第63話 難民集落視察団

「一雨来そうだな……」


 礼装に着替えた奏が、曇天を見上げて呟いた。

 豪奢な練緯ねりぬきで仕立てられた蒼い狩衣。頭の上には烏帽子。腰に帯びた刀は、華美な装飾が施された儀礼用の飾り。薙原家は武家ではない為、二本差しの習慣はない。

 蒼は薙原家でも高貴な色とされており、本家の血を引く奏でも公務の時しか着用を許されない。普段から蒼い着物を纏えるのは、蛇神信仰の祭主たる无巫女アンラみこだけだ。

 視察に赴く前から、奏は溜息を零す。

 本家屋敷の大手門の前には、『難民集落』の視察団が集結していた。

 今更、天候の悪化を理由に延期はできない。来月の合議までに視察を終えなければ、難民奉行の件を通しにくくなる。加えて今回の視察で、常盤の将来が決定するのだ。

 視察団を引き連れて川岸まで赴き、蛇孕川を見物して引き返すだけなので、問題は起こらない筈だが――


「常盤……少しいいかな?」


 外から呼び掛けても、乗物の中から返事はない。

 不作法を承知で乗物の窓を開けると、常盤は南蛮幼姫ゴスロリ装束に身を包んで端座し、虚ろな視線で正面を見据えていた。

 奏が窓を開けても、全くの無反応である。

 三日前に難民奉行の件を承諾してから、常盤は体調を崩していた。狒々祭りの前ほど酷くはないが、心の病が悪化している。無言で虚空に視線を彷徨わせたり、おゆらが用意した食事を拒んだり、部屋の中でぶつぶつと呟いたり……

 夜も眠れないようで、目に見えて顔色が悪い。とても他家の者に見せられる状態ではなかった。

 今回の視察で常盤が乗物の外に顔を出す必要はなく、視察も一刻程度。昼までに戻る予定だ。今の常盤でも役目を果たすだけならできるが――

 無表情を維持する常盤に、敢えて奏は再び話し掛けた。


「乗物の中だと退屈じゃない?」

「……えっ? 別に乗り慣れてるから。平気」


 ようやく奏の存在に気づいて、常盤は明るい表情で答えた。

 作り笑いが痛々しい。

 難民奉行の重圧や己の将来に対する不安。近親憎悪と言うべき難民に対する嫌悪感が、心の中で複雑に絡み合い、脆い精神を蝕んでいるのだ。加えて難民と対面しないと確約された視察ですら、薙原家で確固たる地位を築くという目標と裏腹に、事前準備の段階でこの有様。

 本来なら時間を掛けて常盤の回復を待ちたい処だが、彼女を取り巻く環境がそれを許さない。加えて難民奉行を承諾したのは、他ならぬ常盤である。

 奏も腹を決めていた。

 心身共に常盤の支えとなり、如何なる困難からも彼女を救う。


「常盤――」

「……」

「たとえ何が起きても、絶対に常盤を守るから」

「奏……」


 青褪た顔が、次第に桜色に染まる。虚ろな視線にも熱が籠もり、瑠璃色の双眸に期待の輝きが見え始めた。


「信じていい?」

「勿論、前に言ったよね。僕は常盤の側から離れたくないんだ」


 他の者に聞こえないように小声で囁くと、常盤の美貌が桜色が朱色に変わり、耳まで赤く染めていた。


「……奏の馬鹿」


 常盤は消え入りそうな声で呟き、乗物の窓を閉めた。

 彼女の反応を見て、奏も安堵感を覚えた。やはり常盤は悪態を吐いている時が、精神的に安定している。

 常盤の精神状態を確認した後、乗物の周りを見遣る。

 警護を担当する女中は、担ぎ手二名と筒持つつもち二名。鑓持やりもち八名が二列に分かれており、乗物を取り囲んでいた。特に筒持が携えた中筒なかづつは、見る者に威圧感を与える。

 常盤の警護を担当する女中は、十二名とも奏の顔見知りである。つまりおゆらは、常盤の為に手練を用意してくれたのだ。しかも鉄砲手というオマケつき。畑仕事に励む村人が視察団を目撃したら、さぞかし仰天するだろう。これも来月の評定で難民奉行の件を押し通す為の計略の一環。本家の威信を示す為でもあるだろうが、おゆらの仕事に手抜かりはない。

 これで乗物の中の人物は只者ではないと、蛇孕村の隅々まで広まるだろう。少しずつでも常盤の影響力が増せば、難民奉行の役目を果たしやすくなる。仰々しい視察団を用意したのも、全ては常盤の存在を誇示するのが狙い。今回の奏の役割は、あくまでも常盤の引き立て役である。

 それゆえ、常盤より護衛の数を減らし、直属の家人から四名と飛び入りの女中を一名。それに侍一名の計六名に絞った。


「御曹司?」

「はい」

「儂は御曹司の家人と挨拶もしておらぬ。紹介して貰えると有難い」


 眉間に皺を寄せながら、朧が睨みつけてくる。

 数日前から、朧は機嫌が悪い。

 奏は困惑しながらも、家人の紹介を始める。


「そう言えば、まだ紹介してなかったね。先ず鑓持のお春さん」

「お春と申します」


 無愛想に応えながらも、小柄な女中が頭を下げた。

 口数の少ない人物だが、朧に強烈な水飴飛蹴足ドロップキックを浴びせ、庵の中から庭まで蹴り飛ばした強者つわものである。今は何食わぬ顔で奏の隣に立ち、方形槍ほうけいやりを右肩に担いでいた。

 方形槍とは、鋤を槍の形に造り替えた武具だ。鋤より刃が厚く、他の槍と使い方も異なる。太刀打たちうちで対手を叩きのめしてから、槍の穂先で仕留めるのではなく、巨大な金属の塊で人体を破壊する。

 力士でも持ち上げるのに苦労しそうだが、お春ほどの怪力の持ち主であれば、方形槍の重さも苦になるまい。いざとなれば、片手でも振り回せるだろう。

 抑もお春は、人間ではない。

 マリアが暇潰しに造り上げた機械人形からくりにんぎょうである。

 果たして奏は、お春が機械人形からくりにんぎょうだと承知しているのか。背中に巻鍵まきかぎをつけた女中に対して、何も思う処はないのか。薙原家の中では、機械人形からくりにんぎょうも没個性的な存在に変わるのだろうか。色々と奏に尋ねてみたい処だが、明確な解答が得られそうな気がしない為、朧は好奇心を押し殺した。


「次は弓持のお夏さん」

「弓持のお夏でーす。夜露死苦ヨロシク~」


 短弓と矢筒を携えた女中が、不敵な面構えで挨拶をした。

 おそらく彼女も人ではない。

 彼女の速さは、明らかに人類の限界を超えている。

 魔法使いとも考えられないので、超越者チートが手を加えたのだろう。機械人形からくりにんぎょう機械人間からくりにんげんか知らないが、マリアの玩具に違いない。


「早速だが、朧さんよ。薙原家には、他とは違う身分の差ってーのがある。あーしらは奏様の家人だが、朧さんより身分も禄高も上だ。その辺りの事情を肝に銘じておきな」

「ならば、お主は儂に背を向けぬよう、肝に銘じておくがよい。危うく同士討ちになるやもしれぬぞ」


 挑発された朧が、茶髪の女中に獰猛な視線を送る。両者共に顔を近づけて威嚇すると、慌てて奏が止めに入った。


「家来同士の喧嘩は禁止! 今回の視察は、常盤の為に必要な行事だ。途中で騒動を起こすようなら、仔細を問わずに喧嘩両成敗で処分するよ」

「へーい」

「承知した」


 主君の仲裁を受けて、二人とも距離を置いたが、ガンの飛ばし合いは終わらない。

 初対面でメンチを切り合うくらいだから、余程相性が悪いのだろう。これから大事な視察に向かうというのに、諍いを起こされたら困る。

 奏の心労を察してくれたのか、天然の女中が間に入る。


「視察の前に喧嘩はダメだよ~」

「お秋さん」


 心強い味方の出現に、奏は声を弾ませた。


挟箱持はさみばこもちのお秋だよ~。よろしくね~」

「お秋さんは、人柄も誠実で温和。女中衆の中でも頼りになる存在です。何か困る事があれば、お秋さんに相談してください」

「薙原家では、此奴こやつが常識人の部類に入るのか?」

「?」


 奏は不思議そうに首を傾げた。

 彼の言葉に他意はない。だからこそ余計に朧の神経を逆撫でする。

 数日前、振り杖を自在に操り、朧の右手を砕いた女傑。加えて挟箱を支える六尺棒は、戦闘の際に使用していた振り杖。いつでも挟箱を捨て、朧を殺す準備はできているというわけだ。


「あと筒持つつもちのお冬さん」

「筒持のお冬や。同じ主君を戴く者同士、仲良うしような」


 眼帯で右目を隠した女中が、朗らかな調子で右手を挙げた。

 家人の中で一番愛想が良さそうだが、朧はこの娘こそが最も危険な人物だと認識していた。彼女が左肩に担ぐ士筒で、武具庫から拝借した小刀を吹き飛ばされている。全く気配を感じさせずに、一町近い遠間から小刀を撃ち抜いた名手。その気になれば、朧の眉間を撃ち抜くなど造作もない。

 これほどの屈辱があるだろうか。最強の中二病を自認する朧が、家人からは取るに足らない雑魚だと思われているのだ。


 斬りたい!

 悉くこの場で斬り殺してやりたい!


 獰猛な殺意を抑え込み、朧は泰然と嗤う。


「カカカカッ、お主らと馴れ合うつもりはない。死にたくなければ、儂に話し掛けるな」

「朧さん……」


 自分から家人の紹介を求めておきながら、堂々と交流を拒絶する傲慢さ。奏が戸惑うのも当然だ。


「奏様は心配せんでもええよ。うちらは朧さんと喧嘩する気はないし、鉄砲で狙撃しろなんて物騒な下知も受け取らんから。余程の事でも起きない限り、うちらが殺し合うなんてない。だから朧さんも、そんなにビビらんでええよ」

「――ッ!!」


 額に青筋を浮かべた朧が、凶暴な殺戮衝動を理性の鎖で絡め取り、大刀の柄に伸ばしかけた右手を離す。

 彼女達は奏の家人だ。

 薙原家には、馬廻役という役職が存在しない為、家人が奏の親衛隊に該当する。本家女中衆から屈指の実力者が選抜されて、奏自身も気づかないように、護衛と監視の役割を果たしている。

 奏と岩倉の真剣勝負の際は、マリアからおゆらの下知に従うように言われていたので、符条の油断を誘う為に護衛の人選から外された。帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスが奏を拐かそうとした時は、馬喰峠の山道を封鎖していたので、朧と顔を合わせる機会がなかった。

 つまり四日前の晩に朧を四人掛かりで無力化した時が、彼女達の初顔合わせとなる。いや、同田貫を受け取る時、お春はその場にいたか。

 どちらにしても、中二と無謀は似て非なるもの。

 再び四対一で斬り合うのは、無謀を通り越えて愚行だ。今は太刀を抜く時ではない。

 奏の為にも。

 より甘美な斬り合いを楽しむ為にも。


「そ……それより馬の轡取くつわとりなんだけど」


 朧と家人の確執を知らない奏は、両者の不穏な雰囲気に怯えながらも、なんとか話題を逸らそうとする。


「先日まで轡取を務めていた家人が、突然の体調不良という事で。今日は、お瑠麗るりさんが代わりを務めます」


 長い髪を頭の両端で結んだ女中が、馬の手綱を握りながら、とことこと近づいてくる。


「初めましてー、ルーリーでーす♪ みんな、ルーリーの事はルーリーと呼ぶんでぇ。朧さんも気軽にルーリーと呼んでくださいね♪」


 上目遣いに媚を売るが、朧は全く相手にしない。改めて五人の家人を睥睨し、ふんと鷹揚に鼻を鳴らした。


巻鍵まきかぎ女中に捻子ねじ女中、天然女中と眼帯女中……最後は年増女中というわけか」

「え~、根拠もないのに年増呼ばわりとか酷いですぅ。ルーリーは朧さんより年下ですよぉ」


 一人だけ年増扱いされたお瑠麗るりが、くねくねと身を捩りながら抗議した。


「何がルーリーじゃ。露骨な年齢詐称も大概に致せ。世間知らずの御曹司は騙せても、同じ女子おなごの眼を欺けるものか。京で流行りの化粧水を塗りたくろうが、若作りに無理が出ておる。とうに四十の坂を越えておるとみた」

「酷いですぅ。ルーリーは、正直に話してるだけなのに……」


 お瑠麗るりが顔を伏せて、ぽつぽつと涙声で弁解する。

 朧の物言いは、根拠のない言い掛かりだ。奏が注意しようとした時、朧は自らの目元に右手の人差し指を当てた。


「目元に小皺、みーっけ」

「――ッ!?」


 咄嗟にお瑠麗るりが目元を隠すと、朧は底意地の悪い笑みを浮かべた。


「クククッ、すまぬ。どうやら見間違いのようであった。許せ」

「あは……あははははっ」


 乾いた笑い声を発するが、お瑠麗るりの眼光は殺気を帯びていた。心の中で「殺す殺すぶち殺す」と連呼する。

 結局、朧より年上なのか年下なのか……女同士の話題についていけない奏は、会話の内容に疑問を抱きながらも、そそくさと自分の馬に乗る。


「もう準備は整ったね。そろそろ行こうか」

「奏様、お待ちを――」


 見送りに来ていたおゆらが、穏やかな声音で奏を引き止める。


「雲行きが怪しくなって参りました。途中で雨が降るかもしれません。その時は、速やかに引き返してください」

「初めからそのつもりだけど……なんで今更そんな事を?」

「薙原家の眷属は虫ばかりです。どうしても雨の日は、監視が甘くなります」

「――」

「加えて難民が悪事を働くのも、雨の日が多いと聞き及んでおります。用心に越した事はありません」


 おゆらの物言いに、奏は眉根を寄せた。

 まるで雨が降り出すと、難民が下山して悪事を働くと言わんばかりだ。難民を野生の獣か何かと思い込んでいるのか。

 それに奏には、奏の考え方がある。


「……今回の視察は、常盤を難民奉行に据えるのが目的だ。無理に蛇孕川を越えたり、難民と直接交渉したり……とにかく無茶な行動は慎む。だから僕の監視は家人と蚤だけで十分だよ」

「お忘れですか? 奏様は御命を狙われております。作州の牢人衆だけなら、馬喰峠で足止めもできましょう。然れど黒田入水は別格。彼の者の軍略は、容易に私の想像を覆します。奏様の身に何か起これば、それこそ難民奉行どころではなくなります。常盤様の為にも、それだけはお忘れなきよう」

「……分かった」


 如何にも不承不承という風情だが、奏は馬上で首肯した。

 おゆらの言い分は、非の打ち所がないほど正しい。反論の余地がないくらい正論だ。然し薙原家に対する猜疑心は捨てきれない。難民奉行の件を聞いた時の違和感。その正体が突き止められていないのだ。

 胸中を掻き乱す焦燥感を自覚した奏は、平静を取り戻すように、もう一度常盤が乗る乗物に目を遣る。

 奏は妖怪でも機械人形からくりにんぎょうでも超越者チートでもない。瞬く間に全ての問題を解決するなど不可能だ。薙原家を救う病巣は、難民奉行の件が片付いてから、少しずつ解決していけなければならない。


「昼には戻るから。おゆらさんの忠告も胸に留めておくよ」


 如才ない笑みを浮かべるおゆらに、奏は硬い口調で言い返した。


「それと……視察が終わったら、『職人集落』について説明して貰う」

「――」

「言い訳は昼までに考えておいて」

「――」


 素っ気なく言い捨て、奏は馬首を巡らせた。

 第二次難民集落視察団は、実際に集落に訪れる予定もないのに、異様な緊張感に包まれながら出発した。




 機械人形……アンドロイド


 機械人間……サイボーグ


 挟箱……道中の着替えの衣服などを中に入れて、棒を通して従者に担がせた箱


 虫と雨……虫は雨で落とされる事はない。例えば、一般的な蚊の重さは、約2㎎。それに比べると、最も重たい雨粒の重さは、約100㎎。雨粒は、蚊の五十倍の重さを持つ。そして雨粒は秒速約10m。言い換えると、時速約35㎞の速度で落ちてくる。つまり蚊に対して雨粒は、自分の五十倍の重さの粒が、時速約35㎞で激突する。人間に当て嵌めると、体重60㎏の人間が、時速35㎞で3tのトラックに撥ねられるのと変わらない。実際、地面に止まる蚊は、雨粒の重さに耐えきれず、押し潰されて死んでしまう。100㎖の雨粒が秒速10mで1/1000秒で蚊に衝撃が加わると、瞬間的に蚊に掛かる重さは、約100gとなる(100㎎×秒速10m÷1/1000=100g)。これは蚊の重さである2㎎と比べると、およそ五万倍の重さであり、地面の蚊は為す術もなく押し潰れて死ぬ。然し蚊が飛んでいる場合、状況が大きく変わる。空を飛ぶ蚊は、雨粒にぶつかった時、雨粒と一緒に一定の距離を落ちる。実際に空中の蚊に雨粒を当てると、蚊は雨粒の一緒に4㎝ほど落下し、雨粒と分離した。雨粒と一緒に落ちる事で、約0.3gの衝撃しか掛からない(蚊の質量2㎎×速度2.1m/h÷加速に掛かった時間1.5㎜秒)。つまり雨の中でも眷属は、自由に隷蟻山を飛び回る事ができるが、使徒は人間と同程度の視力しか持たない為、雨の中では視界が制限される。加えて豪雨の時は、二十五秒おきに雨粒が命中し、何度も何度も眷属の視界が4㎝上下する為、非常に隷蟻山の監視が甘くなる。




 参考文献

『Mosquitoes survive raindrop collisions by virtue of their low mass』

 https://www.pnas.org/content/pnas/109/25/9822.full.pdf

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