第59話 談合

 女中に諸々の用件を申しつけた後、二人は主殿へ向かった。

 およそ一年半前に建て直されたばかりの主殿は、あまりの広さにマリアでなくても迷いそうになる。施設や部屋の数も多く、政に無関心を貫いてきた奏には、敷居が高い上に間取りもよく分からない。実は百合の間というのも、女中同士の立ち話から仕入れた情報である。おゆらが談合に使う場所としか知らず、一度も足を踏み入れた事がない。

 自分で部屋を指定しておきながら、奏は「此処が百合の間だよね……」と不安げに呟いた。奏より主殿に詳しい常盤が頷いたので、この部屋で間違いないだろう。

 庭園に近い一室で、襖に華麗なヤマユリの絵が描かれていた。これで梅の間なら、悪戯か誤謬ごびゅうである。


「おゆらさん、入るよー」


 奏が襖を開けると、おゆらと目が合った。


「あ……奏様、お待ちしておりました」


 柔和な笑顔で応えるが、頭の位置が低い。

 眼前の光景を否定したいが、残念ながら現実はいつも残酷である。

 亀甲縛りにされた女中頭が、嬉しそうに微笑んでいた。

 小袖の上から荒縄が身体に食い込み、大きな胸が際立つ縛り方だ。白い肌に跡がつくほどきつく縛られ、両手を背面に回されていた。大きく股を開き、仰臥の姿勢を維持。お陰で内腿が、嫌でも目に飛び込んでくる。

 おゆらを縛り上げていたのは、天然の女中と眼帯の女中だ。

 眼帯の女中が緊縛された女中頭に侮蔑の視線を浴びせ、天然の女中は次に縛る箇所を探していた。

 奏は静かに襖を閉めた。


「部屋を間違えたみたいだ。隣の部屋に行こう」


 爽やかな笑顔で常盤を促すと、隣の部屋に向かおうとする。


「間違えてませんよぉ。百合の間は此処ですぅ」


 甘えた声と共に、どんっと襖に衝撃が奔る。

 緊縛された変態女中が、ごろごろと回転しながら、襖に体当たりをしているのだ。

 奏は慌てて襖を押さえた。


 こんな卑猥な物体を外に出してはいけない!


「部屋を間違えていなければ、僕は人生を間違えたんだ! これ以上、おゆらさんとは付き合いきれない! 荷物を纏めて実家に帰れ!」

「簡単に絶縁しないでくださいよぉ。お茶目な戯れではありませんかあ。早く襖を開けてくださいぃ」


 猫撫で声を発しながら、体当たりで襖を打ち砕こうとする。


「開ける! すぐに開けるから、部屋の外に出ようとするな! 荒縄で縛られた知り合いが、真横に回転しながら体当たりとか、想像しただけで気持ち悪いわ!」

「左様でございますか。それでは、暫くお待ちください」


 忽然と襖を揺らす振動が止まった。

 得体の知れない恐怖を覚えながら、襖に両手を添えた姿勢を維持しつつ、ごくりと唾を飲み込む。もう一度襖を開けるのが怖い。

 物凄く入りたくないが、用事があるので止むを得ない。

 緊張しながら襖を開けた。恐る恐る部屋の中を覗き込むと、おゆらが菅の円座の上で端座していた。

 すでに女中二名の姿は消えている。素速く解いた荒縄を持ち、奥の間へ移動したのだろう。軽く見渡した限り、おゆら以外の変態はいない。

 ようやく安心した様子で、奏は百合の間に足を踏み入れた。

 部屋に入ると、甘い薫物たきものの香りが鼻孔をくすぐる。最初に襖を開けた時は、おゆらの痴態を見せられた衝撃が強くて、部屋に漂う香りに気づかなかった。

 床の間を見ると、唐渡りの香炉が置かれていた。絡みつくような甘さは、柑橘かんきつ系の爽快感を残す香り。どうやら菊花きっかを焚いているようだ。

 伽羅きゃら丁子ちょうじ香甲こうこう薫陸くんろく麝香じゃこう甘松かんしょうを練り合わせた菊花は、平安時代より受け継がれてきた六種薫物むくさのたきものの一つ。香道は公家の娯楽として嗜まれ、後に集約された六種類の薫物となる。その中でも菊花は、源氏物語にも登場した練香ねりこうだ。

 香炉の側には、花瓶に飾られたヤマユリの花。おゆらが活けたのだろうが、華麗な白い花びらを咲かせている。


「おお……」


 奏は感嘆の声を漏らした。

 これは風流だ……と思わず感心してしまう。

 公用に使う部屋だけあり、新しい畳が敷かれていた。

 部屋の上座には、菅の円座と湯呑が二つずつ置いてあり、「どうぞ上座へ」と柔らかい笑顔で促された。

 奏は円座の上に胡座を掻き、湯呑の麦湯で渇いた喉を潤す。常盤も慌てた様子で、奏の隣に腰を下ろした。

 軽く湯気の立つ麦湯を飲み干す事で、奏は平静を取り戻す。

 これが薙原家の真の恐ろしさだ。

 常盤と穏やかに談笑していると、分家の古老が現れて過酷な現実に引き戻される。かと思えば、世話役が亀甲縛りでお出迎え。十年も薙原家で居候をしているが、希望と絶望と卑猥物が複雑に入り交じり、未だに薙原家の本質が見極められない。

 光と影と変態が、違和感なく溶け込んでいるというか……果たして変態に、何の意味があるのだろうか?

 ごほんと咳払いをした後、奏は神妙な面持ちで言う。


「おゆらさんが特殊な性癖の持ち主という事は、重々承知しているつもりだ。でも卑猥な行為は自分の部屋で楽しんでくれ。此処はみんなが使う公用の間だよ。公私混同は慎み、他の女中衆に範を示してください」

「私なりに範を示しているつもりですが」

「寝言は寝て言え」

「今日も奏様の冷たい眼差しが、胸に突き刺さります」


 胸の中心に両手を当て、おゆらは嬉しそうに身悶える。

 いい加減、重石をつけて池の底に沈めてやろうか……と考えたが、一向に話が進まないので我慢する。


「そ・れ・で――用事って何? 僕や常盤も呼ばれたという事は、何か想定外の事でも起きた?」


 奏が皮肉交じりに尋ねると、我が意を得たりとばかりに、おゆらは満面に笑みを浮かべる。


「はい。少々厄介な事がありまして……隷蟻山の難民の件です」


 難民という言葉に反応し、常盤が瞠目する。

 奏も訝しげに眉根を寄せた。


「難民の事が、なんで今頃話題になるの?」

「御先代が遠行されて二年余り。そろそろ難民の処遇を正式に決める為、来月の評定で議題に挙げられます。つきましては、評定の前に奏様と常盤様の御意見を伺いたく、この場を設けた次第です」

「ああ……成程ね」


 奏は沈痛な面持ちで呟き、常盤は暗い顔を伏せる。

 今から十九年前、先代当主が蛇孕村の西部を開墾する為、外界から多くの人夫を招き入れた。過酷な肉体労働を強いる為、男手を集めるのが道理であろう。然し先代当主は何を考えたのか、近隣諸国から戦火を逃れてきた難民を優先し、蛇孕村を流れる川の近くに住まわせた。

 甲信から移り住んだ難民は、雑木林や葦原を伐採し、鍬で土を耕して水田を広げた。作物を育てる為に必要な水は、用水路を普請する事で確保。甲信の難民は、力仕事だけでなく、灌漑事業にも秀でていたのだ。難民のお陰で、蛇孕村の穀物収穫量は、僅か七年で十倍近くに増加。薙原家は余剰分の作物を元手に、金融業を始める。

 間違いなく薙原家の発展に貢献したわけだが、先代当主は開墾した土地を難民に譲り渡すという約定を破り、彼らを隷蟻山に閉じ込めた。

 奏が蛇孕村に来たのは、その翌年である。詳しい理由は知らないが、難民の所業が先代当主の逆鱗に触れたという。事情はどうあれ、難民が憤るのも当然だが、薙原家に直談判しようとした者は、例外なく広場で首を晒された。隷蟻山から下りてきた者も、火縄銃の的にされる。

 さらに薙原家は厳格な村掟を定めて、難民が樹木を伐採したり、農業を始める事を禁じた。それ以来、難民は穴居人の如く洞穴で暮らし、粗末な石槍で野生の鹿や猪を狩り、山菜採りで糊口を凌いだ。

 おそらく先代当主からすれば、難民に対する処遇も酔狂の一つ。山の中に閉じ込められた難民が、如何にして生き残るかという余興である。

 年に一度か二度、薙原家も隷蟻山に穀物を届けていたようだが、それで難民の食糧事情が改善するわけがない。時折、難民が監視の目を逃れて、村内に忍び込んで悪事を働く。最近では、難民の男が民家に押し入り、銭や酒を盗んで逃げようとした挙句、馬喰峠で巫女衆に捕まり、竹鋸引の刑に処された。

 殆ど犯罪と縁がない住民からすれば、隷蟻山に閉じ込められた難民は、言葉の通じない蛮族と同じだ。憎悪や軽侮の念を抱いても、憐憫の情を抱く者など一人もない。早々に蛇孕村から追放してほしいというのが、偽らざる本心であろう。

 二年前に先代当主が遠行し、薙原家が隷蟻山の難民に拘る理由もなくなった。家中の権力争いも収束に向かい、ようやく難民問題に対応する余裕ができたのだろう。

 遅きに失したとしか思えないが、奏は不満の言葉を飲み込んだ。政に無関心を貫いてきた者が、今更何を話した処で説得力などない。


「奏様は、どう思われますか?」

「僕の意見を言う前に、分家衆の思惑を知りたい。評定を行う前から、ある程度織り込み済みなんでしょ?」

「そうですね。難民は蛇孕村から追放というのが、分家衆の総意です。然し無一文で追い出すか、銭を渡して追い出すかで、意見が二つに割れております」

「おゆらさんの意見は?」

「一応、私も分家の当主です。然れどその前に、本家直参の奉公人。評定の席で己の意志を押し通すなど、出過ぎた真似は致しません」


 おゆらは如才ない笑顔で語るが、奏は渋い顔を浮かべた。

 美辞麗句を真に受けるほど、奏も愚かではない。この二年間、彼女の言う出過ぎた真似で、薙原家は動かされてきたのだ。


「……つまりおゆらさんに妙案がある。それを押し通す為に、マリア姉の許しがほしい。分家衆の反論を押さえる為に、マリア姉と口裏を合わせておきたいと……結局、僕にマリア姉を説得しろって事か」

「左様な心積もりはございません。私如きが、本家の意志に介入するなど畏れ多い事。然れど奏様の申す通りになれば、事が早く済むのも確かです」


 悪びれた様子もなく、おゆらは柔和な笑顔で語る。


「尤も无巫女アンラみこ様は蛇孕神社に籠もり、余人との関わりを拒んでいるとか。何か心当たりはございませんか?」

「あると言えば、あるけど……」


 奏は両腕を組んで、数日前の出来事を思い出す。

 庵の一室で書物を読んでいた時、忽然と背後にマリアが出現して、「私は奏に歌を捧げなければならない。暫く会えなくなるけど、決して辛くはないわ。かなたんの舞い踊る姿が、私の脳細胞を活動電位インパルスさせるもの」と語り出した。そして「マリア姉、僕の踊る姿見てないじゃん」と突っ込む前に、庵から姿を消したのだ。

 それ以来、顔を合わせていないので、新しい楽器の開発でもしているのだろう。相変わらず許婚の言動は要領を得ないが、毎度の事なので気にも留めていなかった。


「マリア姉には、僕が後から伝えておくよ。それで今度は、何を企んでいるのかな?」

「何も企んでいませんよ。主家の御意向を確認しておきたいだけです」

「主家の御意向も何も……おゆらさんの事だから、僕らの話を聞くまでもなく、何か手立てを考えてるんだよね。難民を追放しないで済む方法があるなら、僕も協力するけど」

「その言葉を聞いて安堵しました。これを御覧ください」


 おゆらは優雅に微笑むと、左袖の中に手を入れる。差し出した掌には、白い小石が載せられていた。

 どうぞと促されて、奏は光沢を帯びた玉を指で摘まむ。

 鶏の卵より濃い白色で透明感がある。楕円球をしているが、表面に多少の凹凸があり、日光にかざすと薄い桃色の光を放つ。


「……白玉はくぎょくだよね? もしかして羊脂玉ようしぎょくかな?」

「大正解です」


 おゆらが嬉しそうに両手を合わせると、常盤が奏の顔を見上げた。


「羊脂玉って何?」

「ええと、玉と石の区別はつくよね」

「磨かれた石が玉でしょ。それくらい分かる」

「曇りのない白い玉を白玉。さらに濃い白い色を持つ玉を羊脂玉というんだ。外界では、分限者が部屋の飾りに使う。蛇孕神社では、神官や巫女衆が祭祀に使うね。薙原家では、昔の『銭』だけど」

「……蛇孕村の百姓は、商いに玉を使うんだ。嵩張かさばりそう」

「蛇孕村で使う『銭』は『神符じんぷ』です。百姓は玉を使いません」

「?」


 二人の話が食い違い、常盤は首を傾げた。

 おゆらが説明を補足する前に、奏が右手を挙げて制した。おゆらが薙原家や蛇孕村の『銭』について解説すると、必ず先代当主の政治批判に行き着く。常盤と対立するのが目に見えているので、奏が代わりに説明しなければならない。


「『銭とは、負債の一種。物々交換の道具ではない』という話は聞いた事ある?」

帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスから聞いた事あるけど……よく分からない」


 常盤が暗い表情で俯くと、奏は敢えて明るい声で話し始めた。


「じゃあ、例え話をしよう。僕と常盤が孤島で暮らしていたとする」

「素敵……」

「素敵? 孤島で二人暮らしだよ? 滅茶苦茶不便だと思うけど……まあ、いいか。とにかく僕と常盤が、孤島で生活していたとする。常盤が『春』に筍を収穫して、僕に筍を渡す。僕は『秋』に漁をして、捕れた鰯を渡すという『約束』をした」

「……」

「この場合、『春』の時点で常盤は、僕に対する『信用』が生まれる。逆に僕は、常盤に対して『負債』が生じる。『約束』は守らなければならない……という事で、僕は『秋』に鰯を捕り、常盤に渡した。これで僕の『負債』が消滅した」

「……」

「ここで注目してほしいのが、筍と鰯を同時に交換していないという事。筍は『春』しか採れない。鰯は『秋』しか捕れない。何をどう足掻いても、物々交換は成立しない」

「……」

「話を『春』に戻そう。常盤が僕に筍を渡す。この時、僕が常盤に『秋に鰯を渡す』という『借用証書』を書いて渡した。二人の貸借関係を書面に残した方が、口約束より安心できるよね?」

「……うん」


 常盤は冷静に首肯した。


「次の日、僕と常盤が住む孤島に、帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスさんと先生が漂着した」

「ええ……邪魔」

「例え話! 例え話の中で、常盤は帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスさんの持つ布が欲しいと考えた。でも僕に筍を渡した後だから、僕の書いた『借用証書』しか持っていない。常盤は帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスさんに『借用証書』を渡し、帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスさんの持つ布を手に入れた」

「……」

「次に帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスさんが、先生の持つ銅銭が欲しいと考えた。帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスさんは先生に『借用証書』を渡し、先生の持つ銅銭を手に入れた。次に先生が鰯が欲しい……と考えずに、常盤が持つ筍が欲しいと考えた。先生は常盤に『借用証書』を渡し、常盤の持つ筍を手に入れた。つまり誰も『鰯が欲しい』と考えなければ、僕の書いた『借用証書』が孤島の中でぐるぐると回り続ける。僕の書いた『借用証書』が『銭』になった」

「ホントだ。凄い……」


 常盤が感動した様子で、青い双眸を輝かせた。


「この例え話の重要な点は四つある。一つ目。常盤が『春』に筍を採り、僕が『秋』に鰯を渡す――という貸借関係が成立した瞬間、何もない処から『銭』が誕生する。逆に最終的な債権者に、僕が鰯を渡したら……僕が『負債』を返済したら、現世うつしよから『銭』が消滅する。つまり『銭』は、誰かが借りると生まれて、誰かに返すと消えてなくなる」

「……」

「二つ目。先程の例え話に戻るけど……僕の書いた『借用証書』が、孤島の中でぐるぐると回り続けても、いつか誰かが僕に『借用証書』を渡して、僕の持つ鰯を手に入れるだろう。なぜなら僕は人間で寿命があるから。僕が死ぬ前に鰯を入手しないと、『借用証書』が紙屑に変わる。でも『政府』は違う。『政府』には、寿命がない。永続的に存在する非営利団体だ。『政府』は、債権者から『銭を返せ』と言われたら、新しく『銭』を創って渡す。これを専門用語で『国債の借り換え』という。つまり『将来世代のツケ』はない。日ノ本の民が、将来返さなければならないツケなんてない」

「……」

「三つ目。『約束』は守らなければならない。抑も僕が『秋』に鰯を捕れなければ、僕の書いた『借用証書』は紙屑同然。僕が『秋』に鰯を捕る力――『供給能力』がなければ、誰も僕が書いた『借用証書』なんて使わない。つまり『銭』は、負債を証明する何か。別に金でも銀でも銅でも米でも布でも紙でも……何でも構わない。『供給能力』という裏付けがあれば、瓦礫や木片も『銭』に変わる」

「……」

「四つ目。『政府』は永続的に続くから、無制限に『銭』を発行しても構わない――という話ではない。物価上昇率という制約が存在する。『政府』が何も考えずに『銭』を支出すると、物価が急上昇して国民を苦しめる。言い換えると、物価上昇率さえ注意しておけば、『政府』は国民を救う為に、いくらでも『銭』を支出して構わない。なぜなら『政府』は、国民の寿と禄を守るために存在する非営利団体。主権通貨国であれば、『政府』を黒字にする必要もない。『政府』の基礎的財政収支が黒字になると、『民間』と『海外』が赤字になる。自国民と諸外国に貧困化して滅びろなんて、世界の破滅を望む悪魔崇拝者の発想だ。寧ろ『政府』は基礎的財政収支を毎年赤字にする。『政府』が赤字を出した分、『民間』と『海外』が黒字になる。『政府』が赤字を出した分、新規に『銭』を発行したわけだから。国民の寿と禄を守る為にも、基礎的財政収支を赤字にする。蛇孕村の場合、薙原家が『政府』だから、住民の寿と禄を守る為にも、計画的に財政拡大を続けて、蛇孕村の供給能力を高めなければならない」

「……」

「ええと……今の説明で分かった?」

「四つ目はよく分からなかったけど……他は分かった」

「取り敢えず三つ目まで分かれば十分だよ。流石、常盤。覚えるのが早いね」

「奏の教え方が良いからだよ」


 奏が大袈裟に褒めると、常盤は頬を朱に染めた。


「あはははは……」


 奏は作り笑いを浮かべながら、おゆらに『余計な事は言うなよ』と視線で訴えかける。

 別に奏の教え方が良いわけではない。常盤に語り聞かせた話は、殆どの日本人が知る常識。『三好経世論』の写本が読めなくても、『三好経世論』を題材にした漫画マンガが、毎年の如く発売されており、四則演算ができない童でも理解できる話だ。二年前まで隷蟻山に閉じ込められていた常盤を『常識知らず』と辱める事は、奏が絶対に許さない。


「薙原家と蛇孕神社の場合、薙原家が『春』に玉を集めて、蛇孕神社に奉納する。蛇孕神社は村内の作物を『秋』に集めて、薙原家に下げ渡す」

「蛇孕神社が、蛇孕村の作物を集めてるの?」

「蛇神崇拝の戒律で、蛇孕岳の外で育てられた作物は、蛇孕神社で清めの儀式を行い、穢れが取り除かれた後、薙原家に下げ渡すと決められているんだ。蛇孕村で育てられた作物は、例外なく『秋』に蛇孕神社へ奉納される」

「西瓜は? 庵に置いてあるけど」

「外界から送られてきた作物も同じ。西瓜も蛇孕神社で穢れを取り除かれて、僕の許に届けられた筈だよ」

「ふーん……巫女衆も大変だね」


 常盤は、他人事のように言う。

 本来なら清めの儀式は、无巫女アンラみこの重要な役目。然しマリアが、面倒な儀式を取り仕切る筈がない。加えて神官の符条も不在。必然的に巫女衆が、清めの儀式や『神符』の作成に励まなければならない。巫女衆の苦労がしのばれる話だ。

 因みに清めの儀式は、作物の穢れを取り除くだけではなく、蛇神の捧げ物に『聖別』する。一度『聖別』された作物が、再び穢れるという事はない。


「先程も話したけど、蛇孕神社の祭祀に様々な玉を使う。それを薙原家が集めて、蛇孕神社に奉納する。白玉一個なら米一石。墨玉ぼくぎょく一個なら米五石。黄玉おうぎょく一個なら米十石。碧玉へきぎょく一個なら米五十石。紅玉こうぎょく一個なら米百石。羊脂玉一個なら五百石。仮に薙原家が紅玉二個と黄玉五個と白玉一個を奉納したら、蛇孕神社はどれだけ米を下げ渡す?」


 唐突に問題を出されて、常盤は指折り数えた。


「ええと……二五一石?」

「凄いよ、常盤。大当たり。そんな感じで薙原家は、蛇孕神社から下げ渡された米を分家衆に分配し、余剰分の種籾を蛇孕村の百姓に出挙すいことして貸したんだ」


 薙原家は決して認めようとしないが、百姓に貸した土地の地代や出挙の利子が『税』に相当する。実際に地代や出挙の利子で物価上昇率や所得格差を調整しているのだ。『税』以外の何でもない。


「薙原家と蛇孕神社は、何百年もこんな遣り取りを繰り返していたんだけど。雅東がとう流初代宗家が本家に婿入りした時、外界から租税貨幣論を持ち込んで。先々代の御本家は、『銭は物々交換の道具じゃないのか。今まで面倒臭い事をしてたんだな』と気づいて、『銭』の遣り取りを改善したんだ」

「……」

「薙原家が蛇孕神社に『短期証券』を渡す。『短期証券』は、『春に玉を渡す』という『借用証書』。次に蛇孕神社が、薙原家に『神符』を渡す。『神符』は『秋に米を渡す』という『借用証書』。薙原家が百姓に『神符』を配る。後は小銭も必要になるから、薙原家が銅銭を製造して百姓に配る。終わり」

「それだけ?」

「それだけだよ。実際に玉や米を遣り取りするより、此方の方が手間も掛からない。手続きだけなら一日で終わる。それに玉や米の遣り取りができなくても、『短期証券』や『神符』が不渡りを起こす事はない。『神符』は不換紙幣。米や玉という裏付けがなくても、蛇孕村の供給能力という裏付けがあれば、通貨として使用できる」

「先々代の御本家様……頭良い」

「そうだね。雅東がとう流初代宗家の指導を受けながら、『銭』の遣り取りを改善したんだろうけど、利発な人だったんだと思う。多くの戦国大名は、『銭』の遣り取りを改善できなかった」


 三好長慶が租税貨幣論を広めたくれたお陰で、地方の戦国大名も「税は財源ではない」と理解できた。然し『銭』の遣り取りを改善しようにも、会計学に詳しい者など殆どいない。往事の武士の大半が、貸借対照表を見た事がない。貸方と借方の区別もつかない者達に、新規国債を発行しろというのも無茶な話だ。

 加えて合戦に次ぐ合戦で、必要な人材を育てる余裕もない。富国より強兵を優先しなければ、他国に攻め滅ぼされてしまう。富国と強兵を同時に実行すべく、多くの戦国大名が苦悩する中、三好家と織田家と薙原家は、『銭』の遣り取りの改善を成し遂げた。

 三好家と織田家は、中央政権ゆえに有能な人材を集めやすく。多摩の山奥に隠れ潜む薙原家は、外界の戦国大名ほど防衛に気を遣う必要もなく、雅東流初代宗家から会計学や兵法を学ぶ余裕があった。

 つまり先々代の本家当主は、利発というより運が良かった。


「蛇孕村の供給能力があるから、『短期証券』や『神符』が不渡りを起こす事はない。でも蛇孕神社は、儀式を行う為に玉が必要。僕達は、生きていく為に米が必要。だから玉と米の遣り取りは、今でも続けている。昔の『銭』っていうのは、そういう事」


 奏の説明を聞き終えて、常盤は暫く黙考する。


「……帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスから聞いた話と少し違う」

「どこが?」

「薙原本家は分家衆や女中衆に、金や銀や米や銅銭を支給してる筈……『神符』なんて聞いた事がない」

「……」


 奏は黙考して即答を避けた。

 やはり其処に辿り着いてしまうのか。

 おゆらに視線を向けると、柔和な笑顔を浮かべたままだ。


「ええとね。当たり前の話だけど、『神符』は蛇孕村でしか使えない」


 おゆらの顔色を窺いながら、香炉を指差して言う。


「外界で『銭』と言えば、金や銀や米や銅銭。上方だと兌換紙幣を使うらしいけど、関東では未だに銅銭か米。唐渡りの香炉や香木が欲しくても、薙原家が『神符』で買う事はできない。だから御先代は、薙原家の者達が好きな物を買えるように、外界から金や銀を買い集めて、分家衆や女中衆に支給したんだ」

「なんだ。やっぱり御先代は、薙原家の事を考えてたんだ」


 奏の説明を聞いて、常盤は満足そうに微笑む。

 決して嘘はついていない。

 蛇孕神社が発行した『神符』は、蛇孕村でしか使えない通貨だ。それゆえ、外界から資源を調達する為には、金や銀や米や銅銭を用いて決算しなければならない。

 然し先代当主は、分家衆や女中衆の事など考えていなかった。


『確かに『銭』が負債の一種という事は分かった。然し蛇孕村の供給能力が高まるまで、何十年も待つなど耐えられない。ならば、増産した米を元手に銭貸しを始めて、金や銀や証書を転売し、外貨を稼いだ方が早いではないか』


 それが先代当主や中老衆の主張であった。

 対する年寄衆の主張は、先代当主や中老衆と正反対。


『御先代(奏やマリアの祖母)の政を否定するつもりか。蛇孕村の供給能力を高める事こそ第一義。銭貸しや唐物屋を始めても、御本家様(薙原沙耶)と中老衆が儲かるだけではないか。何より金や銀など外貨に頼れば、主権通貨国ではない薙原家は、財政破綻を招くぞ』


 奏は年寄衆を信用していないが、この点に関して言えば、全くの同意見である。おゆらも同じ事を考えていただろう。

 然し二年前の謀叛の後、符条やおゆらが金や銀をばらまいた時、年寄衆は大喜びで受け取った。年寄衆に信念など欠片もないと、奏が確信した瞬間である。


「あのー、話を戻しても宜しいでしょうか?」


 おゆらが右手を挙げて、奏に発言の機会を求めた。


「どうぞ」


 奏はおゆらの発言を許し、キラキラと輝く羊脂玉を返した。


「奏様の申す通り、昔は薙原家の『銭』。現在は蛇孕神社の祭祀に使う『道具』。即ち玉を難民の皆様に磨いて頂こうかなと」

「――ッ!?」


 奏と常盤は、同時に両目を見開いた。

 今まで放置してきた難民に役目を与えて、蛇孕村に貢献させようというのか。その他にも様々な疑問が思い浮かぶ。


「蛇孕神社の祭祀で使う玉だよ。頭の堅い年寄衆が認める? いや、僕がマリア姉を説得すれば、否応もなく認めるんだろうけど……おゆらさんはそれで良いの?」

「誰が石を磨こうと、玉は玉です。良いも悪いもありません」

「石を磨くのも大変だと思うけど……素人が簡単にできるのかな?」

「御懸念には及びません。蛇孕村に専門の研ぎ師がおります」

「おゆらさんらしいと言うか……随分と手回しが良いね」

「うふふっ。難民の皆様は、蛇孕村の研ぎ師に指導を受けながら、石を磨いて頂くだけで構いません」

「……」


 黙考する奏を尻目に、おゆらは話を進めようとする。


「適当な石も此方で用意しております。後は難民の皆様を説き伏せれば――」

「妖術はダメだよ」


 奏が神妙な面持ちで言い放つ。


「難民を『毒蛾繚乱どくがりょうらん』で操作するなんて認めない。賦役を課すにしても、難民の承諾を得てからだ。強引な手法を用いれば、難民の不満が爆発する。それこそ叛乱を起こしかねない。妖術や武力に頼るべきではないよ」

「私も妖術に頼るつもりはありません。然し本家の威信を示す為にも、武力は必要かと存じます」

「おゆらさん!」

「武力も使い方次第とお考えください。私は難民を差配する奉行職を設けたいのです。さらに来月の評定で、常盤様を難民奉行に推挙できれば……と愚考しております」

「何を言って……」

「私を難民奉行に……」


 奏も常盤も言葉に詰まった。


「この期に常盤様の憂いを断ちたいのです。常盤様は本家の猶子ですが、薙原家と血の繋がりがありません。それゆえ、立場が危ういのも事実。分家衆や女中衆を納得させるには、明確な職務と実績が必要です。常盤様に難民奉行を務めて頂く事で、御身おんみの地位を確立して頂きたいのです」

 

 混乱する二人を見遣り、おゆらは優しく語る。


「勿論、難民を扱うのは難しい。常盤様の出自を考えれば、精神的な負担も掛かりましょう。然れど当家で最も難民に詳しく、隷蟻山の地理に明るい常盤様ならば、或いは……一考の余地はあるかと存じます」

「それはダメだ。危険過ぎる。難民は薙原家の所業を恨んでいる筈だ。素直に此方の言う事を聞くとは思えない」


 奏が反対する事を予測していたのだろう。おゆらは羊脂玉を袖の中に仕舞いながら、柔らかな笑顔で応じた。


「それは常盤様に限らず、誰が難民奉行を務めても同じです。薙原家は約定を違えて、難民を隷蟻山に閉じ込めました。加えて村掟に背いた者は、例外なく処刑しております」

「――」

「秩序を守る為とはいえ、難民が薙原家を恨むのも当然。今更理を以て諭した処で、彼らは聞く耳を持たないでしょう。なればこそ、畏怖と利益で動かすのです」

「畏怖と利益?」

「難民の叛乱を防ぐ為に、武力を用いて威嚇します。強権的な支配を強めた後、徐々に規制を緩めて、難民の待遇を改善するのです。隷蟻山の麓に難民が住まう長屋を建てるも良し。雑物や薬草を提供するも良し。働きに応じて、恩賞を与えてやるのも良いでしょう。蛇孕川を渡らせる事はできませんが……五年後か十年後、それまで難民が問題を起こさなければ、村人の見る目も変わります」

「――」

「扶持を与えれば、御し難い難民も役目を果たしてくれましょう。やがて時が経てば、我々に対する憎悪も春の淡雪あわゆきの如く溶けて消え去ります。意志もなく因果も知らず、流れのままに生きていく。俗人とは左様なものです」

「……人は、それほど単純なものじゃない」


 奏は強い口調で言うが、おゆらの笑顔は崩れない。


「戦国乱世は、領土拡大の歴史。版図を広げては、侵略した民を厳しい法度で縛り、少しずつ規制を緩和し、最終的に前領主以上の善政を布く。それができなければ、叛乱の連続で統治もままならなくなります。法性院信玄は、佐久群さくぐんの早期制圧を進める為、志賀城下に三千余りの首を並べて、抵抗勢力への身懲みこらしとしました。その結果、武田は佐久群の支配を強め、信濃しなの侵攻の足掛かりとしたのです。信濃の豪族――村上義清むらかみよしきよや守護たる小笠原おがさわら氏の支配より、信濃の民は武田の侵略を受け入れた。これが統治の規範です」

「いつから薙原家は、戦国大名になった?」

「私は乱世の実情を説いているのです。是非を問うてはおりません」

「……」


 奏は不快さを隠せず、おゆらを睨みつける。


「どうしてそんな大事な事を隠していたの?」

「希望的な観測を語り、奏様や常盤様を糠喜ぬかよろこびさせたくなったのです。篠塚家が外界に拠点を造り、玉造りに適当な石を確保できなければ、此度の件も取り止めにするつもりでした」

「……」

「加えて私の見立て違いもあります。本当は収穫を終えた後、九月の評定で難民の処遇を話し合う予定でした。それが年寄衆の屁理屈に付き合わされ……難民の処遇は前倒し。引き延ばし工作も難しい。ならば、多少強引な手段を用いても、常盤様の身分を確立する。これより他に手立てはございません。是非とも検討して頂きたく存じます」

「……」


 恭しく平伏するも、両者共に真顔で黙り込んだ。

 女中頭の狡猾さを再認識し、奏は唾を飲み込む。

 玉を生産する作業を難民に押しつけ、蛇孕村の治安を維持する。加えて常盤を難民の監視役に据えて、猶子の進退問題も解決しようというのだ。一つの石を投げて、何羽の鳥を落とすつもりなのか。用意周到且つ合理的。言葉にすれば簡単だが、おゆらという希代の吏僚だからこそ為し得る事業。

 おゆらの理屈に圧倒されつつも、奏は気を取り直す。

 この場で返答すべきではない。

 おゆらが何か企んでいるとは思えない。政敵でもない常盤を貶める理由が見当たらないからだ。本家主導の事業ならば、女中頭も本気で取り組むだろう。常盤が難民と接しなければならないという点を除けば、決して悪い話ではない。

 だが、どうも腑に落ちない。

 奇妙な違和感を覚える。完璧過ぎて気味が悪いというか。重要な事柄を見落としているようで怖いのだ。

 おゆらではないが、石橋を叩き過ぎて困る事はあるまい。ここは一度退席した後、常盤と相談してから決めるべきだ。

 胸の内で方針を決めた刹那、左隣で端座する少女が口を開いた。


「私……難民奉行やる」

「常盤!?」


 奏は声を裏返し、決意を秘めた常盤の横顔を見遣る。


「そんな簡単に決めたらダメだよ。難民の憎悪を一身に浴びながら、彼らを差配しなければならないんだ。それにうまくいくかどうかも分からない。今の常盤には、荷が勝ち過ぎる。難民奉行は他の人に任せよう」

「今がダメなら、いつならいいの? 私以外の誰なら適任? 難民奉行を辞退したら、奏が私に役職を与えてくれるの?」

「常盤……」


 鋭い眼差しで睨みつけられて、奏は気圧されてしまう。

 狒々祭りの夜に、常盤の地位を確立すると約束し、未だに実行できない奏からすれば、心を抉るような言葉だった。


「……ごめん。言い過ぎた」


 言葉が過ぎたと気づき、常盤は意気消沈して俯いた。


「でも私、奏の……薙原家の役に立ちたいの。難民奉行になれば、本家の役に立てるんでしょ? それなら断る理由なんかない」

「……」


 奏が沈痛な面持ちで押し黙ると、おゆらは豊満な胸の前で手を合わせ、二人の意識を引き付けた。


「どうか私を信じてください。常盤様の安全を確保する為、腕の立つ女中衆を揃えましょう。難民との折衝も弁の立つ者に任せればよいのです。奏様が納得できないのであれば、起請文をしたためましょう」


 おゆらが次々と好条件を持ち出すと、常盤は瑠璃色の双眸を輝かせた。

 難民の子という事実が、彼女の心を蝕む劣等感の原因。隷蟻山の難民とは、二度と顔を合わせたくないと望んでいた筈だ。最悪の事態が回避されて、常盤は胸に手を当てて安堵する。

 それでも奏の表情は曇ったままだ。

 用心深いおゆらが、常盤一人に本家主導の事業を任せるわけがない。難民奉行は、本家の思惑通りに動くだけの傀儡。全ておゆらが差配するのであれば、実務に口を挟む権限すら与えられない。常盤の役割は、難民が問題を起こした時、おゆらの代わりに責任を取る事だけ。

 危機感しか覚えないが……今の常盤に必要なのは実績だ。頭の堅い年寄衆を黙らせ、分家衆に存在感を示す実績。おゆらの傀儡を足掛かりに、出世の階段を登る為の実績。


 どうしてもおゆらさんの思い通りに動くしかないのか……


 奏は諦観を覚えながらも、思考を切り替えていた。

 もはや常盤の決意を翻す事はできない。説得した処で、却って頑なになる。抑も奏の不安も直感が頼り。根拠と呼べるものはなく、信用に足るほどでもない。

 常盤との約束を果たすという責任もある。

 平伏するおゆらを見下ろし、奏は溜息を零した。


「分かった。僕も常盤の意志を尊重する。だけどおゆらさんに念を押しておきたい」

「何なりと」

「常盤の安全を保障する事。それに武力を用いた威嚇は却下だ。いいね?」

「……畏まりました」


 暫時の間を置いて、おゆらは顔を上げて微笑んだ。

 奏の言い分に納得してないが、言質を取れただけで十分と判断したのだろう。

 この場で具体策を摺り合わせても、常盤が話についてこられなくなる。後ほど奏と二人で談合した方が、話が早く済むと見越しているのだ。

 奏もおゆらの意を汲み、それ以上の言及は差し控えた。


「偖も偖も御二方の了承を得られたばかりで恐縮ですが、改めて常盤様にお願いしたい事がございます」

「まだ何かあるの?」


 湯呑に手を伸ばしかけた奏が、驚いて動きを止めた。


「非礼を承知で申し上げます。薙原家と絶縁してください」

「え……?」

「薙原の家名を捨て去り、御屋敷の外に居を移して頂く。そこまでしなければ、来月の評定で分家衆の同意を得られません」


 常盤は唖然とした表情で、奏の顔を見遣る。おゆらの無礼な発言に驚愕し、理解が追いついていないのだ。


「……おゆらさんは、常盤が薙原家と縁を切り、改めて本家に仕官しないかと持ち掛けているんだ。本家の猶子ではなく、本家の家臣に取り立てたいという話さ」


 もう少し言葉を選べよ……と心の中で叱責しながらも、常盤が逆上する前におゆらの要望を捕捉した。


「私が本家の家臣……」


 常盤が鸚鵡返しに呟いた。やはりまだ困惑気味である。


「朧さんという前例ができたからね。確かに分家衆を説得しやすい。その時の常盤の身分は?」

「本家女中衆の次席が宜しいかと存じます。いきなり私と同格になると、評定に出席する義務が生じます。面倒な雑事に煩わせる事なく、御役目に専念する事が肝要かと」


 立て板に水とばかりに、おゆらは淀みなく答えた。


「住まいを移して頂くのも同様の理由からです。蛇孕川の近くに屋敷を建て、配下の女中衆と共に難民を差配する。禄高は、役料も含めて八百石。功績を挙げれば、加増も検討しております」


 敢えて常盤に説明するまでもない。破格の待遇であり、妙案とすら言える。

 それと同時に、奏は言外の意図に気づいた。

 常盤に対する反発は、突き詰めると偏見や嫉妬に過ぎない。

 余所から来た難民の娘が、厚かましくも本家と同じ名字を名乗り、特別扱いされているのが気に入らない。

 殆ど言い掛かりに過ぎないが、過半数を占めれば分家衆の総意となる。いつまでも無視はできない。

 ならば現状を逆手に取る。常盤と本家の縁を断ち切り、家臣として召し抱え直す。難民の子に難民の統治を任せるのだから、分家衆も異論はあるまい。常盤を本家屋敷から遠ざけるのも、難民奉行の役目に専念させる事より、寧ろ分家衆の不満を払拭する為の措置であろう。

 これだけの交渉材料が揃えば、おゆらの望み通りに評定は進む。仮に評定で揉めたとしても、最後は无巫女アンラみこの鶴の一声で決まる。尤も用心深い女中頭は、来月の評定を待たずに根回しを済ませてしまうだろう。

 身分や禄高を考えれば、これほどの好条件はない。然し実際に決めるのは常盤だ。何より彼女の意志が優先される。


「御屋敷を移すって……奏と離れ離れになるの?」


 弱々しい口調で呟き、奏の小袖の袖を握り締める。


「その心配はありません。本家女中頭の私が、御屋敷に住み込んでいるくらいです。難民奉行に就任した後も、本家の御屋敷に来てください」

「良かった……」


 おゆらの話を聞き、常盤は掠れた声で応じた。

 己の地位や禄高より、本家屋敷に戻れるかどうかを危惧していたようだ。


「最後にもう一つだけお願いがございます」

「今日はこの辺りでいいだろう。そろそろ常盤を休ませてやりたい」


 奏は力強い口調で遮る。

 衝撃的な話題を何度も畳み掛けて、相手に思考する間を与えず、思い通りに誘導する。これは帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスが、奏を連れ去ろうとした時と同じ手法だ。

 相手の心情を無視した話の進め方に、奏は苛立ちを感じ始めていた。


「常盤様の身を憂うからこそ、事を急いているのです。来月の評定までに、分家衆に根回しを行う必要があります。勿論、无巫女アンラみこ様の御意向に頼る為、如何なる道筋を辿ろうと、最後は望み通りの結果を得られます。然し分家衆を蔑ろにしては、不満の矛先が再び常盤様に向けられるだけ。根本的な解決になりません」

「――」

「奏様は御不快に思われるでしょう。然れど常盤様の身を案じればこその曲事くせごと。事前の根回しを疎かにできません」

「それは……」


 正論で返されれ、奏は二の句が継げなくなった。

 これまでおゆらは、一人で薙原家を動かしてきた。換言すれば、己一人が泥を被る覚悟で強引に分家衆を導いてきたのだ。それにおゆらは、分家衆の恨みや妬みを受け流す処世術を心得ている。たとえ分家衆に『女狐』や『无巫女アンラみこ様の腰巾着』と揶揄されても馬耳東風。寧ろ生来の被虐癖で昂ぶり、毎日が悦楽に満ちているだろう。

 だが、常盤は違う。

 分家衆からすれば、何がなんでも常盤を難民奉行にする理由がない。普通に考えたら、女中衆の中から所務に秀でた者を選出すれば済む話。効率を重視するおゆらが、わざわざ常盤を推挙する必然性も見当たらない。

 状況を踏まえると、常盤を難民奉行へ推挙するように、奏がおゆらを焚きつけたと考えるのが妥当だ。しかもこれまでの経緯から考えて、无巫女アンラみこの許婚が批判の矢面に立つ事はない。

 分家衆の標的にされるのは、いつも余所者の常盤だ。

 難民の小娘が本家に擦り寄り、薙原家の政に介入するつもりか?

 もしや難民奉行を踏み台に、奏様の側女になるつもりではないか?

 根拠もなく下卑た妄想を膨らませるのが、分家衆の生き甲斐のようなものだ。根も葉もない悪評が広がり、常盤を精神的に追い詰めていくだろう。それでは、余計に事態を悪化させるだけだ。

 おゆらの言い分は、腹立たしいほど理に適う。


「事前の根回しという事は、評定の前に何かするのかな?」


 顔を顰めながら、奏は常盤の代わりに尋ねた。


「流石は奏様。御明察でございます。常盤様には、近日中に『難民集落』を視察して頂きたいのです」

「視察?」

「勿論、本当に『難民集落』を視察する必要はありません。視察を行うふりをするだけ。次の評定までに、視察を終えたという結果がほしいだけです。数名の女中衆を従えて川岸まで赴き、引き返して頂ければ十分。後は私が、分家衆を説得します」

「御先代も生前、『難民集落』を視察したと聞いたけど……」

「あれは御先代の酔狂です。此度の目的は、難民奉行の件を既成事実化する事。行楽のつもりで、蛇孕川を見学してきてください」


 おゆらは朗々と語りながら、途中で常盤を見遣る。

 奏も目を向けると、常盤の異変に気づいた。

 白皙の美貌に汗が伝わり、指先が小刻みに震えていた。死人のように顔色が悪く、瑠璃色の双眸は虚空を見つめている。

 明らかに精神的な限界を超えていた。気鬱の症状を再発する一歩手前。流石に会話の続行は不可能と断念したようで、おゆらは視線で奏に訴えかける。

 奏は複雑な表情で頷くと、常盤の背中を優しく撫でた。


「とにかく話は分かった。でも常盤の体調が良くない。僕の部屋で休ませる」

「畏まりました」

「……待って」


 常盤が二人を呼び止めた。


「最後まで聞きたい。聞かせて……お願いだから」


 途切れ途切れに語る常盤に、おゆらは穏やかな笑顔を向けた。


「もう御話は終わりです。他にあるとすれば――」

「僕も一緒に視察へ行く」

「――と奏様が仰る事くらいでしょうか」

「全てお見通しか……」


 今にも倒れそうな常盤の手を引き、ゆるりと時を掛けて立ち上がらせると、やや乱暴に襖を開けた。


「後でもう一度来るから。その時に詳細を詰めよう」


 はい――というおゆらの承諾を背に受けて、二人は百合の間を退室した。

 足下の覚束ない常盤に寄り添いながら、女中頭の強攻策を如何に翻すか……奏は思案に暮れていた。




 練香……香料


 銭……貨幣


 主権通貨国……変動為替相場制の独自通貨国であり、自国通貨建て国債しか発行しておらず、国内の供給能力が高い国家。財政破綻(債務不履行)の危機が存在しない為、財政的な理由で諸外国や多国籍企業に政治的な介入を許さず、国民の主権を維持できる。あくまでも『国民の主権を維持できる国家』であり、本当に国民の主権を維持できるかどうかは、民主制の国民主権国家に於いて国民次第である。具体例は、アメリカ、日本。


 基礎的財政収支……通称PBプライマリーバランス。税収・税外収入と国債費(国債の元本返済や利子の支払いに充てられる費用)を除く歳出と収支。


 国民の寿と禄……国民の生命と財産


 聖別……人や物、特に礼拝で使用する道具などを聖なるものとして、他の被造物と別のものとする事


 短期証券……日本政府でいう処の『国庫短期証券』


 不換紙幣……金や銀や米や銅銭と兌換が保障されていない法定紙幣。日本紙幣(日本銀行券)の事。


 神符……蛇孕神社が発行する政府紙幣


 不渡り……手形、小切手の支払人が適法な支払呈示をしたにも関わらず、支払われなかった事


 行楽……観光

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