第64話 一揆

 第二次難民集落視察団は、田圃の畦道を通り、黙々と広い道を進む。

 奏の前で馬の手綱を引くお瑠麗るり。その左隣を歩くのが、薙原本家若党の朧。奏の右側面を鑓持のお春が守り、弓持のお夏が左側面を固める。挟箱持のお秋と筒持のお冬は、奏の後方に付き従う。

 当然のように、途中で村人に気づかれて、畏敬の眼差しを向けられる。

 視察団を目撃した住民は、先頭の奏が露払いで、乗物の人物こそ重要人物であると認識するだろう。この時点で半ば目的は達成したと言えるが、屋敷に戻るまで気は抜けない。それに奏には、他の者に告げていない目的がある。

 隷蟻山に向かう為には、森林を切り拓いた道を通るか、浅瀬の下流を渡らなければならない。初めから川を渡るつもりがないので、難民が普請した道を進む。

 暫く進むと、景色が変わり始めた。

 長閑のどかな田園風景が途切れて、道の両脇に空き地が広がる。

 おそらくこの辺りに難民の長屋が建てられたのだろう。長屋は取り壊されて、影も形も見えないが、ぽつんと遠くに井戸がある。

 開墾した土地を与えるという虚言に騙され、開墾事業や灌漑事業に利用された挙句、隷蟻山に閉じ込められた難民の気持ちを思うと、奏は陰鬱な気持ちに陥る。

 彼らが薙原家を恨むのも無理はない。

 奏が進む道も、難民が舗装したものだ。薙原家は負い目こそあれ、難民を迫害する道理はない。やはり怨恨の緩和に務めるべきだと決意を新たにする。

 さらに進むと、前方に森が見えてきた。

 植林された猿頭山や馬喰峠と異なり、木々が疎らに生えている。渓流植物が多く、雑然としてるかと思えば、道端に白い花が咲いていた。群生する植物の違いは、蛇孕川に近づいている証拠だ。

 ここまで順調に進んでいるのだが……前方の朧を見遣る。

 後ろ姿しか見えないが、出発前の遣り取りが尾を引いているようで、明らかに不愉快そうだった。

 左手の親指で大刀の鍔を押し出し、僅かに刀身を見せると、親指を引いて鞘に戻す。カチカチと鍔鳴りの音が、静かな森に響き渡る。


 物凄く怖いんですけど……


 そうでなくても緊張しているのに、朧の露骨な示威行為が加わり、精神的に奏を追い詰めてくる。いつ爆発するか分からない火薬を運んでいるような気分だ。


 やっぱり不満が溜まってるのかな。


 薙原家に仕官して以来、朧は度々騒動を起こしている。

 庭に植えられた松の木を殴り倒したり、庭石を蹴り飛ばしたり、庵の柱に『朧参上』と刻み込んだり……もはや中二病の奇行と言うより、酒乱の八つ当たり。何度も台所に忍び込んで、酒を飲んでは暴れ回り、奏の部屋を荒らした事もある。主君が奏でなければ、切腹を申しつけられておかしくない。それでも反省した様子はなく、宮仕えとは思えないほど、自由な暮らしを満喫している。

 生来の天邪鬼の気質ゆえか、中二病の矜持に関わるゆえか。奏にも判別できないが、朧からすると、規律を押しつけられる事自体、耐え難い苦痛なのだろう。

 彼女は群れで狩りを行う狼ではない。喩えるなら、単独行動を好む虎だ。同輩と言えども気を許さず、己の快楽と奏の為に太刀を振るう。

 奏は変態の扱いに慣れていても、社会性の欠如した中二病の扱いに慣れていない。とにかく誇りを傷つけないように、ぼそりと小声で呟く。


「今回の視察が終わったら、みんなにお酒を振る舞おうかな」

「……」


 ぴたりと鍔鳴りが止まった。

 うまく殺気立つ猛虎を手懐けられたようだ。意外に容易く籠絡される虎だった。ともあれ、奏は胸を撫で下ろし、のんびりと周囲の景色を楽しむ。

 これなら雨が降る前に帰れるかも……と考えていた矢先、ぽつりと左頬に雨粒が落ちてきた。間を置かずに、ぱらぱらと小雨が降り始める。


「うわ……」


 馬上で天を仰ぎ、奏は思わず呻いた。

 すでに暗雲が垂れ込めており、次第に雨足も強まりそうな雰囲気だ。


「奏様、雨です」


 お春が淡々と呟いた。


「……そうだね。土砂降りになりそうだ」

「ンじゃ、予定通り撤収って事で。そういや誰が奏様の笠、持ってんだ?」

「大丈夫~、私が持ってるから~」

「ああ、うちと鉄砲も濡れてまう」


 鑓持の言葉を皮切りに、家人は撤収の準備を始める。


「奏様、雨が強くなる前に帰りましょう」


 お瑠麗るりが上目遣いに言うと、奏の表情が曇る。


「……ええと、ごめん。御屋敷に戻るのは、橋を検分してからにします」

「橋の検分ですか?」


 お瑠麗るりが不思議そうに尋ねた。他の家人も怪訝そうな表情を浮かべる。


「今回の視察の前に、作事や普請に関する書物を探していたよね? それで気づいたんだけど、蛇孕川に架けられた橋は、縄で造られた吊り橋なんだよ」

「はあ……」


 全く分からないというふうに、お瑠麗るりが首を傾げた。


「割木を縄で結んだ吊り橋は、柔軟性に優れているから横風に強い。反面、材料が縄と割木だから、腐食するのが早いんだよ。定期的に点検しないと、とても危なくて渡れない。でも墨川家には、吊り橋を点検した記録がない」

「そりゃ墨川家が手を抜いたんじゃないですかね? つーか、元々御先代が渡る為だけに造られたもんだし。造った後は、放置してたんじゃねえですか?」

「村の水車や用水路の点検は、細かく記載していたから、手抜きだとは思えない。御先代は難民と玉の取引を望んでいたから、吊り橋を放置していたとも考えにくい。その気になれば、浅瀬を歩いて渡る事もできるけど……大雨で川が氾濫したら、蛇孕村と『難民集落』を繋ぐ道は吊り橋だけ。それは御先代も承知していた筈だ。それなのに、吊り橋の点検を怠るなんて……何かイヤな予感がする」


 お夏が横槍を入れるが、奏は冷静に応じた。

 奏が視察に同行した理由は、常盤を安心させる為だけではなく、蛇孕村と『難民集落』を繋ぐ吊り橋の状態を確認する為でもあった。常盤が難民奉行に選ばれた時、難民の遺恨を緩和する為に、隷蟻山に必要な物資を届けなければならない。下流の浅瀬から運び込む事もできるが、大雨で蛇孕川の水嵩が増した時、舟を使わなければならず、流れが穏やかになるまで、延々と待ち続けなければならなくなる。それゆえ、吊り橋の状態が気に掛かるのだ。

 もし老朽化した吊り橋が崩壊したら、隷蟻山に残された難民は、陸の孤島に閉じ込められる。食糧が尽きれば、餓死者も出るだろう。最悪、疫病が蔓延するかもしれない。

 奏の疑念は先代当主だけではなく、おゆらにも向けられていた。遣り方をともかく、彼女も難民との交渉を望んでいるのであれば、吊り橋の重要性に気づいて当然。奏に説明する途中で、話題に出ない事がおかしい。


「別に奏様が行かんでも、吊り橋の点検ならうちらがするよ」

「お冬さんの意見を肯定します。雨が降れば引き返すように、おゆらさんから申しつけられています。すぐに撤収の準備を――」

「この中で僕より作事に詳しい人いる?」

「……」


 お春の言葉を遮ると、他の家人も押し黙った。

 無論、奏も作事に関しては素人だ。安全な吊り橋を造るだけの知識も経験もない。然し基礎教養の一環として、様々な作事や普請の講義を受けていた。一から吊り橋を造る事はできないが、吊り橋の耐久性を確認するだけなら問題ない。

 加えて家人の中には、奏より吊り橋に詳しい者はいなかった。


「勿論、蛇孕川を渡るつもりはないよ。ただ少しだけ時間が欲しいんだ。小半刻もあれば終わるから。吊り橋の確認に行かせてほしい」

「肯定しかねます」

「別に今日じゃなくても、次に来た時でいいじゃないですかね」

「雨が激しくなると、眷属の使役も難しくなって、周囲の警戒も疎かになるんだよ~。奏様が危険に晒されるかもしれないから~。予定通りに引き返さないと~」

「細かい事情は、僕がおゆらさんに説明するよ。みんなには迷惑を掛けないようにするから……」


 奏の訴えに、家人は難色を示す。

 彼女らの役割は主君の護衛であり、常盤や難民の件は管轄外。端的に言えば、常盤が難民奉行になろうと、難民が飢えて死に絶えようと、何の関係もないのだ。


「御曹司、それは上意か?」


 不意に朧が口を開いた。


「そ……そうですね。これは上意です」

「ならば従う他あるまい。上意ではの」


 周りを嘲笑うような口調だが、馬上の奏に朧の表情は見えない。だが、お瑠麗るりが前方に顔を戻す直前、忌々しそうに眉根を寄せた。


「……?」


 奏は怪訝そうに小首を傾げた。


「悪天候により引き返す予定でしたが、事情が変わりました! 僕達は吊り橋の状態を確認してから、御屋敷に戻ります! みなさんもそのつもりでいてください!」


 後列の女中衆にも聞こえるように、奏は声を張り上げた。

 改めて指示を発すると、馬首を前方に戻す。栗毛の駿馬は、雨に濡れた地面をお瑠麗るりに先導されて進む。

 奏は笠を被りながら、女中衆に本心を隠した事を申し訳なく思う。然し出発前に打ち明けると、おゆらに止められる。やはり自分の目で見なければ納得できない。

 顔を上げると、峻険な隷蟻山が峨々ががそびえる。暗雲が垂れ込めている所為もあり、近づきがたい雰囲気があった。

 最初に気づいたのは、常人離れした視力を持つ朧だ。


「御目当ての吊り橋が見えてきたぞ。ついでに見張りらしき者もおる」


 八町近く離れている筈だが、朧の目は森の奥の人影を捉えていた。


「それは蛇孕神社の巫女です。隷蟻山の監視役ですね」


 数ヶ月前に難民が強盗傷害事件を起こして以来、薙原家も蛇孕村の治安を守る為、隷蟻山の監視を徹底した。下流の浅瀬や吊り橋に物見櫓を建て、巫女衆を見張り番に立てたのだ。現段階での効果は未知数だが、何もしないよりマシだろう。

 薙原家の監視体制は、奏の予想を上回るほど杜撰ずさんだった。

 おゆらから聞いた話によると、評定で選ばれた使徒が隷蟻山に住む虫を使役し、難民の行動を監視するそうだ。蛇神の使徒でなければできない離れ業だが、実際の監視体制は穴だらけ。

 先ず雨が降れば、眷属を用いた監視が甘くなる。また冬になると、山野に潜む虫が少なくなるので、必然的に監視体制が緩む。

 一年に一回か二回、蛇孕村で罪を犯す難民が運良く――否、運悪く蛇孕川を渡河できるのもその為だ。

 使徒の人数が限られており、使役する眷属の種類も制限がある為、致し方ない事ではあるが……薙原家が本気で監視体制を強化していれば、難民が罪を犯す前に捕縛する事もできた筈だ。薙原家の威信を示す為、難民を衆人環視の中で公開処刑する必要もなかった。

 無論、奏におゆらを糾弾する資格はない。

 何も知らずに暮らしてきたとはいえ、難民の苦境を見過ごしてきたのは事実だ。無惨に責め殺された難民も哀れだが、今更悔やんだ処で死人は蘇らない。

 自責の念に苛まれるくらいなら、先の事を考えるべきだ。同じような悲劇を繰り返さない為に、現状を正確に把握したうえで、確実に不安の芽を摘んでいく。

 薙原家からすれば、隷蟻山に住まう難民は知恵の働く猿と同程度。下山して悪さを働くなら、その都度駆除すればよいとしか考えていない。

 難民に対する差別意識や監視体制を根本的に見直さなければ、これからも悲劇が繰り返される。常盤が難民奉行に就任した際には、色々と手を打たなければならない。

 諸々の改善案を考えている間に、視察団は川岸に辿り着いた。

 朧の言葉通り、吊り橋の前に二人の巫女が佇立していた。

 白い仮面で顔を隠した巫女は、樫木の八角棒を携えながらも、全身ずぶ濡れで悲惨な格好である。田圃に立つ案山子のようだ。

 十間くらいまで近づくと、巫女の様子がよく分かる。泥濘ぬかるみに足を取られたのか、二人とも巫女装束が泥塗れだ。それに髪の長さが違う。馬手に立つ巫女は、弓手に立つ巫女より髪が長い。濡れた髪が朱袴に張り付き、幽鬼の如く不気味である。

 奇妙な違和感を覚えながらも、奏は周囲を見回した。

 この場所から、物見櫓は見えない。おそらく木陰に隠れるように、吊り橋から少し離れた所に建てられているのだろう。

 吊り橋は、巫女が立つ場所の先にある。

 長さは十二間ほどだろうか。横幅は四尺に届く程度。両端に木製の柱が建てられ、数本の縄で割木を支えている。一応側面にも縄が張られており、吊り橋から滑り落ちないように配慮されていた。

 本家当主の乗物が、通過する為に造られた橋だ。作事した時は、安全を考慮していたのだろうが……これでは、確かに奏が確認するまでもない。

 誰が見ても、腐食が進んでいる。

 吊り橋の床である割木が、黒く変色してひびが入り、所々欠け落ちている。吊り橋を支える縄は頑丈のようで、なんとか渡る事はできそうだが、奏にこの橋を渡る度胸はない。


 ……これは補修と言うより、一から作り直さないとダメだな。


 本気で先代の本家当主は、難民と取引を行うつもりでいたのか。政治体制が合議制に戻されても、薙原家の対応は遅過ぎる。

 奏の想像以上に、蛇孕村を蝕む宿痾しゅくあは根深い。

 熟考しながら馬を進めると、朧がぼそりと呟いた。


「血の臭いがしおる」

「……え?」


 唖然とした奏が二の句を継ぐ前に、お夏が行動を起こしていた。

 本家女中衆の中で最速の足を活かし、一瞬で左側面から前方へ回り込む。寸毫の迷いもなく短弓を捨てると、矢筒から二本の矢を取り出し、両手で投擲した。


「あざです!」

「かばまち!」


 風雨が激しくなろうと、お夏は標的を外さない。二本の鏃は、同時に巫女二名の喉を貫いた。一人は即死したようで、どうと地面に倒れ込む。もう一人の巫女は、首を貫通した矢を震える手で掴み、苦悶の声を発しながら倒れた。

 奏は動転して瞠目する。


「なんて事を……ッ!?」


 一瞬の出来事で、お夏を止める余裕もなかった。即座に下馬しようとすると、朧が右手を挙げて、主君を引き止める。


「狼狽えるな、御曹司」

「朧さんの意見を肯定します。お夏さんは乱心したわけではありません」


 珍しくお春が、朧の言葉を肯定した。


「早く巫女を助けないと……ヒトデ婆の眷属を使えば、まだ間に合うかもしれない」

「見事な判断だと思うよ~。でもこの人達を気遣っても無駄かな~」

「だから何の話をしているんだ!?」

「奏様、落ち着いてえな」


 激昂する奏に、お冬が穏やかな声で語り掛けてくる。


「よう見てみい? 蛇孕神社の巫女は、戒律で髪の長さが決められとる。腰に届くまでの長さ。それ以上、長くても短くてもあかん」

「――ッ!?」


 血の気が引いた顔で、奏はもう一度巫女を見た。

 確かに二人とも髪の長さが違う。

 无巫女アンラみこに仕える巫女衆は、蛇神信仰の戒律に背けば、例外なく蛇孕村から追放されてしまう。抑も個性的な巫女など、一度も見た事がない。


「それだけじゃねえぜ」


 お夏は絶命した巫女に近寄り、白い仮面を強引に剥ぎ取った。


「こいつら、あーしらの符牒に反応しなかった。それに――」


 巫女の死に顔を晒す。

 苦痛に歪む形相は、年相応の年輪が刻まれていた。


「な……ッ!?」

「蛇孕神社の巫女は、二十歳で還俗が仕来り。だが、こいつはどう見ても、四十を過ぎてる。あーしらを嘗めてんのか」


 お夏は不愉快そうに、女性の屍を地面に叩きつけた。

 奏の下知を待つまでもなく、お夏はもう一体の屍を検視し始めた。

 白衣の背面に複数の穴が空いており、赤黒い血で汚れていた。成り済ましていた女の血ではなく、本物の巫女が残した血痕だ。


「後ろから数人掛かりで押し倒し、背中を何度も貫いたって事か」


 胡座に近い姿勢で踵を上げ、お夏は感想を漏らす。


「それで当ってると思うよ~。泥塗れの理由も説明できるしね~」

「お夏さんの感想を肯定します。屍は川に投げ捨てたかと」

「でも不思議やね。大勢にしろ小勢にしろ、吊り橋渡うたなら、巫女さんに気づかれるやろうに。不意を衝く方法なんてあるんやろか?」

「周囲の木々に隠れれば、できねえ事はねえと思うぜ」

「お夏さんの私見を肯定します。吊り橋を使わずに、徒歩で蛇孕川を渡河したと考えるべきです」

「川の上流? 下流の浅瀬ならともかく、上流を歩いて渡河したら、村の南側まで押し流されてまうで。てか、途中で深みに嵌まるやん。何尋なんひろあんのか知らんけど、この辺りは人の背丈より深いんちゃうの?」

「そこまでは知らねえよ。気合いと根性で泳いだんじゃねえの? 結構な数、溺れ死んでそうだけど」

「相手も必死だからね~。必死になって、本当に死ぬとか馬鹿だけど~。死を覚悟した兵は厄介だよ~」

「ばらばらに逃げられるよりマシやろ」

「お冬さんの見識を肯定します。が……雨で鉄砲が使えない以上、この中で一番楽をするのはお冬さんです」

「あは、バレてもうた」

「あ~ん、みなさんの御話が全然分からないですぅ」


 家人やお瑠麗るりが好き勝手に喋り出す。


「一体、何が起きてるんですか?」

「このオバハンらが、蛇孕川を監視する巫女さんを殺した。で――巫女さんに成り済まして、うちらを待ち構えていたんやね。要するに、うちらは嵌められたんよ」

「――誰なんですか、この人達は!?」

「先程から、儂らを取り囲んでおる連中の仲間よ」


 朧が冷静に告げると、両脇の木陰から複数の人影が滲み出てきた。

 ばさりばさりと枝葉を掻き分け、数十名の男女が視察団を取り囲む。性別も年齢も異なるが、皆粗末な着物で竹槍を携えていた。


「これは……?」


 戸惑いを露わにしながら、奏は周囲を見回す。

 いつの間にか、風雨は激しさを増していた。臓腑を震わせるほどの雷鳴が轟き、奏が騎乗する馬が怯えていななく。


「イッキ」

「イッキ」

「イッキ」

「イッキ」

「イッキ」

「イッキ」

「イッキ」

「イッキ」


 土砂降りの雨の中、難民は掛け声に合わせて竹槍を掲げる。

 朧は顎に手を当てると、極めて端的に呟いた。


「ふむ、一揆じゃな」


 興奮した難民が、一斉に襲い掛かる。

 最初に反応したのは、俊足を誇るお夏だ。魔法と見紛うほどの速さで、隊列の前方から右側面の茂みに飛び込み、一瞬で森の中を駆け抜けると、奏の背後に飛び出す。竹槍を構えて殺到する難民の意表を衝き、後ろから男の首を手突矢で貫いた。


「どなち!」


 男が倒れる前に、隣の女の心臓を抉る。


「ろびんそん!」


 甲高い女の絶叫。

 瞬く間に、無数の命が散らされていく。お夏が手突矢を抜く度に、大量の血液が飛び散る。難民側からすれば、思わぬ伏兵に横槍を突かれた状態だ。多勢で一気に押し切るつもりが、お夏一人に翻弄されている。

 別の男が、奏からお夏に標的を変えて、喚声を上げながら竹槍を突き出す。然し竹槍はお夏を掠める事もなく、味方の胸に突き刺さる。


「ひイイイイあイッ!?」


 仲間に右胸を突き刺されて、激痛で呻く難民の男。

 対手の動きを先読みするまでもなく、先手を取られても容易く反応し、あまつさえ背後を取るほどの余裕がある。仲間を刺した男の背面を取り、手突矢で右の鼓膜を突き破り、鉄の鏃で大脳を掻き混ぜた。


「どまどまぼう……」


 左耳から手突矢が飛び出し、両目両耳から血を流しながら、自分が刺した仲間と同時に倒れ伏す。

 一連の所業は、決して偶然ではない。全てお夏が計算した通り。奇襲で劣勢を挽回し、難民に動揺を与える。事実、命懸けの難民も虚を突かれ、竹槍を携えた姿勢で脚を止めていた。お夏の俊敏性を活かした撹乱は、集団戦で最大の効果を発揮する。兵は詭道きどうなり――という兵法の極意を、個人の武勇で達成できるのだ。

 お夏のお陰で、難民の出鼻を挫いた。

 奏が左側面に視線を移すと、お秋が六尺棒を繰り出していた。弓持の家人が自由に動き回るので、空いた穴を埋める為に、融通の利くお秋が左側面に移動したのだ。

 すでに挟箱を捨て去り、容赦なく難民の喉に六尺棒を突き込む。


「こりん!」

「てらじっ!」

「よーすてん!」


 左半身で六尺棒を中段に構え、黙々と六尺棒を繰り出す。対手が竹槍を突き出す前に、六尺棒の先端を喉に打ち込む。対手が先に動けば、竹槍の先端を六尺棒で軽く弾き、返し技を喉に打ち込む。中二病の対極と言うべきか。お秋の動きには、一切の無駄がない。最小の動作で確実に喉を潰し、一人ずつ難民を死に追いやる。


「弱過ぎ~」


 流石にお秋も飽きてきたのか、いらかの如く難民の屍が敷き詰められると、喉を突き込みながら愚痴を零す。鎖を伸ばす必要もない為、本当に退屈なのだろう。

 新たな難民が仲間の屍を踏み越えて近づこうとするが、戦場では悪手に過ぎない。屍とは、集団戦に於いて邪魔臭い障害物だ。体重を掛けて踏みつければ、死体に付着した血液や雨に濡れた着物で、足を滑らせる事がある。案の定、難民も屍の上で前足を滑らせ、後ろ足で踏み堪えようとした刹那、六尺棒の先端で喉を突かれた。


「たなべし!」


 喉を潰された難民は即死できず、屍の上で悶え苦しむ。呼吸困難で窒息死するまで、彼の生き地獄は終わらない。

 お秋は介錯もせず、他の難民に六尺棒を繰り出した。

 左側面は問題ない。

 奏が後方を向くと、前方にいた筈のお瑠麗るりが、気づかないうちにお冬の後ろへ回り、我が身を危険から遠ざけていた。従者としてどうかと思うが、お瑠麗るりは戦闘要員に含まれていない。他の家人の足手纏いにならない事が、主君の安全に直結する。ただしその分、お冬の負担が増えるのだ。そうでなくても、雨で鉄砲が使えない。油紙で包んだ士筒を棒のように振るい、難民が近づかないようにしているが、どれほど時間を稼いでいられるか。


「全然、楽ちゃうやん。めっちゃ忙しいやん」


 などと軽口を叩いているが、それほど余裕もない筈だ。

 加勢に加わりたいが、今の状況で奏が後方に下がると、お冬が士筒を振り回す空間すらなくなる。奏が動いても、足手纏いが増えるだけ。手の空いた家人が、助太刀に入るのを待つしかない。

 期待を込めて、馬手を見ると――

 まさしく鎧袖一触であった。


「かまかま!」

「るまんご!」

「でアごし!」


 お春が方形槍を振り回すだけで、数名の難民が同時に弾き飛ばされる。血飛沫や肉片を飛ばし、鉄の塊で上半身を粉砕する。大筒でも連発しているのかと思うほど、圧倒的な破壊力。

 中年の男に方形槍を突き立てると、


「どなたん!」


 鈍い破壊音を放ち、盛大に頭部が爆発した。首のない胴体が、おびただしい量の血を迸らせながら、糸の切れた人形の如く倒れ込む。

 敵の数が少ないので、お春一人でも持ち堪えられる。程なくお冬も援護に駆けつけるだろう。右側面を崩される心配はない。

 前方に向き直ると、朧が素手で暴れていた。

 刀を使わずに、竹槍を持つ難民を殴り飛ばしている。

 指二本で全体重を支えるほどの握力に、野牛を投げ飛ばすほどの膂力。加えて樹木を殴り続けた結果、当て身一つで人間を撲殺できるようになった。

 竹槍の刺突を躱しながら、交差気味に縦拳を顔面へ叩き込む。


「まあふい!」


 顔面を潰された男は、二間も後方に弾き飛ばされた。泥濘ぬかるみに叩きつけられ、四肢を痙攣させている。頭蓋骨陥没及び脳挫傷のうざしょう。間違いなく即死だ。

 続けて左拳を振り上げて、竹槍を携えた女の顎を打ち砕く。


「あごらし!」


 砕かれた顎が口腔内に押し込まれ、激しい呼吸困難を引き起こす。血泡が喉に詰まり、鼻から空気を吸う事もできない。地上にいながら、血の海の中で溺れるしかないのだ。彼女を救う手立てはない。悶え苦しみながら、窒息死する時を待つしかないのだ。


「うわああああ!!」


 年若い男が怒声を発しながら、竹槍を抱えて飛び込んでくる。

 顎を砕かれた女の連れ合いだろうか。

 朧は冷静に黙考しながら、竹槍を素手で受け流し、対手の喉に貫手ぬきてを打ち込んだ。

 呼吸器官と頸椎を同時に破壊し、悲鳴を上げる間もなく即死させる。女より早く死なせた理由は……特にない。朧からすれば、顎を潰すか喉を潰すかの違いでしかない。

 朧の武威に気圧されて、難民達に動揺が広がる。肩慣らしは済んだと言わんばかりに、朧は獰猛な笑みを浮かべた。


「ようやく幽玄オサレに太刀を抜くいとまができた」


 豊満な胸を突き出し、腰を捻りながら大刀を抜く。刀身で美貌の半分を隠し、ぴんと右手の人差し指を立てていた。予期せぬ争乱に巻き込まれても、朧は中二病の美意識を忘れない。

 やおら大刀を担ぐと、狼狽する難民達に接近した。土砂降りの雨を断ち切るかの如く、片手で逆胴に薙ぐ。


「「どごち!」」


 難民二名の胴体を一太刀で断裁。

 全く同じ断末魔を発しながら、二つの上半身が地面に落ちた。一拍の間を置いて、臓腑と血飛沫を撒き散らし、二つの下半身も前方に倒れる。

 生き試しに於ける二つ胴。

 本来、据物斬りで試す技術を実戦で使う剣鬼。

 多少平静を取り戻した難民達は、朧から距離を取り始めた。味方の屍が障害物となり、容易に前方へ踏み込めない。それでも戦意が衰えない処を見ると、確かに死兵と化しているのだろう。初めから玉砕覚悟で挑んでいる。

 何が此処まで難民を追い詰めているのか。

 奏は疑念を抱きながらも、再び後方へ視線を送る。

 一人で遊撃を果たすお夏の先。常盤が籠もる乗物に目を向けると、三十名余りの難民が殺到していた。


「――ッ!?」


 奏は我が目を疑った。

 警護役の女中の姿が見えない。すでに担ぎ手を除いて全滅している。多勢に無勢。虎の子の鉄砲が使えないという不利もあるが、護衛の意味を成していないではないか。

 驚く奏を尻目に、二名の担ぎ手も竹槍で突き刺された。

 難民達は、執拗に担ぎ手の死体を突き刺し、憎悪や鬱憤を晴らす。此方こちらが修羅の集団なら、彼方あちらは餓鬼の群れ。冷静な者など一人もいない。否、その中で若い男が、乗物の木戸に手を掛ける。


 狙いは常盤か――


 難民の目的は、乗物の中の人物を確保――或いは殺害。初めから視察団を分断し、代表と思しき人物を狙う。奏を取り囲む難民は、時間稼ぎの捨て駒というわけだ。

 時は一刻を争う。


「僕の事はいい! それより常盤を守れ!」


 馬上で奏が叫ぶと、


「無理です」

「もう少し待って~」

「ルーリーに期待しないでくださ~い!」

「すまんなあ。うちらの最優先事項は、奏様の安全確保や。どうか恨まんといて」


 家人が冷静に応えた。

 物言いに余裕を感じさせるが、彼女達の力量にも限度がある。数的不利を個人の武勇で凌いでいるだけで、奏以外の者を守る余裕はない。

 奏が唇を噛み締めた刹那、


「――ぃいやああ……あアああ――ッ!!」


 荒れ狂う波濤の如き絶叫の中で、途切れ途切れに少女の悲鳴が聞こえてくる。

 若い男が力ずくで常盤の腕を掴み、乗物の外へ引き摺り出す。


「くそ!」


 一手遅れた事に苛立ちながら、奏は躊躇なく下馬した。

 慌てたお瑠麗るりが、奏の側に近づく。


「か……奏様! 馬から下りたら危ないですぅ! 悪い難民さん達は、家人のみなさんが退治してくれますから――」

「馬上の方が目立つし、問答する時間もない!」


 女中の進言を退け、奏は声を張り上げた。


「朧! 正面に突破口を作れ!」

「承知!」


 命令を受けた朧は、嬉しそうに大刀を振るう。

 前方を遮る難民だけなら、朧一人で十分だろう。


「他の家人は、乗物を取り囲む難民を攻めろ!」

「だから無理ですよぉ。四方八方敵だらけですぅ」


 お瑠麗るりの泣き言を聞き流し、奏は矢継ぎ早に命令を発す。


「お夏とお秋は、常盤を難民から救い出せ! 此方の敵は、お春と朧だけで対処する! 前備まえぞなえは朧! 後備うしろぞなえはお春! 左備ひだりそなえはお冬とお瑠麗るり! 馬一匹を右備みぎそなえの盾にすれば、暫しの時は稼げる! 今すぐ戻れ! これは上意だ!」


 奏が上意という言葉を発した刹那、家人の自由意志はなくなる。家人の主力と言うべきお夏とお秋が、一目散に乗物へ向かう。二人の後ろ姿を見届けると、奏はお冬やお瑠麗るりと共に、愛馬の左側面に移動する。左側面から襲い来る敵は、お秋が一人で打ち倒していたが、まだ生き残りが四名ほど残されていた。


近間ちかまは堪忍して~」


 お冬は不満を漏らしながら、油紙で包まれた鉄砲を振り回し、五本の竹槍を弾き返す。

 一時的にお冬の負担を増やしたわけだが、これも奏の思惑通りだ。

 背後から馬の嘶きと、難民の喚声が聞こえてきた。右側面から竹槍で何度も馬を突き刺しているのだ。即席の楯代わりだとしても、果たして持ち堪えられるかどうか……家人や朧の疑念をよそに、奏は大声で叫んだ。


「朧! 常盤の声が聞こえるか!?」

しかと聞こえる! 森の中に引き摺り込まれたようじゃ! 今は迂回しながら、吊り橋へ向こうておる!」


 血の昂ぶりに興奮しながら、朧は口角を吊り上げて応えた。

 家人でも豪雨や難民の断末魔に遮られ、少女の悲鳴を聞き取れないというのに、朧の聴覚は常盤の位置を把握していた。

 次の刹那、奏の愛馬が嘶いた。

 ぶひひひんッ、と苦悶の声を上げると、胴体に数本の竹槍を突き立てられたまま、怒りに任せて走り出す。

 この時、ようやく朧や家人が気づいた。


 馬が盾になるわけがない――


 木製の置楯ではないのだ。獣が激痛に耐えながら、死ぬまで堪えるなど有り得ぬ事。然しこの場にいる誰もが、奏の上意に呑まれた。一瞬、馬が盾の代わりに利用できるのではないかと、本気で信じ込まされた。百戦錬磨の朧や家人の虚を突く判断力。奏の器量に度肝を抜かれているうちに、暴れ馬が難民の密集する前方へ突入した。


「カカカカッ」


 哄笑を発しながら、直前で馬を躱す朧。

 暴れ馬は難民を蹴り飛ばし、猛然と前へ突き進む。周章狼狽しゅうしょうろうばいした難民が両脇に退くと、暴れ馬は速度を緩める事なく、吊り橋の右脇を擦り抜け、蛇孕川に飛び込んだ。

 家人と難民は、戦闘中にも拘わらず唖然とした。

 結局、奏は何をしたかったのか。

 その疑問に答えを出したのは、朧とお冬である。


「御曹司! 前が空いたぞ!」

「お瑠麗るり! 奏様が先行しとる!」


 二人の言葉に反応し、お瑠麗るりが前方を向いた。

 奏が包囲網から飛び出し、朧の脇を走り抜けていた。朧が相手にしていた難民は、暴れ馬を避ける為、左右に分かれている。突出する奏を守る者も、包囲網を突破した奏に立ち塞がる者もいない。

 これが奏が、一瞬で描いた絵図だ。

 先ず難民は、常盤を即座に殺すつもりはない。殺害だけが目的なら、乗物の外へ連れ出す理由がないからだ。木戸を開け放ち、逃げ場のない常盤を竹槍で突き刺せば終わる。おそらく人質にするか、騒乱から離れた場所で殺したいのだろう。

 敵の動きは読めた。

 後は家人の動きを上意で縛り、常盤の救出に向かわせる。間に合わずに攫われたら、自分の馬を先手さきてに仕立て、強引に突破口を作る。朧の異常な聴覚なら常盤の位置も割り出せよう。吊り橋に向かおうとしていたのは、奏からしても好都合。前方に空いた道を走り抜ければ、常盤を攫う暴漢に追いつける。力ずくでも主君の暴走を止めなければならないのは、お春とお冬とお瑠麗るりの三人。お春は後方に回されたので、奏の行動を把握できない。奏の側にいたお冬も、敵の足止めをするだけで精一杯。戦闘員でないお瑠麗るりが、一瞬の隙に奏を見失うのは、仕方のない事だろう。

 朧も家人も戦慄を隠し切れない。

 血飛沫が飛び交う最中、冷静に筋立てを思い浮かべて、躊躇いもなく実行するとは……恐るべき判断力と実行力である。改めて奏の器量に驚かされるが、今はそれどころではない。守るべき主君が、完全に孤立しているのだ。

 お瑠麗るりが奏を追い掛けると、両脇の茂みから複数の人影が現れた。慌てて暴れ馬から退避した難民達が、再び前方の道を塞ぐ。

 お瑠麗るりは眉間に皺を寄せ、右隣に立つ朧も殺気立つ。奏の後を追うどころか、再び多勢で進路を阻まれた。

 不快そうに舌打ちをしながら、朧は大刀を前に突き出す。

 とにかく立ち塞がる難民を手当たり次第に斬り捨てる。己の前に立つ難民を皆殺しにすれば、奏と合流できるだろう。

 馬手から竹槍を突き出す若者の胴体を横一文字に斬り裂き、弓手から襲い掛かる竹槍を身の捌きで躱し、大刀で撫でるように首筋を引き裂く。頸動脈を切断され、帯を引くように血が噴き出した。次の刹那、左背面から稚拙な敵意を感じ、朧は反射的に上段から大刀を振り回す。


 ――女童めのわらわッ!?


 咄嗟に手の内を絞り、女童の頭頂部の手前で大刀を止めた。

 逆に――

 水浸しの女童が懸命に突き出した竹槍は、朧の右脇腹を貫いた。先端を焼きしめた竹槍が、着物と皮膚を貫いて脇腹に食い込む。


「あ、ああ……」


 生まれて初めて人を刺したのだろう。人体を貫く感触に怯え、竹槍を握り締めた状態で震えていた。


 ……不覚!


 己の軽率さをいましめると、恐怖で震える女童に嗤い掛ける。


「小娘……脇腹を刺す時は、力を込めて深く抉れ。童の力でも臓腑を傷つければ、対手を死に至らしめよう」


 わざわざ女童に人の殺し方を助言すると、左腕一本で容易く竹槍を引き抜き、女童ごと突き飛ばした。

 右脇腹の傷口に手を当てる。元々非力な女童が、怖々と突き出した刺突。急所に達しておらず、出血もそれほど酷くはない。戦闘に影響を与えない程度の浅手だが、対手が女童でなければ――そこらの雑兵であれば、確実に致命傷を受けていた。無論、女童でなければ、途中で刀を止めたりもしないが……返す返すも不覚である。

 ゆえに斬り合いは面白い。

 常に想定外の出来事が起こるからこそ、命の遣り取りは中二病の武芸者を飽きさせてくれないのだ。

 朧が前方に視線を戻すと、数名の難民が竹槍を突きつけてきた。斬り合いに慣れていない者ばかりだが、基本的に死兵の集まりだ。縦しんば、数名が怖じ気づいた処で、難民全体に恐怖が伝播しない。


「早く難民を退治してくださ~い。奏様が孤立してるじゃないですかあ」


 全く戦う気のないお瑠麗るりが、朧の背後で非難の声を上げた。


「お主も此処で死ぬか?」


 難民と一緒に斬り殺したいが、まだ時宜を得ていない。眼前の敵を薙ぎ払い、主君と合流する事こそ先決。

 沈思する間にも、難民は攻めてくる。

 単調な拍子で突き出される竹槍を大刀で斬り払い、返す刀で対手の額を断ち割る。


「ばアなし!」


 眉毛の上を横一文字に斬り裂かれて、傷口から脳漿と鮮血を垂れ流し、ぴくぴくと痙攣しながら倒れ込む。

 目測より二尺近くも間合いが伸びる片手打ち。

 武術を知らぬ雑兵や間積りもできない三流の武芸者が、為す術もなく斬り伏せられるのだ。痩せ衰えた難民に躱せる筈がない。

 返り血と雨粒を浴びながら、朧はニヤリと嗤う。


「退かねば斬る――と申した処で退きそうもないのう。然れど儂も御曹司と合流せねばならぬ。死にたい者から推して参れ。手早く片付けくれる」


 朧が言い放つと、数名の難民が一斉に竹槍を突き出した。




 群衆の中から飛び出した奏は、吊り橋の手前で常盤を抱える若者を見つけた。

 おそらく奏と同じ年頃であろう。然し外見が奇抜過ぎて、年齢を判断しづらい。山賊か蛮族の如き風体で、山狗の皮を頭に被り、眉毛を剃り上げた垢面を晒す。着物を身につけておらず、泥で汚れた褌に『国の借金である国債』と書かれていた。中二病を気取る悪魔崇拝者の類か。食糧不足で栄養が不足しているわりに、大柄で筋骨逞しい。右手に竹槍を持ち、左脇に常盤を抱えていた。

 抵抗する常盤に難儀しながら、吊り橋を渡ろうとする。


「常盤!」

「奏! 助けて!」


 吊り橋に足を踏み出した奏が叫ぶと、暴れていた常盤も奏の存在に気づき、涙を浮かべて絶叫した。


「なんだ、おみゃあ!」


 中二病を気取る悪魔崇拝者が、威嚇しながら誰何すいかした。

 特に応じる理由もないので、奏は冷静に状況を観察する。

 常盤は無事だ。

 少なくとも、目に見える範囲で怪我はしていない。


「無視するんじゃねえダニ! こいつが見えねえでごいすか!」


 中二病を気取る悪魔崇拝者が、怒鳴りながら常盤を抱き寄せた。

 人質を盾にするつもりか。暗器などを隠していない限り、武具は竹槍一本だけ。狙うなら右肩だが……狙いを誤ると、常盤を傷つけてしまう。それに足場が悪い。雨で濡れた吊り橋の上では、駆け出しただけでも転んでしまいそうだ。加えて橋の左右に縄はあるが、欄干らんかんと呼べる物はない。一度転倒すると、縄の間を擦り抜けて、川に滑り落ちる。

 一瞬で状況を把握した奏は、儀礼用の刀を抜いた。これも刃挽きされているが、切先で刺せば槍と変わらない。

 加えて朧の忠告を思い出す。

 躊躇わずに刺せ。

 常盤を守る為なら、迷いや葛藤も捨てられる。自己嫌悪に陥るなら、大事な者を守り抜いた後で十分だ。


「動くな! 動いたらブスリといくダニ。極悪非道の中二病――橋下はしもと小鬼ゴブリン様は、遣る時は遣る男でごいす!」

「ほい」

「ぽげえ!?」


 小鬼ゴブリンは頓狂な声を発した。

 奏が刀を投げたのだ。しかも柄尻を前に向けて投げている。

 柄尻を向けて投げたのは、常盤を傷つけない為の配慮。加えて刀を放り投げたのは、朧が披露してくれた技の真似だ。

 案の定、意表を衝かれただろうが、小鬼ゴブリンには余裕がある。対応できないほどの速さではない為、反射的に竹槍で刀を叩き落とした。

 小鬼ゴブリンの行動を予測していた奏は、一気に間合いを詰める。


 右肩が空いた――


 奏は左手を前方に突き出し、狩衣の左袖をまくると、腕輪のように絡みつく白刃を外気に晒した。


「ふみゃあ!」


 奏が大声で叫ぶと、持ち主の望み通りに動く白刃は、驚異的な速さで小鬼ゴブリンの右肩に襲い掛かる。右肩に曲がり刃を突き立てられ、小鬼ゴブリンは大仰に仰け反りながら後退する。


「イでええええッ!!」


 深手ではない筈だが、小鬼ゴブリンは痛みで我を忘れて、左手で右肩の傷を庇い、常盤の拘束を解いてしまった。


「常盤、怪我はない?」

「うん――」


 解放された安堵感から、常盤は奏の懐に飛び込んだ。奏は常盤を抱き締め、小鬼ゴブリンに視線を定める。

 まだ決着はついていない。


「僕の後ろに下がれ! 岸まで走るんだ!」


 右手で側面に張られた縄を握り、平衡を保ちながら叫んだ。


「いきなり攻撃するにゃあ!」


 激痛で呻いていた小鬼ゴブリンが、涙目になりながら蹴りを放つ。

 然し右の蹴足が奏に命中する直前、「うおッ!?」と軸足を滑らせ、大きく仰け反りながら転倒した。濡れた割木の上で、片脚に体重を乗せれば、転倒を引き起こすのも自明。

 これで小鬼ゴブリンは戦場から脱落した。

 家人と難民の戦いに注意を向けた刹那、急に常盤が絹を裂くような悲鳴を上げて、奏の両腕を掴んだ。


「――ッ!?」


 驚いた奏は、後方から下方に視線を向けた。


「お……落ちちゃうだに」


 なんとも情けない声。

 転倒した勢いで割木の上を滑り、吊り橋から落下しそうな小鬼ゴブリンが、咄嗟に常盤の右足を掴んだのだ。無論、常盤の足を掴んだ処で、落下を阻止する事はできない。小鬼ゴブリンが吊り橋から落ちた瞬間、常盤も引き摺り込まれるように、縄の隙間から身を投げ出された。常盤と小鬼ゴブリンの体重が、一気に奏の両腕に掛かる。当然、支えられる筈もなく、常盤の両腕を掴んだ状態で、奏は横向きに倒れた。


「がはッ!」


 二人分の体重が加わり、引き倒されるように割木へ叩きつけられたのだ。

 心臓や肺を守る胸骨に、複数の亀裂が奔った。さらに衝撃が内臓を揺さぶり、肺を押し潰す。激痛と呼吸困難で意識が遠のき、それでも常盤の手を離す事はなく――

 奏と常盤は小鬼ゴブリンに巻き込まれ、荒れ狂う河川に呑み込まれた。




 小半刻……三十分


 八町……約907.2m


 十間……約18.9m


 十二間……約22.68m


 馬一匹……戦国期の日本は、馬を一匹二匹と数えていた。


 半間……約0.945m


 先手……斬り込み


 国の借金である国債……悪魔崇拝者がよく使うデマカセ。日本国庫債券は、日本政府の負債であり、日本政府や日本国民の借金ではありません。

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