第70話 魔女の野望

「――ッ!?」


 目を開けた時、燭台の炎が揺らめいていた。

 高く積み上げられた円座の上に、小さな獺が寝そべる。

 奏は円座の上で端座していた。

 夢の世界に入り込んだ事を理解すると、慌てて立ち上がった。


「常盤は!? 常盤はどうなったんですか!?」

「さあ?」


 開口一番、獺は他人事のように言う。


「さあって……そんな無責任な――」

「現実世界のお前が知らない事は、私も知りようがない。何度も教えたぞ」


 苛立つ奏と向き合い、獺は冷静に応じる。


「『難民集落』を視察する途中、難民の一揆に襲われました。その時、常盤が難民に攫われて……吊り橋の上で追いついたんですけど、一緒に橋から落ちて――」

「落ち着け」

「……」

「私は、お前の夢が造り出した虚像だ。お前に説明されなくても、お前の身に起きた事は承知している。そのうえで私が言える事は、常盤の安否は不明。然しお前は無事だ。こうして夢の世界で私と対話しているからな」

「どうして僕は無事なんですか?」


 奏は怪訝そうに尋ねた。


「それこそ私にも分からない。おゆらの仕掛けではないか?」

「……」

「理由はどうあれ、現実世界のお前が目覚めない限り、常盤の安否を確かめる術がない。加えてお前の成すべき事は、おゆらの目的を探る事だ。目的を見誤るな」

「僕の目的は、常盤を守る事です」


 奏が決然と言うと、獺は溜息を零す。


「そうだな。常盤を守る為にも、私の話を聞くべきだと思うぞ」

「……」


 文机を見下ろすと、二冊の書物が置いてある。先々代の本家当主の日記と『三好経世論』の写本。今回の問答に使う予定がないのか、秤と銅銭は消えていた。

 奏は大きく息を吐くと、円座の上に座り込む。


「麦湯を貰えますか? 少し気持ちを落ち着けたくて」

「私に頼まなくても、お前が望めば勝手に出てくるぞ」


 獺が指摘した時には、奏の眼前に湯呑が置かれていた。

 奏は麦湯で喉を潤した後、天井を見上げて黙考する。

 口惜しい事に、獺の言葉は当を得ている。

 夢の世界で狼狽えても、現状が改善されるわけではない。常盤の安否は、現実世界の奏に任せる。他に手立てはない。

 夢の世界の奏が成すべき事は、おゆらの目的を突き止める事。獺と問答を行うのも、これで最後という事も有り得る。強引にでも気持ちを切り替え、真実を追究しなければならない。


「落ち着いたか?」

「……はい」


 文机に湯呑を置いて、獺を正面から見据える。


「お前の想像通り、此度が最後の問答だ」

「鎌倉執権家の高転び。室町将軍家の高転び。最後は薙原家の高転びですね」


 日記の表紙をめくり、漢文で書かれた文章に視線を落とす。

 先々代の御本家は、自分以外の誰かが日記を読んだ時、内容を判読しづらくする為、わざわざ日記を漢文で書いていた。当時の薙原家では、漢文を書ける者も読める者も少なかったのだろう。


「先々代の御本家の日記は読んだか?」

「読みました。想像通りと言うか……想像以上に酷かったです」


 永禄四年の頁を開いて、日記の内容に想像を交えながら語る。


雅東がとう流初代宗家が本家に婿入りした時、外界から租税貨幣論が持ち込まれました。先々代の御本家は、雅東がとう流初代宗家の知恵を借りながら、薙原家と蛇孕神社の『銭』の遣り取りを改善します」

「それで?」


 獺は話を促す。


「然し銭の遣り取りの改善は、不完全な形で終わりました。薙原家が蛇孕神社に『短期証券』を渡す。蛇孕神社が薙原家に『神符』を渡す。薙原家が百姓に『神符』を配り、出挙の利子という名目で『神符』を回収する。これで精一杯。分家衆や女中衆に『神符』を配り、税として回収する事ができなかった」

「……」

「常盤が指摘した通りです。分家衆も女中衆も、本家から金や銀を授けられます。租税貨幣論を知る者に、税として回収されない護符を渡しても、神棚に飾るくらいしか使い道がありません。抑も『神符』を通貨と認めないでしょう。それなら外界でも使える金や銀を欲します」


 まあ、当然の帰結だな……と鷹揚に言うと、獺は話を促す。


「それで先々代の御本家が、銭の遣り取りを改善し損ねた理由は?」

「主な理由は三つ。抑も本家は、分家衆に対して徴税権を保持していません。薙原家は対等・平等・公平という理念を持つ宮座です。本家は分家から税を搾り取れるほど、強力な権力を持ち合わせていませんでした」

「二つ目は?」

「当たり前の話ですけど……『神符』で餌贄えにえは買えません。外界の人商人に『神符』を差し出しても、相手にされません。だから金や銀や銅銭という外貨を調達しなければならなかった。薙原家は主権通貨国ではないから、外貨準備を積み上げていかないと、財政破綻の危機を抱え続けます」

「三つ目は?」

「当時の蛇孕村の供給能力は、外界の村落と同程度です。供給能力という裏付けがなければ、『神符』も紙切れと変わりません。だから先々代の御本家は、蛇孕村の供給能力を高める為、外界の技師を拐かしています」


 奏は強い口調で断言した。


「日記の中では、『外界より技師を招いた』と書いていますが……妖怪の一族という事実を差し引いても、外貨不足に悩む当時の薙原家が、有能な技師を招聘できる筈がありません。外界から必要な人材を拐かし、悠木家の『毒蛾繚乱どくがりょうらん』で洗脳した挙句、蛇孕村の外に住まわせたのです」


 滔々と語りながら、漢文を指で追い掛ける。


「鍛治師、彫金師、木地師きじし塗師ぬし、石工師、番匠ばんしょう鋳物師いもじ杣師そまし大鋸師おおがし、麹造、酒造、鞍造、油造、蝋造、漆造、瓦造、茶造、調度造、皮革造ひかわづくり機織はたおり、蹈鞴、鉄砲鍛冶……他にも様々な技師を拐かしています。永禄五年には、窯と蹈鞴場の製造。永禄六年には、武具と私鋳銭しちゅうせんの製造。永禄七年には、綿花の生産や蚕の養殖。永禄八年には、火薬の製造。永禄九年には、鉄砲の製造に着手しています」

「さらりと火薬を製造しているが、おそらく本願寺と同じ遣り方だな。手間の掛かる事をする」


 火薬は、可燃物と酸素の供給源を混ぜた物だ。戦国期の日本の場合、木炭と硫黄を可燃物に使い、硝石を酸化剤(酸素の供給源)として用いていた。木炭は日本でも容易に自給可能で、硫黄も火山大国という性質ゆえに入手しやすい。然し硝石は、湿潤気候で牧畜生産に乏しい日本では、天然に産出してない為、対外貿易に依存していた。

 その中でも一部の勢力が、硝石に代わる酸化剤の製造に成功していた。本願寺教団や根来衆や雑賀衆は、よもぎの根に尿を掛けた物を一定の温度で保存する事により、蓬特有の球根細菌の働きで硝酸が生成される事を発見。馬の尿と蓬を用いて、大量に硝酸を生産したという。

 これらは織田信長も知らない軍事機密の筈だが……先々代の本家当主は、本願寺の坊官ぼうかんでも拐かしてきたのだろう。蓬は蛇孕村に自生している為、薙原家も黒色火薬を製造できる。


「それだけではありません。百姓の次男や三男を技師に弟子入りさせ、蛇孕村の外に複数の『職人集落』を形成しています。先々代の御本家の日記には、六つの『職人集落』が記されていました。それから三十年近く経ちますから……道理で蛇孕村の供給能力が高いわけです」


 奏は蛇孕村の人口を四百人前後と教えられてきた。本家に仕える下人や『難民集落』の住民を含めても、七百人を超える事はないと。然し餌贄えにえや『職人集落』を含めると、何千人に膨れ上がるか……奏にも想像がつかない。

 加えて蛇孕村は、百姓の家を継げない次男や三男を『職人集落』に送り、蛇孕村の住民を管理してきた。

 蛇孕村の多くの女性は、分家衆に召し抱えられる為、結果的に男性が余る。余り物の独身男性を『難民集落』に送り、蛇孕村の人口が増え過ぎないように調整してきたのだ。

 因みに『職人集落』を形成する前は、蛇孕村の住民に厳格な村掟を課し、子供の数を制限していた。つまり増え過ぎた子供は、両親が責任を以て殺め、その屍を蛇孕神社に捧げてきたのだ。

 現実世界の奏は、当時の醜悪な風習を想像し、気分が悪くなった。


「然し先々代の御本家は、途中から自分の政策に疑念を抱きます。複数の『職人集落』を形成し、蛇孕村の供給能力を高めても、薙原家の外貨不足は変わりません。外界から必要な資源を買い集める為、余計に外貨が足りなくなります。先々代の御本家は、日記の中で『仕事の量を増やすしかない』と書いていますが……所詮は仕物の請け負い。『薙原衆』の仕事を増やした処で高が知れてます」

「それで先々代の御本家は、外界から外貨や資源を盗み始めたと」

「日記には書かれていませんが……そう考えるべきです。仕物の請け負いや餌贄えにえの買いつけ。外界の技師の誘拐。加えて外貨や資源の強奪。先々代の御本家は、危ない橋を渡り過ぎです。北条氏に見逃されてきたのが、不思議で仕方がありません」

「北条氏は、薙原家に仕物の依頼をしていたからな。持ちつ持たれつというやつさ」

「それにも限度があると思いますけど」


 奏は麦湯を飲みながら、祖母の日記を閉じた。


「御先代や中老衆は、先々代の御本家や年寄衆の遣り方に行き詰まりを感じていたんでしょう。気持ちは分かりますけど……蛇孕村の供給能力を高める事より、外貨を稼ぐ事に執着し始めます」

「……」

「外界から難民を集めて、開墾事業と灌漑事業に着手。蛇孕村の作物を増産し、余剰米を戦国武将に貸し付け、債権の回収を超越者チートに頼り、唐物の商いを始め……灌漑事業と開墾事業を除けば、殆ど博打の連続。確かに外貨準備を積み上げましたけど、投機性が高すぎて……こんなの長続きする筈がありません」

「おゆらや年寄衆も同じ事を考えていただろうな」

「それで謀叛ですか……」


 奏は沈痛な面持ちで呟いた。


「偖も偖も……お前は鎌倉執権家や室町将軍家の失敗を知った。先々代の御本家や御先代の政道も理解した。それらを踏まえたうえで問おう。おゆらの目的はなんだ?」

「……経済政策の転換。先々代の政に回帰する事」


 暫く黙考した後、右手で口元を押さえて言う。


「結果論に過ぎませんが、御先代のお陰で外貨準備が格段に増えました。先々代の頃と比べても、蛇孕村の供給能力は高まり続けています。今なら外界との貿易を制限しても、即座に財政破綻という事はありません」

「……」

「外界から大量の資源を買いつけて、篠塚家に頼る必要もなくなります。初めから篠塚家は、おゆらさんの政敵です。篠塚家から権力を奪い取り、本家が対外貿易を主導する」

「米相場はどうする? おゆらは相当な量の米を買い込んでいるぞ」

「貿易を制限する前に、外貨準備を積み上げたいだけではないですか? 天下泰平となれば、妖怪と商いを行う者も少なくなります。その前に不安要素を減らしておきたいのかなと」

餌贄えにえは?」

「人身売買から手を引くと思います。用心深いおゆらさんが、外界と軋轢を生む商いを続ける理由がありません。おそらく外界から外貨で屍を調達するつもりでしょう。勿論、表沙汰にはできませんが、人身売買ほど恨みは買いません」

「……」

「後は分家衆に『神符』を配り、税として『神符』を回収。計画的な財政拡大を続け、蛇孕村の所得格差を縮小し、供給能力を高めていけば、技術革新が起こります。麻の着物が木綿の着物に代わるように……生産に必要な資源も代わり、蛇孕村から出ていく外貨を減らせます。これがおゆらさんの目的です」


 奏が語り終えると、獺は冷たい視線を投げ掛けた。


「それはおゆらの目的ではない。お前の幼稚な妄想だ」

「――」

「お前の知るおゆらは、そんなに甘い女か? 薙原家の外貨準備を減らさない為に、謀叛のどさくさに紛れて、同胞はらからの三分の一を粛清した女だぞ」

「――」

「抑もお前の話は、問題の先送りに過ぎない。お前が望む政策を実行しても、結果が出るまで何十年も掛かる。それまで外界が、蛇孕村の事情を汲んでくれるか?」

「――」

「乱世に戻らない限り、外界も経済成長を続けるだろう。蛇孕村と外界では、潜在的需要に差が有り過ぎる。数十年後には、蛇孕村など廃村も同然。外界からすれば、商いをする価値すらなくなる」

「――」

「挙句の果てに、『外界から外貨で屍を調達する』だと? 悪魔崇拝者の如き戯言を……外界の者達が、真っ当な手段で屍を集めると思うか? お前の幼稚な発想が、数多の犠牲を生み出すと想像もできんのか? 外界の貧しい者達に殺し合う理由を与えて、『人身売買ほど恨みは買いません』? 私に――自分に言い訳が通用すると思うな」

「――」


 突き刺さる。

 獺の言葉が――自分の言葉が、自分の胸に突き刺さる。

 奏は目に涙を溜めて、獺の視線から逃れるように俯いた。


「所詮は子供の浅知恵か。屍を喰らう妖怪の一族など滅んで当然。それが外界の者達の認識だ。マリアとおゆらが天寿を全うすれば、薙原家など根絶やしにされよう。超越者チートという軍事的優位を失えば、蛇孕村は現世うつしよから消え失せるだけだ。それがおゆらの目的だと思うか?」

「……昔と変わらない」


 奏は軽く涙を拭うと、穏やかに微笑んで顔を上げた。


「やっぱり先生は先生です。僕が作り出した虚像だけど……僕の過ちを正してくれる」

「それが大人の役目だ」

「僕も先生のような大人になりたいです。降参します。お手上げです。僕には、おゆらさんの目的が分かりません。答えを教えてください」


 奏は両手を挙げて、獺に教えを請うた。


「私もお前自身なのだが……まあ、よかろう。おゆらの目的は、蛇孕村を主権通貨国に変える事だ」

「無理です」


 突然、奏は冷たい声で言い切った。


「何故、無理だと言い切れる?」

「主権通貨国の条件は四つ。①変動為替相場制である事。②独自通貨を発行している事。③自国通貨建て国債しか発行してない事。④国内の供給能力が高い事。長い時間を掛ければ、②と③と④は実現できます。でも①は無理です」

「……」

「変動為替相場制を実現しようにも、蛇孕村と外界で為替取引はできません。『神符』と外貨(金や銀や兌換紙幣)の取引なんて実現しません。変動為替相場制とか固定相場制とか、それ以前の問題です」

「……」

「仮に①を実現したいなら、蛇孕村を日ノ本から独立させて、外界に対等な貿易相手と知らしめる必要があります。然し日ノ本からの独立は、多くの戦国大名が望んで失敗した事です」

「織田信長や豊臣秀吉は成功したぞ」

「彼らは日ノ本から独立したわけではありません。室町将軍家という『小さな政府』を打ち倒し、織田政権や豊臣政権という『大きな政府』を創り上げたんです。勿論、関ヶ原合戦の後も豊臣政権は健在です。内府の下克上が成功するかどうか分かりませんけど、薙原家に豊臣政権と戦う力はありません」

「……」

「おゆらさんは超越者チートに頼らない。超越者チートから見返りを求めない。マリア姉を戦力に含めない時点で、蛇孕村の独立なんて夢物語です」


 奏は強い口調で断言した。


「確かにな。妖怪の創る国家が日ノ本から独立し、あまつさえ日ノ本は言うに及ばず、諸外国から対等な貿易相手と認められるなど、愚かな夢物語と断ずる他ない。然し何故、薙原家が豊臣政権と戦わなければならない?」

「え? だって――」


 問いの意味が理解できず、奏は言葉に詰まった。


「お前は前提から間違えている。おゆらの目的は、蛇孕村を主権通貨国に変える事だ。豊臣政権に戦いを挑む事ではない」

「ならどうすると?」

「『毒蛾繚乱どくがりょうらん』を使う」

「――」

「お前も知る通り、悠木家の使徒に伝わる妖術。毒蛾の鱗粉を使用し、人間の記憶を書き換え、己の意のままに動かす。普段は毒蛾の群れを使役し、素速く毒蛾の鱗粉を対手に吸い込ませるが……時間を掛けて構わないなら、毒蛾の群れを使役する必要もない。汁物か麦湯にでも混ぜておけば、簡単に他人の精神を操作できる」

「――」

「『毒蛾繚乱どくがりょうらん』の恐ろしい処は、おゆらに精神を操作されているかどうか、誰にも分からないという事だ。毒蛾の鱗粉を僅かでも摂取すれば、もはや抗う手立てはない。人間である限り、おゆらの傀儡に造り変えられる」

「――」


 奏は青褪あおざた顔で麦湯を見下ろす。

 自分が夢の世界で作り出した為、目の前の麦湯を飲んでも、おゆらの傀儡に成り下がる事はない。然し現実世界で飲み物や食べ物に毒蛾の鱗粉を混入されたら……奏は何も分からずに、おゆらの傀儡に成り下がる。


「念の為に言うが、毒味役を用意しても意味がないぞ。毒味役の精神を操作するかどうかも、おゆらの存念次第。『毒蛾繚乱どくがりょうらん』が発動する条件を設定し、『毒蛾繚乱どくがりょうらん』が効果を発揮する時まで、のんびりと待ち続ける」

「――」

「実際、おゆらは各所に間者を放ち、現場の情報を集めている。本家の女中衆や蛇孕神社の巫女衆、分家の女中衆や蛇孕村の百姓。外界で篠塚家に召し抱えられた奉公人。『職人集落』や『難民集落』の一部を洗脳し、蛇孕村を畏怖で統治している」


 奏は恐怖を覚えて、ごくりと唾を飲み込んだ。


「おゆらさんから『疑心を招くから、本家女中衆に妖術は使わない』と聞いていたんですが……」

「お前はおゆらの騙りを真に受けていたのか? 用心深いおゆらが、本家女中衆を信用する筈があるまい。数名の女中を『毒蛾繚乱どくがりょうらん』で洗脳し、常に本家女中衆の動向を把握している」

「――」

「誰がおゆらの間者なのか、本家女中衆も特定できないからな。抑も間者の存在に気づかなければ、疑心暗鬼に陥る事もない。偽装と謀略を好み、柔和な笑顔で周囲を欺き、何の躊躇もなく他人を蹴落とす。いつものおゆらの遣り口だ」

「――」


 獺の言葉を否定できず、奏は口元に手を当てて押し黙る。


「知らず知らずのうちに、薙原家や蛇孕村に関わる者達を洗脳するように……外界の者達も洗脳していく」

「外界の者達?」

「八王子の商人に、毒蛾の鱗粉入りの飲み物を飲ませて洗脳。洗脳された商人は、陣屋の門番や奉公人に近づき、毒蛾の鱗粉入りの食べ物を食わせて洗脳。洗脳された奉公人は、重臣の中食ちゅうじきに毒蛾の鱗粉を混ぜて洗脳。すでに大久保おおくぼ藤十郎とうじゅうろうも洗脳されているのではないか?」

「そんな……」

「八王子だけではない。鉢形はちがた城もおし城も岩付いわつき城も浅草寺せんそうじ品川宿しながわしゅくも……江戸城も抑えられている筈だ。薙原家の謀叛から二年も経過している。武蔵国の重要人物や重要拠点を支配下に置くまで、十分なほどの時間があった」

「……」


 獺の話に気圧されて、奏は呆然と聞き入る他ない。


「江戸中納言を洗脳できれば、おゆらの目的は達成されたも同然。『毒蛾繚乱どくがりょうらん』で操作された江戸中納言は、『武州の独立』や『関ヶ原合戦の国替えに対する不満』を訴え、伏見城の内府に謀叛を起こす。武州の旗本は、江戸中納言に同調するだろう。何せおゆらに操作されているからな。武州が独立すれば――」

「いやいや! 無理です無理! そんな簡単に独立できませんよ!」


 ぶんぶんと右手を振り、獺の解説を遮った。


しんば、先生の言う通りに事が運んだとしても、奥羽おうう常陸ひたち安房あわ越後えちごを除く東国は、全て徳川家の所領です! それに越前には、結城ゆうき少将しょうしょう! 近江おうみ佐和山さわやまには、井伊いい侍従じじゅう! 伊勢いせ桑名くわなには、本多ほんだ中務大輔なかつかさのだいゆう! 畿内から内府や本多ほんだ佐渡守さどのかみも大軍を率いてきます! 内府は御家争いを鎮める為に、嫡男と正室を自害に追いやった男です! 三男が謀叛を起こしても、躊躇なく攻め滅ぼします!」

「そうだな。然しおゆらには、勝算がある」

「……?」


 奏が怪訝そうに眉根を寄せた。


「徳川家の御家争いだから、諸大名の助力は得られない。謀叛を鎮圧した後、論功行賞で徳川家の所領を分配しなければならなくなる。次に『毒蛾繚乱どくがりょうらん』を使う使徒は、武州の山奥に籠もりきり。眷属の毒蛾を各地に飛ばし、徳川家の武将を洗脳。譜代の家臣が同士討ちを始めれば、徳川家は疑心暗鬼に陥る。内府が関東に到着するまで、組織的な行動が取れなくなるだろう。加えて内府が関東に下向すれば……黒田如水が動き出す」

「……」

「乱世の再来を望む黒田如水や内府に反感を抱く諸大名は、お前より江戸中納言の方が乗りやすい。本当に秀吉の御落胤かどうか分からないお前と徳川家の嫡男。神輿として担ぐなら、どう考えても後者だろう」

「……」

「内府が謀叛の鎮圧に手間取れば、諸大名は徳川家の御家争いに介入してくる。己の領土を拡大する為に、二つの勢力に分かれて、延々と合戦に明け暮れるだろう」

「豊臣家は?」

「暫くは様子見だろうな。東国の情勢を窺い、不利な方を朝敵に仕立て上げる。内府が勝とうが、江戸中納言が勝とうが、どちらにしても徳川家の弱体化は避けられない。黒田如水の思う壺だ」

「黒田如水がおゆらさんと通じていると?」

「それはあるまい。然し謀略を好む者同士、文の遣り取りなどしなくても、互いに腹の内は探り合えよう。日ノ本を棋盤に見立てて、二人で将棋を指しているわけだ」

「馬鹿げた事を……」


 奏は神妙な面持ちで、おゆらと如水の思惑を痛罵した。


「まさしく馬鹿げた事だが……武州の独立は、薙原家に様々な恩恵を齎す。第一にお前を危険に晒す心配がない。黒田如水の謀略に乗れば、お前の存在を天下万民に知らしめてしまう。然し江戸中納言が独立すれば、お前や薙原家は矢面に立たなくて済む。蛇孕村に引き篭もり、外界の争乱が収まるのを待てばいい」

「おゆらさんが大量に米を買い占めたのは、蛇孕村に引き籠もる為?」

「外貨準備を取り崩したくないというのもあるが……単純に食料の備蓄を増やす為だ。第二に為替取引を実現する。蛇孕村と武州が、変動為替相場制で『神符』と外貨の取引を行う。これで外界から餌贄えにえを調達しても、外貨準備を取り崩さなくて済む」

「外界から『神符』で餌贄えにえを買い集められる……」

「そういう事だ」


 獺は、奏の理解を肯定した。


「第三に……別に謀叛が鎮圧されても構わないのだ。誰が武州を制圧しても、おゆらは同じ事を繰り返す。何度も何度も武州は独立し、何度も何度も鎮圧される。斯様な状況が何年も続けば、六十余州に『神符』が広まるだろう。銅銭が通貨として普及したように――諸国と為替取引ができれば、薙原家は高転びを避けられる」

「……」


 獺が断言すると、奏は苦しそうに俯いた。


「ヒトデ婆や年寄衆は、この事を知らないんですか?」

「知らないだろうな。仮におゆらから報されていたとしても、薙原家の悲願が叶うと喜ぶだけだぞ」

「ですよね……」


 現実から目を背けるように、奏は頭を抱え込んだ。


「武蔵国を経済封鎖するとか……」

「蛇孕村然り武蔵国然り。すでに合戦や生活に必要な資源を揃えている。何十年も経済封鎖を続ければ効果も出るが……黒田如水や諸大名が見逃してくれると思うか? 時が経てば経つほど、おゆらの目論見通りとなる」

「……少し考える時間をください」


 絶望感に押し潰されそうになりながらも、懸命に思考を整理する。

 元々先代の本家当主の頃から、薙原家の経済収支は黒字だった。先代の本家当主が外貨建て債権を積み上げた為、何もしなくても外貨が手に入る。餌贄えにえや資源の調達に外貨準備を取り崩しても余裕があるくらいで、唐物の商いに手を出していた。

 それをおゆらは抜本的に変えるという。

 強引に武蔵国を独立させ、一先ず対外貿易を武蔵国に制限。変動為替相場制を導入し、主権通貨国を目指す。貿易を武蔵国に限定する為、必然的に篠塚家は衰退する。同時に薙原家は、外貨建て債権の大部分も捨て去らなければならない。

 然しおゆらの想定通りに事が運べば、薙原家が外貨不足で苦しむ事はない。蛇孕村と武蔵国で為替取引が成立するからだ。おゆらに洗脳された徳川秀忠が、武蔵国を独立させる為に、蛇孕村から大量の武具を購入する。鉄砲や鉛玉や黒色火薬。弓や槍や刀。甲冑から馬の鞍に至るまで、おゆらの言い値で買い続ける。勿論、秀忠は代金を外貨(金や銀)で支払うが、蛇孕村で外貨は使えない。蛇孕村の通貨は『神符』だ。薙原家は外貨準備を積み上げつつ、不要な外貨を『神符』と両替する。変動為替相場制の為、薙原家が大量に外貨の両替を行うと、武蔵国に強烈な通貨安の圧力が掛かる。簡単に言えば、武蔵国から金や銀が消えていく。金や銀が足りなくなれば、『別の銭』に頼るしかない。武蔵国が『神符』建て国債を発行し、通貨安の圧力から逃れる。これも簡単に言えば、薙原家から『神符』を大量に借りて、貿易赤字分の金や銀を買い戻す。『神符』建て国債は、全て薙原家が引き受ける為――薙原家の他に『神符』を発行できる国家や組織が存在しない為、薙原家の外貨建て債権が積み上げられていく。薙原家は財政破綻の可能性を消し去り、武蔵国を傀儡国家に仕立て上げる。

 勿論、徳川家康も馬鹿ではないので、薙原家の仕業だと気づくだろう。薙原家の排除に全力を注ぐだろうが……蛇孕村は武蔵国の山奥にある。大軍を率いた秀忠は、命懸けで蛇孕村を守る。仮に武蔵国の軍隊が全滅しても、おゆらが『毒蛾繚乱どくがりょうらん』で鎮圧軍を洗脳すれば終わり。後は延々と同じ事を繰り返すだけだ。

 加えて時間が経てば経つほど、薙原家の外貨準備は積み上げられていく。諸大名が武蔵国の独立に介入して、各々が勝手に領土を広げようとするからだ。

 合戦が長引けば、必要な軍資金も増えていく。然し金や銀や銅銭を無限に増やす事はできない。豊臣政権が発行する兌換紙幣も、他の通貨と兌換される為、不換紙幣に変えない限り、いつかは足りなくなる。然し薙原家が発行する『神符』は、武蔵国が独立する前から不換紙幣だ。武蔵国(蛇孕村)の供給能力(物価上昇率)を大幅に超えない限り、好きなだけ『神符』を発行できる。軍資金不足の諸大名が『神符』を求めれば、『神符』建て国債を発行するだろう。抑も薙原家から『神符』を借りるしかない。武蔵国と同様、薙原家の傀儡国家が続々と増えていく。奇しくも予言の文言通りだ。薙原家は永劫の栄えをむかへむ。

 おゆらは超越者チートを頼らない。

 己の力で蛇孕村を主権通貨国に――『蛇の王国』を建国するつもりだ。

 おゆらが見返りを求めているのも、超越者チートからではない。マリアの許婚に見返りを求めているのだ。師府シフの王とマリアの子孫が『薙原家』という政府を継承し、計画的に負債を増やしていけば、永続的な経済成長が見込める。『神の血を混ぜよ』とか『真のさま取り戻し』など判然としない部分も多いが、おゆらの力でアンラの予言を成就できる。

 然しおゆらの企みを防ぐ手立てが思いつかない。

 碁や将棋で例えるなら、完全に詰んでいる。

 この状況から、如何に挽回せよというのか?

 おゆらを甘く見ていたつもりはないが――

 奏の想像を遙かに超える怪物だった。


「僕はどうすれば……?」


 恐怖で震える身体を両腕で抱き締めて、掠れた声で尋ねた。


「マリアを頼れ」

「――はあッ!?」


 予想外の答えに、奏は頓狂な声を発した。


「現実世界の私なら絶対に言わない言葉だが……私は、お前の夢が作り出した虚像だ。現実世界の符条巴の思惑など知らん」

「……」

「加えてお前とおゆらでは、頭の出来が違う。初めから勝負になるわけがないのだ。ならば、素直にマリアを頼るべきだろう」

「それでいいんですか?」

「他に方法がない。マリアに頼めば、おゆらの妖術を封印してくれるだろう。おゆらに洗脳された武州の民も魔法でなんとかしてくれるのではないか?」


 奏が拍子抜けした様子で尋ねると、獺は真面目な調子で答えた。


「なんて言うか……釈然としないんですけど」

「おゆらの目的を知らなければ、おゆらの暴走を止める事はできない。鎌倉執権家の高転びを知り、足利将軍家の高転びを知り、薙原家の高転びを知り……おゆらの目的を突き止めなければ、マリアに助けを求めても、中途半端な結果に終わるだろう。お前が理由も分からずに『おゆらの妖術を封印してくれ』と頼んでも、おゆらは別の方法で目的を叶えるだけだ。おゆらは超越者チートの傀儡ではないからな。現実世界のお前は、マリアにおゆらの目的を説明し、マリアを味方に引き入れ、二人でおゆらの野望を阻止しなければならない」


 獺の話を聞く奏は、疲れ果てた顔で相手を見遣る。


「絶望と希望の落差が激しくて……気持ちの整理ができません」

「気持ちは分かる。私もお前だからな。然しお前は、肝心な事を忘れている」

「……?」

「夢の世界で知り得た情報は、現実世界のお前と共有できない」

「そうだ! 夢の世界の出来事は、目が覚めると忘れるんだ!」


 衝撃の事実を思い出し、奏は再び頭を抱えた。


「結局、どうにもならないのか……」

「『みのたなのうえからさんだんめ』のような例もある。夢の世界のお前が、懸命に記憶の保持を試みれば……多少は現実世界のお前にも、記憶は引き継がれるのではないか?」

「マリア姉に頼むマリア姉に頼むマリア姉に頼むマリア姉に頼む……」


 獺の戯言を真に受けた奏が、両手を合わせて称名しょうみょうの如く唱える。


「そろそろ現実世界のお前も目を覚ますな」

「おゆらさんの妖術を封印する! 武州の民を洗脳から解き放つ! おゆらさんの企みをマリア姉に説明する! ええと、それから――」

「必死な処、申し訳ないが……マリアの魔法を使えば、夢の内容も思い出せるぞ」

「最初からそう言ってください!」


 夢の世界の奏が怒鳴ると、現実世界の奏が目を覚ました。




 永禄四年……西暦一五六一年


 外貨準備……中公銀行、或いは中央政府など、金融当局が保有する外貨


 鍛冶師……様々な道具を用いて、金属を意図する形状にする技術者


 彫金師……様々な道具を用いて掘り、意図する形状にしたり、表面に模様・図案・文字などを入れる技術者


 木地師……轆轤ろくろを用いて椀や盆などの木工品を加工、製造する技術者


 塗師……漆細工や漆器の製造に従事する技術者


 番匠……中世日本に於いて木造建築に関する建築工の事。木工もくとも呼ばれ、大工の前身にあたる。


 鋳物師……鋳物(鋳型)を造る技術者


 杣師……木こり


 大鋸師……杣師が伐採した樹木を大型の鋸で木材に変える技術者


 永禄五年……西暦一五六二年


 永禄六年……西暦一五六三年


 永禄七年……西暦一五六四年


 永禄八年……西暦一五六五年


 永禄九年……西暦一五六六年


 坊官……春宮坊とうぐうぼうの職員の総称。門跡家などに仕え、事務を行う在俗の僧。剃髪して法衣を着るが、肉食妻帯と帯刀が許された。


 内府……徳川家康


 潜在的需要……総需要


 間者……内通者


 中食……昼食


 大久保藤十郎……大久保長安。八王子を領する徳川家の旗本。徳川家の直轄領を管理する代官頭。


 江戸中納言……徳川秀忠


 奥羽……陸奥国と出羽国


 結城少将……結城秀康


 井伊侍従……井伊直政


 本多中務大輔……本多忠勝


 経常収支……国際収支の内、経常取引で生じる受け払いの関係を示す勘定の収支。貿易収支・貿易外収支・移転収支からなる。


 称名……仏や菩薩の名を称える事。阿弥陀仏の名号である「南無阿弥陀仏」を称える事。要するに念仏を唱える事。

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