第71話 屍
五日前の事である。
何も出てこない。
左馬助は石を担いで、黙々と地面を掘り返す。掌から血が滲み出ようと意に介さず、一心不乱に穴を掘り続ける。
やがて――
「ウラの言う通りズラ!」
左馬助の後ろには、
三年前、左馬助が薙原家と交渉した際、それなりの譲歩を引き出した。
薙原家が隷蟻山に建てた館を使用しても構わないというもので、ようやく横穴式住居から抜け出す事ができた。
薙原家から生活物資の援助も始められた。いつもの気紛れであろうが、物資に事欠く難民に断る理由はない。鉄の鍋や椀などの日用品。稗粟も三十俵ほど届けられた。飢餓で苦しんできた難民からすれば、食糧の配給は何よりも有難い。
これで難民の生活水準も向上するかと思いきや、やはりと言うべきか……難民集落の悪魔崇拝者達が食料と館の所有権を訴え、他の難民と諍いを起こしたのだ。元々狩りも行わず、弱い者から食料を略奪するような手合いである。和解を持ち掛けた処で、左馬助の話を聞きもしないだろう。
左馬助の決断は早かった。
難民集落の女衆や老人を館に住まわせ、自身は放置された厩を寝床とし、悪魔崇拝者の襲撃に備えて見張りを始めた。錆びた鉈一本で猪を屠る左馬助を恐れて、悪魔崇拝者は館に近づく事すらできなかった。
秩序を乱す者を遠ざけ、隷蟻山に一時の平穏が訪れた。
あくまでも一時。
束の間の平穏である。
左馬助が休む間もなく、新たな食糧問題が発生する。
三十俵とは、およそ十三石余りだ。米にしろ粟にしろ、一石で人一人が一年食うに困らない。薙原家は大量の穀物を援助してくれたが、難民は一二〇人以上もいるのだ。悪魔崇拝者を外に放り出しても、館に住む者の数は変わらない。白い糊のように稗粟を湯で薄めて、可能な限り体積を増やし、平等に分配しても数ヶ月で底をついた。
それ以降、薙原家から音沙汰はなく、冬を越して春が来た。
玉の生産はどうしたのか?
お福は、元気に暮らしているだろうか?
左馬助の疑問に答えられる者はいない。
痺れを切らした難民が再び狩猟活動を始めた矢先、忽然と薙原家の使いと称する巫女が現れた。そして本家当主の死亡と契約の白紙撤回を告げて、戸惑う難民を尻目に事情も語らず下山。隷蟻山には、絶望した難民だけが取り残された。
薙原家に裏切られるのは、何度目になるだろうか。
数えるのも馬鹿らしい。
食料も道具も努力も実績も約束も希望も……生きる為に必要なものは、全て権力者の一言で奪い取られる。
難民の間で、憎悪の炎が燃え上がるのも無理はない。然し怒りに任せて謀叛を起こしても、蛇孕川を越える前に全滅する。
光明が全く見えない。
それでも左馬助は諦めなかった。
確かに薙原家との交渉の道は閉ざされたが、風雨を凌ぐ為に必要な住居や様々な日用品を入手できた。加えて結果論ではあるが、悪魔崇拝者を大凡の難民から遠ざける事もできた。
館に住む多くの難民と、館の外に追い出された悪魔崇拝者。
双方は小競り合いを続けながらも、本格的な衝突に至る事はなく、さらに二年余りの歳月が過ぎた。峻険な隷蟻山に春の息吹が訪れた頃、悪魔崇拝者の頭領を気取る与太郎という若者が、『中二病の神様から神託を授けられたズラ』と騒ぎ出した。
勿論、誰も相手にしなかった。
元々頭の悪い悪魔崇拝者である。春の陽気に当てられて乱心したのだろうと、館に住む者達は笑い合った。
然し時が経つにつれて、笑い話では済まなくなる。
与太郎が大きな猪を二匹も狩り、一匹を館に差し出したのだ。その後も雉や鹿など、多くの獲物を捕らえては、その都度館に差し出す。
弓も槍もないのに、如何にして鳥や獣を仕留めたのか。
大凡の難民が抱く疑問に、
まさか本当に神託を授けられるわけではないだろう。左馬助も中二病の神様が如何なるものか知らないが、あの程度の凡夫に神通力を与えるわけがない。彼が魔法を会得できるなら、日本中の足軽が魔法使いになれる。
これも薙原家の陰謀であろうか?
不気味な妖術を使う薙原家が
左馬助は警戒感を強めたが、
左馬助が、
それに左馬助自身も、
大凡の難民を代表する左馬助は、半ば押し切られる形で、一時的に
結果、何も出てこなかった。
現実という蓋を開けても、箱の中は吐き気を催すほどの悪意だけ。それ以外のものは、全て薙原家に奪われていたのだ。
「左馬助さんよぉ、これでもウラの言う事を信じねえつもりか?」
穴の前で佇む左馬助は、青白い顔で何も答えられない。
「ウラたちはやるだに! 難民は薙原家の家畜じゃねえでごいす! ウラたちが、それを証明してやるズラ!」
「……」
「なんとか言うズラ、こん
「黙れ」
「はあ?」
「某は黙れと申しておる」
「ひイ――」
左馬助が言葉遣いを改めると、
愚かな悪魔崇拝者など眼中になく、左馬助は穴の底を見下ろしていた。
『それ』は難民の間でも禁忌の行為であった。
どれだけ飢餓に苦しんでいたとしても、決して『それ』に手を染めてはならない。一度でも『それ』を行えば、絶対に歯止めが利かなくなる。無差別に難民同士で殺し合いを始め、一晩で死に絶えるだろう。
穴居人と呼ばれ続けてきた者達の最後の矜持。それすらも薙原家は、土足で踏み潰すというのか。
例え薙原家の陰謀だとしても、『それ』だけは許せない。
左馬助の周囲で怒号が飛び交い、瞬く間に怨嗟の炎が燃え広がる。十年以上も山の中で溜め込んできた鬱憤である。意図的に扇動していた
だから誰も気づかなかった。
難民の輪を取り囲むように、蛾の群れが飛んでいた事に――
微量ながらも、薄紅色の鱗粉が難民の口から体内に入り込み、脳神経を侵食し始めた事に、彼らは最後まで気づかなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます