第56話 神託
慶長六年六月下旬――
その日の謁見は、別棟の一室で行われた。
マリアの場合は、自他共に認める蛇神の転生者。分家衆からすれば、神の言葉を
分家衆は白砂の庭で平伏し、
すでに謁見の態を成していないが、稀に予言の如き神託を下す事もある。
数日後に地震が起こるという天変地異から、村娘が転んで膝を打つという些細な事柄も予測し、その全てを的中させてきた。
ゆえに分家衆は、謁見を軽んじる事なく、神の言葉を賜る為に平伏しているのだ。
然し此度の謁見は、常と趣が違った。
先ず蛇孕神社の神官がいない。
数ヶ月前に符条は追放されているので、神官不在の謁見は初めての事ではない。前回も前々回の謁見も、符条は謁見の場にいなかった。然し神官不在で謁見を行うと、マリアが分家衆に直接、神託を伝えなければならなくなる。マリアが「神官の代理は不要」と告げた為、分家衆は代理を用意する事もできず、畏れ多くも現人神の言葉を直に聞く事になった。分家衆からすれば――特に信心深い年寄衆からすれば、公式の場所で
マリアが
加えて――
あの方向音痴の
蛇孕神社の中で迷う
一刻か二刻は待たされると覚悟していた分家衆は、「
当然の如くマリアは、分家衆の思惑など意に介さず、
奇異な点は他にもある。
肥沼家の当主と悠木家の当主が来ていない。
ヒトデ婆の欠席は、毎度の事だ。公の場に幼い曾孫を出席させ、自分は荒ら屋に閉じ籠もる。年寄衆が生まれる前から奇癖の多い老婆ゆえ、ヒトデ婆の欠席に驚く者はいない。然しおゆらは別だ。
何か特別な理由があるのか?
分家衆が知らぬ間に失態を犯し、『伺候に及ばず』と命じられたのでは……?
様々な不安を抱えて、老婆も
此度の謁見は、尋常ではない。
「
小半刻近く待たされた挙句、マリアは唐突に語り出した。
「――」
分家衆は心を強く保ち、
柳生宗厳の名は、分家衆も聞いた事がある。
柳生宗厳の名を天下に轟かせたのは、文禄三年。豊前国の大名――黒田長政の取り成しにより、豊臣政権の重鎮――徳川家康に招かれて、家康の御前で無刀取りを披露した。家康はその場で入門の誓紙を提出し、二百石の俸禄を用意していた。然し宗厳は家康の要求を固辞し、同行していた五男の
同じ時代に
「勿論、柳生宗厳が花崗岩を斬り裂こうが、金剛石を斬り裂こうが、別にどうでもよいのだけれど……少しだけ興味が湧いたのよ。太刀で花崗岩を断裁するには、どれほどの速さが必要なのか?」
「――」
「先ず『絶対に刀が折れない魔法』と『絶対に身体が壊れない魔法』と『全てのエネルギーを刀に伝える魔法』を使う。太刀の長さを、刀身と柄を併せて1.2m。質量を2.5㎏。太刀の質量をm長さをlとし、柳生宗厳が四分円を描くように振り下ろした時の角速度をwとすると、回転エネルギーは、
∫1/2m/l(wx)^dx=1/6m(lw)^
エネルギー保存則より、岩の弾性を仮定すると、
1/6m(lw)^×1/2
=GS
Gは破壊エネルギー、Sは切断面積。花崗岩のGの値なんて私も知らないから、セメントのGの値を使用する」
早くも分家衆は、マリアの話についてこられなくなった。それでもただ
「つまり太刀で花崗岩を断裁する時、切先の速度は最低でも秒速32m。時速118.8㎞。例えるなら、10m離れた場所から秒速300mで撃たれた弾丸を太刀で弾き飛ばせるくらいの速さ。常人の十倍以上の速さね。やはり柳生宗厳の強さの秘密は、『絶対に刀が折れない魔法』と『絶対に身体が壊れない魔法』と『全てのエネルギーを刀に伝える魔法』と『常人の十倍以上の速さで動く魔法』の四点に尽きる」
年寄衆も女童も背筋が凍るような緊張感に耐えながら、マリアの言葉を聞き続ける。
「ここからが、お前達の好きな未来の話よ。今は無名だけれど、薩摩国に
「――」
「若い頃にタイ捨流を学んで、薩摩国の戦国大名――島津義久に仕えた。天正十五年、島津氏が豊臣秀吉に屈服し、東郷重位は島津義久に従って上洛。目的は金細工の修行の為と言われているけれど、
「――」
「その頃には、東郷重位は中二病の魔法使いとなる。示現流の奥義は『
「――」
「
1.884÷0.000107142=17584.14067
秒速17584.14067m。時速63302.9064㎞。マッハ51.71806078。これだけ速いと、敵の弾性なんて考えなくていいわね」
「――」
「因みに光速は、秒速299792458m(秒速約30万km)。時速10億800万㎞。マッハ88万1632。流石に光速には及ばないけれど、マッハ51は音速を遙かに超える速さ。衝撃波は自分のみならず、周囲の環境すら破壊する」
「……」
分家衆は、ごくりと唾を飲み込んだ。
「衝撃波とは、媒質中を超音速で移動する物体の周りに発生し、媒質中の音速より速い速度――超音速で伝播する圧力波の一種。即ち秒速17584.14067mで太刀を振り下ろせば、秒速17584.14067m以上の衝撃波が発生する。日本で観測された
「……」
「お
真夏でありながらも、額に冷たい汗を滲ませ、伏して清聴する分家衆を尻目に、マリアは奥の間に下がろうとした。
えッ――これで終わり!?
柳生宗厳と東郷重位の剣の速さを解説して終わり!?
いや……これで良かったのだ。
此度の謁見は、
分家衆が胸を撫で下ろすと、
「なんで私が雑談をすると、お前達が安堵するのかよく分からないのだけれど。五日後の正午、馬喰峠に狒々神が現出する」
「ひ……狒々神?」
櫻井家の当主は、平身低頭しながら声を裏返らせた。
老婆の悲鳴を皮切りに、謁見の荘厳さも忘れて、分家衆が騒然となった。
およそ四十年ぶりに、狒々神が蛇孕村を襲撃する。
一族の半数近くを喰い殺した
「これより下拝殿に籠もり、
周章狼狽する分家衆に、抑揚のない声音で告げた。
「我々は如何にすれば――」
櫻井家の当主が、
公の場で
「何もする必要はないわ。些事は全ておゆらに任せている。お前達は、嵐に怯える童の如く屋敷で震えていない。ただそれだけ」
慶長六年六月下旬……西暦一六〇一年七月下旬
小半刻……三十分
一刻……二時間
二刻……四時間
永禄六年……西暦一五六三年
永禄七年……西暦一五六四年
永禄八年……西暦一五六五年
永禄九年……西暦一五六六年
文禄三年……西暦一五九四年
天正六年……西暦一五七八年
天正十五年……西暦一五八七年
慶長四年……西暦一五九九年
蜻蛉の構え……示現流の構え。刀を持つ時に、右手を耳の高さに上げて、左手を柄に添え、左肘は胸に付ける。
左肱切断……左肱を切断したかの如く、胸に付けて動かさない事。敢えて手元の動きを殺す事で、剣の速さを上げる示現流の秘技。打ち込みに梃子の支点を作る為、刀の柄尻が支点(円の中心)となる。
鶴丸城……鹿児島城
参考資料
『破壊力学の基礎』 https://www.eng.hokudai.ac.jp/labo/bridge/staff/matsumoto/FractureOfFiberComposite_Chapter3.pdf
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