第58話 沐浴
凄く暑い。
水無月の太陽は容赦なく奏の背中を照らし、前方に濃い影を作る。普通に歩いているだけで、体中から汗が出る。
早く秋にならないかなあ。マリア姉にお願いしたら、夏から秋に早変わり……なんて事あるわけないか。
一度庵に立ち寄り、新しい着物を用意した奏は、激しい熱気や全身を蝕む筋肉痛と戦いながら、よろよろと井戸に向かう。両手に力が入らず、着物を載せた漆器が重い。近場の井戸に辿り着くまで、酷く長い
眼前に陽炎が見えた。
揺らめく景色は、奏を虚構の世界へと誘い込むようだ。
気分が悪い。
酒を飲んだわけでもないのに、吐き気が込み上げてくる。
朧の発した言葉が、頭から離れないのだ。
『妖怪の手に掛かれば有益。己が手を汚せば無益と申すか』
自分でも理不尽極まりない発想だと思う。朧に傲慢と言われても仕方がない。人の命に差をつけ、選択と集中を繰り返す。それも高尚な理想の為ではなく、単に傷つきたくないから。
自分の失敗が原因で、天下分け目の合戦が起こるなんて考えたくない。自分の安全を守る為に、身近な者が死ぬなんて耐えられない。自分の存在が、人の世に害悪を齎すなんて考えたくない。
挙句の果てに、自分の命は惜しいのだ。怪我をするのが恐ろしく、死の恐怖に怯えて身を竦ませる。
稽古に挑む動機が不純だから、剣の腕が上がらないのも当たり前。先程は偉そうな口を叩いたが、奏に朧やおゆらを非難する資格はない。
豊臣秀吉の庶子でなければ。
先祖が
誰も奏の相手などしてくれないだろう。
誰も彼もが奏を求めて争い、奏の為に命を捧げる。当事者は、残酷な現実を遠くから眺めているだけ。最も卑劣で情けないのは、奏自身に他ならない。
これじゃあ、悪魔崇拝者と何も変わらないよ……
思考が後ろ向きになり、慌てて頭を振るう。
どう足掻いても、穏やかな日常には戻れないのだ。是だろうが非だろうが、自分の決めた道を進む。それ以外に術はない。
孔子曰く――
速やかならんと事を欲すれば、即ち遠せず。
何かを足す為には、遠回りでも目前の事柄から対処する。加えて無用の用という言葉もある。周囲から愚行と思われても、いつか誰かの役に立つ事を祈ろう。
陰鬱な思考を振り払い、奏は井戸を目指して歩いた。
本家屋敷には、井戸が三箇所も設置されている。女中衆が炊事や洗濯で使用するのは、改築以前から使われていた南東の井戸。北東と北西の井戸は、数年前の改築で掘られたものだ。北東の井戸は、屋敷勤めの女中衆が沐浴に利用する。北西の井戸は本家専用――現在では、奏と常盤が独占していた。
誰が命じたわけでもなく、自然に生まれた暗黙の掟。
それゆえ、井戸の側に立てられた衝立を見た時、すぐに常盤が身を清めていると気づいた。三枚の衝立で仕切りを設けており、屋根の下で銀色の髪が揺れていた。
女性の沐浴は、男性より時間が掛かるという。常盤が沐浴を終えるまで、直射日光を浴び続けるのも辛い。
出直そう……
溜息をついて踵を返すと、後ろから声を掛けられた。
「……誰?」
「驚かせてごめん。常盤が沐浴してると思わなくて」
奏の後ろ姿を確認した後、常盤は安堵の吐息を漏らす。
「なんで声を掛けてくれないの?」
「僕も水浴びに来たんだけど……先を越されたから」
「なにそれ? 答えになってない」
「僕もそう思う」
互いに背中を向けながら、怖々と会話を重ねる。
衝立の高さが腰の辺りしかないので、絶対に振り返る事はできない。覗くつもりがなくても、常盤の上半身が見えてしまう。
「出直すよ」
「待って。もうすぐ終わるから」
「別に急がなくても……」
「もう着替えた。こっち向いていいよ」
常盤が衝立をどけて、仕切りから出てきた。
紫色の
すでに水浴びを終えて、小袖に着替えていたのだろう。
「変かな?」
白い頬を赤く染めながら、俯き加減で尋ねてくる。
「いや……変じゃないよ」
奏も頬を掻きながら、緊張した面持ちで応じた。
最近、常盤と二人きりになると、どうにも会話が続かない。妙に気が張るというのか、後ろめたさが先立つ。
「でも新鮮な感じ。常盤は小袖を着ても似合うね」
「褒め方が雑。心がこもってない」
「僕にどうしろと言うんだ……」
奏は困り顔で、大きく息を吐いた。
「僕も水浴びしていいかな?」
「……好きにすれば」
幾分不満げな様子で、常盤は脇に退いた。
奏は「あはははは……」と苦笑しながら、そそくさと井戸に向かう。仕切りの中に入ると、空気の冷たさに驚嘆した。簡素な屋根が日光を遮り、井戸の底から冷気が溢れ出ているのだ。
奏は手早く稽古着を脱いだ。
草履も下帯も脱いで、衣類を
からからと滑車を動かし、汲み上げた井戸水を頭か被る。一気に冷水で頭を冷やし、全身の汗を流し落とす。
「うわー、生き返るー」
前髪から水滴を垂らしながら、心地よさそうに呟いた。庭の木陰より遙かに涼しい。暫くこの場から離れたくないくらいだ。
井戸から汲み上げた冷水を浴びながら、常盤の様子を思い出す。
常盤が何を考えているのか……奏には想像もつかない。感情の起伏が激し過ぎて、本心が全く見えてこないのだ。
尤も悪い傾向とは捉えていない。常盤は多少不機嫌な方が、精神的に安定している。少なくとも、自室に引き籠もるよりマシだろう。
如何なる心境の変化なのか、最近の常盤は何事にも積極的だ。自発的に奏の手伝いをしたり、進んで学問に励む。改めて小鼓の稽古も始めたようだ。
彼女なりに前へ進もうとしている。硝子細工のように扱われていた頃に比べれば、目を見張るほどの成長だ。
あれだけ元気なら、もう心配いらないよね。
これで常盤の地位を確立できるような策でも思いつけば、何も言う事はないのだが……残念ながら、良い方法が思いつかない。おゆらにも相談してみたが、万事解決という方法はありません――と断言された。
強引に蛇孕神社から連れ出した手前、奏の力で常盤の名誉を回復してやりたい。だが、薙原家の居候に過ぎない奏が、政に口を挟むわけにもいかず、有効な手立てを打てなかった。ある意味、一番厄介な問題である。
井戸の水を汲み上げると、背後から小さな声が聞こえてきた。
「意外に逞しい……」
少し離れた場所から、常盤が奏の背中を見つめている。
「これでも男だからね……ていうか、堂々と覗かないでくれる」
「覗いてない。奏を待ってるだけ」
「無理に待たなくてもいいよ。庵で休憩したら? 西瓜を冷やしてるから、先に食べてもいいし……ああ、僕の分は残しておいて」
「後から奏も来るんだよね?」
「おゆらさんに呼ばれてるんだ。難しい話みたいだから、少し時間が掛かるかも。だから常盤は先に――」
「私もおゆらさんに呼ばれてるの」
「常盤も?」
おゆらが常盤を主殿に呼ぶなど珍しい。奏と同じように、常盤は無役の居候。当然、薙原家の政も疎い。蛇孕村の話題を振られた事すらないだろう。私用なら庵で話せば事足りる。合理主義の塊のような女中頭が、無役の猶子に何の用があるというのか?
「おゆらさんから用件は聞いた?」
「……庵じゃ話せないって。他の女中から聞かされた」
暫時の間を置いた後、常盤は暗い声で言う。
「多分、僕と同じ用件じゃないかな? 案外、良い話かもしれないよ。今年は豊作かもしれないとか、常盤を新しい役職に就けるとか……」
ざばんと桶の水を浴びてから、敢えて楽観的に話を進める。
「よし、二人で一緒に行こう」
「え?」
「同じ用件かもしれないからね。すぐに着替えるから。少し待ってて」
「うん――」
常盤の返事に喜色が宿る。
手拭いで身体を拭くと、奏は素速く着替えた。砂で汚れた稽古着を漆器の上に置き、衝立の仕切りの外へ出た。
「お待たせ」
「そんなに待ってないけど……どうしたの?」
奏が視線を下げた事に気づき、常盤が不思議そうに尋ねた。
「その着物……自分で洗うの?」
「……女中にやらせる」
「それなら井戸の近くに置いておけばいいよ。僕の着物も女中に洗濯して貰うから。衝立も庵に運んで貰わないといけないし。その方が、手間が省けるでしょ」
「そうだけど……折角二人きりなのに。奏が空気読んでくれない」
「ちょっと待ってよ」
奏が追い掛けると、不意に常盤が脚を止めた。
青い双眸を大きく見開き、白皙の美貌を強張らせている。
前方を向くと、此方に近づいてくる人影を見つけた。
常盤を庇うように、奏は前に進み出る。本家の者が使う井戸の近くで、他家の者を見掛けるなど滅多にない事だ。
「これはこれは……『伽耶様』ではありませぬか。御機嫌麗しゅう」
老婆の物言いから、奏は現状を把握した。
「先程から御本家様を捜しておるのですが……
「さあ……主殿じゃないですか」
「主殿にはおりませなんだ。それに娘の様子が変なのです。部屋に閉じ籠もり、儂と顔を合わせようとせず……何か不吉な事が起こるのではないかと、心配で心配で心配で心配で……」
どこか遠くを見つめながら、同じ言葉を延々と繰り返す。
苛立ち始めた常盤が、奏の袖を強く掴んだ。
「僕も御本家様を捜してみます。見掛けたら
「宜しゅうお願い致しまする」
深々と頭を下げると、老婆はその場から立ち去った。
小さな背中が見えなくなると、奏は胸を撫で下ろす。憎悪の視線を向けていた常盤は、露骨に舌打ちをした。
「あの婆さん、まだ生きていたんだ。早く死ねばいいのに」
「そういう事は、口にしてはいけないよ。特に御屋敷の中ではね」
暴言を吐く常盤を窘めるが、彼女の気持ちも理解できる。
油壺ヤドカリ。
薙原十二分家の一つ――油壺家の前当主。常盤を傾城屋に売り飛ばそうとした張本人。二年前の謀叛が起こるまで、年寄衆の急先鋒と言うべき人物だった。
蛇孕村の物流を差配する油壺家は、薙原家でも一目置かれる存在だった。対等・平等・公平を重んじる宮座の中でも、外界から様々な資材を集め、他の分家に供給する油壺家を軽んじる事などできない。特にヤドカリは、年寄衆の領袖を務めるほどの人物だった。
四十年前、
自他共栄の宮座から、強権支配の独裁体制へ――
強引な政治改革の余波を受け、政権の中枢から遠ざけられたばかりか、派閥の領袖からも引き摺り下ろされた。外界との取次役も篠塚家に奪われ、代わりに雑物庫の見張り番を押しつけられたのだ。
これほどの屈辱があるだろうか。
薙原家の雑物庫を襲う馬鹿などおらず、名目だけの無役に等しい。加えて先代当主は、分家衆に過酷な競争を強いた為、油壺家は衰退の一途を辿る。雑物庫の見張り番が、如何にして功績を立てよう。些細な失態で減俸される事はあれど、手柄を立てる機会は一向に訪れない。
油壺家の復権に固執するヤドカリは、幼いマリアに傾倒していく。
「当代の
ヤドカリの主張は、政治的に追い詰められていた年寄衆からすれば、極めて都合の良い話だ。年寄衆は、沙耶に代わる神輿を欲していた。幼いマリアを現人神の如く敬い、先代当主の政に非を鳴らし、中老衆に対抗しようとしたのだ。加えて予言の成就は、薙原家の悲願という正当性もある。符条の諫言も加わり、年寄衆に押し切られる形で、先代当主はマリアと奏の婚約を認めた。
結果的に蛇孕村で暮らしているわけだから、奏の恩人と言えるが……ヤドカリに心を許した事は一度もない。
おゆらの妖術で当時の記憶を改竄されているが、先代当主が火災で遠行した際、ヤドカリが狂気じみた哄笑を発していた事は、今でも鮮明に覚えている。その直後に年寄衆を集めて、常盤を蛇孕村から追放しようとしたのだ。
殊更消去するまでもないと考えたのか、おゆらは二人から年寄衆の暴挙に関する記憶を消さなかった。その為、常盤は深刻な人間不信に陥り、奏は年寄衆に対する嫌悪感を強めた。
善人か悪人かと問われれば、ヤドカリは悪人と断言できる。
世捨て人の如きヒトデ婆を除けば、年寄衆の中でも最年長の人物。傲岸な気質で若輩や異性を見下し、取次役の符条からも煙たがられていた。
悪評も枚挙に暇がない。
対立する田中家の当主が懐妊した際、白湯に毒を仕込んで流産させたとか。隆盛極まる篠塚家の名誉を貶める為、本家に納める地代を着服し、符条に篠塚家の仕業と
何度も処刑しようとしたが、その度に符条が助命を嘆願し、先代当主も受け入れざるを得なかった。行動の是非はともかく、年寄衆の重鎮である事に変わりない。油壺家の当主を処刑すれば、年寄衆が喜んで利用するだろう。
確たる証もなく、分家の当主を謀殺した暗君。
家臣を守らぬ主君は、惣領の器に非ず――というわけだ。
敵対派閥に大義名分を与えるばかりか、家中に動揺を齎すだけ。
おそらくヤドカリもそれを望んでいたのだ。油壺家を再興する為なら、捨て石になる事も厭わない。外道は外道なりに、己の悲願に殉ずる覚悟を決めていたのだ。
尤も奏でも分かる事だ。先代当主や符条も年寄衆の思惑を読んでいた。ヤドカリの娘や孫を人質に取り、本家の管理下に置いた。
それから数年後――
マリアが起こした謀叛に加担。人質に取られた娘と孫を見捨て、先代当主の取り巻きを謀殺し、積年の恨みを晴らした。
齢八十過ぎての大願成就である。油壺家の再興と利権の再分配を確認すると、還暦を迎えた娘に家督を譲り、政に一切口を挟まなくなった。まるで憑き物が落ちたかの如く覇気を失い、飽きもせずに自宅の庭を眺める日々。おゆらから聞いた話によると、鏡に映る自分と会話したり、村内を徘徊しているという。
本家屋敷まで入り込むとは、流石に奏も驚いた。
先代の
栄枯盛衰。
人も妖怪も皆、等しく老いて死ぬ。
どれだけ御家の再興に尽力しようが、最後は身内からも疎まれて、命の炎が燃え尽きるのを待つばかり。それでも目的を果たしたのだから、当人は心の底で満足しているのだろうか?
堂々巡りの苦悩に耐えきれなくなり、奏は思考を切り替える。
これ以上、深く考えても詮無い事。
洗濯物や衝立の片付けを頼む時に、女中に事の顛末を説明する。
後は女中が、油壺家に連絡してくれるだろう。
それで奏の役割は終わりだ。
いくら
尤も常盤は、憎悪の念を捨てられない。老婆の姿が消えても、震える手で奏の袖を握り締める。
「常盤……もう行こう」
憎悪と恐怖で立ち竦む少女を促し、黙々と前に進む。常盤は押し黙り、奏の袖を掴みながらついてくる。
先程まで常盤と心安らぐ
二人は重い足を引きずり、無言で庵を目指した。
瓶覗色……薄い水色
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