第65話 私闘
暫時の間を置いて――
「ヤベえヤベえ、全然ヤベえ」
難民を殲滅したお夏が、げんなりとぼやいた。
蛇孕川の上流は、薙原家も把握できないほど深い。加えて急な雨で水嵩が増し、川の流れも激しくなる。
家人が並んで見渡しても、水面に人影は見当たらない。常盤や
「視察の前に、おゆらさんもなんか企んでたみたいやからなあ。溺死っちゅうオチはないと思うけど……」
「無傷とも思えないよね~」
「お秋さんの懸念を肯定します。落下の直前に受けた負傷は、ヒトデ婆の眷属で治療された筈です。然し――」
「川に落ちた時に、着物に貼り付いていた蚤は、当然の如く溺れ死んでるだろうな。つまり川の中で怪我したら、全然治しようがねえわけだ」
「流石にこれは、大失態だと思いますよぉ。家人の首が、広場にずらりと並んでしまいますぅ♪」
お
「奏様を
「別に家人とかじゃないんでえ。ルーリーは無関係ですぅ♪」
「それを言い出したら、あーしらも奏様の命令通りに動いただけだぜ」
「お
「言い逃れは格好悪いぞ~」
散々にお
「あ~あ。どのみち斬首確定かよ。これからどうする? 腹でも斬るか?」
「その前に成すべき事を成そうよ~」
「お秋さんの存念を肯定します。自決は最も安易な道。
「そうやね。うちらが死ぬ時は、おゆらさんも道連れやろし。こんな処で考え込んでもしゃあない」
処刑が確定しているにも拘わらず、家人やお
曲者揃いの女中衆だが、行動原理は単純明快だ。
森羅万象を統べる
「ほな、役割分担しようか。
雨の中で眷属を使いづらくても、田中家の使徒が一度視界に収めた者なら、どれだけ距離が離れていようと、『
お冬が語り終える前に、お春とお夏は姿を消していた。
二人に分かれて
「諸々の後始末は、お
「は~い。ルーリーもお仕事頑張りますぅ♪ 案外、奏様が無事なら許して貰えるかもしれませんよぉ」
「
お冬は溜息を漏らす。
「お秋さん、なんか死ぬ前に遣り残した事ある?」
「特にないな~。想像した事もないかも~」
「あかん、うちもや。御屋敷に着く前に、遣り残した事でも考えとこか」
二人は呑気に語りながら、屍だらけの道を引き返す。
残されたお
川岸から少し離れた場所――視察団が襲撃された場所に、朧は一人で佇んでいた。
豪雨の中、倒れ伏す難民に刀を突き立てている。大刀の切先で心臓を貫き、確実に息の根を止めていた。血脂で汚れた刀身は、帯に巻いた鹿の革で拭う。
「何をしてるんですか?」
お
「介錯をしておる。何人か素手で殴り飛ばしたからのう。苦しんでおる者に、止めを刺しておるだけじゃ」
「わ~お」
呆れたように、お
「随分と余裕ですねえ。大事な奏様が、吊り橋から転落したんですよぉ」
「
「どうしてそう言い切れるんですかあ?」
「薙原家の御曹司に対する執着は、常軌を逸しておる。御曹司を守る術なら、百でも二百でも揃えておろう。安否を気遣うても無益じゃ」
朧は不愉快そうに、お
「抑も此度の叛乱自体、
「ホワイ!? とってもノーウェイ!?」
両手で頬を押さえながら、驚いて珍妙な英語を叫んだ。
「おゆらさんが、そんなことするわけないですよぉ。難民が叛乱を起こしても、薙原家に利益なんか、これっぽっちもありませんしぃ。第一、奏様を危険に晒すような謀略は、
「難民云々は知らぬ。薙原家の利益も興味がない。それより偶発的に、御曹司を危険に晒したという事実が、
会話の途中で、偶然にも生存者を発見した。
朧に顎を打ち抜かれた女だ。まだ生きていたのか。余命幾ばくもなかろうが、介錯は戦場の倣いである。
苦しむ女の顔面に右足を乗せると、ふんっ――と容赦なく踏み潰した。脳漿と血液が、木履の裏にこびりつく。
「蛇孕川に赴く前から、誰も彼もが警戒せよと言わんばかり。そのくせ乗物を護衛していた女中衆――あれは素人の集まりじゃ。槍の持ち方や鉄砲の担ぎ方を見ただけで、即座に判別能うたぞ。大方、年若い下女を『
女の顔を踏み潰しながら言われても、全然説得力がねえ……と心の中で毒づきながら、お
「え~とぉ。それだと、奏様や常盤様が気づくと思うんですけどぉ」
「儂の知らぬ間に、二人の記憶を改竄したのであろう。見ず知らずの
「そんな事言われても、ルーリーはよく分からないしぃ。ていうかあ、おゆらさんの悪巧みに気づいてたんなら、奏様にお伝えすべきじゃないですかあ」
「左様な事を致せば、儂の楽しみが減るではないか。折角、罠を用意してくれたのじゃ。未然に防ぐなど論外よ」
朧が本音を漏らすと、お
「おゆらさんから聞いた通り、朧さんは相当
「常盤? 銀髪は御曹司の想い人なのか? まあ、なんでもよいが……気が向いたら救うてやろう」
「そ、れ、で――朧さんは、これからどうするんですかあ?」
お
朧も爛々と双眸を輝かせ、獰猛な笑みを浮かべていた。
「そうじゃのう……儂の隙を窺う年増女中でも斬り捨てるか。お主は如何致す?」
「勿論、自分の役目を果たしますぅ♪ でもでもぉ……この辺、屍だらけで戦いにくいですよねえ。場所を変えませんかあ?」
「良かろうず」
二人は元来た道を戻る。
屍の山から離れると、不意に二人は足を止めた。渓流植物が群生する森の中だ。雨で地面が滑りやすいが、足の踏み場は確保できる。
「この辺りでよかろう」
左手の指を鳴らしながら、前方を歩く朧が振り返った。
「そうですねえ。他に良さそうな場所もありませんしぃ」
「お主から来い。家人以外の女中衆の業前も見ておきたい」
朧は右手の大刀を下げ、傲慢な態度で先手を譲る。
「それじゃあ、御言葉に甘えて――」
嬉々と答えながら、お
然し左手に武具を備えていない。
暗器でも隠しておるのか?
朧の疑念を余所に、お
がちゃり、という何かの
対手が備えている間に攻めてもよいが、それでは中二病の美意識に反する。朧は豊満な胸を反らし、
「いくぞオラアアアアッ!!」
純粋無垢な演技の仮面を捨て去り、
激しい風雨で視界を遮られながらも、朧は対手の動きを捉えていた。お
鉄製の手甲鉤が、妖艶な美貌に迫る。
朧は両目を見開くと、大刀の柄尻で手甲鉤を受け止めた。
否、受け止めさせられた――と言うべきか。華麗に躱すつもりが、予想以上の速さと迫力に驚愕し、反射的に防御を選択していたのだ。
実力の一端に触れた事で、自然と頬が緩む。
「ようやく本性を表したのう。我慢した甲斐があったわ」
「うけけけ。当然、バレてるよなア。ルーリーが刺客だって事はよぉ」
お
「幾度も殺気を飛ばしておったからのう。アレで気づかぬのは、御曹司くらいのものよ」
「それなりに面白かったぜえ。奏様の前でイラつく朧さんを横目に、馬ア曳いて歩くのはよぉ」
黄ばんだ歯を剥き出し、露骨に挑発してくる。
無邪気な言動は擬態に過ぎないと見抜いていたが、随分と下劣な本性を隠していたものだ。奏の側にいた時とは、まるで別人である。
尤も強さは申し分ない。
速さだけではなく、それなりに膂力もある。勿論、純粋な力比べを行えば、朧に軍配が上がる。右腕の力だけで、軽く手甲鉤を弾き飛ばした。
手甲鉤の攻撃を凌ぐと、次は前蹴りを飛ばしてくる。
腹部を狙う一撃を後方に飛んで躱す。朧の回避行動を予測していたようで、お
「――むッ!?」
朧の喉元に、再び手甲鉤が襲い掛かる。一寸の間合いで見切り、半歩退いて躱す。続けざまに、朧の目を狙う貫手。これも飛び退いて躱したが、お
不意に妖艶な美貌を狙う
連撃の合間に、お
鉄拳とは、透波が使う暗器の一種だ。拳の外側に並んだ
朧が首を曲げて躱すと、即座に手甲鉤を振り抜いてきた。とても寸毫の間合いで躱す余裕はなく、大仰に身体を捻りながら躱す。
それでも弾けなかった。
朧の右頬から、ぽたりと血が滴り落ちる。
手強い――
刃物を持つ相手に、躊躇なく近づく胆力と
この年増……戦い方が小原に似ておる。
剣士に接近戦を挑むのは、相手より実戦経験を積んでいる証。対手の得意手を封じたうえで、徹底的に接近戦へ持ち込み、敵が息絶えるまで攻撃を加える。加えて速さは、小原よりも遙かに上。
油断していたわけではないが、朧は驚愕を禁じ得ない。尤も手の内さえ分かれば、対処法はいくらでもある。
お
「何!?」
鉄拳を打ち込んだお
三鋲の鉄角が、朧の腹筋に食い込んで動かない。頑強な武芸者と聞いていたが、腹筋で鉄拳を止めるとは――
「鉄拳を使うて、この程度か。儂の腹を貫きたくば、刃物を用意致せ」
朧は溜息をつきながら、お
堪えきれずに、お
太刀を振るう間合いはできたが――
「良い機会じゃ。お主に中二病の組討を見せてやる」
左手の指を鳴らしながら、大刀を空に向けて投げる。降りしきる雨の中、大刀は回転しながら宙を舞う。
梟爪剣――と考えた時には、朧に顔面を殴られていた。
「――ッ!?」
大刀を投げ捨てると同時に、鋭い踏み込みで前方に飛び出し、左半身の姿勢で左拳を打ち込んだ。
相権とは、平安期に流行した競技である。
日本最初の分類体事典――『
速さに重点を置き、最小限の動作で打ち込む為、拳に体重を乗せる事はできないが、両者の間合いを計る事もできれば、牽制に使う事もできる。
お
軽く怯んだお
左半身の姿勢から腰を回転させ、お
下段廻し蹴り。
日本古来の武術――
日本書紀によると、天皇七年に
これらの記述が示す通り、
然し
ともあれ、下段廻し蹴りが実戦で使える事に変わりない。
己の足で相手の脚を蹴る為、廻し蹴りの中で最も動作が小さく、遅効性の痛みで対手の意識を下段に逸らす。即ちこれも牽制――
ぶうん、と風雨を引き裂き、朧が上段から右手を振り落とす。
日本武術の技ではない。
中国の
腕全体を上から振り下ろす動作を
全身の力を抜き去り、腕を風車の如く振り回し、相手に反撃の隙を与えぬように打ち込む。円運動で加速した打撃は、分銅鎖のように重たくて鋭い。着物の上からでも、相手に激痛を与える。
「――ッ!?」
右肩を平手で叩かれて、お
突き上げの胴打ち。
これも
お
「ぐッ――」
お
次の瞬間、急に朧が背を向ける。くるりと
朧の攻撃を予測できたが、地面に足がつくまで何もできない。着地と同時に、朧の左脚が振り上げられた。
突き上げの後ろ
後ろ蹴足が、両腕の防御を弾き飛ばした。蹴り技の威力で両腕が上がり、正中線も胴体もがら空きとなる。
朧は右半身の姿勢に戻り、無造作に右手を掲げた。お
これが朧の語る中二病の組討――
「がらああああッ!!」
裂帛の気迫を込めた片手斬り。
お
唐竹割が大気を断ち割る。斬――と振り抜かれた大刀は、たとえ空振りでも尋常ならざる凄みがある。形振り構わず躱さなければ、頭頂部から股下まで斬り裂かれていた。
死を予感しながらも、お
うけけけけ、と笑声を発しながら、右手の鉄拳を懐に仕舞う。手練の女中からすれば、熾烈な攻防も準備運動に過ぎない。
「話には聞いていたが、凄まじい業前だな。そこらの武芸者とは、比べ物にならねえ。さてはて、どうしたもンかねえ」
ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべるお
「儂も少し迷うておる。如何にお主を斬るべきか」
獰猛な殺戮衝動を抑えきれず、厚めの唇を舐める朧。
「互いに、
「いいねえ。根拠のない自信が、実に中二臭くて
お
「だが、小便臭え小娘が考えるほど、現実は甘くねえンだよ。美意識やら矜持やらと喚いた処で、世の中が変わるわけもねえ。朧さんも難民とおンなじ。環境に適応できない弱者は、地べたに這い蹲るしかねえのさ」
話術で油断を誘うつもりか、単なる年増の長話か。
全く興味がないので聞き流していると、木陰から竹槍を携えた男が現れた。叛乱を起こした難民の生き残り。
雨に紛れて足音を消し去り、お
朧からは丸見えだが、対手に教える義理もない。気づかないふりをしていると、お
「雑魚相手に無双してればいいものを――蛇孕村に来たのが運の尽きだ。ルーリーが実地で教えてやンよ。過酷な現実ってヤツをなアアアア――」
竹槍を刺そうとした刹那、お
「――ッ!?」
標的を見失い、混乱する難民。
お
加えて独特な稼働音を放ち、右腕からも手甲鉤が飛び出す。小さな身体を半回転させ、難民の腹部に鉤爪を突き立てた。
「ぱにゃあ!」
「どオオオオちイイイイらアアアアさアアアアまアアアアでええええすううううかアアアア?」
苛立ち混じりに、吐血した難民を誰何した。
文字通り臓腑を抉る一撃。
手甲鉤を体内に捻り込み、難民の腸を引き裂く。
「今凄ええええ良いとこだったのによぉおおおお! テメエの所為で、決め台詞がぐだぐだになっちまったじゃねえか! 空気を読め、空気を! 決め台詞を遮っていいのは、
理不尽な罵倒を受ける難民は、多臓器不全で小刻みに痙攣している。手甲鉤で内臓を引き摺り出した刹那、息絶えて泥の上に倒れた。
お
「どうやら穴居人共は、全滅したわけじゃねえようだなア」
「そのようじゃな」
木陰から続々と難民が出現し、竹槍を掲げて両者を取り囲む。今度は老人や女ばかり。若衆が全滅したので、他の者も覚悟を決めたのだろう。
全員、二人を道連れに玉砕するつもりだ。
然しお
「雨の中でガチバトルとか疲れるだけだしよぉ。難民の残党狩りは、人斬り馬鹿の朧さんに任せるわア。ルーリーは適当な場所で一服してるンでえ。朧さんが残党を片付けたら、また遊ぼうぜええええ」
お
隙だらけではあるが――
「がらああああ!」
唐竹割で布を二つに斬り裂いたが、対手の手応えがない。
透波の使う変わり身か。
「おのれ……」
朧は前方の茂みを睨みつけ、忌々しげに呻いた。
「あとヨロシク~」
茂みの中から、お
おそらく森の中に隠れたのだろう。
老人や女衆が、徐々に包囲の輪を狭めてくる。老人だろうが女だろうが、命懸けで挑んでくる者は、
濡れた美貌を左手で拭うと、朧は口角を吊り上げた。
捕手……素手で相手を制する技術
天皇七年……紀元前二十三年
套路……中国武術の型
平包……風呂敷
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