第67話 将棋

 改めて女中衆に指示を出したおゆらは、主君が騒乱に巻き込まれたと思えないほど落ち着いた様子で、主殿の楓の間に戻る。

 ぱたんと木戸を閉めると、室内は静寂で満たされる。

 百合の間が会談に使う部屋なら、楓の間は密談に使う部屋だ。主殿の奥にあり、外部に音が漏れる心配がない。

 実に簡素な部屋である。

 板張りの床に、調度品が一切ない板の間。燭台の炎が薄暗い部屋に橙色の光を放つが、欄間らんまを彩る彫刻はなく、居心地の悪さばかりが際立つ。

 無論、諸人の感性であればという話だ。好んで貧相な小屋に住む老婆は、部屋の外観など気にも留めない。棋盤の前に座り、偉そうに麦湯を啜る。


「もう少し待たされるかと思うたが……早かったのう」

「奏様を発見したとの由」

「真か?」

「隷蟻山に配置した眷属の一匹が、奏様と南蛮人形を発見したのです。南蛮人形の縁者と思しき難民と遭遇したようで……女中衆を派遣して事に当たらせます」

「難民の殲滅と同時に……であろう」


 ヒトデ婆が皺を深めて笑うと、


「そうですね。久方ぶりに肝を冷やしましたが、奏様を発見できて何より。難民が見つけたのも好都合。無理に渡河したり、吊り橋を渡る方が危険です」


 おゆらは棋盤の前に端座する。

 これから二人で将棋を指そうとしていた矢先、奏が川に転落したという報告が入り、即座に『念話通信てんわつうしん』で郎党を呼び戻し、奏を捜索する手筈を整えていた。その途中で他の分家の者から、奏発見の報告を受けたのだ。

 不幸中の幸いであった。

 雨は眷属の視界を遮るが、眷属の移動に影響を与えない。雨上がりに羽虫の死体を見掛けないのは、雨の中でも自由に飛び回れるからだ。

 加えて幸運にも、奏の姿を村内で捕捉できた。村中を捜して見つからなければ、蛇孕神社に仔細を報告しなければならなくなる。その時は失態を挽回する機会すら与えられず、无巫女アンラみこに斬首されていただろう。

 おゆらは運任せの弥縫策を好まないが、急に狒々神討伐という難題を突きつけられ、緻密な策略に綻びが出てきた。一時は数年ぶりに焦りを覚えたが、何とか事態を想定の範囲内に収められそうだ。

 お陰で将棋を始められる。


「奏様は手傷を負われたそうです。勿論、御命に別状はありません。日が暮れる前に保護し、ヒトデ婆の眷属で治療します。ああ……先手は私でしたね。7六歩」


 おゆらが指し手を指示すると、別の老婆が棋盤の駒を動かす。


「共におる難民が南蛮人形の縁者と申していたが……3四歩」


 ヒトデ婆の言葉に反応し、後手の歩が進む。


「確か父親が生きていた筈ですから、その者だと思います。まあ、難民であれば、誰であろうと構いませんが」


 おゆらは溜息を零すと、珍しく眉間に皺を寄せる。


「然し油壺家のお陰で、酷い迷惑を蒙りました。7七桂」


 さらにおゆらの言葉通り、ぱちりと桂馬が棋盤を叩いた。


「我に感謝するぞえ。我の鍼術しんじゅつがなければ、今頃将棋を指す暇などあるまい。ちなみに礼なら食い物が良いぞえ。5二飛」


 ぱくぱくと草餅を喰い散らかしながら、平然と嘯く老婆。百歳近い老体とは思えないほどの食欲である。


「ヒトデ婆にも感謝しておりますよ。だからこそ菓子を振る舞い、新しい小袖も差し上げたのです。7八飛」

「我は着物なぞ不要。普段通りの襤褸ぼろが良いぞえ。6二銀」


 紫紺の小袖に着替えさせられたヒトデ婆が、ぼそぼそと不満を漏らす。


「ヒトデ婆が良くても、我々が困るのです。薄汚い襤褸で本家の御屋敷を歩き回らないでください。本家の名誉に傷がつきます。物忘れの激しいヤドカリ様ですら、本家に伺候する際は、きちんと装束を整えて参りますよ。7五歩」


 優雅な所作で麦湯を飲みながら、穏やかな声音で窘める。やや間を置いて、ぱちりと先手の駒が動いた。


「あれは油壺家の女中が、着付けをしておるのであろう。自分で礼装を選んだとは思えぬぞえ。7二金」


 ぱちり。


「油壺家の苦労が偲ばれますねえ。9六歩」


 ぱちり。


「油壺家も面目があるでな。人前で先代当主を粗略にできまい。 9四歩」


 ぱちり。


「仰る通り。御家の面目は、意外に銭では買えぬもの……6五桂」

「……」

「あら?」


 おゆらは馬手に視線を向けた。


「もしもーし。私の言葉が聞こえますか? 6五桂ですよ」

「ギギぎギ……ギぎぎギ……」


 奇怪な呻き声。

 頭に無数の針を打ち込まれたヤドカリが、硬質な呻き声を発しながら、先手の駒を持ち上げた。

 震える手で駒を動かし終えると、虚ろな目で棋盤を見下ろす。緩んだ口元から涎が毀れ落ちそうになり、おゆらが袖の中から取り出した布子で拭う。


「はしたないですねえ。人前で涎を垂らさないでください」

「ギいギギ……がアアああ……」

「言うた処で止まらぬよ。そのように針を刺しておらん」


 壊れた木偶人形の如き老婆を見遣り、ヒトデ婆は鷲鼻を鳴らした。

 これが他の分家衆からも恐れられた妖怪の姿。権力奪取の為に娘と孫を捨て去り、妹から捨てられた老婆の末路。使用期限が過ぎた使徒の成れの果てだ。

 油壺家に伝わる妖術は『惣転移そうてんい』と呼ばれており、自らの手で触れた物体を一瞬で遠方に移動させる。空間転移できる物体の重量や距離は、油壺家の使徒でも個人差がある。それも特別な修練を積めば、精度を上げる事は可能だ。

 舟や馬で物を運ぶ時代。これほど使い勝手の良い妖術はなく、油壺家が外界との交渉役を任されていたのも、『惣転移そうてんい』あればこそ。『惣転移そうてんい』を利用すれば、外界で捕縛した人間を瞬時に蛇孕神社の下拝殿へ飛ばせる。

 分家衆の中でも、餌贄えにえの調達に最適――先代当主が存命の頃、暴発寸前のヤドカリを他家が宥めすかし、餌贄えにえの調達に従事させたのだ。

 『惣転移そうてんい』の使い手がいなければ、一年に千人以上の奴婢を陸路で運ばなければならなくなる。それだけの人間が行き交う場所は、もはや隠れ里とは言えない。

 薙原家は妖怪の一族だ。目立てば目立つほど、外界と軋轢が増す。当然、大規模な人身売買を公然と行えば、関東を支配する徳川家も動かざるを得なくなる。流石の先代当主も徳川家康と正面から喧嘩をするつもりはなく、結果的にヤドカリの横暴を見過ごすしかなかった。

 やがて油壺家は外界で餌贄えにえの調達を担当し、篠塚家はそれ以外の物資を賄うという役割分担が成立。今でも油壺家は人商人や盗賊を束ねており、関東の裏社会に一定の影響力を持ち、『薙原衆』と同様に恐れられている。

 だが。

 それだけでは足りない。

 薙原家の政を動かす女傑からすれば、油壺家の貢献は物足りない。彼女達は『惣転移そうてんい』の可能性を狭めている。術者は空間転移できないという弱点を持つが、人攫いより素晴らしい利用方法があるではないか。

 奏の安全確保の為に使うのだ。

 『惣転移そうてんい』で他者や物体を空間転移させる為には、油壺家の使徒が対象に触れるか、支配下に置いた眷属を接触させなければならない。油壺家の眷属は蜘蛛だ。ヒトデ婆が使役する蚤を真似て、奏の着物に潜ませるのも難しい。

 然し『神寄カミヨリ』が蝉の尿を任意で爆発させたように、『惣転移そうてんい』にも奥義がある。他の分家にも隠してきた切り札。眷属の蜘蛛を接触させるのではなく、蜘蛛の放つ糸を対象に付着させれば、使徒の望む場所まで転移できる。それも任意で状況を設定し、自動的に妖術を発動できるのだ。

 例えば、『奏の命に危険が迫る直前』と設定し、奏に蜘蛛の糸を付着させる。それだけで奏が危機的状況に陥れば、自動的に妖術が発動して安全な場所へ――本家屋敷まで転移できる。

 おゆらは得意の口車でヤドカリと油壺家の当主を丸め込むと、密かに蛇孕神社の下拝殿で人体実験を繰り返した。

 命に危険が迫る直前とは、如何なる状況を定義しているのか。

 奏の心臓が止まる直前に転移させても、何の意味もない。脳と心臓が健全な状態を維持していないと、『起死再生きしさいせい』は発動しないからだ。

 また外傷以外にも、様々な状況が考えられよう。奏が火事の煙に巻き込まれて死に掛けた時、処置の施しようがないほど肺を冒されていれば、火元から逃げても寿命が少し延びるだけ。川や池で溺れた場合も同様。心肺蘇生法なども確立しておらず、呼吸が停止した奏を見守る事しかできなくなる。

 奏の為に、一切の妥協は許さない。

 実験に使う被験者は、蛇孕神社の下拝殿に掃いて捨てるほどいる。奏の安全管理を徹底すべく、何百人もの下人を使い潰し、おゆらは『惣転移そうてんい』の可能性を探求した。

 蜘蛛の糸を貼り付けた下人を刀で斬りつけ、『惣転移そうてんい』が発動するまでの出血量を確かめる。心臓以外の重要な臓器――肺や肝臓や胃袋を刺し貫いた時、下人が転移するまでの時間を調べ尽くす。他にも思いつく限りの方法で、下人の肉体を破壊し続けた。

 武具を手裏剣や鉄砲などの飛び道具に変えた場合。菜種湯を掛けて火達磨にした場合。撲殺する寸前まで素手で殴り続けた場合。安直に首を絞めた場合。下人の顔面を窒息するまで水桶に浸した場合……他にも実験の内容は多岐に渡る。

 また殺し方の他にも調べなければならない事がある。

 蜘蛛の糸の長さだ。

 粘着性を帯びた糸を寸刻みに分解し、長さの違う糸を下人に貼り付け、実際に空間転移するまで殺し続けるのだ。

 その結果、三分ほどの長さがあれば、『惣転移そうてんい』を発動できると判明した。僅か三分という短さで済むなら、着物に貼り付ける必要はない。より確実に奏や他の者にも分からない場所へ隠す事ができる。

 細かく刻んだ蜘蛛の糸を汁物に混ぜ込み、何も知らない奏に食べさせるのだ。そうすれば、誰も発見できないし、奏自身も気づきようがない。加えて奏の体内で蜘蛛の糸が消化されるまで、『惣転移そうてんい』は効果を維持し続ける。

 勿論、胃袋で消化させるまでの時間も徹底的に調べた。蜘蛛の糸を混入した汁物を下人に飲ませ、ゆるりと千を数えるまで放置し、時間が来れば槍を突き刺す。下人が生き残れば、やはり同じ汁物を飲ませた後、次は二千を数えるまで待つ。鉄砲の一斉射撃で転移すれば、再び実験を繰り返し……結局、四万三千を数えるまで生き延びたので、これを限界値と仮定し、個人差や誤差の分析に移行する。

 この時点で五百人以上の下人を虐殺しているが、元から食用に買い込んだ餌贄えにえ。新鮮な死体さえ残れば、蛇神の使徒が喰らうだけ。無駄になるわけでもなく、奴婢の命と奏の安全では、比較の対象にもならない。

 途中で認知症を発症したヤドカリを実験から外し、符条にも悟られないように一年近くも時間を掛けて、ようやく奏に使えるほどの信頼性を得た。

 進化した『惣転移そうてんい』は、言わば奏を守る為の奥の手。安易に頼るわけにもいかないが、自動的に奏を死地より救い出す妖術のお陰で、おゆらの謀略も選択肢が増えた。一寸未満の蜘蛛の糸を混ぜた汁物を朝と晩に飲ませれば、丸一日(一杯で『惣転移そうてんい』の効果は半日くらい保たれる)は奏の安全を確保できる。戦術の幅が格段に広がり、敵を懐に誘い込むような策も実行できるようになった。奏の岩倉を接触させたのも、岩倉の刀が奏の額に触れる寸前、奏を本家屋敷へ転移する手筈を整えていたからだ。別に朧が乱入しなくても、奏を助けるだけなら、何の問題もなかった。

 此度の一件も同様の手筈を整えていたが、数日前に无巫女アンラみこが狒々神の襲来を予知した事で、おゆらの謀略は大幅な変更を余儀なくされる。


「油壺家の当主が使い物になれば、ヤドカリ様に頼らずとも済んだのですが……『无巫女アンラみこ様の御命に背くわけにはいかぬ』の一点張り。せめて蜘蛛の糸だけでも渡せばよいものを……代わりに寄越してきたのが、精神の均衡を崩した母親。念の為に奏様と引き合わせてみましたが、奏様と伽耶様の区別もつかない御様子。薙原家が合議制でなければ、油壺家を取り潰している処です」


 頭に無数の針を埋め込まれた老婆を見遣り、おゆらは不服そうに愚痴を零す。


「当代の油壺家の当主は、叔母と妹を狒々神に喰い殺されておるでな。狒々神に対する恐怖は、心魂しんこんに徹していよう。无巫女アンラみこ様の御命が撤回されない限り、屋敷の外に出る事はないぞえ」

「これだから傀儡くぐつは困るんですよねえ。肝心な時にいつも壊れる」


 呆れ果てたという表情で、おゆらは額に指を当てる。


「それでも『予備』が使えたのだから、最悪の事態は免れたぞえ。悪手を好手に変えただけでも良しとせよ」

「そうですね。私が嘆いても詮無い事。ヤドカリ様も御存命のうちに、本家に奉公できたのです。本望でございましょう」


 廃人同然のヤドカリから視線を逸らし、おゆらは穏やかに言う。

 油壺家の血を引く者は、ヤドカリと当主を除けば、当主の子供と孫二人。三人とも外界で餌贄えにえの調達と仕物に励んでおり、すぐに呼び戻す事はできない。このうえ当主も使えないとなると、消去法でヤドカリに頼らざるを得なくなる。

 これで万が一の事態が起きた時、奏が大海原に転移して溺れたり、遙か上空に転移して墜落死したら目も当てられない。意識の曖昧なヤドカリに不安を覚えたおゆらは、ヒトデ婆に助力を請うた。

 薙原本家の御殿医を務めるヒトデ婆は、薬草学の他に鍼術にも精通している。

 鍼術とは、経穴に針を刺す事で経脈の流れを変えて、人体に様々な影響を齎す技だ。通常は経絡脈に刺激を与えて内臓の疾患を治療したり、痛覚を遮断して局部麻酔を施したりする。祈祷も治療行為に含まれる時代、治療効果の明確な鍼術は世間でも親しまれているが、鍼術には人を死に至らしめる技術も存在する。

 ヒトデ婆が施した処置も殺法の一つであり、頭部の経穴に針を打ち込み、脳内活動を活性化させ、一時的にヤドカリの意識を覚醒させるのだ。

 無論、これで認知症が治るわけではない。寧ろ脳神経に異常な負担を強いる為、確実に患者の寿命を縮める。

 どうせ残り少ない人生だ。本家の役に立てようと、ヒトデ婆に依頼して鍼術を施し、幾度かの実験を試みたうえで、ヤドカリの使用を決めたのだが。

 まさか本家屋敷ではなく、蛇孕川の下流へ飛ばすとは……おゆらの想定外の出来事。失態も失態。朧といいヤドカリといい、本当に狂人というのは扱い難い。

 常盤も同じ場所に転移したそうだが、奏が常盤の身体の一部に触れていたのだろう。

 もう一度『惣転移そうてんい』を発動させ、奏の身柄だけ本家屋敷に移送したいが、ヤドカリを使うのは危険過ぎる。尤も最悪の事態は避けられたので、後は状況の推移を見守るだけで十分。おゆらが手を下すまでもない。

 完全に使い道をなくしたヤドカリは、ヒトデ婆の手により他者の命令を遂行するだけの人形に造り替えられた。菓子を食べながら将棋を指すと、駒と棋盤を汚してしまう為、二人の代わりに駒を動かす。それだけの存在である。


「因みにこれ……あと何日くらい保つのですか?」


 読み駒で将棋を続けながら、ヤドカリを指差して尋ねた。


「半日という処ぞえ」

「やはり狒々神討伐には使えそうもありませんか。油壺家からも自由に処分して構わないと許可を得ておりますので、殊更惜しいとも思いませんが……今後も同じような事が起こるとも限りません。狒々神討伐に間に合わないとしても、外界から『惣転移そうてんい』の使い手を呼び戻さなければなりません」


 唇に指を当てるような仕草で考え込むと、ヒトデ婆が下品に笑う。


「然れどお前も業の深い女よ。自らの主君を相手に、よくも嘘ばかり並べ立てられる。5四歩ぞえ」

「嘘ではありませんよ。御先代は生前、玉の増産を難民に任せようとしていました。然し私は、そのように考えていないと言うだけです」

「それを嘘というぞえ」

「嘘も方便と申します。奏様は純粋な御方。内容に矛盾がなければ、基本的に他人の言う事を信じます」

「然し嘘は嘘。いずれ奏様に気づかれよう」

「別に気づかれても構いません。もはや誰にも止められませんから。それに二つほど細工を施したので、そう簡単に気づかないと思います。7四歩」


 ヤドカリは緩慢な所作で銀を動かす。


「そう言えば、人斬り馬鹿を袋叩きにした時、『毒蛾繚乱どくがりょうらん』で奏様を操作しておったな。他にも小細工を弄したと?」

「南蛮人形の護衛を顔見知りと認識するように、記憶を改竄させて頂きました」

「もう一つは?」

「評定と視察の期日に疑念を抱かないように、精神に楔を打ち込んだのです。他者から指摘されない限り、解除される事はありません」

「あの人斬り馬鹿は、謀略に興味あるまい。南蛮人形は問題外。お前の考えは、隙がなくてつまらぬ。若いくせに遊びというものを知らんぞえ」


 棋盤を睨みながら、ヒトデ婆は渋面で愚痴る。

 まだ指し始めたばかりだが、早くも盤上では劣勢である。指し手を迷うヒトデ婆を余裕の表情で見ながら、おゆらは上品な仕草で麦湯を飲む。


「昔、帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマス様にも似たような事を言われました。然しこればかりは、生まれついての性分です。自分でも思い通りになりません。それに此度は失態の連続。一時でも奏様を見失い、手傷まで負わせてしまいました。己の非才を悔やむばかりです」

「麦湯を啜りながら言われても、説得力がないぞえ。然れど不測の事態が起きた場合は、強制的に奏様を引き上げさせると聞いていたが……雨が降り出しても、難民の叛乱を止めなんだ。なんぞ不首尾でもあったのか?」

「不首尾と申しますか……想像以上に、うまく行き過ぎたのです。奏様が視察の続行を決定した時には、すでに難民は渡河を終えていました。見張りの巫女も殺害されていましたから。あの状況で視察団を襲わないのは、あまりにも不自然です。彼らは、奏様に危害を加える事ができません。後始末を考えれば、都合が良いと考えたのですが……まさか暴れ馬を用いて、包囲を突破するとは――奏様の判断力には、感服する他ありません」


 おゆらは湯呑を脇に置き、珍しく熱を込めて語る。


「それゆえ、懸念も払拭できないのです。前線に飛び出して孤立するなど、君主の振る舞いではありません。朱に染まれば赤くなると申します。朧様の蛮族が如き気性が、奏様に悪い影響を齎したのです。やはり中二病など召し抱えるべきではありませんでした」

「そこまで危惧すべき事か?」

「行き着く先が、帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマス様ですよ? 奏様に畜生道は相応しくありません。朧様には、確実に死んで頂きます」


 意気込むおゆらと対照的に、ヒトデ婆は冷めた面持ちで麦湯を啜る。


「あの女で大丈夫なのか。腕は悪くないと思うが、世俗の欲に囚われておる。些末な失敗で返り討ちにされるかもしれん」

「御懸念には及びません。お瑠麗るり様の他にも、刺客を用意しております」

「やはりか。お前が個人の武勇を頼るわけがないぞえ」

「朧様は武運の強い御方。然れど所詮は、捻くれ者の中二病。眼前に虎落もがりおとしがあれば、宙返りで跳び越えないと我慢できない性分。ならば二段構えの罠を用意すれば良いのです。どちらかと申せば、お瑠麗るり様の方が後詰ですね。如何に人斬り馬鹿といえど、此度ばかりは武運を使い果たす事でしょう」

「怖い怖い。難民に従者に南蛮人形。本家の女中頭が、無用と決めた者から死んでいく。5五歩ぞえ」


 ようやく指し手を決めたヒトデ婆が、嘲りを込めた口調で皮肉を言う。


「元々隷蟻山の難民は、御先代の道楽で生かされていただけです。今では蛇孕村に害を成す獣と同義。難民の処遇は、これまで幾度も評定で議題に挙げられました。その度に符条様が強硬派を宥め、有耶無耶とされてきたのです。符条様を追放した後、正式に難民の処刑が評定で決定して以降、叛乱を誘発するように仕向けてきましたが……もはや私一人では、如何様にもなりません。本当に面倒事は、立て続けに起こるものです。7三歩成」

「いちいち難民の処刑に手間を掛け過ぎぞえ。お前の妖術で操り、山の中で殺し合いでもさせた方が早かろう」

「処刑するだけなら簡単です。然し突然、隷蟻山から難民がいなくなれば、住民も疑念を抱きます。蛇孕神社に屍を運ぶにしても、相応の人手が必要。屍の搬送を見られた時の為にも、筋書きが必要なのです」

「幸か不幸か、油壺家の『惣転移そうてんい』が使えないからのう。然し本家の使者が『難民集落』を視察する途中、叛乱が起きたので止む無く鎮圧か。随分と安直な筋書きぞえ。 同桂」

「安直だからこそ民も納得するのです。同桂成」

「無関係な村人が叛乱に巻き込まれるのも筋書き通りと?」

「説得力が増しますね。『毒蛾繚乱どくがりょうらん』を使う手間も省けます」


 豊かな胸の前で両手を合わせ、おゆらは愉快そうに笑う。


「結局、奏様に疑念を抱かれるのが、一番憂慮すべき事なのです。ならば、奏様に難民の叛乱を見届けて貰おうかなと……叛乱に巻き込まれ、人斬り馬鹿と南蛮人形は不慮の死を遂げる。後は狒々神を討伐するまで、蛇孕神社で奏様を保護し、無用な記憶を書き換え、振り出しに……奏様の望む平穏な日常に戻す。やはりこれが最も安全な方法なのです」

「二年前の政変と同じか。叛乱を目撃したという事実があれば、奏様の記憶を改竄しやすい。然れど此度の一件で、奏様に手傷を負わせたのは痛恨事。果たして无巫女アンラみこ様が、お前を如何に処すか……同銀」

「私の代わりなどいくらでもいますよ。たとえ无巫女アンラみこ様の御勘気を蒙ろうと、問題なく本家は存続します。9五歩」


 本家の女中頭は、己の生き死にを平然と語る。


「お前より狡賢い女など、天下に何人もおるまい。それは无巫女アンラみこ様も承知していよう。お前が捨てられるとは思えぬが」

「政変の際、外界から百名近い手練を呼び集めたのです。当然、私の代わりも用意している事でしょう。所詮、私の本質は吏僚。十人からの作業を同時に捌く事はできても、他者を導く器量がありません。商売は篠塚家の先代に劣り、権謀術数は黒田如水に及ばず……ダメウソの相手をするのが、私には丁度良いのです」

「然れど理不尽と思わぬのか? それほどの才能を持ちながら、无巫女アンラみこ様の御機嫌次第で首が飛ぶ。それでお前は満足なのか?」

「何を今更。无巫女アンラみこ様がお気に召さなければ、自らの首を差し出す。当然の事ではありませんか」


 おゆらは、穏やかに微笑みながら応えた。

 无巫女アンラみこに忠誠を誓う狂信者の思想。暗く澱んだ魂から、言葉という気泡が表面に浮かんできたのだ。


「先程、ヒトデ婆は理不尽と仰いましたが、古来より神仏とは理不尽なものです。なんでも伴天連の教えでは、神は人に耐えられる試練しか与えないとか。つまり親に売り飛ばされた童が、我々に喰い殺されるのも耐えられる試練。弱者が飢餓や疫病で死に絶えるのも耐えられる試練。人が争うのも耐えられる試練。そろそろ本当に耐えられる試練を与えてくれないと、現世うつしよから人間が消えてなくなります」

「――」

「真宗もそうです。幼気いたいけな女童を売り飛ばす人商人であろうと、民に重税を強いる代官であろうと、仏の教えを信じない者であろうと、阿弥陀仏あみだぶつは救済してくれます。つまり蛇神を崇拝する私も、極楽浄土へ導いてくれるのです。何と厚かましい……有り難迷惑にも程があります」

「――」

「少し考えれば分かる事。大凡の者共は、神仏を都合の良い道具としか考えていないのです。伴天連も法主ほっすも死後の救済を願い、己の所業すら帳消しにしてしまう。身勝手な願望ばかり押しつけられて、神仏も困り果てているでしょう」


 涼しげに微笑みながら、おゆらは持論を展開する。


「然し无巫女アンラみこ様は、他の神々と違います。己の意志を持ち、森羅万象を支配する聖呪せいじゅを行使し、現世うつしよの頂点に立つ至高の存在。たとえ言動に矛盾を感じたとしても、我々が无巫女アンラみこ様の叡智に及ばぬだけの事。ましてや見返りを求めるような俗物に、无巫女アンラみこ様が手を差し伸べる筈がありません」


 宗教観に酷い偏りがあるが、おゆらは本家女中衆の心構えを説いているだけだ。

 无巫女アンラみこという超越者チートに比べれば、他の人間など等しく無価値。天変地異を予測できないように、誰もマリアの思考を推察できない。

 薙原家の権力を簒奪し、本家女中衆がマリアの信奉者と交代したばかりの頃。寝坊した新参の女中が慌てて廊下を走り、曲がり角で奏と激突するという事件が起きた。

 まだ召し抱えられたばかりで、ろくに礼儀作法も理解できていない新参者。同情の余地はあるが、奏に全治二日の『重傷』を負わせている。斬首が妥当と思われたが、話を聞いたマリアが女中を蛇孕神社に呼び出し、彼女の罪の一切を許した。それどころか、「曲がり角で転校生にぶつかる。鉄板ではあるが、それゆえに至難。見事な働き」と女中の行動を称賛し、食パンなる自家製の菓子を授けた。

 その話を聞いた別の女中が、自分も无巫女アンラみこに認めて貰おうと、仕事を終えた後に奏を待ち伏せ、「遅刻遅刻~」と一人で騒ぎながら、何も知らない奏に体当たりした。気絶した奏を放置して、得意げに蛇孕神社へ赴くと、


「放課後に遅刻する阿呆がいるか」


 とマリアに叱責され、夜刀やとで首を斬り飛ばされた。

 无巫女アンラみこに見返りを求めた者がどうなるか……その末路を如実に表す逸話である。他にも「足音が気に障る」とか「飽きた」という理由で斬首された女中もおり、細心の注意を払いながら働いた処で、殺される時は殺されるのだ。


「我々は无巫女アンラみこ様から何も望みません。无巫女アンラみこ様から御命を賜り、己の裁量で使命を果たす。それこそが使徒の本懐でございます」


 おゆらは決然と語るが、ヒトデ婆は鵜呑みにしていない。

 無論、无巫女アンラみこに対する忠義に偽りはなく、虚言を述べたわけではないだろう。然し胸の内を明かしたわけでもない。おゆらが綺麗事を並べる時は、大抵重要な事を隠している。ヒトデ婆の知らない何か――マリアとおゆらしか知らない大望があり、筋書き通りに薙原家を動かしているのだ。そうでなければ、无巫女アンラみこの許婚を囮に使う筈がない。

 さらに无巫女アンラみこと女中頭の目的が、完全に一致しているとも限らない。マリアの思惑など知りようもないのだから――

 ヒトデ婆は、ぞえぞえと笑声を漏らした。

 本当に現世うつしよは面白い。見世物と考えれば、これほど愉快な喜劇はないだろう。


「南蛮人形も用済みか。同歩ぞえ」

「もはや使い道がありません。無事に狒々神を討伐した後、叛乱に巻き込まれた犠牲者として丁重に弔いましょう。偖も偖も嘆き悲しむ奏様をお慰めできるなんて……世話役の特権です。4八銀」


 暗い欲望に身を焦がし、魔女は妖しく微笑む。

 本来は二年前の謀叛で常盤も処分する予定だった。それを奏が无巫女アンラみこに直談判して、常盤の居場所を確保したのだ。世話役も主君の自主性を重んじ、難民の娘が本家の屋敷で不自由しないように手配した。

 勿論、役立たずの無能を傍に置いておくつもりはない。

 先代当主が死ぬまで妖術に制限を掛けられていたおゆらには、実に都合の良い実験材料である。常盤本人にも気づかれないように、様々な制約や記憶の改竄を施した。


 一、薙原家に叛意を抱いても、実行に移す事ができない。

 一、常盤からおゆらに話し掛けない。

 一、難民の窮状について、奏に詳細を語らない。

 一、奏と肉体関係を結んだ場合は、遺書を書いて首を吊る。


 等々、五百を超える楔を打ち込んだ為、常盤の精神は二年足らずで壊れ始めた。何日も塞ぎ込んでいたかと思えば、急に癇癪を起こして喚き散らす。幼く脆い心は、度重なる精神操作と孤独な環境に耐えきれず、気鬱の症状をみせている。

 加えて何を血迷うたのか。奏の着物を盗んで、屋敷の外で自慰に励む始末。常日頃から笑顔の仮面を被るおゆらでも、不意に廊下で常盤と擦れ違うと、腹が捩れて笑声を漏らしそうになる。

 娯楽の少ない本家女中衆に『下劣な娯楽』を提供してくれる道化の如き存在だが、それほど貴重というわけでもない。

 振り出しに戻された日常に、常盤という玩具は不要。

 常盤の処分は、彼女が帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスを裏切る前から決めていた。

 帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスが常盤を誘い出すと読んでいたので、一時的に『薙原家に叛意を抱いても、実行に移す事ができない』という制約を解除したのだ。

 つまり常盤の処分を決定したのは――


「あっ――」


 菓子に手を付けたおゆらが、不意に声を発した。


「如何したぞえ」

「この草餅、美味しい」


 おゆらが微笑むと、屋敷の外で雷鳴が轟いた。

 屋根を叩く雨音は激しさを増し、強風で木戸が揺れている。天と人の騒乱は、暫く収まりそうもない。




 三分……約9㎜


 一寸……約3㎝


 予備……油壺ヤドカリ


 虎落……落とし穴


 後詰……救援部隊


 真宗……浄土真宗。戦国期の本願寺教団。


 法主……浄土真宗の身分の高い僧侶

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