第69話 館

 未だに小雨が降り続いているが、もうすぐ止みそうな気配である。

 天を覆う暗雲は蛇孕村から遠ざかりつつあり、中天を見上げれば太陽が、朧の眼にも鮮明に映る。

 渓流植物が生い茂る森を抜け、朧は隷蟻山の麓に入る。

 雨足が弱まり始めた途端、鴉の群れが喧しく喚き出し、頻繁に樹木の間を飛び交うが、地上を動く影は朧だけ。

 他にあるのは、難民の屍くらいだ。

 十体近く放置されているが、殺され方は皆同じ。手甲鉤で胴体や頭部を抉り取られ、惨い死に様を晒している。当然の如くお瑠麗るりの仕業であろう。

 暫く山道を登り続けると、終着地点に到着した。

 先代当主が一泊する為だけに建てられた館。金遣いの荒い先代当主らしく、瓦屋根の大規模な建物だ。寺社仏閣の如く高い塀を巡らせ、外部から館の様子が見えないように造られている。

 大手の門扉は開いていた。

 特に警戒する事もなく、無造作に邸内へ入ると、館の外観に驚かされた。

 正門から主殿まで続く石畳。馬手を向くと、屋根と滑車がついた井戸。弓手に視線を向けると、馬を繋ぐ為のうまやがあった。

 前回の視察で馬を使用した記録はない。記録はないが、館を建てる時に駄馬を使用したのだろう。下流の浅瀬から荷駄を運び、何ヶ月も掛けて隷蟻山に豪邸を建てたのだ。

 まさしく金持ちの道楽である。

 石畳で舗装された道を通り、金銀で装飾された主殿の前に立つ。

 装飾品の一つでも盗んで売れば、難民も潤うたであろうに……と心の中で呟くが、買い手がいないのだから、金も銀も路傍の石と変わらない。

 大刀の感触を確かめながら、朧は主殿の階段を登る。

 正門と異なり、主殿の扉は閉じていた。用心の為と言うより、これも対手の罠と考えるべきだろう。無論、朧に迷うという選択肢はない。

 どがんッ――と扉を蹴り飛ばすと、朧の視界に室内の光景が飛び込んでくる筈が、美貌に向けて細い棒が飛んできた。

 短い矢だ。

 対手の行動を読んでいたので、両腕を美貌の前にかざす。予想通り、矢が左腕に刺さる。腕の筋肉で矢が止まり、骨も腱も傷つける事はなかった。


「あれ? 読まれてたの? こいつは驚いたア」


 左腕の手甲鉤を前方に向けながら、お瑠麗るりが飄々と嘯いた。

 一先ずお瑠麗るりを無視して室内全体を見回す。

 主殿の広さは、三十二畳ほどであろうか。床は畳を敷いている。天井に梁があるが、障害物になるような物はない。一面の畳を除けば、極めて簡素な造り。否、襖を取り除いた結果、茶室と道場を折衷したような場所になったのだ。よく見れば、部屋の隅に鍋や桶が放置されており、中途半端な生活感を出していた。最近まで難民が暮らしていた証だ。

 先代当主が他界した後、住処を館に移したのか。

 賢い選択だと思うが、薙原家が見逃す理由が分からない。これも叛乱を誘発させる為の下準備であろうか。

 勿論、朧は薙原家の思惑に興味はない。

 寧ろ気に障るのは――

 傲然と煙管を楽しみながら、邪悪な笑みを浮かべる年増女中だ。


「つーか、此処に着くまで時間掛けすぎだろ。あンまり退屈だから、思わず一人古今東西始める処だったぜ」


 イエーッ、と紫煙を吐き出しながら、お瑠麗るりは陽気に騒ぐ。

 だが、朧の様子に気がつくと、途端に目を細めた。


「随分とノリがわりいと思ったら、すでに死に掛けてンじゃねえか。火事場から焼き出された遊女みてえになってンぞ。特に脇腹の傷……致命傷だなア。こりゃあルーリーが手を下さなくても、明日の朝日は拝めそうもねえわ」


 傲岸な態度を貫こうと、薙原家に召し抱えられる前から荒事の専門家。一目見ただけで、朧の負傷や肉体的負担を把握する。


「やっぱりルーリーの他にも、刺客を揃えてたのか。まあ、楽して勝つに越した事はねえし。ここは美味しい処だけ頂きますか」


 右手で煙管を口元から離し、左手の手甲鉤を弓手に向けて、余裕の表情で言い放つ。

 左手の袖口から発射された短い矢は、中二病の武芸者――ではなく、壁に貼り付いていた難民の女に突き刺さる。左胸を短い矢で射貫かれて、難民の女が激痛で呻いた。

 合計で五本の矢が体中に突き刺さり、見るも無惨な有様だが、女は決して逃げようとしない。その場から一歩も動こうとしないのだ。

 その理由は、朧にも察しがついた。

 お瑠麗るりの足下に、女童を這い蹲らせている。俯せに倒れた女童の首に、お瑠麗るりが右足を乗せているのだ。難民の女は母親で、娘を人質に取られているのだろう。

 しかも女童の顔に見覚えがある。

 乱戦の最中に、朧を竹槍で刺した女童だ。

 母親と共に館まで逃げてきたのだろうか。

 いくつかの疑問が、朧の脳裏に過ぎる。


「何をしておる?」


 朧は硬質な声で尋ねた。


「暗器の練習」


 強烈な怒気を受け流し、お瑠麗るりは飄々と答えた。


「もうバレてると思うけどさア。ルーリーは元々透波なンだよ。无巫女アンラみこ様に認められて、本家の女中衆になったンだけどよぉ。社会に出ると偏見っつーか、出自で判断される場合が多いよなア。中二病の頃なら気にも留めねえが、未練なく卒業した手前、ルーリーも世間体を考えなきゃならねえ」


 難民の女に向けた左袖の中から、羽根のない矢が飛び出す。

 やはり女は逃げない。

 矢が右目を貫き、女の絶叫が室内に響いた。


袖箭しゅうせん……」


 朧は忌々しそうに呟く。

 袖箭とは、明国から伝えられた暗器の一種だ。七寸から一尺の筒にバネを仕込み、その力で短い矢を撃ち出す。袖の中に隠して目標を仕留められる為、暗殺に最適な暗器と言える。一発だけ矢を放つ短筒袖箭たんづつしゅうせんの他に、連発可能な袖箭も存在する。二発の双筒袖箭そうづつしゅうせん、三発の三才袖箭さんさいしゅうせん、四発の四象袖箭ししょうしゅうせん、六発の梅花袖箭ばいかしゅうせん、七発の七星袖箭しちせいしゅうせん、九発の九宮袖箭くぐうしゅうせんである。

 連発可能な飛び道具を持つ手甲鉤の使い手。

 剣士からすれば、厄介極まりない。

 朧の胸中を頓着せず、お瑠麗るりは長話を続ける。


「で――ルーリーは、昔から暗器が苦手なンだよ。別に暗器に拘る理由もねえンだけどよぉおおおお。透波と言えば、暗器が使えて当たり前みたいに思われてンだろ? だから暇潰しを兼ねて、暗器の練習をしてたのさ。生きた人間を的にした方が、練習の意欲も高まる。朧さんもそう思うだろう?」


 お瑠麗るりは得意げに語りながら、右脚に力を込めた。

 女童が苦痛の声を発する。


「見ての通り、この餓鬼は人質だ。母の愛は偉大だねえ。餓鬼を殺されたくなければ、死ぬまで的になれって命じたら、ホントに動きやしねえ。お陰で袖箭の練習が捗る捗る」


 うけけけけ、とお瑠麗るりが不気味な笑声を発した。

 朧は激情を胸の内に押し込み、努めて冷静な声音で尋ねた。


「お主に訊きたい事がある」

「答える義理はねえ――と言いたい処だが、あと半日もしたら死ぬンだろ。冥土の土産に教えてやンよ」

「何故、この館に難民が戻り来る?」

「……は?」

「此度の叛乱は、どうにも気味が悪い。吊り橋の前で斬り斃した難民は、間違いなく死兵の集まり。玉砕覚悟の兵ばかりであった。女童のような例外もいたが……少なくとも視察団を襲撃した折は、皆命を捨てて挑んできた。それがこの館に辿り着くまでに、難民の屍を十も見掛けたぞ。平易に考えれば、命惜しさに逃散していたであろう。命を捨てる覚悟を決めても、実戦に身を投じれば、決死の覚悟など吹き飛ぶ。大凡おおよその者ならば、我先にと逃げ出す。ゆえに違和感もない……否、違和感が無さ過ぎると申すべきか。雌狗プッタの妖術で操作しておるのは分かるが、何故斯様な手間を掛ける?」

「あー、それは同感だねええええ。こンな面倒臭せえ騒ぎを起こさなくても、難民を全て木偶人形に変えちまえば、全滅するまで殺し合わせて終わるのによ。それだと後始末が大変なンだと。ルーリーも詳しくは知らねえし、おゆらさんの悪巧みに興味もねえけど、なンでも『死ぬ気で視察団を襲う難民』や『途中で逃げ出す難民』、後は『混乱に乗じて民家を襲う難民』つーのも用意されてたみたいだなア。他にも色々と精神操作を施された奴もいるみてえだが、この親子は『途中で逃げ出す難民』に選ばれたってわけだ」


 お瑠麗るりが興味なさそうに、ぷはーっと紫煙を吐き出す。


「ホント、おゆらさんはえげつねえよ。完全に意識を奪わず、記憶の改竄と精神操作だけで事を運ぶ。この親子も視察団を襲うまで、本気で玉砕するつもりだったンだぜ。だが、一方的に味方が殺される最中、強制的に『毒蛾繚乱どくがりょうらん』を解除されちまった。心が折れた母親は、慌てて娘を連れて吊り橋を渡り、脱兎の如く逃げ出したのはいいが……難民が逃げ込む場所なンて、この館か洞穴くらいしかねえからなア。全てはおゆらさんの筋書き通りってわけだ」


 朧の疑問が氷解していく。

 おゆらは難民一人一人に役割を与えて、『叛乱らしい叛乱』を演出しているのだ。死に物狂いで戦う難民。情勢を不利と見て逃げ惑う難民。叛乱の混乱に便乗して民家を襲う難民。『毒蛾繚乱どくがりょうらん』で難民を将棋の駒の如く操り、蛇孕村の住民に薙原家の関与を疑われないように、完璧な演出を目指している。館に辿り着くまでに見掛けた屍は、叛乱の途中で逃げ出した難民の末路か。

 奏の件を除けば、おゆらの目論見通りに進んでいる。

 本当に性根の腐り果てた女だ。

 必ず斬り殺す――と獰猛な殺意を再確認した処で、今は現実に目を向けなければならない。


「いい加減に、その足をどけよ」


 俯せの女童が顔を上げた。

 女童の顔には、期待と疑念が入り交じり、朧に複雑な視線を向ける。竹槍で突き刺した相手に助けを求めてもよいのか、女童は逡巡しているのだ。


「女童……儂に助けてほしいか?」

「……はい」


 長考の後、女童は小さな声で答えた。


「母親も救うてほしいか?」

「はい!」


 今度は大きな声で答えた。

 女童にも自分の意思がある。妖術で操られるだけの木偶人形ではない。生き地獄からの生還を期待し、無垢な瞳を喜色で輝かせる。

 朧は相好を崩すが、お瑠麗るりの表情は曇るばかりだ。


「この状況で餓鬼と母親を助けようと思ってンのか?」

「カカカカッ、儂は現役の中二病ゆえ、最も困難な道を選びたいのじゃ」

「ふ~ん。あっそ」


 お瑠麗るりは鷹揚に答えながら、女童の頸椎を踏み潰した。


「――ッ!?」


 朧は瞠目するが、時すでに遅し。

 幼い命は儚くも散り、お瑠麗るりの足下に屍が転がる。


わりわりい、なンかムカついたンでっちまった」


 全く悪びれた様子もなく、嘲笑しながら両腕を広げた。


「お主……ッ!」


 朧が低い声を震わせる。


「えッ――何? キレてンの? 難民の餓鬼が一匹死んだくれえで、マジになっちゃたわけ?」


 嘲ると言うより、拍子抜けした様子で、お瑠麗るりは大仰に肩を竦めた。


「お~いおいおいおい! 勘弁してくれよ、朧さアアアアん! アンタはルーリーと同じ外道だろ! これまでに何百人も殺してきた極悪人じゃねえか! さっきだって楽しそうに穴居人共を殴り殺してたしよぉおおおお! それが突然、子供の命を尊ぶ偽善者に早変わりかよ! 冷めるわアアアア、そういう態度メッチャ冷めるわアアアア!」


 露骨な挑発を聞き流し、朧は黙して佇んでいた。

 精神的な優位を確信したお瑠麗るりは、執拗に朧を罵倒する。


「結局、それが中二病の限界だ! 理屈にならねえ妄言を吐き散らし、世の流れに逆らう自分を慰めるだけ! 現実社会に適応できねえ引き篭もりの戯言! 学もなければ、礼法も知らねえ! 毎日、漫画マンガ読ンで板芝居アニメ視て遊戯箱ゲームしてよぉおおおお! 挙句の果てに、くだらない創作活動とか始めンだよ! キモいキモい、マジキモい! まさしく社会のゴミじゃねえか!」


 お瑠麗るりの暴言は止まらない。

 言い掛かりも甚だしいが、朧は無言を貫き通す。


「ほら、アレだ。アレをしてこい。一昔前に流行したヤツ。馬にかれて死ンでこい。異世界に転生したら、不浄豚キモオタの引き篭もりでも魔法の才能に目覚めるンだろ? 万民から神童と称えられたりするンだろ? 急に正室ヒロインが『主人公君は格好良いから。当然、私以外の女の子とも結婚するよね』とか言い出して、主人公が重婚繰り返すンだろう。そのうえ、『主人公より強い敵も出てきます』とか『異世界だから』とか、信者にしか通じない言い訳並べて板芝居アニメで爆死するンだろ? うけけけけっ! 誰に弁解してンのか知らねえけど安心しろ! 誰もテメエになんか興味ねえよ!」

「……」

「つーわけだから、朧さんよ。早速馬に轢かれて死ンでくれや。運良く異世界に転生できれば、朧さんでも上級国民になれるぜえ。別に転生できなくても、口減らしにはなるからよぉおおおお。世の中の為にも死ンで――」

「うわああああ!」


 娘を殺された女が狂乱し、喚きながら跳び掛かる。


「だアアアアかアアアアらアアアア! なんで話の途中で割り込ンでくンだよ!」


 お瑠麗るりは煙管を投げ捨てると、血塗れの女を軽く躱し、右腕の内側を腹部に叩き込む。

 漫画マンガでよく見える豪腕斧ラリアット――と思われたが、朧は考えを改めた。小柄な体躯に細い腕。交差気味に上腕を叩きつけた処で、威力など殆どあるまい。何か仕掛けがあると注視していたら、女がごふりと血を吐いた。よく見えると、右上腕の内側から刃物が飛び出していた。これも暗器の類だろうか。さらに左上腕の内側からも刃物が飛び出し、女の背中を打ちつける。鋸の如き刃で女の身体を固定した後、お瑠麗るりは右腕を引いた。


「ぱにゅうううう」


 気の抜けた悲鳴を上げて、女は駒の如く回転する。力尽きて畳に跪いた刹那、銀色の光が水平に走り、女の首が転げ落ちた。

 いつの間にか、左右の上腕部の外側に鎌のような刃を備えていた。

 一体、この女はいくつの暗器を所持しているのか。


「甲斐の山猿は、みんな他人の話に割り込んでくる礼儀知らずなのか! それとも武田信玄が死ぬ前に『他人の台詞は、最後まで言わせるべからず』とか傍迷惑な遺訓でも残したのか! 何回、ルーリーの邪魔をすれば気が済むンだ、このゴミムシどもが!」


 首のない屍を罵倒すると、お瑠麗るりは袖の破けた着物を脱ぎ捨てた。

 黄色の小袖の下に隠していたのは、京の職人が仕立てた黒革女王ボンテージ。無駄に露出度が高いが、貧相な体型で全く魅力を感じない。

 さらに両腕には、機械からくりが搭載された手甲鉤。使い手が指に巻いた糸を引くだけで、手甲鉤や鋸刃や鎌が飛び出す。加えて九本の袖箭を備えた黒い革製の帯輪。両腕に巻きつけているので、併せて十八発を常備しているわけだ。


「この手甲鉤鎌鋸九宮袖箭てつこうかぎかまのこぎりくぐうしゅうせんのお瑠麗るりに隙はねえ! 渡辺朧! 次はテメエだ!」


 二房に結んだ髪を揺らしながら、堂々と名乗りを挙げた。


「なんでもかんでも、組み合わせればよいというものでもなかろうに……」


 逆に朧は、珍妙な手甲鉤を見つめながら嘆息する。

 館に入る前よりも、朧の士気が落ちている。

 お瑠麗るりから興味が失せたわけではない。

 寧ろ気になる。

 どう見ても、お瑠麗るりの言動や装束は中二病のそれ。本人は卒業したと言い張るが、手甲鉤鎌鋸九宮袖箭のお瑠麗るり――などというダサい二つ名を公表するあたり、末期の中二病としか思えない。

 勿論、当人が気づいていないだけで、裏中二病という可能性も有り得る。だが、本当に恐ろしいのは、未練なく中二病を卒業していた場合だ。

 朧でも躊躇うような格好で妄言を吐き散らし、尚且つ「仕事ですから」と割り切る精神力。その神経の図太さたるや、当代に於いて並ぶ者なし。

 敢えて比較対象を挙げるとするなら、応仁の乱で味方の武将に限らず、敵方の武将にも軍資金を貸していた日野ひの富子とみこ。或いは、出雲大社の注連縄しめなわくらいか。

 太い。

 あまりにも神経が太過ぎる。

 同じく中二病を卒業した小原でさえ、黒革女王ボンテージ姿で言い掛かりみたいな妄言を吐いたりはしないだろう。ゆえに気を引き締めなければならない。対手は朧も知らない領域に到達している。

 鹿革の柄を握り締め、朧は悠然と室内へ入り込む。


「その深手で近づいてくるのかよ!」

「近づかねば、お主を斬れぬのでな」


 ゆるりと間合いを詰めながら、朧は大刀を担いだ。

 渾身の片手打ちを放つ。


「ルーリーに室内戦を挑む! それは無謀という事!」


 驚異的な跳躍で横薙ぎを跳んで躱し、手甲鉤鎌鋸九宮袖箭を天井の梁に突き立て、ぶらぶらと朧を見下ろしていた。


「――ッ!?」

「どれだけ速かろうと、動きがバレバレなンだよ! 単純過ぎるのさ! ルーリーが手本を見せてやる! 変幻自在な戦い方ってヤツをなアアアア!」


 猿のような動きで梁の上に登ると、素速く朧の真上に移動。容易く頭上を取り、両腕の手甲鉤鎌鋸九宮袖箭を広げて、朧の真上から落ちてきた。朧が飛び退いて躱すと、手甲鉤鎌鋸九宮袖箭が畳に突き刺さる。奇しくも背面に廻り込んだ朧は、無防備な背中に袈裟斬りを試みた。

 お瑠麗るりも予想していたようで、躊躇なく前方に走り抜けて躱す。さらに跳躍して眼前の壁を蹴り、その反動で朧の頭上を飛び越え、再び天井の梁に貼り付くと、目にも留まらぬ速さで室内を飛び回る。天井の梁から畳へ落下し、壁を蹴り飛ばして再び天井へ――これでは、りがない。

 前後左右に、上下の運動を含めた空間攻撃。

 加えて梁の上で動きを止め、変則的な動きに緩急を加えている。朧は頭を振りながら、その場で佇立するしかない。視線で追う事もできず、対手の動きを読んで反撃に転じる機会もないのだ。


「がらああああ!」


 一瞬、黒い残像を視界の端に収め、逆袈裟に大刀を振り上げた。

 然し真剣は、虚しく空を切るのみ。


「大外れだよ、ばアアアアか!」


 突如背後から嘲りの声。

 お瑠麗るりが手甲鉤鎌鋸九宮袖箭を振り上げると、朧の背中から鮮血が迸る。背中に三本の裂傷を刻み込まれ、振り向きながら大刀を水平に薙ぐ。

 すでにお瑠麗るりの姿は消えていた。

 天井の梁に逃れて、猫のような姿勢で喜悦の笑みを浮かべている。


「ルーリーの実力は、室内戦でこそ発揮される! 流石の朧さんも手詰まりのようだなアアアア! 太刀筋も乱れてるし、反応速度も普段より格段に遅え! だが、降伏なンて認めねえぞ! ルーリーが矢留やどめを出す時は、テメエが死んだ時だけだ!」


 ムササビの如く室内を飛び回り、お瑠麗るりは奇声を発した。

 これも朧を混乱される為の策であろう。声に反応して振り向いても、その時には別の場所へ移動し、死角に回り込んで攻撃してくる。

 朧は大仰に溜息をつくと、視線で追い掛けるのを止めた。


「お主の大道芸は飽いた」

「なンだと!?」


 お瑠麗るりが怒り狂うと、朧はふんと鼻を鳴らす。


「確かに速い。動きも変則的で読みにくい。緩急を用いて、対手に拍子を読ませないのも見事じゃ。然れど――」


 不意に左手を突き出し、長い髪の房を掴み取る。


「体捌きに髪の毛がついてきておらん。是では捕まえてくれと――いつ!?」


 忽然と左手に激痛が奔り、髪の房を離してしまった。

 左手を見下ろすと、細長い針が左手を貫通していた。


 ツインテールに針!?


「お主、髪の毛に針を仕込んでおったのか!」

「痛えじゃねーか! 首の骨がゴキッていったわ! ルーリーを殺す気か!」


 朧の非難に、怒声で返すお瑠麗るり

 敵に言われるまでもなく殺す気だが、それよりも驚愕すべき事実がある。

 髪の毛に針を仕込んでいたのは、暗器と考えれば納得もいく。寧ろピンポイントで針を掴んだ自分を褒めてやりたい。

 理解できないのは、お瑠麗るりが生きている事だ。

 空中移動の最中に髪の毛を掴み、強引に動きを止めたのだ。お瑠麗るりは擬音で表現していたが、確実に頸椎を砕いた。

 致命傷だ。

 助かる筈がない。

 常識を覆すという事は、常識を覆す力が働いている。


「クソババアの妖術か」

「正解だぜ、朧さん。どンな深手も一瞬で治るンだ。殺し合いの最中に、眷属を持ち歩かねえ方がおかしいだろ」


 お瑠麗るりも奏と同様に、身体に蚤を貼り付けているのか。おそらく彼女だけではあるまい。他の女中も常備しているのだろう。先程斃した鉄砲衆は全て即死したので、肥沼家の妖術――『起死再生きしさいせい』が発動しなかった。

 つまり一瞬で心臓の動きを止めなければ、勝負は長引くばかりだ。首を刎ねるか、心臓を切断するか……即死でなければ意味がない。

 左手を貫通する針を囓り、引き抜いて捨てる。


「ちと面倒になってきたのう」


 朧が億劫そうに言うと、お瑠麗るりが口角を吊り上げた。


「安心しろ、日が暮れる前に始末してやる。五体をバラバラに切り分けて、蛇神の使徒が喰いやすいようにしてやンよ。遠慮なく妖怪共の餌になれや」

「御免蒙る。お主に殺されてやるほど、儂の命は安うない。死ぬのはお主じゃ。心ノ臓を刺し貫いた後、その首を刎ね落とす。万に一つも蘇らぬように、首と胴は別の場所に捨てよう。後は鴉の餌になるがよい」


 予め互いの殺し方を宣告し、両雄は睨み合った。

 お瑠麗るりは邪悪な笑みを浮かべると、右腕の手甲鉤鎌鋸九宮袖箭を前方に突き出す。

 袖箭を使うつもりか。

 朧は左脚を下げて、右半身の姿勢を取る。

 大刀を持つ右手の手首を捻り、刀身を横に寝かせて立てた。待中剣たいちゅうけんの構えと言う。弓や手裏剣など、飛び道具に対応する為の構えである。半身の姿勢で対手が狙う範囲を狭め、刀を盾に見立てて、上半身の守りに徹する。


「うけけけけ。覇天流の朧さんが、防御に徹するなんてよぉおおおお。滅多に見られない光景だよなアアアア」

「……暗器が苦手など騙りであろう」


 朧は皮肉を返すが、待中剣の構えは解かない。

 飛び道具は剣士の鬼門。飛び道具に備えていたとしても、都合良く弓矢を避けたり、刀で手裏剣を弾く事はできない。待中剣の構えも同様。上半身の守りを固めても、下半身を守る事はできない。どうしても右脚が、がら空きになるのだ。


「期待に応えるぜええええ。朧さんの期待に応えるぜええええ」


 お瑠麗るりはニヤニヤと笑いながら、音もなく袖箭を放つ。

 羽根のない矢が、朧の右脚の太腿に突き刺さった。

 痛みを覚悟していた朧は、九宮袖箭の一撃を受けても微動だにしない。

 朧が動揺を見せたのは、右脚を射貫かれた直後だ。


「――何ッ!?」


 九宮袖箭の発射と同時に、お瑠麗るりが左手で何かを投げつけたのだ。

 流石の朧も反応が間に合わず、構えていた大刀に革袋のような物が当たる。革袋は簡単に破けて、黒い粉末が飛散した。


「――ッ!?」


 両目に激痛が奔り、瞼を開ける事ができない。


「言っただろ、朧さん。ルーリーは透波の出だってよぉおおおお」

「毒……を――」


 朧は激しく咳き込み、身を屈めて悶えた。


「当アアアアたりだよぉおおおお! 朧さんに浴びせたのは、透波が使う猛毒の粉末さアアアア! 豆斑猫まめはんみょう松脂まつやに附子ぶす! さらに石灰と唐辛子を混ぜてある! 常人なら一息吸い込んだだけで、ゲロ吐いて死ぬ! 然し朧さんは毒が効きにくい体質! 意識を保つ事はできても、目は見えねええええよなアアアア! 目潰しにはなるよなアアアア!」

「――ッ!!」


 五寸釘を腹部から素手で取り出しても堪えた朧だが、無防備にも左手で両目を覆い、苦痛の悲鳴を発する事しかできない。

 凄まじい臭気と痛み。

 裂傷とは、根本的に痛みの質が違う。刃物で肉を切り裂かれた時は、焼鏝やきごてを押し当てられたような熱さを感じる。体内から釘を抜く時は、腹部を火箸で抉るが如きであった。

 然しこの痛みは違う。

 眼球に溶けた鉛を流し込まれる感覚。加えて瞼と眼球の間に、酷い異物感がある。灼熱の砂が、ごりごりと眼球の上で動くのだ。

 涙と鼻水が止まらない。

 もはや大量の涙を流しているのか、血を流しているのかも分からない。


げき! つうううううで身悶える朧さんを見るのは、実に気分がいいイイイイ! そして視界を塞いだ! 豪雨の中で、視界を狭めた戦いには慣れたかい? でも真っ暗じゃねえよなアアアア! 両目を焼くような痛みで、ルーリーの気配を探る事もできねえよなアアアア!」

「おのれ……」

「ルーリーは、無事に中二病を卒業したンでええええ! おゆらさんを見習う事にするわアアアア! 確実に! 効率良く! 標的を始末する! 然し殺し方は予告通り! テメエの身体をバラバラにしてやる!」


 喚きながら朧に近づき、右腕の手甲鉤鎌鋸九宮袖箭を振り上げる。

 対する朧は視界を封じられ、迂闊に身動きが取れない。辛うじてお瑠麗るりの喚声から、大凡の位置は掴める。然し攻め手の拍子が読めなければ、朧も躱しようがない。


「ばいば~い。人斬り馬鹿の朧さアアアアん」


 勝ち誇るお瑠麗るり

 右腕の外側に伸びた刃が、勢いよく振り下ろされた。




 七寸……約21㎝


 一尺……約30㎝


 矢留……停戦命令


 附子……トリカブト

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