第60話 書庫

 おゆらとの会談を一旦切り上げると、奏は常盤を庵まで連れて行き、寝具を敷いて寝かしつけた。

 常盤が眠りに就いた後、再びおゆらの待つ百合の間に戻り、視察の日程や難民奉行について話し合う。

 侃々諤々かんかんがくがく――とまではいかないが、おゆらとの談合は一刻余りに及んだ。

 一刻も早く玉の生産を始めたいおゆらは、武力で難民を服従させたい。生活の保障や手柄に応じた恩賞は、その後からでも十分と考えている。飴と鞭を使い分けるという言葉があるが、おゆらは最初に鞭で難民を酷使するつもりだ。

 対して奏は、飴の重要性を説いた。

 隷蟻山の難民は野生の獣を狩り、落ちた木の実を拾い集め、衣類や住処にも困窮しているという。ゆえに薙原家が生活必需品を支給し、怨恨の緩和に努めるのだ。徐々に難民の警戒感が緩んだ処で、難民奉行や玉の生産について説明する。常盤の安全を確保し、難民の遺恨も幾分か和らぐだろう。

 おゆらの強攻策より時間が掛かるという点を除けば、奏には最善の策に思える。だが、おゆらは溜息雑じりに「撫民を追求した処で、難民は恩義を感じたりしません。事態が悪化しなければよいのですが」と皮肉を言った。

 それでも上意は絶対である。おゆらは強攻策を撤回し、奏の融和策を元に今後の方策を練り直してくれるそうだ。

 再び部屋を出た途端、奏は大きな溜息を吐いた。

 稽古の疲労を回復する間も与えられず、三人で重要な会議を行い、常盤を庵で寝かせた後、夕刻までおゆらと実務的な調整……息つく暇もないとは、まさにこの事だ。

 それでも、まだやらなければならない事がある。

 難民について調べ直すのだ。

 何とも滑稽な話だが――

 今回の会談で話題が出るまで、一度も難民に関心を抱いた事がない。

 隷蟻山の難民について知らされたのは、三年くらい前だろうか。おゆらから新田開発や灌漑事業も含めて、甲信から流れてきた難民の話を聞かされたが、その時は「へえ……」としか思わなかった。

 それに長年桎梏しっこくを強要されてきたので、屋敷の外に意識を向ける余裕もなかった。当時の奏が知る世界とは、本家屋敷と許嫁の住む蛇孕神社――後は遊び場代わりの猿頭山くらい。二年前から村内限定で外出を認められていたが、目的地は蛇孕神社に限られており、途中で寄り道しようとすら考えなかった。

 蛇孕村で悪事を働いた難民が処刑された時も、悲惨な出来事に胸を痛めたが、やはり他人事という程度の認識しか抱けず、次の日には忘れていたほどである。

 己の酷薄さに辟易するが、同時に一つの疑問も浮かび上がるのだ。


 今もおゆらさんに精神を操作されてるんじゃ……


 恐ろしい疑念が脳裏を過ぎり、ぞわりと背筋に怖気おぞけが奔る。

 奏に余計な知識を与えないように、おゆらが精神操作を施していた。その可能性も十分に有り得るが……奏は余計な疑念を振り払う。

 この先を考えても、堂々巡りになるだけだ。

 難民に感心を持てずにいたのは、おゆらが『毒蛾繚乱どくがりょうらん』で精神を操作していたから。隷蟻山に近づこうと思わないのもおゆらの策略。蛇孕神社へ伺候した帰りに寄り道しようと考えないのもおゆらの警戒心の表れ――などと勘繰り始めたらりがない。己の一挙手一投足を遅疑しなければならなくなる。

 難民について調べようと考えた事自体、おゆらの思惑通りかもしれないのだ。

 やはり現時点で悩んでも答えは出ない。

 おゆらの例え話ではないが、目に映る物全てを胡瓜か蜜柑か焙烙玉かと気に病んでいたら、まともに日常生活すら送れなくなる。今は確実に情報を集めて、薙原家の裏側を解き明かす。決断を下すのは、新たな情報や証拠を得てからだ。

 急がば回れ――

 誰もが知る有名な言葉だが、室町時代後期の連歌師――宗長そうちょうの歌で「武士のやばせの舟は早くとも急がば廻れ瀬田せた長橋ながばし」が語源と言われる。

 琵琶湖びわこの水上交易は矢橋やばしみなとから大津おおつの湊に向かうのが、最も近い航路である。だが、稀に暴風や高波の影響で舟の運航に危険や遅延が発生する。無事に目的地へ行こうと考えるなら、瀬田の唐橋からはしまで南下するべきという意味だ。

 奏一人の力では、おそらく遠回りした処で成果は得られない。薙原家の裏側を解明するだけでも困難であろう。己の決意に自信を持ちきれないが、とにかく今は常盤と難民の為に尽力する。

 それが奏の最優先事項だ。

 奏は書庫を目指して、黙々と廊下を歩いた。

 常盤を補佐するのはよいが、肝心の難民に関して全くの無知。視察を行う前に、少しでも『難民集落』について調べておきたい。勿論、常盤に訊く事もできるが……今訊くべき事ではないだろう。

 無造作に書庫の扉を開くと、先客が「きゃ――」と悲鳴を上げた。

 書棚の整理をしていた女中を驚かせてしまった。


「ごめん、人がいると思わなくて」

「奏様が謝らないでくださいよぉ。大きな声を出したルーリーが悪いんですぅ。ルーリーのあ・わ・て・ん・ぼ♪」


 小柄な女中が弾んだ声で答えながら、こつんと拳で頭を叩いた。

 当人に年齢を聞いた事はないが、おそらく常盤と同年代だろう。

 頭の両端で結んだ長い髪が良く似合う。言動や背格好から幼さが醸し出されていた。背丈も奏を見上げるほどで、細い体付きも童のようだ。然し邪気のない丸顔は愛嬌に満ちており、異性を惹きつけるだけの魅力を持つ。尤も薙原マリアという絶世の美貌を持つ少女と過ごしてきた奏は、特に何も感じないが。


「お瑠麗るりさんは、此処で何をしているの? 御屋敷の女中衆は、視察の準備で忙しいみたいだけど」


 奏が素朴な疑問を口に出すと、お瑠麗るりは不服そうに頬を膨らませる。


「もう。あたしの事はルーリーって呼んでくださいって、何度も言ってるじゃないですかあ」

「ああ……ええと、ルーリーさん。書庫に用事でもあった?」


 ぐいぐいと身体を近づけて懇願されても、奏は困惑するばかりだ。

 奏の反応の悪さに落胆し、お瑠麗るりは表情を曇らせる。


「実はルーリーも視察のお手伝いをしたいと、おゆらさんにお願いしたんですぅ。でも不器用で足手纏いだから、書庫の整理を命じられましたあ」

「……書庫の整理も大事なお務めだよ」

「そうですよねえ♪ だからルーリーは、御屋敷のみなさんが使いやすいように、書庫の整理をしてるんですぅ♪」


 大袈裟な仕草で両腕を広げながら、ぐるりと書庫を見回した。

 お瑠麗るりは本家女中衆の中で屋敷の清掃を任されており、地味な仕事ながらも真面目に励んでいるようだ。

 帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスの話を聞く前なら、立派な働き者と尊敬の念すら抱いていたが――

 奏は困り顔で苦笑しながら、疑念を抑え込む。

 彼女に限らず、本家の女中衆は基本的に信用できない。二年前の謀叛に加担し、先代当主の他に数十名の人質を殺害。加えて殺した女中に成り代わり、記憶を改竄された奏に近づき、秘密が露見しても何食わぬ顔で女中奉公を続けている。

 マリアが外界から連れてきた手練の一人という事だが……心情的に、以前と同じ対応をするのは難しい。

 他にもお瑠麗るりを苦手とする理由がある。

 当人に他意はないのだろうが、瞳を潤ませて上目遣いに見上げてくる仕草や無遠慮に身体を近づけてくる態度が、変態女中頭を連想させる。

 それにお瑠麗るりが身に纏う臭いが、どうしても好きになれない。

 勿論、体臭ではないだろう。

 強いて例えるなら、枯れ葉を燃やした時に出る煙の臭いだろうか。お瑠麗るりは邸内の清掃係だから、残飯や塵の処理など火を使う仕事もある。然し他の女中衆は、京都で流行りの化粧水を使い、練香の香りを好んで纏う。その中でお瑠麗るりだけが、独特な刺激臭を放ち続けているのだ。


 特別な匂袋においぶくろでも身につけているのかな?

 肌身離さず持ち歩くと、神仏の加護が得られるとか?


 事情はともかく、女性に「変な臭いがする」と指摘するのは、万死に値する不敬と女中頭から叩き込まれている。

 苦手意識を表に出さないように、奏は笑顔を取り繕う。


「何か手伝おうか?」

「奏様にそんな事させたら、ルーリーが怒られてしまいますぅ。それより奏様は何かお探しですかあ?」

「視察の前に予習しておきたくてね。難民や隷蟻山に関する書物はあるかな?」


 奏は、書棚に陳列された書物を見つめた。

 蔵書の数は、千を超えるだろう。書庫に収められた書物や巻物は、蛇孕村の歴史書や専門書が中心である。

 奏自身、これまで何度も書庫に足を運んでおり、難民や隷蟻山について書かれた書物を見た事はない。然し難民奉行の件を打ち明ける前に、おゆらが難民台帳を作成した可能性はある。あまり期待はしていないが、念の為に確認しておきたかったのだ。

 お瑠麗るりは背伸びをしながら、書棚を見回す。


「う~ん。難民の記録は見当たらないですねえ。蛇孕村の水帳ならありますけど」

「それだと意味がないんだよ……」

「申し訳ありません。ルーリーは役立たずですぅ。ぐすん」


 心底申し訳なさそうに、お瑠麗るりは涙目で俯いてしまう。


「別に責めてるわけじゃないんだ。あ……それなら昔の普請の記録はあるかな?」

「……?」


 慌てて奏が話を逸らすと、えぐえぐと泣いていたお瑠麗るりが顔を上げた。


「薙原家が関与した普請の記録。探せば、どこかにある筈なんだけど……」


 お瑠麗るりは不思議そうに小首を傾げる。


「三年前に御先代が、『難民集落』を視察した事は聞いてるよね?」

「はい、おゆらさんから聞きました」

「僕もおゆらさんから聞いたんだけど、御先代は集落を視察する際、隷蟻山に豪邸を建てて一泊したんだ」


 わざわざ一夜の宿を取る為に、豪華な館を建設したのだ。己の権力や財力を誇示する為か、はたまた単なる酔狂か。どちらにしても、先代当主らしい逸話である。


「館の場所が知りたいなら、おゆらさんに――」

「僕が知りたいのは、館に辿り着くまでの道筋さ。舟で浅瀬を渡河したと思い込んでたんだけど。おゆらさんに訊いてみたら、蛇孕川の上流に橋を架けたんだって。かなり大規模な普請だよね。きちんと記録している筈だ」

「そう……ですね」


 途中から奏は、独り言のように語り始め、お瑠麗るりは呆気に取られる。


「でも本家の御屋敷にそれらしい記録は見当たらない。やっぱり普請なら墨川家かな? 墨川家の屋敷に行けば、何か見つかるかも――」

「ああああ――――ッ!!」


 突然、お瑠麗るりが頓狂な声を発した。

 驚いて奏が瞠目すると、お瑠麗るりは両腕を上下に振るう。


「思い出しました! 何日か前におゆらさんが、墨川家から普請に関する書物を本家の御屋敷に持ち込んだんです! 嘘じゃないです! ガチです!」

「へえ……」

「しかも蔵に移したと言ってました! だから書庫にはないです!」

「蔵? 何処の蔵だろう? この屋敷、蔵だらけだからな……仕方ない。おゆらさんに訊いてみるか」

「ルーリーにお任せください!」

「は?」

「このままだとルーリーは、奏様の探し物も見つけられない『役』立たずの女『中』という烙印を押されてしまいます! 略すと『ヤクチュー』です! そんなの耐えられません! 是非、ルーリーに名誉挽回の機会を与えてください!」

「そんな変な綽名で呼ぶ人はいないと思うけど……」


 お瑠麗るりの剣幕に気圧されて、奏は困惑気味に呟いた。


「それにお瑠麗るり……ルーリーさんの仕事の邪魔しちゃ悪いし」

「もう今日の仕事は終わりです! ルーリーは暇です! 超おおおお暇です! 暇を持て余し過ぎて、一人でしりとりを始める寸前でした!」

「それは末期的だね……」

「ルーリーもそう思います! だからルーリーにお仕事を与えてください!」


 奏が頬を引き攣らせると、おゆらが必死な形相で詰め寄る。

 何を慌てているのか釈然としないが……とにかく仕事を求めているのは理解できた。マリアを筆頭に、奏の周りは変人が多すぎる。

 通訳の必要性を痛烈に感じながら、奏は肩を落とした。


「……分かった。普請の記録は、お瑠麗るりさんに任せるよ。僕は先々代の御本家様の日記を探すから」

「わーい! ありがとうございま――先々代の御本家様の日記?」


 困惑するお瑠麗るりを尻目に、奏は書棚を見て回る。


「巳の棚の上から三段目……巳の棚の上から三段目……あった。これか」


 奏は書棚から書物を取り出し、ぱらぱらと頁をめくる。


「あのー、何をしてるんですかあ?」

「先々代の御本家様の日記を読んでる」


 奏は日記を読みながら、冷静にお瑠麗るりの問いに答えた。


「お瑠麗るりさんは、蛇孕村の市で買い物した事ある?」

「いえ、ないですけどぉ……」

「僕もないけど……違和感を覚えた事はない?」

「え? 違和感ですか?」


 お瑠麗るりは困惑気味に首を傾げた。


「例えば、書庫の書棚は蛇孕村で作られた物だ。書物の製作に使う紙も蛇孕村で作られた物。筆や墨汁も蛇孕村で作られた物。僕の着る狩衣も、外界から生糸を買いつけ、蛇孕村で仕立てられた物だ。女中衆の着物も同じ。木綿を外界から買い集めて、蛇孕村で反物に仕立てている。あまりに異常だよ。供給能力が高すぎる」

「はあ……」

「今日、蛇孕神社と薙原家の『銭』の遣り取りについて説明していた時、常盤に蛇孕村の供給能力の高さを説明できなくて……自分でも驚いたんだ」

「――」

「先々代の御本家が蛇孕神社と薙原家の『銭』の遣り取りを改善した時、蛇孕村の供給能力を向上させる政策も実行した筈だ。でも子供の頃に教えられた事だから、あまり覚えてないのかも……『難民集落』の視察と関係ないけど、一応復習しておこうかなと」

「それは……別に構わないんじゃないですか?」

「だよね」


 奏は右手に日記を持つと、お瑠麗るりの脇を通り過ぎる。


「書物を見つけたら、僕の部屋に運んでおいて。僕は常盤の様子を見てくるから……役目を終えたら自室に戻っていいよ」

「はーい!」


 元気の良い声に見送られて、奏は書庫から立ち去った。




 お瑠麗るりは、花が咲くような笑顔で奏の後ろ姿を見送る。然し彼の姿が見えなくなると、途端に苛立たしそうに表情を歪め、すたすたと書庫に戻った。

 板張りの床に胡座を掻き、書棚の下に隠していた煙管きせる煙草盆たばこぼんを取り出す。

 煙管は金鍍金きんめっきで装飾されており、雁首がんくびから煙が吹き出ていた。お瑠麗るりは煙管の煙を肺の奥底まで吸い込むと、ぷはーっと紫煙を吐き出す。


「――ッたく、前触れもなく現れるんじゃねえよ。焦ンだろーが」


 突然、乱暴な言葉遣いで悪態をついた。

 表情や言葉遣いだけではなく、声音まで変化していた。男に媚びるような甘い声が、銅鑼声に変わる。煙管の吸い過ぎで、声が嗄れているのだ。

 これがお瑠麗るりの本性である。少しでも奏に好感を持たれようと、彼の前では猫被りをしているのだ。全く効果を表していないが、無駄と知りながらも猫被りを続けている。崇拝する无巫女アンラみこの許婚に、悪辣な本性は見せられない。


「……お瑠麗るり様も、もう少し淑女の嗜みを身につけて頂かないと困りますね」


 唐突に若い娘の声が聞こえてきた。

 開け放たれた木戸の前で、おゆらが微笑んでいた。


「盗み聞きたア、相変わらず趣味が悪ィなア」

「……」

「つーかさアアアア、気配消して近づくの止めてくんね? 危うく殺しそうになるンだけどさアアアア」


 お瑠麗るりが敵意を込めた視線を送る。


「私の存在に気づいていたようですが」

「気付けねえと、本家の女中衆は務まらねえからよぉおおおお」


 ぞんざいに言いながら、大量の紫煙を吐き出す。

 なぜか女中頭よりも偉そうである。


「あ~の~さ~。ルーリーは女中なンだよ。それも薙原本家に仕える女中様だ。働きもせずに株主配当金だけでめし食ってる株乞食じゃねえ。言うなれば、勤勉な労働者の代表なンだよ」

「――」

「朝イチで庭の清掃。昼からは、廊下の清掃と書庫の整理。他の女中なら三日は掛かる仕事だが、ルーリーは一日で終わらせてしまった。我ながら自分の仕事の速さにビビるぜ。ルーリーが担当してなけりゃ、おゆらさんに『手抜き』とバレていた。そして今は、束の間の休憩を楽しンでる。うけけけ……休憩時間に一服して悪いか?」

「仕事の手抜きは悪い事です。加えて奏様は、煙管を好みません。煙管の出す煙を苦手としているのです。ゆえに――」


 おゆらは柔和な笑顔を崩さず、壁に裏拳を打ち込んだ。


「壁や柱にモクを染み込ませないでください。ぶち殺しますよ」


 口調こそ穏やかだが、内容は脅迫である。

 忌々しげに舌打ちすると、お瑠麗るりは煙管の灰を煙管盆に捨てた。カンッと金属製の煙管で煙管盆を叩く音が響いた。


「あーあ。喫煙者は、肩身が狭いねえ。そのうち文明が発達したらよぉおおおお、喫煙者は硝子の部屋に閉じ込められて、見世物小屋のお猿さんみてえに、他の連中からジロジロ見られるンだぜええええ。たまンねえよなァああああ」


 煙管と煙管盆を再び書棚の下に戻すと、お瑠麗るりは意味ありげに相好を崩す。


「つーか、ルーリーってば、なンで説教されてるわけ? 感謝されンならともかく、文句を言われる筋合いはねえぜ」

「奏様を引き止めたのは良い判断です。奏様が墨川家に赴いていたら、さぞかし仰天していた事でしょう。今は誰も住んでいない廃墟ですからね」


 二年前の謀叛で捕縛された墨川家の長女――お咲は本家屋敷の地下牢に幽閉されて、子孫を残す道具に造り替えられている。生後数ヶ月の赤子も地下牢で育てている為、現在の墨川邸は無人の荒ら屋。何も知らない奏が赴けば、脳に予期せぬ負担を与えかねない。無論、奏の行動は逐一把握しているので、墨川家の屋敷へ向かうまでに時間を稼ぐ方法は幾通りも考えていたが、お瑠麗るりが機転を利かせてくれたお陰で、面倒な手間が省けたのも確かである。


「然れど機転を利かせたから、何をしても許されるというわけではありません。これからも本家女中衆の御役目を全うしたければ、少しは私の話も聞いてください」

「あンだよ。結局、胸糞悪い説教かよ。我らが女中頭様は、年長者に対する敬意ってもンがないのかね」

「私なりに敬意を表しておりますよ。お瑠麗るり様の業前を信じているからこそ、お願いしたき儀がございます」

「新しい御役目かア? 嫌な予感しかしねえなアアアア」

「実に簡単な御役目です。渡辺朧様を始末してください」


 本家の女中頭は、朋輩の暗殺依頼を笑顔で告げる。


「それは御法度だって聞いたぜ。なンでも人斬り馬鹿が死ンだから、无巫女アンラみこ様との婚約を解消するとか、奏様が爆弾発言ぶちかましたンで、本家で飼い殺しにするつもりでいたンだろ? それが突然、殺しても構わないなンておかしくねえかア? 无巫女アンラみこ様のお許しは得てるンだろうなアアアア?」

「勿論、お許しを得ております。『十八禁のエロゲーなら、バットエンドも有り』と仰せられたので、何の憂いもございません」

「ふううううン」


 傲岸な態度で首を鳴らし、お瑠麗るりは邪悪な笑みを浮かべた。


「ヤアアアアダアアアアねええええ!」


 挙句の果てに、長い舌を垂らしながら、露骨におゆらを挑発する。


「本家の女中衆は、アンタの下僕じゃねえンだよ。アタシらが忠誠を誓うのは、无巫女アンラみこ唯御一人ただおひとり。二年前の謀叛以降、无巫女アンラみこ様の御命ぎょめいがねえから、仕方なくアンタの指示通りに動いてるだけだ。おゆらさんの為に命を張る理由はねえよ」

「大判を袖に忍ばせておくと、重たくて重たくて……」


 おゆらが両袖を振るうと、無造作に黄金の小判が落ちてきた。

 暫時、軽快な金属音が鳴り響き、おゆらの足下に十枚の天正大判が散らばり落ちる。天正大判は一枚で金十両。米四十石分、米俵百俵に相当する。

 おゆらは袖を振り終えると、満面に笑みを浮かべた。


「これで引き受けて貰えますか?」

「やるに決まってンだろ!」


 お瑠麗るりは目の色を変えて、両手で大判を掻き集める。毫秒も迷わず、大判を袖口に仕舞い込む姿は、銭の亡者そのものだ。


「うけけけ。薙原家の為に働くのが、本家女中衆の務めだからなア。ルーリーが、おゆらさんの頼みを断った事があったか?」


 先程拒絶したばかりだが、完全に記憶から消えている。『毒蛾繚乱どくがりょうらん』に頼らず、都合の悪い記憶を改竄できるのだから、これも一種の才能だろう。


「お瑠麗るり様の忠節は、本家女中衆の亀鏡きけいに備えられるでしょう。お陰で私も肩の荷が下りました」

「水臭え事言うなよ。ルーリーとおゆらさんの仲だろ。これからも本家に刃向かう間抜けは、ルーリーが一人残らず始末してやンよ」

「なんとも頼もしい御言葉。それでは、よろしくお願いしますね」


 白々しい会話を止めて、おゆらが踵を返すと、


「お~いおいおいおい! まだ話は終わってねえぜ!」


 お瑠麗るりに引き止められた。


「何か不足でも?」

「不足なンざねえよ。貰う物貰ったからなア。間違いなく渡辺朧は始末するさ。だが、どうにも解せねえンだよなア。いくつか訊きたい事がある」


 ニヤニヤと相好を崩しながらも、おゆらの背中を射貫く視線には、不快感と猜疑心が滲み出ていた。


「何なりと」


 おゆらは流麗な所作で振り返り、お瑠麗るりと視線を合わせた。


「一つ目。先々代の御本家様の日記って何だ? 今回の件と関係あンのか?」

「特に何も」

「――」

「強いて言うなら、『みのたなのうえからさんだんめ』の意味が分かった……というだけの事。お瑠麗るり様が気にする必要はありません」


 おゆらは柔和な笑顔を崩さない。

 この話題は、何度尋ねても答えるつもりはないようだ。


「……そうかよ。ルーリーに関係ねえなら、別にそれでいいや。ンじゃ二つ目。どうして本家女中衆の中で、ルーリーが刺客に選ばれたンだ?」

「――」

「腕の立つ女中なら、ルーリーの他にもいンだろ。それにおゆらさんは、合理的な手立てを好む。ルーリー一人で中二病の武芸者を殺せってのは、あンまり合理的とは言えねえよなアアアア。十人掛かりで袋叩きにするなり、鉄砲手に狙撃させるなり、夕餉に毒を盛るなり……ああ、そういや毒が効きにくいンだったな。ともあれ、確実に始末してえなら、相応の遣り方ってもンがあるンじゃねえの?」

「――」

「三つ目。なんで朧さんを始末する事になった。暫く本家の為に利用するンだろ? まだ借銭を返済しきれるほど働かせてねえぜ。しわいおゆらさんとは思えねえ話だ。どうにも胡散臭くて適わねえ」


 お瑠麗るりが暴言を吐くと、おゆらは溜息を漏らす。


「……先ずお瑠麗るり様が選ばれた理由を説明しましょう。本家女中衆の中で最も銭に汚く、且つ暇を持て余しているからです」

「ハハッ、違いねえ。いきなり正鵠を射貫かれた」

「合理性云々という話は、私見になりますが……朧様を集団戦で仕留めるのは、困難と判断しました。先日の戦闘で奏様の家人けにんを使えば、確実に無力化できると実証済みです。然し家人は、奏様を警護する精鋭。あまり使いたくありません」

「思いっきり使ってたじゃねえか。つーかあの時、一思いに殺しちまえばよかっただろ」

「先日の一件は、私の仕掛けではありません。言わば、偶発的に起きた出来事。朧様が奏様の寝所に松明を持ち込んだので、火事を恐れた家人が独自に行動を起こした結果です。それにあの場で殺すと、後始末が面倒になります。精神操作や記憶の改竄だけではなく、口裏合わせや証拠の隠蔽も行わなければならない……できれば、奏様に疑われない状況で始末したい処です」

「その段取りをおゆらさんがしてくれると?」


 おゆらは優雅な所作で首肯する。


「然し家人を除いた女中衆で事に及べば、少なからず犠牲を強いられるでしょう。私は中二病に疎いのですが、朧様は異常なほど逆境に強い。確かに十人掛かりなら始末できるかもしれません。然れど手負いの虎は最後まで抵抗します。貴重な兵を何人も道連れにされては適いません」

「おゆらさんが、そこまでアタシらの命を大切にしてくれてると思わなかったよ」

「状況が変わりました。五日後に狒々神が襲来します」


 皮肉の言葉を意に介さず、おゆらは単刀直入に告げた。


「マジですか~?」


 お瑠麗るりも動じた様子はなく、楽しげに肩を揺らす。


无巫女アンラみこ様の予言です。外れた事などありません」

「――」

「狒々神討伐の為にも、可能な限り兵力は温存しておきたいのです。狙撃による暗殺を避けた理由は、朧様の嗅覚が獣並みに優れているからです。これまでも何度か試してみたのですが、半径半町以内に鉄砲を置くと、火縄の臭いで気取られてしまいます。例え鉄砲を風下に置いても、一町は間合いを取らなければならない。それほど離れた場所から、頭や心ノ臓を撃ち抜くとなると――」

「家人のお冬さんにしかできねえ離れ業だ。ついでに家人は、奏様の警護から外せねえ」

「仰る通り。朧様の始末を依頼するのも、状況が変化したからこそです。狒々神討伐が避けられない以上、蛇孕村の防衛が第一義となります。然し符条様に虚を衝かれてしまいました」

「どういうこった? なンでダメウソが出てくる」

「如何なる方法を用いたのか……私にもよく分かりませんが、符条様は狒々神の襲来を予測していたようです。そのうえで蛇孕村に刺客を送り込んできました」

「そりゃあ、いくらなンでもマズいンじゃねえの?」

「かなりマズいです。おそらく前回の『神寄カミヨリ』が囮で、此度の刺客が本命。『神寄カミヨリ』討伐の際、私の前に眷属を見せてくれましたから。あの時点で符条様の策に嵌められていたのでしょう。勿論、此方も不測の事態に備えていましたが……まさか狒々神の襲来を予見するとは……うふふっ。符条様に一本取られました」


 おゆらが笑声を漏らすと、お瑠麗るりは眉根を寄せた。


「喜んでる場合かよ。奏様を連れ去られたら、目も当てらンねえぞ」

「その心配はありません。無粋な客人は、蛇孕岳で巫女衆と隠れんぼに興じているようです。おそらく符条様の狙いは、无巫女アンラみこ様の御命――」

「――」

「我々が无巫女アンラみこ様の身を案じるなど、無益を通り越えて滑稽です。无巫女アンラみこ様からも伺候に及ばずと仰せつけられております。我々が案ずるほどではありません」

「あっそ。頭の良い女中頭様がそう言うなら、そンな感じなンじゃねえの」


 お瑠麗るりは剥き出しの太腿を掻きつつ、億劫そうに答えた。

 他人に理由を尋ねておきながら、小難しい理屈は苦手のようだ。

 人面獣心にして品性下劣。教養はおろか、礼節の欠片も見当たらない。可憐な女中というより、山賊の女頭領という雰囲気である。


「尤も不測の事態が重なると、私一人では対処しきれません。難民の件も仕込みを済ませているので、今から期日を変更するわけにもいかず……最悪の場合、ヤドカリ様の御力を借りなければならなくなります」

「そりゃ別の意味で最悪だ……」


 お瑠麗るりは渋面を作った。


「無論、左様な事態は避けたい処ですが……あくまでも我々の最優先事項は、五日後の狒々神討伐です。狒々神討伐に集中する為にも、確実に優先順位の低い事案から片付けなくてはなりません。多方面攻撃の対処は、各個撃破が原則です。与し易い相手から処分していきましょう」

「……成程ね。ルーリーも視察に付き合えって事か」

「難民と朧様の処分――同時に片付ければ一挙両得。さらに狒々神討伐を終えれば、我々の敵が黒田如水と符条様に限定されます。御理解して頂けましたか?」

「状況は理解できたけどよぉ。まだ四つ目の疑問があンぞ」

「なんでしょう」

「渡辺朧を始末する動機だよ。肝心な動機を聞いてねえ」

「ああ……それは言い忘れておりました」


 おゆらは両手を合わせて、満面に笑みを浮かべた。


「あの女が邪魔だからです。朧様の命と借銭を天秤に載せたら、朧様の命の方が重かった……では、納得して頂けませんか?」


 つまり朧を雁字搦めにするために費やした金六十四枚をどぶに捨ててでも、排除しなければならない障害。しわいおゆらが元手を取らずに処分するほど、面倒で危険な人物と断定したのだ。


「納得したよ……渡辺朧は、ルーリーが殺す」


 お瑠麗るりは口角を釣り上げ、黄ばんだ歯を剥いた。

 二年前の謀叛以来、久しく血を見ていない。極上の獲物を見つけた獣は、堪えきれずに舌舐めずりをした。




 一刻……二時間


 桎梏……人の行動を厳しく制限して自由を束縛する事


 水帳……検地帳の事


 天正大判……安土桃山時代、豊臣家が金細工師の後藤ごとう四郎兵衛しろうべえに鋳造を命じた大判。現在の価値で一枚一八〇万円。おゆらがお瑠麗るりに渡した手付金は、天正大判十枚。現代の価値で一八〇〇万円。


 家人……貴族に仕える家臣や従者。薙原家では、奏専属の女中を家人と呼ぶ。因みにマリア専属の女中は存在しない。


 亀鏡……手本


 吝嗇……ケチ


 半町……三十間。約56.7m


 一町……約113.4m

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