第57話 稽古
薙原本家の邸内に、絶え間なく金属音が響き渡る。
「だらしないぞ、御曹司。もう脚にきておるではないか」
無断で武具庫から拝借した大刀を振るう朧は、小半刻ほど刀を打ち合わせただけで、激しく息を乱す奏に呆れていた。
「これでも……最近は、走り込みも増やしたんですけど……」
木綿の小袖に黒い袴をつけた奏は、息を切らしながら応えた。
普段通りの格好(カーボンナノチューブを編み込んだ狩衣)で対手に挑むと、稽古の意味がなくなる。
「数日走り込んだくらいで、容易く体力が増すものか。それより真剣の速さに慣れよ。身体が斬り合いに慣れておらぬから、無駄な動きが増えて体力を失うのじゃ」
「……はい」
悄然と応える奏の視線は、朧の持つ大刀に向けられていた。
「太刀を見るな。対手の眼を見るな。視界の全てを捉えよ」
「視界の全て?」
「観の目じゃ。視野を広げて、臨機応変に対応する。何も難しくあるまい」
「でも起こりを見極めないと――」
「起こりを見極めて如何致す? 返し技や抜き技でも試すか? 今の御曹司では、対手の後の先も取れず、斬り捨てられて終いじゃ」
「……」
辛辣な言葉を浴びせ掛けられても、奏は大刀から視線を外せない。朧の持つ大刀は、刃挽きすらしていない。正真正銘、真剣を用いた荒稽古である。
一応、受け払いが間に合わなくても、絶妙の拍子で寸止めしてくれるが……木剣の稽古に慣れた奏は、真剣と対峙するだけで萎縮してしまう。自然と腰が退けて身も竦み、動きが硬くて反応も遅くなる。情けない限りだが、対手が刃を返すと、実戦を想定した稽古にならない。
朧の打突を受け払う奏は、
可能であれば、対手を傷つけたくない。味方が助けに来るまで、時間稼ぎができれば十分。何よりも足手纏いにならない方法を模索する。
奏なりに覚悟を決めて稽古に臨んだが、現実は甘くない。
「右切上」
「お願いします!」
「ほれ」
「ふみゃあ!」
情けない声を上げながら、右切上を鎬で受け流す。
「左切上」
「ど……どうぞ!」
やはり腰の抜けた状態で、なんとか「ふみゃあ!」と防いだ。
馬鹿な遣り取りである。
傍から見れば、誰もがそう思うであろう。
実際、異論を挟む余地がないほど馬鹿な遣り取りだが、武芸者と素人が真剣で稽古を行うと、必死の剣戟も頭の悪い茶番劇に変わる。
当然、朧は手を抜いている。
奏の太刀捌きでも受け流せるほど、軽くて遅い打突である。然し本身の一太刀には変わりない。奏の負傷を避ける為、朧は事前に打突を予告しなければならなくなった。二之太刀を放つ前にも、奏が刀を構え直すまで待たなければならない。
正真正銘の茶番劇。
誰が見ても情けない稽古だ。
それでも奏は、羞恥心に屈したりしない。今よりも強くなる為には、馬鹿な遣り取りを続けるしかないのだ。考えたら負け、考えた負け……と心の中で繰り返し、対手の全身を捉えるように意識する。
全身汗塗れの奏と対照的に、朧は嘲笑を浮かべて佇立していた。
否、よく見ると軽侮の笑いではない。軟弱な奏を蔑むような嘲笑ではなく、激しい怒気を孕んだ笑顔。
最近の朧は、あまり機嫌が良くない。
「ほれ、今度は御曹司から攻めて参れ。
「ふみゃあ!」
朧に指摘された通り、がら空きの頭部に打ち込むが――
「嘘!?」
諸手の
「刃挽きされた太刀など恐るるに足らず。太刀筋を見切るのも容易。唐竹割」
朧はニヤリと嗤い、大刀を上段から振り下ろす。
青白い刀身が、奏の頭上でぴたりと止まる。朧が刀身を掴んだ手を離すと、奏は
「カカカカッ、その心意気や良し。然れど刃挽刀を対手に叩きつけてはならぬ。それで怯むのは、素人だけじゃ。攻める時は、片手で刺突を試みよ。御曹司の膂力でも、当たり所が良ければ、致命傷を与えられる。刺突を弾かれても、牽制くらいにはなろう」
「相手を傷つけずに済むなら、それに越した事はないんですけど……」
初めて助言を受けた奏は、呼吸を整えながら
「御曹司の価値観を否定するつもりはない。
「……」
日常的に命の遣り取りをしていた武芸者と、蛇孕村で安穏と暮らしてきた居候では、価値観が違い過ぎる。それでも朧は主君の意志を尊重し、少しずつ外界の厳しさを教えながら、奏の成長を見守り続けているのだ。
「加えて御曹司。何故、曲がり刃を使わぬ? 蛇女が改良を施し、前より使い易くしたのであろう」
「使い易いと言うか、持ち歩き易いのは確かなんですけど……」
年若い主君は、困り顔で左袖を
奏の左腕には、銀色の刃が幾重にも巻きついていた。アダマンタイトで製造された曲がり刃は、脳内の電気信号を読み取り、持ち主の思い通りに動く。加えてマリアが暇潰しに改造を施した為、大型の発電機がなくても稼働できる。袖の中に隠せるので、恐ろしい暗器と成り得た。
奏も何度か試してみたが、マリアの画期的な発明に驚く反面、扱いづらさに難儀していた。右手で日記を書きながら、左手で折り紙を折る感覚とでも言おうか。複数の事柄を同時に裁く才能がないと、自由自在に扱えないようだ。
まだ数日しか修練していないが、一本の曲がり刃を使うだけでも、頭がこんがらがりそうになる。これを八本同時に操作しながら、龍腕や蹴鞠玉を使用していた
「何か不都合でもあるのか?」
「うまく加減ができないんです。刃挽きもしてないから、相手に深手を与えてしまいそうで……それに使い方を誤ると、自分を傷つけてしまいそうで怖いんです」
奏は気弱な口調で答えた。
「恐怖か……儂とは無縁の感情なれど、御しきれぬ恐怖は肉体を硬直させ、咄嗟の反応を遅らせる。今の御曹司がまさしくそうよ。常に逃げ腰では、危難の折に退く事すら能わぬぞ」
「……」
「恐怖とは、自覚したうえで克服するものじゃ。稽古の場で使わずに、いつ使う? 儂以外の者に刃を向けられた時か?」
「それは――」
「他者を殺めたくないが、己も傷つきたくない。是では真剣を用いようと、実戦を想定した稽古にならぬ。やはり稽古の仕方を変えるべきか」
「他に方法があるんですか?」
奏が不思議そうに首を傾げると、朧は唇の端を吊り上げた。
「薙原家には、大勢の下人がおるではないか。その中で
「――ッ!?」
「実戦に勝る稽古は非ず。いくら御曹司でも、杖がなければ歩けぬ者に後れを取る事はあるまい。下人を幾人か斬り殺せば、殺生にも慣れる。我が身を危険に晒す覚悟は、その後でも構わぬ」
「……無益な殺生を行うつもりはありません」
語気を強めて応えると、朧は鼻を鳴らした。
「是は異な事を申す」
「?」
「妖怪の手に掛かれば有益。己が手を汚せば無益と申すか。是ぞ傲慢の極地。
「そんなつもりは――」
「隙有り」
動揺する奏に向けて、逆袈裟に大刀を振り抜いた。
「うわああああッ!!」
悲鳴を発しながら、奏は後方に飛び退いた。
振り抜いた――
予告もなく寸止めもせず、朧は真剣を振り抜いた。反射的に避けていなければ、胴体を斜めに断裁されていた。
額に冷や汗を滲ませながらも、恐る恐る朧の顔を見つめる。
朧は妖艶な美貌に微笑を貼りつけながらも、ぴくぴくと額の血管を浮かび上がらせていた。機嫌が悪いどころか、いつ逆上してもおかしくない有様だ。
ようやく奏は、正確に現状を把握した。これは尋常な稽古ではない。朧の理不尽な八つ当たりだ。
身の危険を感じた奏は、怖々と口を開いた。
「……僕、朧さんの機嫌を損ねるような事しました?」
「身に覚えがあると?」
質問に質問で返された。
この数日の朧の所業を思えば、思い当たる節もある。
「ええと……お酒を禁じた事ですか? でも程々にしないと、身体を壊しますよ。それに薙原家も大身とはいえ、家蔵が無限というわけではありません。湯水の如く京師の上酒を出せるほど、余裕があるわけでは……」
「儂に禁酒を命じたのは、御曹司であったか」
「だって朧さん、酒癖良くないじゃないですか! この間もお酒をくすねて、僕の部屋で大暴れしたばかりですよ! 寝所の壁をぶち壊した挙句、庭も滅茶苦茶に――」
奏の言い分は、大刀の横薙ぎで遮られた。
稽古着の袖が斬り裂かれ、恐怖で血の気が失せる。先程の攻防で後退していなければ、右腕を斬り飛ばされていた。
朧は大刀を止める気がない。欠片ほどの躊躇もなく、主君の五体を鋼の刃で切断するつもりだ。
「全ては儂の不始末というわけか。見解の相違とは、恐ろしいものよのう」
「見解の相違?」
「左様。儂が何を考えておるのか、この場で当ててみせよ。的中致せば、御曹司の頬に口づけしてやろう。外れた時は斬り捨てる」
「ええええッ!!」
脈略もなく従者に脅迫されて、奏は頓狂な声を発した。
こういうのも究極の選択というのだろうか。許婚以外の女性に口づけされても嬉しくないが、的外れな回答をすれば殺される。
暫く黙考した後、奏は「あっ――」と声を上げた。
「お酒を飲んで暴れ回りたいと?」
「儂は酒乱か」
「似たようなものでは――」
「似たようなもの?」
率直な感想が、朧の逆鱗に触れた。
左手の指を鳴らしながら、大刀を担いで背中に隠す。殆ど構えが存在しない覇天流で、数少ない構え――片手甲冑割の構えである。
「残念じゃのう。
「答えが多過ぎる! ていうか、朧さんの身に何が起きたんですか!? 全然、想像できないんですけど!?」
「女心も分からぬ者に、正解を教える義理はない。尤も儂は寛大な
「……冗談ですよね?」
「冗談? 御曹司らしからぬ事を申す。信長公であれば、是非に及ばず――と申すべき処ぞ」
「早くも本能寺の変! 明智光秀だって、十五年は真面目に仕えてましたよ!」
「なんぞもう面倒臭くなってきた。腕は止めて、雁金に斬り下ろそう。心ノ臓の手前で止めれば……まあ、死ぬ事もなかろう」
「死ぬ死ぬ死ぬ! 肺が割れたら死んでしまう!」
恥も外聞もなく、奏は絶叫した。
武芸者でも戦国大名でもない奏が、即座に死を覚悟できるわけもないが、下克上の最新記録を狙う謀叛人(仮)は、抜き身の大刀を振り下ろす。
怯える奏は、刀を放り投げて
「……あれ? まだ生きてる」
暫く身を竦ませていたが、襲い来る筈の痛みがない。
顔を上げると、刀身が左肩に触れる寸前で停止していた。加えて朧の視線は、奏の後方に向けられている。
殺気を帯びた視線を追うと、奏のよく知る人物が佇んでいた。女中頭のおゆらが、二人の女中を従えて、此方へ近づいてくる。
「剣術の稽古ですか? 精が出ますね」
おゆらが柔和な笑顔で、二人の様子を見比べる。
「尤も修練にしては、手荒に過ぎるようで。実戦さながらと言うより、ただの斬り合いではありませんか。これでは剣術の稽古と言えません。本気で奏様を傷つけるつもりであれば、極刑を覚悟してください」
穏やかな口調で語るが、内容は最後通牒である。
朧は厚めの唇に舌を這わせて、おゆらに大刀の切先を向けた。
「お主……よく儂の前に顔を出せたのう」
「あらあら、まだ先日の一件を根に持っていたのですか?」
黒い首輪に指を当てながら、おゆらが艶然と笑う。
「御屋敷の台所に忍び込み、京師の上酒を盗んだ挙句、主君の寝所で大暴れ。壁を蹴り壊すわ、庭で刀を振り回すわ……斯様な騒ぎを起こした者が、壊した壁の弁償と謹慎二日で済むなど前代未聞です」
「――」
「奏様の寛大な処置に感謝こそすれ、稽古にかこつけて憂さ晴らしなど恥ずべき所業。抑も真剣の速さに慣れろとか、本気で仰っているのですか? 熟練の武芸者にもできない事を主君に求めないでください」
「えッ――できないの!?」
本気で稽古に励んでいた奏は、驚いて声が裏返った。
おゆらは額に手を当てて、大袈裟に溜息をつく。
「……不可能とは申しませんが、現実的ではありません。一度でも受け損なうと、致命傷を負うのですよ? ゆえに御武家様は、重たい甲冑を着て戦場へと向かうのです。左様な事は、朧様も御存知でしょう」
「鎖で刺突を止めた者がほざくな」
朧が横槍を入れるが、当人は肩を竦めて聞き流す。
「指導者の資質を欠いているのか、中二病の矜持とやらが邪魔をするのか。どちらにしても、
数日前、本家の武士を数人掛かりで袋叩きにした挙句、『
事情を知らない奏は、辛辣な物言いに危機感を覚えた。
案の定、朧の眼光に殺気が宿る。
「是は然たり。護衛が傍におらねば、ろくに会話も能わぬ者が、儂に中二の道を語るか」
「中二の道など詭弁も同然。酒乱の戯言ではありませんか」
「ならば、武士の理屈で語ろうか。儂は
「いきなり喧嘩腰にならないでください。同じ主君を
ぶちんッ、と朧の堪忍袋の緒が切れた――
勿論、奏がそのように感じただけで、本当に靱帯が断裂したような音を聞いたわけではない。徳川家の猛将――
後の世に謂うマジギレ五秒前という状態である。
両者の間で空気が軋む。
危険を察知した女中が、朧の前に立ち塞がった。
鉄砲を携えた眼帯の女中と、六尺棒を右肩に担ぐ女中。当然、どちらも奏と顔見知りである。知人であるがゆえに、諍いなど起こしてほしくない。
奏は両者の間に立ち、咄嗟に両腕を広げた。
「おゆらさん! 僕が実戦さながらの稽古をお願いしたんだ! ほら、装束も普段の狩衣じゃなくて稽古着でしょ? お互いに興奮していたのかもしれないけど、それも稽古の延長で他意はない。朧さんは私怨に囚われて、武士の本分を忘れたりしないよ。僕が尊敬する立派な
静寂に包まれた庭園に、凜とした声が響いた。
「御曹司……」
「奏様……」
朧とおゆらが、主君の毅然とした態度に驚く。両者共に毒気が抜かれた顔で、ぽかんと佇んでいた。
「それにおゆらさんは、物言いが過ぎる。朧さんは仕官したばかりで、右も左も分からないんだ。それを指南するのも、本家女中頭の務めじゃないか。祭りの後始末や政で忙しいのも分かるけど、今のおゆらさんに朧さんを非難する資格はない」
奏は馬手を向いて、おゆらを窘めた。
「……申し訳ありません」
主君の剣幕に気圧されて、おゆらは頭を垂れる。
「朧さんとの稽古は、これからも続けるよ。僕は真剣を向けられただけで、足が竦むような臆病者だから。荒稽古も止むを得ない。ただし――」
弓手に向き直り、困惑する朧に視線を定める。
「稽古は寸止めを決まりとします。腕や脚が斬られるような稽古は、分家衆や女中衆が認めません。朧さんの立場が悪くなるだけです」
「儂の立場など、どうなろうと構わぬ。然れど寸止めを定めと致せば、これまでの稽古と何も変わらぬ。斬り合いを理解せずに、身を守る事など能うか? 斬り合いを理解するには、実際に対手と斬り合う。是ぞ最善の道じゃ」
朧は唇を尖らせ、視線を逸らして反論する。
父親に叱られた女童のようだ。
「別に最善の道でなくても、最悪の道でも構いません。大将は床机に座り、冷静に下知を下す。そのように教えてくれたのは、他ならぬ朧さんです。僕は兵卒の剣ではなく、大将の剣を学びたいんです」
「剣は人を斬る為の道具。それ以外の何物でもない。巷説、大将の剣やら人を活かす剣やら、聞き心地の良い言葉が溢れておるが、左様なものがあるものか。口達者な武芸者が、貴人の御機嫌取りに美辞麗句を並べ立てておるだけじゃ。御曹司は、在りもしない幻想を追い掛けると申すか?」
「僕は追い掛けませんよ。でも朧さんは中二病だから……主君の為に、在りもしない幻想を追い掛けてくれるんですよね?」
「……言いおる」
奏の言葉を聞き、朧はニヤリと嗤う。
夢だ希望だ幻想だ、と諸人が否定する事例を真に受け、命懸けで追い求めるのが中二病の本分。元々、朧は過去に拘る性格ではない。
「とにかく――これからも早朝の走り込みは続けます。いくら剣の稽古に励んでも、体力や脚力は上がらない。朝餉の後は、朧さんと武術の稽古。昼からは学問や調べ物に時間を使います。武士になるつもりはありませんが、剣を右に筆を左に――文武を疎かにせず、朧さんに相応しい主君になりたいんです」
「異論はない。御曹司の好きに致せ」
不承不承という面立ちだが、朧は大刀を鞘に納めた。
奏は安堵の息をつくと、おゆらの方に向き直る。
「それでおゆらさんは、どうして此処に?」
「奏様に御話がございます」
「私用? 公用?」
「蛇孕村に関する事です」
「じゃあ、公用の話だね。主殿の一室を借りて話そう。というわけで朧さん。今日の稽古は、これまでという事で。ありがとうございました!」
強引に剣術の稽古を打ち切り、朧に頭を下げた。
朧とおゆらは、想像以上に相性が悪そうだ。この二人を一緒にすると、刃傷沙汰になりかねない。一刻も早く二人を引き離そうと、地面に置いた刃挽刀を鞘に戻し、おゆらを促して主殿を目指す。
「御曹司――」
奏が背を向けると、後ろから声を掛けられた。
「儂の事は呼び捨てに致せ。従者に敬称をつけるな」
「……はい」
主より偉そうな従者に言われても……と心の中で愚痴りながら、奏は足早にその場から立ち去った。
朧の影が見えなくなると、急に身体が重くなり、白砂の庭に腰を落とした。緊張状態から脱した途端、一気に疲労が表出したのだ。
「奏様――」
おゆらが心配そうな視線を向けてくる。
「大丈夫。なんか急に腰が抜けて……少し休めば、動けるようになるよ」
喋るのも辛いが、奏は笑顔で応えた。
おゆらは沈痛な面持ちで、袖の中から手拭いを取り出し、奏の額を優しく拭いた。
「汗を拭いて差し上げます」
「それくらい自分でできるよ」
子供扱いされているようで気恥ずかしくなり、手拭いを奪い取ると、自分で顔や首の周りを拭う。
乱雑に汗を拭う姿を見遣り、おゆらは頬を緩めた。
「奏様はお変わりになりました」
「僕、何かした?」
「私と朧様の諍いを止めました」
「……反りが合わないのかもしれないけどさ。女中頭が侍と張り合わないでよ。朧さんは若党なんだから。環境の変化に戸惑う事もあると思う。それに薙原家は特殊だからね。侍奉公してくれるだけでもありがたいよ」
「左様な事ではありません。私は奏様の勇気を称賛しているのです。斯様に立派な主君を得て、私は三国一の果報者です」
先程の朧とは違い、おゆらは随分と機嫌が良さそうだ。疲れ果てた奏を見下ろし、口元に手を当てて笑う。
大仰な物言いに、奏は首を傾げた。
「どうしたの、急に? 皮肉?」
「滅相もない」
「……」
「そうですねえ……私が何を考えているのか、当ててみてください。正解したら、奏様の如意棒をぺろぺろして差し上げます。外れた時は、菊門も一緒にぺろぺろして差し上げます」
「悔しい。僕に突っ込みを入れる余力があれば……」
無念そうに、眉間に皺を寄せて呻いた。
くそう……僕に動く力が残されていれば、二度と下ネタが言えないように、マリア姉直伝の投げ技で地面に叩きつけてやるのに――
ああ、他の人に頼もう。
「お冬さん、おゆらさんの頭を鉄砲で吹き飛ばせ」
鉄砲を携えた女中を見上げ、奏は淡々と命じた。
「了~解」
お冬と呼ばれた女中は、右手に絡めた火縄を取り出し、士筒の縄に火をつけると、おゆらの頭に巣口を向けた。
「冗談でございますとも! 心身共に疲れ果てた奏様をお慰めしようと、敢えて卑猥な軽口を叩いてみたのです!」
ごりごりと側頭部に巣口を押しつけられ、おゆらは必死に弁解する。
「僕と朧さんの会話を盗み聞きしてたのか。僕も眷属がほしいよ」
「奏様ッ! それより早く御下知を撤回してください! この娘は本気で引き金を引くつもりです!」
一瞬、奏の脳裏に下知を撤回しないという選択肢も浮かんだが、世話役を無礼討ちにしても目覚めが悪い。
渋々ながら、「筒を下げていいよ」と命令を取り消す。
眼帯の女中が鉄砲を下げると、おゆらは安堵の息を漏らした。
「……話を戻しますが。私は奏様の行動に、心から感服しているのです。従者に真剣を向けられて怯えていたかと思えば、他の者の為に我が身を盾とする。然しその強さが気懸かりなのです。奏様と朧様は違います。御武家様ではありません。時には、困難から逃げる弱さも必要かと存じます」
「さっきの稽古を見てたでしょ? 僕は情けない臆病者だよ。今だって朧さんから逃げてきたばかりさ」
自嘲気味に呟くと、おゆらは呆れた顔をする。
「本当に奏様は、符条様とよく似ておられます。真面目で律儀で誠実……ですが、張り詰めた糸は、いずれ切れてしまうもの。己の心を突き刺す刃となりかねません」
「考え過ぎだよ」
作り笑いを浮かべるが、おゆらの言葉は当を得ていた。
対立する派閥から信頼されるほど、符条は実直に神官の役目を果たし、奏の傅役も引き受けた。先代当主と分家衆の取次役を勤め上げ、蛇孕村の秩序を守る為に、身を粉にして働いてきた。
だが、必ず緊張の糸は切れる。
符条の心中を察する事はできないが、二年前の謀叛で緊張の糸が切れたのだろう。心の支えを喪失した符条は、薙原家も蛇孕村も捨て去り、現在では薙原家に害を成す獣の如き扱いだ。
尤も奏は、彼女の行動を安易に否定できない。寧ろ心情的には、共感できる部分の方が多いくらいだ。
おゆらは、奏を符条に奪われたくないのだろう。然りとておゆらに取り込まれる気もない。己で考えて、己の道を進む。この二十日余りで、奏が学んだ事だ。
「……とにかくおゆらさんは、先に主殿で談合の準備をしてくれ。僕は身を清めてから行くよ」
奏が話題を逸らすと、おゆらは身を乗り出して興奮する。
「着替えは私にお任せください! 奏様の柔肌を! 丁寧に! 丹念に! 拭き拭きどころか、シコシコして差し上げます!」
「おゆらさんを百合の間へ連行しろ。おゆらさんが主殿を離れた時は、鉄砲の使用を許可する」
奏は冷めた表情で、二人の女中に下知を下した。
「御意のままに~」
「火ぃ消さんで良かった。ほら、きりきり歩かんかい。刃向かうと撃ち殺すで」
霊長類ヒト科最悪の卑猥物を主君から遠ざける為、天然の女中が六尺棒で尻を叩き、眼帯の女中が頬に筒先を向けた。
「えッ!? 私、本家の女中頭なのに、曲者みたいな扱いなんですけど!?」
符条を超える害獣に認定された女中頭は、他の女中に強制連行されながら、奏に向けて右手を伸ばした。
「か……奏様! どうか身を清める時は、股間を最後に拭いてください! 私の手拭いに如意棒の香りを移すのです! どうか年中無休で働く世話役に、御褒美を――」
「もう撃っちゃえ」
「さいなら」
ド~ン。
「耳!? 耳を掠りました! 奏様、御下知の撤回を――」
「あかん、手が滑った。次こそドタマを撃ち抜くで」
「ひいイイイイ――」
何か騒いでいるようだが、奏の耳には聞こえない。聞きたくもない。しぶとさが取り柄のような変態なので、撃ち殺される事はないだろう。
おゆらの姿が見えなくなると、安堵して地面に仰臥する。
先ずは庵に戻り、新しい着物と手拭いを用意しなければならない。
おゆらから借りた手拭いは……丹念に水洗いした後、清めの塩を混ぜて返却しよう。これでおゆらの穢れた魂が、少しでも浄化されたら、奏の気苦労も減るのだが。
有り得ない妄想に意気消沈し、奏は深々と溜息をついた。
刃挽刀……刃挽きした刀
青岸の構え……刀を
足弱……女子供や老人
鎮西八郎……
若党……新参者
巣口……銃口
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