇孕川に転落した筈の
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