第62話 難民

 三年前の事である。

 その日、隷蟻山の麓で木の実を集めていた左馬助は、脈絡もなく薙原家が建てた館に呼び出された。お咲という娘に伺候を命じられ、立派な門の前で深々と平伏しながら、本家の使者を待ち続ける。

 地面に額を擦りつけ、これまでの出来事を思い返してみたが、薙原家の機嫌を損ねるような真似をした覚えがない。然し自覚がなくても、相手は薙原家である。常識の通じる手合いではない。

 今から十七年も前、左馬助は異国の奴婢――サラを連れて、甲斐国から逐電した。

 状況を把握できない奴婢の手を取り、見張り役の上士を背後から斬り捨て、立身出世の望みや甲州兵の誇りをなげうち、初対面の南蛮人と駆け落ちしたのだ。

 当然、家宰が二人の逃避行を認めるわけがない。


「不忠者め。奴婢共々成敗致せ」


 と言い放ち、家来衆に左馬助とサラの殺害を命じた。家宰の顔に泥を塗られただけではなく、御家の醜聞を闇に葬る為にも、絶対に二人を殺害しなければならない。

 女人連れの左馬助は、国境の山道で刺客に追い詰められたが、森の中に逃げ込む事で難を逃れ、命辛々武蔵国まで辿り着いた。武州は、北条家が支配する国だ。武田の重臣といえど、おいそれと手出しはできない。

 さらに不幸中の幸いと断じてよいものか……左馬助が出奔した翌年、天正十年二月三日から織田・徳川・北条の連合軍が、武田の領土に同時侵攻。武田は未曾有の国難に直面した。木曽義昌や穴山梅雪などの謀叛も重なり、国土防衛戦を始める前に武田は総崩れ。追い詰められた武田勝頼は、造営したばかりの新府城を焼き払い、僅かな兵を引き連れて逃亡した。数多の人夫と足軽が血と汗を捧げ、最新鋭の技術で建造された新府城も、残された城兵が数百名程度では、まともに籠城戦もできない。結果、勝頼は天目山てんもくさんで織田兵に捕縛されそうになり、嫡子の武田たけだ信頼のぶよりと共に自刃。武の名門と誉れ高い武田家は滅亡し、国衆は次々と織田軍に投降した。

 世にう甲州征伐である。

 合戦を終えてからも、織田軍による武田の残党狩りは、真宗門徒兵虐殺に匹敵するほど苛烈を極めた。徳川家康と内通していた穴山梅雪を除く一門衆は、山中に追われて悉く討死。武田武士を匿う恵林寺えりんじは焼き討ち。織田軍は甲州兵の首に懸賞を懸けていたので、武田家の残党は同じ甲州の民から命を狙われる羽目になった。

 もはや左馬助の命を狙うどころではない。仕えていた主家が、生き延びているかも不明だ。その意味では幸運と言えるが、甲斐国に戻るのは危険過ぎる。

 甲斐国の受難は、甲州征伐の後も続いた。

 武田家滅亡から数ヶ月で、本能寺の変が勃発。織田信長が明智光秀に殺されたのだ。信長死亡の報告を受けた北条家は、すかさず信濃国と甲斐国に侵攻を開始。織田家の強権支配に反発する民が叛乱を起こし、信長から関東支配を任されていた滝川一益は、尾張国に退却せざるを得ず、甲斐・信濃の二ヶ国は、一時的に統治者不在の土地となった。

 その頃、本能寺の変から逃げ延びた徳川家康は、どさくさ紛れに武田家の旧臣を取り込み、八千の兵を率いて甲州へ出兵。数万の北条軍や北方の上杉軍と戦い抜き、穴山梅雪の旧領――駿河国東部を含む甲斐国と信濃国を奪取。織田家の遺領を守るという建前で、二ヶ国を奪取したのである。

 信長の横死を契機に、東国で起きた合戦を天正壬午てんしょうじんごの乱と言うが、驚くべき事に本能寺の変から半年も経過していない。武田家滅亡から、甲斐国と信濃国は戦争の繰り返しで荒廃。戦渦に巻き込まれる事を恐れた百姓が、集落を捨てて難民となる。左馬助が故郷に帰りたくても、荒廃した土地で生き残れる保障はどこにもない。

 然りとてサラを連れて、放浪の旅を続けるのも難しい。

 南蛮人特有の神秘的な美貌が、周囲の視線を惹きつけるからだ。銀髪を隠すように深く笠を被り、南蛮人だと気づかれないように腐心したが、如何に変装した処で、すぐに日本人でないと発覚する。日本語が流暢に喋れないのだから、長い銀髪や顔を隠しても、殆ど効果がないのだ。

 木賃宿きちんやどに泊まろうものなら、サラの美貌に気づいた牢人や行商人が、大勢の宿泊客が泊まる大部屋で、強引にサラを連れ去ろうとするのだ。その都度、左馬助は激昂して刀を振り回し、サラを連れて木賃宿から逃げた。

 とても宿を借りて生活できない。

 二人は安住の地を求めて、当てのない旅を続けた。

 行く先々の町で橋の下に小屋を建て、物乞いの如く見せかける。極貧という意味では、物乞いと何も変わらないが、手先が器用な左馬助は河原の小石を磨き上げ、玉に変えて道行く者に売ろうとした。

 然し全く売れなかった。たまに売れても、玉一つが五文か六文。玉の品質というより、どこの馬の骨とも知れない左馬助が商う玉を信頼して貰えないのだ。

 それでも左馬助一人なら、少ない稼ぎでも生きていける。だが、やはりサラの美貌が評判となり、次の町へ移動しなければならなくなる。

 身体の弱いサラに、いつまで放浪の旅を強いなければならないのか。どこかに安住の地を定め、安定した仕事を見つけないと、サラの寿命を縮めるだけだ。

 焦燥感に苛まれる左馬助に、顔見知りの商人が不思議な話を持ち掛けてきた。

 なんでも蛇孕村という山奥の集落で、開墾事業と灌漑事業を行う為、人手を集めているという。労働賃金を支払う事はできないが、人夫用の長屋が用意されており、衣食住に事欠く事はない。家族がいる者は、家族を呼び寄せても構わない。しかも大規模な新田開発に成功した暁には、拡張した分の田畑は人夫の所有物となり、蛇孕村に永住権が与えられる。

 この話を聞いた時、胡散臭い以外の感想が思い浮かばなかった。

 提示された条件が本当なら、行き場のない者達が押し寄せる。山奥の集落に、彼らを養うだけの金銭や食料があるのか。

 家族を呼び寄せても構わないというのも、人商人に売り払う為ではないだろうか。

 胡散臭い事このうえないが、他に行くあてもない。

 この先も旅を続ければ、いずれサラが力尽きて命を落とす。それだけは、絶対に考えたくない。

 止む無く二人は、商人に勧められるまま、蛇孕村に移り住んだ。

 左馬助の想像通り、集められた人夫は行き場のない者が多かった。それどころか、甲斐や信濃から逃げてきた難民が、全体の九割を占めていた。

 当時、武田家旧臣は松姫の住む八王子に身を寄せていたが、蛇孕村に移住を求める難民は、左馬助と同じく脛に傷のある者ばかり。素行が悪くて村落を追放された悪党や盗賊の成れの果てなど、まともな人物が殆どいない。幸運にも左馬助と面識のある者はおらず、理由は分からないが、サラに欲望の眼差しを向ける者もいなかった。

 最終的に集められた難民は、二百名以上に達する。彼らは心機一転、第二の人生を懸命に生きようと、薙原家が与える仕事をこなした。

 蛇孕川の上流から新田開発用の用水路を造り、本流の洪水を防ぐ。洪水の心配がなくなると、蛇孕川付近に乱立する樹木を伐採し、地中に張る木の根や大きな石を取り除き、農耕地を広げていく。当然、田園地帯に続く畦道も普請しなければならない。

 そのどれもが過酷な作業だが、難民は文句の一つも言わずに、黙々と肉体労働に従事した。いくら甲信の民が働き者だとしても、左馬助が不気味に思うほど荒くれ者が、地味な作業に取り組む。やはり開墾した土地が自分の物になるというのは、追い詰められた者達からすれば、希望と成り得るのだろう。

 薙原家も不気味な存在だが、決して難民を粗末に扱わなかった。

 難民を差配する墨川家の当主は、余程の無理難題でない限り、難民の要求にも応えてくれた。鋤や鍬など作業に必要な物を貸し与え、一日三度の食事を欠かさず提供し、小袖や日用品が足りなくなれば、青苧あおそや雑貨を支給してくれる。正月には、酒も振る舞われるのだ。濁酒の水割だが、酒が飲めるというだけで労働意欲も高まる。これで扶持さえ授けてくれれば、他に望むものはないが……流石に高望みが過ぎるだろう。いずれ農耕地が拡張すれば、全て難民の物となるのだ。

 然し――

 薙原家は、難民に二つの掟を課した。

 一つは夜間の外出禁止。

 作業を終えたら長屋に戻り、自分の部屋から出るなというのだ。例外的に夜間の外出が認められるのは、難民共同のかわやで用を足すか、病や怪我で医者に掛からなければならない時だけ。

 もう一つは、蛇孕村の住民との接触である。

 難民が移り住んできた頃から、蛇孕村の住民と会話をしたり、住民の家屋に近づく事を禁じた。難民と住民を二つに分け、互いに交流させようとしなかった。

 薙原家の意図はどうあれ、左馬助やサラは、特に不都合とも思わない。わざわざ藪を突いて蛇を出す理由がないからだ。然し他の難民はどうだろうか。二百人以上の難民が共同生活をしていれば、薙原家が課した掟を破る者が出てきてもおかしくない。左馬助は難民と住民の軋轢を危惧していたが、数年の月日が流れようと、掟を破る者が一人も現れなかった。

 本当に――

 何もかもがうまく行き過ぎて、気味が悪いくらいである。

 だが、一つの目的を達成しようとする者達が、「順調に行き過ぎて怖い」という左馬助の言葉に耳を貸す筈もなく、開墾事業と灌漑事業は着々と進んだ。

 加えて左馬助の疑念と関係なく、予期せぬ慶事が飛び込んできた。

 サラが赤子を生んだのだ。

 妻によく似た銀色の髪に、瞳の色は吸い込まれそうな瑠璃色。親の贔屓目を抜きにしても、将来は器量良しに育つだろう。左馬助は、自分の娘に『ふく』と名付けた。自分やサラのような波乱の人生ではなく、慎ましくも幸福に生きてほしいという願いを込めて、お福と呼ぶようになった。

 それから二年後――

 当初の予定より大幅に早く、水田開発と灌漑事業を終わらせた。

 度重なる河川の氾濫で荒廃した土地が、緑の苗で埋め尽くされた田園となる。秋になれば、黄金の稲穂が一面に広がるのだ。

 蛇孕村の穀物生産量も増加した。七年前と比べれば、十倍近くの収穫が見込める。病気で枯れた稲穂もあるが、虫や鼠による被害が少なく、植えた苗の八割を無事に収穫できたのだから、殆ど奇跡に近い。

 余程土地が良いのか、五穀豊穣の祈りが天に通じたか、蛇神の加護で鼠や虫を水田から遠ざけているのか……難民同士で与太話に興じられるほど、収穫を終えるまで幸福な日々が続いた。

 そして約束の日が訪れた。

 汗水を流して開墾した土地が、晴れて難民の所有物となる。

 その日の朝から、難民の男衆は蛇孕川の近くにある森の手前に集められた。女衆や童は長屋で留守番を命じられている。おそらく二百人余りの難民の前で演説するのが、薙原家からすると面倒臭いのだろう。

 彼女らの価値観に興味はない。

 難民からすると、約束通り土地を与えてくれたら、それだけで十分だ。集められた難民は皆、大事業を終えたという達成感と未来へと希望に胸を躍らせ、自然と笑みを浮かべていた。左馬助も同様である。美しい妻と愛らしい娘。三人で野良仕事に励み、平穏無事な人生を送る。これ以上の幸福など考えようもなかった。

 だが。

 薙原家の思惑や難民の行動に一抹の不安を抱く左馬助は、こそりと背中に鉈を隠していた。薙原家を疑うつもりはないが、武田軍で足軽働きをしていた左馬助は、主家や上役の命令を盲信する事に違和感を抱いていた。上役の命令が正しいなら、武田家は滅亡を免れていた筈だ。背中に武具を隠しておくのは、万が一の用心と安心感を得る為である。

 薙原家の使者を待ち続けていると、乗物が近づいてくる。金銀で装飾された豪奢な乗物で、難民の前に止まると、乗物の中から二十代前半の女が現れた。

 左馬助と同じくらい背が高く、藍色の小袖を着ている。

 細面で鼻筋が通り、切れ長の目に長い睫毛。綻びを感じさせない美貌は、人間らしさを感じさせず、まるで人形のようだ。見るからに身分が高そうで、容易に話し掛けづらい雰囲気を醸し出す。

 普段、開墾事業や灌漑事業を指揮していたのは、墨川家という分家の当主である。かなり人使いの荒い人物で、難民からすると印象は良くないが、華々しく各種事業の完成を発表するのは、彼女だとばかり思い込んでいた。

 肩透かしを食らう難民を尻目に、彼女は田中たなか帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスと名乗り、本家当主の名代である事を告げた。


「先ず皆様に心底から敬意を表します。甲信の民は、辛抱強い者が多い。蛇孕川を二つに分け、水田を潤す用水路を造り、荒廃した土地を田畑に変え、作物の増産に成功しました。是らは難民の努力が実を結んだ結果。薙原家を代表して御礼申おんれいもうしあげます」


 理知的な外見と裏腹に中二臭い名を持つ女は、難民相手にも丁寧な物腰で語り掛ける。

 だからこそ、次の言葉は衝撃的だった。


「然れど我々は、皆様に謝罪しなければなりません」


 帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスは間を置くと、冷淡な口調で告げた。


「開墾した土地を己の物にできると、私の母や人商人が話していたようですが――あれは嘘です」

「「「……?」」」


 一瞬、言葉の意味が分からず、難民はぽかんと口を開いた。


「人夫を集める為に、私の母が流布した虚言。薙原家は、初めから開墾した土地を与えるつもりはありませんでした。今は亡き母に代わり、田中家当主の私が謝罪します」


 事務的な口調で、帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスは頭を下げた。

 当然、難民の怒りに火がついた。


「そげな馬鹿な話があるか! 田圃も水路もウラたちが作ったズラ」

「約定と違うズラ!」

「ウラたちを騙しただか!? そんなの許せねえズラ!」


 難民が次々と非難の声を上げた。

 今にも帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスを取り囲みそうな雰囲気だ。

 然し彼女は、一切物怖じしない。


「私の話を聞く気がない者は、木偶の如く動きを止めなさい」


 途端に信じられない出来事が起きた。

 怒号を発していた難民が、一斉に動きを止めたのだ。彼女の言葉通り、木偶人形の如く動かない。

 左馬助は、驚愕して言葉も出なかった。

 自分を除く四十余名の難民が、ぴたりと停止したのだ。瞬きすらできずに、皆一様に虚ろな瞳で硬直していた。


 なんだこれは――魔法か!?


 異常事態に周章狼狽しながらも、左馬助は周囲を見回す。

 難民の中で唯一、正気を保つ人間を見つけた帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスは、少し驚いた様子で、左馬助に視線を向けた。


「この状況で平静を保つとは……少し意外ですね。然し丁度良い。この先は貴方に説明します」

「……」


 怒鳴り上げたい衝動を抑え込み、左馬助は息を呑み込む。

 全く状況を把握できないが、難民を皆殺しにするつもりであれば、すでに虐殺されているだろう。おそらく何か――左馬助の想像もつかない何かを告げる為に、彼女は一部の難民を森の近くに集めたのだ。


「当初は開墾と普請を終えた後、難民を下人にするつもりでした。難民を既存の住民に下げ渡し、田畑を管理させた方が効率的――と考えていたのですが、どうも難民は、我々の望むような存在ではありませんでした」


 困惑する左馬助に頓着せず、帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスは冷静に語る。


「生への執着が強すぎるのです。人生に希望を持ち過ぎているのです。土地を手に入れた暁には、家族と幸せな生活を――と考える程度ならよいのですが、余所の土地から縁者を呼び寄せようとしたり、作物の私曲しきょくを企む者まで現れる始末。故郷を追われた者ばかり集めたので、予想はしていましたが……我々が手を焼くほど我が強い」

「そんな話は聞いた事がない! 証拠でもあるのか!」

「証拠はありません」

「それなら――」

「確たる証がなくても、我々には分かります。難民の中に慮外者がいると。尤も此方も土地を与えるつもりがないので、逆心には当たりません。捕らぬ狸の皮算用。個人の希望が多過ぎるという例を挙げただけです。このうえ、子供は沢山欲しいとか、好いた娘と所帯を持ちたいとか、商いを始めたいとか……悠木殿の妖術にも限界があります」

「妖術? 何の話だ?」

「無理に理解する必要はありません。私は母と違い、安直な嘘が嫌いというだけです。私の話を聞きたくないのであれば、即座に敵意を示してください。自動的に『毒蛾繚乱どくがりょうらん』が発動して、身動きが取れなくなります。一時的に五感も遮断されますが、後遺症などは残りません」

「――ッ!?」


 左馬助が言葉に詰まると、淡々と説明を続ける。


「私は悠木家の使徒ではないので、正確な情報をお伝えする事はできません。ただ聞いた話によると、一つ一つの記憶や欲求を消去する為、『毒蛾繚乱どくがりょうらん』を何百回も重ね掛けした場合、精神的な負担が術者の想定を超えて、何をしでかすか分からなくなるそうです。それなら自我を消し去り、住民の命令に従う傀儡くぐつに変えた方が、安全で効率も良い。然し廃人同然の傀儡では、住民が難民に不審を抱く。すると今度は、住民の精神に楔を打ち込まなければならなくなり……見事な堂々巡りです。ゆえに田畑を管理する下人は、新たに人商人から買い集める事にしました。次は人生に絶望した者や自主性の欠落した者を集めましょう」


 左馬助は、荒唐無稽な話を呆然と聞くしかない。

 内容は徹頭徹尾、中二病や数寄者オタクが語る妄想と同程度。武田家に仕えていた頃、漫画マンガ板芝居アニメの影響を受けた兵も大勢いた。難民の中にも、中二臭い乱暴者はいる。

 だが、薙原家は本物だ。

 妖術を使う化生の集まり。不可思議な超常現象を引き起こす妖怪。武具を持たない難民が何百人集まろうと、まともな勝負にならない。


「どうか妻と娘だけは……」


 殆ど無意識に、左馬之助は敗北を認めて、家族の助命を願い出た。


「その心配は無用です。難民の命を奪うつもりはありません。人商人に売り飛ばすつもりもありません。個人的には『職人集落』を増やして、玉造りでも遣らせるべきだと思うのですが……御本家様の意向により、難民は隷蟻山に住む事が許されました」

「隷蟻山?」

「川の向こうに見える山です。知らなかったのですか?」


 帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスが、視線を逸らして遠くを見つめる。

 左馬助もつられて振り返ると、峻険な山が森の向こう側に見えた。蛇孕村を囲む山の中で最も高く、村の猟師すら近づかない場所だ。尤も左馬助は、その山に名がついている事すら知らなかった。


「これが御本家様の御命ぎょめいです。謹んで拝命してください」

「御命だと? ふざけるな、武士の真似事でもしているつもりか!」

「今の言葉は聞かなかった事にしましょう」


 左馬助が堪えきれずに罵声を飛ばすが、帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスは聞き流した。


「御本家様の真意は、私も計り兼ねます。大方、いつもの気紛れでしょう。とはいえ、難民の暮らし向きは、過酷なものとなります。難民一同、生き地獄に叩き落とされると思いますが……死ぬまで生き延びてください。それが御本家様の本意に適いましょう」

うぬら……ッ!」


 温厚な左馬助といえど、我慢の限界を超えていた。唇の端を引き攣らせ、両の拳を強く握り締める。


「隷蟻山で樹木の伐採は禁じられています.。農耕も許されていません。禁を破れば、郁島家が相応の罰を加えるでしょう。加えて難民は、蛇孕川を越えてはなりません。これは先程決めたばかりですが、他の分家衆も認めた村掟。広場に首を晒したくなければ、村掟を遵守してください」


 相手の怒気を意に介さず、帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスは説明を締め括る。


「他に伝えるべき事はありません。最後にもう一度、難民の皆様に礼を述べます。難民のお陰で、薙原家は巨万の富を得るでしょう。ありがとうございます。どうかこれらも懸命に生きてください」


 話す事は全て話し終えたと言わんばかりに、帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスは踵を返し、豪奢な乗物に乗り込む。


「待ってくれ! 我々に山の中で死に絶えろというのか! それが薙原家の遣り口だというのか!」


 乗物に詰め寄ろうとした刹那、更なる異変が起きた。

 急に空が暗くなった。

 薄紅色の蛾の大群が空を覆い隠し、寸毫の隙間もなく辺りを暗闇で包み込む。

 仰天して天を見上げると、数万の蛾が鱗粉を撒き散らしていた。霧雨の如く降り注ぐ鱗粉は、制止した難民や左馬助に降り掛かり――


 その先の記憶がない。


 気づいた時には、蛇孕川を越えており、隷蟻山の麓で呆然と佇んでいた。他の難民も同時に移動させられたようで、すぐに妻や娘と合流できた。

 然し隷蟻山に閉じ込められた難民は、狼狽する間もなく絶望を味わう。

 薙原家の定めた村掟を破り、渡河を試みた若者が、鉄砲で撃ち殺された。おそらく事前に鉄砲隊を配置していたのだろう。然し村を二分する川を監視し、難民の行動を逐一把握する事などできるだろうか。

 その後も不可解な事件が立て続けに起きた。

 難民の一人が焚き火をする為に、こそりと樹木の枝を折り、燃料の代わりにしようとした。水分の多い樹木の枝は、火付きが悪くて燃料に向いていない。その事は百も承知していたが、いくら地面を探しても折れた枝が見つからず、致し方なく薙原家の課した掟に背き、冷たい夜風を凌ぐ為に火を灯したのだ。

 翌日、その者は口から泡を吹いて死んでいた。自らの爪で喉を掻き毟り、苦痛に悶え苦しんだ事が窺える。首を絞められた形跡はなく、蛇孕川で溺れたわけでもないが、古老の見立ては窒息死。空気の溢れた隷蟻山の麓で、呼吸ができずに死んだというのだ。

 西側の急斜面から逃げ出そうとする者もいたが、七尾山を想起させるほどの断崖絶壁。傾斜の角度は七十度を超え、人間の力で降りられる高さではない。実際、数名の若者が斜面を降りようとしたが、例外なく手を滑らせて落下し、地面に無惨な屍を晒した。

 もう疑いようがない。

 妖術か魔法か知らないが、薙原家は特殊な能力を使う妖怪で、難民の一挙手一投足を監視している。村掟に背いた者は、慈悲の欠片もなく処分される。

 生き地獄と呼ぶに相応しい牢獄。

 それでも生きていくには、隷蟻山で暮らしていくしかない。相手は数十名の人間を瞬時に操り、自由に窒息死させる事ができるのだ。たとえ叛乱を起こした処で、難民の壊滅は必至。それでも薙原家に強訴を呼び掛ける者や蛇孕村から逃げ出そうと訴える者など、現実不可能な絵空事が飛び交い、難民同士で一触即発の状態となった。

 絶望や閉塞感が、難民から平静の判断力を奪い去り、最も安易で愚かな方法へ傾きかけていた。

 寧ろこれが、難民の本来の姿なのだ。

 帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスの言葉を思い出し、左馬助は合点がいった。

 何故、荒くれ者の多い難民が、唯々諾々と薙原家の命令に従い、灌漑事業や新田開発に従事していたのか。

 薙原家の妖術で精神を操作されていたからだ。

 夜間の外出禁止令や村人に接触しないという村掟を守り通したのも、『毒蛾繚乱どくがりょうらん』で難民の意思を縛りつけていたから。

 おそらく他にも、難民同士で諍いを起こさないとか、墨川家当主の指示に従うとか、薙原家に敵意を向けないとか、様々な制約を課されていたのだろう。

 そうでなければ、数百人規模で移り住んできた難民が、既存の住民と騒動を起こさないなど考えにくい。左馬助も疑念を抱いていながら、危機感を持つ事ができなかった。疑いを持つ事はできても、危険だと感じる事ができないので、問題を解決しようと考えなかった。否、考えられなかった。


 このままでは拙い……


 仲間割れを始めそうな難民を遠目に見ながら、左馬助は危機感を募らせた。

 合戦に出陣した経験はないが、年配の足軽から戦場のイロハを教えられている。戦場で部隊が壊滅寸前まで追い詰められた時は、行動指針を明確にする事。玉砕でも退却でも構わない。どちらを選ぶにしても、中途半端な決断しかくだせない武将は、自然淘汰の如く手柄を立てられずに討ち取られる。

 加えて指揮系統が混乱した場合――特に乱戦で部隊長が死亡した時は、身分の上下を問わず、誰かが勇敢な行動を示さなければ、臆病風に噴かれた足軽や雑兵が逃散し、部隊は完全に崩壊する。

 まさに戦場と同じだ。

 現状を放置すれば、難民同士で殺し合うか、一人残らず餓死する。とにかく家族に危害が及ぶ事だけは、避けなければならない。蛮勇でもよいから行動を起こさなければ、誰も左馬助の言葉に耳を貸さないだろう。

 武具と呼べる物は、背中に隠していた鉈一本。妻子を近くの洞穴に隠し、殴り合いを始めた難民達から離れると、左馬助は一人で山頂を目指した。

 一刻後。

 未だに殴り合いや口論を続ける難民の前に、血塗れの鉈を携えた左馬助が現れた。全身傷だらけで凄惨な姿だが、ズルズルと猪の死体を引き摺り、食料の確保が可能であると難民に証明してみせたのだ。

 それ以来、左馬助は難民を指導する立場になった。

 難民が村掟に背かないように、硬い石で土を掘り進め、住居用の洞穴を造る。各所帯の住処を確保すると、若衆は左馬助と共に狩りを行う。女衆や童の役目は、食べられそうな野草や木の実、折れた枝や枯れ葉を採集する事。

 各々の役割を明確にする事で、目先の仕事に集中させる。過酷な環境でも生き延びられると、難民に自信を持たせようとしたのだ。

 先に結果を語ると、それもすぐに破綻した。

 狩りに出た処で、必ず獲物を発見できるとは限らない。運良く見つけられたとしても、近づくだけで逃げられる。縦しんば、接近できたとしても、若衆の武具は左馬助の鉈と折れた枝で作成した石槍。獲物を仕留める為には、何度も鉈や石槍を叩きつけなければならない。当然の如く、その間に逃げられたり、逆上して反撃してくる。他の若衆も左馬助の援護に回るが、即席の石槍では致命傷を与えられず、獣の逆襲で死傷者が続出した。

 浅手ならまだしも、深手なら手の施しようがない。難民の中に医者はいないのだ。出血多量や傷が膿んで死亡する者が絶えず、左馬助と共に狩りに出ようという者が、数度の狩猟活動で激減した。

 せめて弓を作る事ができれば……罠を作る事ができれば。

 飛び道具を造れば、安全に鹿や猪を仕留められる。罠を仕掛ければ、狩猟という手間も省ける。然し折れた枝で弓を作る事はできず、獣道に落とし穴を掘ると――穴掘りを任せた者が、胴体を切断されて死んでいた。穴を掘る途中で、大木の根を傷つけたからだ。

 完全に八方塞がりである。

 狩猟だけでなく、採集も順調とは言えなかった。急に嵐が到来しないと、折れた枝も木の実も地面に落ちたりしない。山芋やわらびを食べても罰せられないと判明した事が、収穫と言えば収穫か。

 最悪の事態は、一ヶ月後に訪れた。

 若衆が命懸けで仕留めた鹿肉を燻製くんせいにして、食料の保存を試みたのだが、何者かが勝手に燻製を盗んで食べた。敢えて何者かと前置きをしたのは、燻製の見張りをしていた者が盗んだとしか思えないからだ。然し見張りの者を脅迫して、別の誰かが燻製を食べた可能性も捨てきれない。左馬助が逡巡しているうちに、血気に逸った若衆が見張りを殴り殺した。この時には、左馬助も諦観を覚えていた。

 結局、食料の備蓄は争いを招くと判断し、蛙や鼠やいなご蝸牛かたつむりを食べながら、隷蟻山に閉じ込められて、最初の秋が訪れた。

 その間にサラが死んだ。

 軽い風邪を拗らせて体調を崩し、洞窟の中で寝たきりとなった。左馬助は不眠不休で看病したが、三日目の朝に心臓が止まり、眠るように息を引き取った。

 もはや左馬助の心の支えは、娘のお福だけだ。

 難民の共同体も崩壊寸前である。

 左馬助を頼る者もいたが、今の彼に難民を統率する気力はなかった。

 それゆえ、若者が自暴自棄となり、蛇孕村に侵入するのも止められなかった。数日後に若者の首が隷蟻山に捨てられても憤りすら覚えない。よく川を越えられたな……と達観するだけ。それほど左馬助の心は疲弊していた。

 左馬助の妻以外にも、多くの難民が飢餓や病気で命を落とした。狩猟や採集で食料を手に入れられるのは、秋の冷たい風が吹く頃まで。冬になれば、草木は枯れ果て、獣や虫も姿を消し、容易に食べ物を見つけられなくなる。

 雪が降り始めると、完全に食料が入手できなくなった。然し蛇孕神社の巫女衆が隷蟻山の麓に大鍋を持ち込み、稗粟の粥を振る舞ってくれた。これも薙原家の気紛れか。難民からすれば業腹だが、炊き出しを拒むと餓死する。左馬助も他の難民と同様、巫女衆に頭を下げて、二人分の粥を椀に注いで貰った。左馬助は屈辱の涙を流したが……全ては娘の為である。

 左馬助の望みは、娘のお福を守る事のみ。妻と同じく身体の弱い娘が、少しでも長く生きられるように祈る事。それだけが左馬助の生き甲斐であり、唯一の希望である。

 冬は巫女衆の施食で食べていけるが、春になると元の生活に戻る。本当に恐ろしい事だが、劣悪な環境に慣れ始めると、難民の生活様式も野生の獣に酷似してきた。

 難民同士が疑心暗鬼に陥り、個人が自由に縄張りを主張し始め、飢えを凌ぐ為に狩猟を行う。狩猟や採集で成果が得られなければ、難民同士で食料を奪い合い、弱者は搾取の対象となる。

 蛇孕村の住民が、難民を蛮族と蔑む遠因だ。平穏無事な生活を謳歌してきた住民には、彼らの心情など理解できない。稀に隷蟻山を下りて暴れ回り、仲間同士でも平気で対立する。事情を知らない者からすれば、暴力的な蛮族にしか映らない。

 もはや難民を統率する存在もいない。血気盛んな若者もいるが、彼らに集落を束ねるだけの器量はなかろう。寧ろ仲間意識のない中二病に、期待する方が愚かしい。

 明日、自分がどうなるかも分からない。

 猪に挑んで命を落とすか。飢えに苦しんで命を落とすか。崖から落ちて命を落とすか。同じ難民に食料を奪われるか。

 それでも月日は流れていき、難民の数は半分に減った。誰もが『難民集落』の滅亡を実感していた頃、不意に奇妙な報せが舞い込んできた。

 薙原本家の当主が、直々に『難民集落』を視察するというのだ。

 耳を疑うような情報を伝えた後、本家の女中衆と多くの下人が隷蟻山に移り、村掟を無視して樹木を伐採。山の中に道を拓いて、塀に囲まれた館を建てた。わざわざ本家の当主が一泊する為、莫大な銭を注ぎ込んで建築したそうだ。

 難民が死守してきた村掟とは、一体何だったのか。

 左馬助や難民は、館の作事を遠くから眺めていた。薙原家に取り入ろうとでも考えたのか、難民の一人が手伝いを申し出たのだが、媚を売るような言葉を語る途中で、女中の一人に懐剣で首筋の血管ちくだを斬られた。それ以来、触らぬ神に祟りなしと、誰も館に近寄らなくなった。

 左馬助とお福も洞窟に籠もり、『難民集落』の視察が終わるまで、外出を控えるようにしていた。お福の外見が目立つというのもあるが、帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスが左馬助の顔を覚えているかもしれない。殊更恨まれているとも思えないが、もう二度と彼女に会いたくないというのが本音である。

 そして食料の備蓄が底をつき、山菜採りに出掛けた左馬助は、本家の女中に声を掛けられ、館の前に来いと命じられた。

 これが現在までの経緯である。

 小半刻は待たされただろうか。

 先程、左馬助を呼び出したお咲という女中が再び姿を現し、門の前で平伏する左馬助を見下ろしながら告げた。


「あの銀髪の娘は、お前の子供だな?」


 お咲の口調は詰問ではなく、確認という風情である。


「……はっ、私の娘でお福と申します」


 どうして薙原家がお福の存在を知るのか――疑念が脳裏を駆け抜けたが、相手は得体の知れない化生。この場で考えても答えは出まい。


「そのお福という娘――薙原家が貰い受ける」

「今……何と仰いましたか?」

「お前の娘は、薙原本家が預かる。御本家様がお気に召した」


 予想外の発言に、左馬助は動揺を隠しきれない。


「何故、薙原家がお福に興味を……どうか仔細をお聞かせください」

「左様な事は知らぬ。然れど御本家様がお前の娘をお気に召したのは、紛れもない事実。難民の子ではなく、本家の猶子として育てるとの由。これからは食に事欠く事はない。武家の姫君と同等の教養を授ける。いずれは然るべき良家に嫁がせ、平穏な暮らしを約束しよう。お前も親として本望であろう」


 本家当主の使者は、億劫そうに語る。加えて他人の受け売りというか、決められた科白を話すだけという風情で、堅物という印象を受けた。

 だが、帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスと比べれば、内心が顔に出るだけでも未熟の証。圧倒的に経験不足というか、彼女より一枚も二枚も格が落ちる。

 加えて帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスの話が事実なら、お福の記憶は書き換えられる。薙原家には、他者の精神を操作し、記憶を改竄する妖怪がいる。余計な記憶は全て消し去り、土豪の猶子に取り立てられる。

 それで良いのだ。

 怪奇現象と思しき事件など、記憶に残した処でお福の心身を弱らせるだけだ。

 それに母親と同様に、身体の弱いお福が隷蟻山で長生きできるとは思えない。サラと同じく、二十代まで生き続ければ良い方だ。然し規則正しく食事を摂り、人並みの体力をつければ、母より長く生きられるかもしれない。

 もう一つ心配なのは、集落の悪童が左馬助の目を盗んで、お福を虐待していた事だ。彼らは弱者から食料を掠め取り、逆らう女衆や年寄りを殴りつけ、中二病を気取りながら周りの者を虐げる。

 一度、左馬助が悪童達を懲らしめたが、それでも執念深い彼らは、今でも大人に隠れてお福に絡んでいるようだ。

 刹那の間に、左馬助は複数の思考を巡らせ、恭しく口を開いた。


「お願いしたき儀があります」

「願いだと?」

「我々と取引して頂きたい」


 勢い込んで懇願した刹那、平伏する頭の近くで、ばんっと地面が爆ぜた。

 堀の外側に待機していたのか――死角に隠れた鉄砲手が、いつでも左馬助を狙撃できるように隠れていたのだ。鉄砲でなければ、お咲の妖術という事になる。


「薙原家と取引できる立場か?」


 軽侮の念を込めて、左馬助は後頭部を見下ろす。

 開墾事情や灌漑事業に従事していた頃から気づいていたが、薙原家は男性を軽視する。この娘も男を下等な存在だと見下している。


「抑も何と何を交換するつもりだ? 実の娘と食料でも交換する気か?」


 お咲が嘲笑すると、左馬助の心に希望が湧いてきた。

 本家当主の使者という若い娘は、帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスほど交渉や駆け引きに慣れていない。言葉を選んで誘導すれば、此方の土俵に乗せる事も可能だ。


「……我々が仕留めた鹿や狼の皮で、太刀の拵えや甲冑造りに必要な革皮を作ります。然る後――」

「話にならぬ。獣の皮なら村の猟師が供給する。お前達に交渉材料などない」


 冷たく言い放つと、左馬助は必死の懇願を続けた。


「ならば、玉は如何でしょう! 下流の浅瀬に向かえば、色鮮やかな小石が無数に落ちております! これを研磨すれば、立派な玉となりましょう!」

「論外だ。玉など高値で売れる物ではない」

「然し薙原家には、必要な物ではありますまいか?」

「何?」

「以前、田中殿が仰っておりました。『職人集落』を増やして、玉造りを遣らせた方が良いと――」

「――ッ!?」

「薙原家に玉が必要な理由が、何かあるのではありませぬか?」

「難民風情が、政に口を挟むな!」


 探りを入れるような物言いに、お咲が感情を爆発させた。


「何卒! 何卒、御本家様に御取次を!」

「くどい! 御本家様は男と対面しない! それ以上、申すのであれば……」


 怒鳴り散らしていたお咲は、唐突に口を閉ざした。

 一体、何が起きたのか……暫くお咲は呆然と佇んでいたが、急に「難民の騙りです。信用に値しません」と独り言を呟き、さらに渋面を作った。


「何か……?」

「……御本家様が、お前の言葉に興味を持たれた」


 苦虫を噛み潰したような顔で、お咲は慇懃に応えた。


「おおっ――」

「お前に玉造りができるかどうか……真偽を調べる為に、少しばかり時を要する。交渉はその後だ。よいな?」

「ははッ」

「それと交渉相手はお前だ。藤井左馬助と申したか? お前以外は交渉相手と認めない。他の誰が玉を持ち込んでも処罰する」

「それは……」

「当然の措置だ。それとも此度の取引が決裂した後、他の難民もまとめて処分してほしいのか?」


 左馬助は押し黙り、思考を整理し直す。

 つまり交渉の窓口を一本化したいのだろう。わざわざ難民が磨いた玉を個別に買い取るのも手間が掛かる。

 左馬助一人に責任を押しつけられた形だが、『難民集落』の再生を目指すなら、指導者は一人に選別すべきだ。

 絶望で塗り潰された左馬助の心に、一条の光明が差し込んできた。

 玉取引が軌道に乗れば、食料や銭と交換できる。一時的な食糧難の解決のみならず、貯めた銅銭で薬や家屋の建築する為の木材、着物など生活必需品を購入すれば、難民の生活水準は劇的に向上する。無論、交渉の窓口を任された左馬助の責任は重大。加えて必然的に利益の分配も主導しなければならない為、他の難民から恨みを買うだろう。それでも飢餓地獄から這い出せるかもしれないのだ。サラが病没して以来、左馬助は久しぶりに希望という言葉を思い浮かべた。

 お福も薙原家に任せて問題あるまい。気紛れで難民を隷蟻山に押し込み、虚言で他人を誑かすような連中だが、組織の構造は強固だ。左馬助の私見だが、武田家より織田家に近い。本家当主の上意が絶対。惣領が望むなら、難民の子供でも猶子にする。

 一瞬、お咲の言葉が全て出鱈目で、お福を人商人に売り飛ばす気ではないかと危惧したが、それなら左馬助に確認を取る必要はない。得意の妖術で左馬助の精神を操り、お福を連れ去ればよいだけの事だ。

 これでお福も救われる。

 もう悪童から理不尽な暴力を受けたり、飢えで苦しむ事もない。サラが死んだ事で薙原家に対する恨みは捨てきれないが……最後まで娘の将来を案じ、儚くも命を落とした妻の無念を思えば、憎しみを心の奥底に押し込む事など容易い。


 これで良い。

 これで良いのだ。


 己に言い聞かせるように、何度も心の中で呟いた。


「話は終わりだ」


 お咲はそう言うと、袖の中から麻袋を取りだし、軽く地面に放り投げた。麻袋を結ぶ紐が緩み、左馬助の前に砂金まさごの粒が飛び出す。


「これは……?」

「代金だ。これからも我々と取引がしたいなら、前金と考えてくれて構わない」


 憮然とした様子で呟き、お咲は踵を返して門を開ける。

 正門の内側――正面入り口に、銀色の髪を持つ少女が幽鬼の如く佇んでいた。


「おっ父……」

「お福!?」


 どうして此処に……という言葉は、お福の悲痛な表情を見上げ、喉の奥で止まった。

 憎しみも憤りもなく、驚愕で青い目を見開いていた。父の所業が信じられない様子で、お咲に腕を引かれて屋敷の奥へ連れて行かれる。

 まるで人商人に売り飛ばされる娘のように、瑠璃色の瞳は絶望に染まった。

 お福は、一切の事情を聞かされていないのだ。何も知らずに、先程の遣り取りを門の内側で聞かされたら、実の娘を金銭で売り飛ばしたと思われても仕方がない。


「ウラを売るの? ウラは、おっ父に捨てられたの?」

「違う……違うんだ、お福……」


 これが薙原家の酔狂。

 親子の情など意に介さず、理不尽な要求を押し通し、財力と権力と妖術で弱者を弄ぶ。だが、薙原家に交渉を持ち掛けたのは、他ならぬ左馬助である。


「おっ父! 助けて、おっ父!」


 お福は泣き叫びながら、父親に向けて手を伸ばした。


「お福――」


 左馬助の前で、重々しく扉が閉じる。

 もう父親を呼ぶ声も聞こえない。

 左馬助は地面に額を擦りつけ、己の浅慮を悔やんだ。

 実の娘も守れない自分の弱さに。

 彼女が何を望んでいたのかも理解できず、一人で答えを出した愚かさに。

 お福は、父親に救ってほしかった。

 たとえ飢餓で苦しもうと、悪童から非道な扱いを受けようと、自らの命を軽んじていたとしても、最後の最後で父親が助けてくれると信じていたのだ。

 娘が秘めた淡い希望を、父親が自らの手で打ち砕いた。


 どうか許してくれ。父の弱さを……そして願わくば、お前だけでも幸せになってくれ。サラの代わりに、どうかお前だけでも……


 左馬助は閉ざされた門前で、声を殺して泣き続けた。




 天正十年の二月三日……西暦一五八二年二月二十五日


 武川衆……甲斐国の辺境武士団


 真宗門徒兵……浄土真宗の門徒兵


 浄土真宗……大乗仏教の宗派の一つで、浄土信仰に基づく日本仏教の宗旨。鎌倉仏教の一つ。鎌倉時代初期の僧である親鸞しんらんが、その師である法然ほうねんによって明らかにされた浄土往生を説く真実の教えを継承した。親鸞の没後に門弟達が、教団として発展させる。戦国時代、世間から一向宗と呼ばれていた。


 青苧……着物や漁網の原材料


 作物の私曲……作物の横領 

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