第55話 昔話
二十年前の事である。
晩秋の夜空に三日月が浮かんでいた。冴えた月光は地面を照らし、長屋の壁に濃い影を生み出す。
ひんやりと冷たい風が吹き抜ける。紅葉が夜風に流されて、はらはらと宙を舞う。季節の変わり目だ。甲斐国にも冬が近づいてきた。あと半月もすれば、
仮住まいの長屋から離れた場所で、
真剣を振るうと、木剣と違う手応えを感じる。刃物が夜気を斬り裂く感触だ。真剣で素振りを繰り返していると、不意に
「藤井、ちと用がある」
「はッ――」
素振りを止めて向き直る。
恰幅の良い四十絡みの男が、左手に松明を掲げていた。
麻の
夜道で妖怪に出くわしたかの如く、左馬助は肩を震わせた。足軽の左馬助からすれば、身分の差は天と地ほどに及ぶ。顔を見た事あるが、一度も話した事はない。名を覚えられていたのも意外なくらいだ。
「すぐに済む。ついてまいれ」
やや肥満気味な家宰は返事を待たず、背を向けて歩き出した。理由は分からないが、足軽の左馬助に拒否権はない。慌てて家宰の後を追う。
「これを被れ」
左馬助が追いつくと、無愛想に網代笠を手渡された。顔を隠す必要があるようだ。家宰も
不吉な予感を覚えながらも、左馬助は網代笠を頭の上に載せた。
「松明をお持ちします」
「うむ」
これだけの遣り取りで、再び家宰は口を噤む。この場で左馬助に事情を話すつもりはないようだ。
左馬助の不安は増すばかりである。
何故、家宰が夜遅くに一人で外出しているのか?
何故、自分が同行しなければならないのか?
夜間の護衛とは考えられない。左馬助の前身は、地侍の三男坊であった。実家は長男が継ぐ為、他家から婿養子の話がなければ、家を出て行くしかない。左馬助は親戚の伝手を頼り、武田家直属の
今年で十六になるが、未だに戦場で敵兵と槍を交えた経験がない。戦慣れしてないからこそ、夜遅くに剣術の稽古をしていたのだが――
左馬助は困惑を覚えながらも、周囲に気を配る。
足軽とはいえ、勇猛果敢な甲州兵の端くれだ。曲者が襲撃してきた時は、命に代えても上士を守るだけの覚悟はある。
作事用の陣所から甲州街道に出て、北を目指して歩く。
「城の普請はどうか?」
脈絡もなく質問されて、左馬助は狼狽した。
「はッ――何分、他国にも例のない造りにて難儀しておりますが、収穫の時期を終えたので、付近の百姓を人足に使え申す。予定より完成は早まるやもしれませぬ」
非礼にならないように、言葉遣いに気をつけて説明する。
左馬助の話を聞きながら、家宰は馬手に顔を向けた。未だ建造中の巨大な城郭が、甲州街道から確認できる。
加えて現在は、北側二箇所に
もしこの城が完成すれば、五万の兵に囲まれてもびくともしないだろう。築城技術の粋を極めた最新鋭の防衛拠点である。唯一難点を挙げるなら、甲州街道に近い事か。然しそれも経済的な発展を優先しての事。城下町が形成された暁には、寺社民家商家が所狭しと建ち並び、大通りは商人や職人で賑わうだろう。いずれは四五〇年の歴史を誇る武家の名門――武田家の新たな拠点に相応しい近代都市となる。
新府造営の作事奉行に選ばれたのは、家中でも智将と名高い
新府移転は、武田家の威信を懸けた大事業だ。昌幸の家来衆だけでは、とても手が足りない。人手不足を補う為、
左馬助も真田家に仕えているわけではない。甲斐府中に住む
「色々と苦労を掛けるな。だが、お主らのお陰で、我が殿も面目が立つ」
「勿体なき御言葉」
「謙遜は無用だ。お主の働きぶりは、物頭からも聞いておる。作事普請に優れ、人柄も実直。信用に足る者であると」
「……」
「無口な性分なれど、与えられた使命は必ず果たす。一騎当千の
「……」
左馬助は返答に窮する。
確かに戦場で華々しく活躍したいという欲得を押し殺し、城普請という地味な仕事を一生懸命に取り込んできた。然しそれは、他の足軽衆も同様だ。自分一人が殊更、称賛されても腑に落ちない。
何より上役から評価されていたなど寝耳に水だ。左馬助の上役は寡黙な男で、まともに世間話すらした事がない。ろくに話をした事もない上役が、左馬助の人柄を褒め称え、自分の側に置きたい。足軽大将の寄騎に据えたい。足軽小頭を飛び越えて、騎乗の身分に推したいと、冗談にもならないような話をしていたという。
胡散臭いにもほどがある。
左馬助の胸中など気にした様子もなく、家宰は独り言のように喋り出した。
「此度の話もお主らの働きが遠因やもしれぬ。我が殿は
「はあ……」
左馬助は言い淀んだ。家宰の話についていけず、ぽかんとしてしまう。
「まだ本決まりではないが、新府城が完成した後……来年の春頃であろうか。我が殿の功績が認められて、御屋形様(武田勝頼)から勘定奉行を任せるという御言葉を頂いた」
「それは――祝着至極に存じまする」
驚きのあまり、左馬助の声は弾んでいた。
これほどの出世があるだろうか。
勘定奉行は、財政を担当する吏僚の頂点。それも甲斐信濃を中心に、八ヶ国に版図を広げる超大国――武田家の財政を取り仕切る最高責任者だ。
「ただ一つ懸念がある」
左馬助は無邪気に喜んでいたが、家宰の声は重苦しい。
「懸念とは?」
素朴な口調で尋ねると、家宰は再び新府城の城郭を眺めて、街道から右脇に外れる。松明の灯りを頼りに、鬱蒼とした森の中に入り込む。どうやら新府城の近くでは、子細を語りたくないようだ。
左馬助も口を閉ざし、警戒しながら家宰の前方を進む。この辺りは盗賊の隠れ家や野犬の群れなど、危険で満ち溢れている。果たして自分一人で守れるだろうか……と懸念を覚えながらも、即座に対応できるように、右手の大刀の鞘に添えた。
暫し暗闇の森を歩くと、家宰が再び重い口を開いた。
「
「……後詰を差し向ける事も適わず、徳川方の手に陥ちたと聞き及んでおり申す」
「
家宰が忌々しげに言い捨てた。
今から六年前の天正三年、武田軍は長篠合戦で織田・徳川連合軍に敗れた。
武田家は組織の再編を図り、着実に再生の道を歩んでいたが、織田家や徳川家が指を咥えて見ているわけがない。徳川家は数年掛けて、最前線の高天神城を完全に包囲。勝頼が援軍を差し向ける余裕も与えず、高天神城を攻め滅ぼした。大局的に見れば支城を一つ捨てたに過ぎないが、武田家に与えた衝撃は計り知れない。
最強と誉れ高い武田軍だが、信玄の時代より
だが、今回は違う。
高天神城を奪還する手立てが見当たらない。武田家は織田・徳川だけではなく、東の北条とも敵対関係にあり、同盟を結んだ上杉家は謙信没後の家督争いが終結したばかりで頼りにならず、国境を守る武士団は動揺を隠しきれなくなった。
いつか高天神のように、我々も見捨てられるのではないか。
国境を守る武士団の不安が表面化し、新府移転に伴う増税も重なり、地侍や百姓からも非難の声が出ている。
挙句、根拠のない流言が国中を飛び交い、
織田家に比肩する大国ゆえ、根も葉もなき虚言で国運を左右される事はない。
それでも韮崎は、重苦しい雰囲気で包まれていた。
足軽の左馬助ですら、上役の緊張が伝染して身震いする。武田家が滅びる筈もないが、正念場である事は間違いない。
一兵卒なりに自国の現状を憂い、左馬助は真一文字に口を結ぶ。
「万が一……万が一にもだ。斯様な折に詰まらぬ疑いでも掛けられたら、殿の出世に影響を齎す。否、武田家の結束を乱す事にもなりかねん。考えるだけでも恐ろしい。災いの元は、即刻断たねばならぬ。分かるな?」
「ははッ――」
ようやく状況が呑み込めてきた。
これから内通者を成敗するのだ。
それも公式な処刑ではなく、秘密裏に始末したいのだろう。大方、欲に目が眩んだ家人が、銭目当てに敵国へ機密を漏洩していたのだ。確かに考えるだけでも恐ろしい事態だ。事が露見すれば、主君の出世話は立ち消えとなる。最悪、勝頼の判断を待たずに他の武将が暴走し、一族郎党を根絶やしにされてしまう。
主家や同輩を売るような輩は、早々に斬り捨てられるべきだ。
然し――
まだ左馬助の心に疑念が残る。
左馬助の役割はなんだ?
まさか内通者を討つわけでなかろう。それこそ腕の立つ者に任せるべき重要な役目。左馬助には、屍を埋める穴でも掘れというか?
結局、疑念が晴れぬまま、目的地に辿り着いた。
何十年も放置されていたのだろう。ぼろぼろの廃寺である。粗末な冠木門を潜ると、盛りの過ぎた梅の木が、地面に不気味な影を残す。生垣や溜池などは見当たらない。貧相な造りの寺だ。
古びた本堂の前に、牢人風の身形をした男が佇立していた。頭巾で顔を隠しているが、物腰から身分の高さが窺い知れる。やはり事情はあって、正体を隠しているのだろう。
当家の上級武士だと、左馬助は見当をつけた。
「万事整え申した」
頭巾の武士が一礼し、家宰と左馬助を出迎える。
「うむ」
鷹揚に頷くと、家宰は頭巾の武士の脇を通り過ぎる。黙然と進む家宰に随伴し、左馬助は本堂の前で立ち止まった。
「開けろ」
内通者は、此処に閉じ込められているのか。
命じられるままに、左馬助は本堂の扉を開けた。
本堂は暗闇に覆われ、松明を掲げても先まで見通せない。外観通り、普段は全く使われていないようで、埃の臭いが鼻につく。
暗闇の奥で、小さな灯りを見つけた。燭台の炎が、ぼんやりと橙色の光を浮かびあがらせている。埃臭い本堂は、がらんとしていた。誰かに盗まれたのか、奥の間に仏像は一体もない。
ただ燭台の前に、女の影が見えた。
左馬助が近づくと、燭台の火が女の顔を照らした。
腰の辺りまで伸びた長い髪。瑠璃色の双眸は垂れ目気味。彫りの深い造作で、肌の色が透き通るほど白い。異国情緒と典雅な趣が溶け合い、独特の神々しさを感じさせた。
なんと美しい――
無垢な娘の笑顔に魅了されて、左馬助の緊張は吹き飛んだ。
「この娘は、殿が買い集めた下女の一人。見ての通り渡来の者だが、南蛮人や紅毛人と違い、煌びやかな銀色の髪を持つ。詳しく知らんが、北方に住む民だとか……」
家宰の言葉は、全く耳に入らなかった。
左馬助は一目見ただけで、異国の娘に心を奪われたからだ。然し次の言葉は、鼓膜から脳を撃ち抜かれた。
「無論、出自はどうでもよい。遙か遠い異国より連れて来られた奴婢が、当家と関わりを持つという事が困るのだ。分かるな?」
「――ッ!?」
仰天して振り向くが、家宰は無表情で続ける。
「裏手に穴を振った。世話役の女中と売り手の人商人……当然、この娘を運んできた奉公人も穴の中だ。始末したら、この娘も穴に埋めろ」
「……は?」
「私は寺の外で待つ。全てを終えたら、この寺に火を放て。良いな」
呆然とする左馬助を尻目に、家宰は背を向けて本堂から立ち去る。
後に残されたのは、狼狽える足軽と異国の娘だけ。ようやく左馬助は、己の思い違いを悟り、背中に汗を滲ませて愕然とした。
左馬助の役割は、内通者の始末ではない。
主君の妾を処分する事だ。
人身売買禁止令が施行される以前、戦国大名は塩硝を手に入れる為、乱取で拉致した日本人を諸外国へ売り飛ばしていた。特に若い娘は、倭寇や南蛮人に買い取られて、
無論、その逆も有り得る。
南蛮の商人が、日本の権力者に媚を売る為、自国民を奴隷にして売り捌くのだ。異国の奴婢は、それだけで希少価値がある。この娘も故郷で奴隷商人に攫われて、遠い東の果てまで連れて来られたのだ。
日本の言葉を理解していないようで、己の置かれた状況すら理解できていない。これから殺されるというのに、左馬助に笑顔を向けていた。
これが奴婢の生き方だ。
金で買われた奴婢は、主人の機嫌次第でどうにでもなる。彼女にできる事は、笑みを浮かべて愛想を振りまく事のみ。
左馬助を新たな主人と勘違いしているのだろうか?
「……」
刀の柄に手を添えて、ごくりと唾を飲み込む。
武田信玄が信濃国を攻略する際、乱取や人身売買を公式に認めていた。
永禄の頃から乱取禁止を戦中法度で定め、人身売買も取り締まりを始めている。それでも合戦の度に乱取は行われ、諸将も足軽の乱行を黙認していたが……これが異国の奴婢となると、
武田家の領土は広大だが、外海と接しているのは、
然りとて陸路も考えにくい。
異国の奴婢が関所を通れば、否が応でも目立つ。
つまり――
甲斐府中に住む左馬助の主君が、南蛮の商人と交渉を持つ事など有り得ない。敵方と誼を通じていない限り、異国の奴婢を買う機会は訪れない――という筋書きが完成する。事実の有無など関係ない。異国の娘を妾にしているというだけで、武田家中から裏切り者と疑われる。
おそらく事情を知る上級武士は、奴婢を殺す事に忌避感を覚えたのだ。哀れな奴婢を斬る事に躊躇したのか、或いは己の刀が異人の血で汚れるのを嫌悪したのか。その結果、身分が低くて口の堅い者を選別し、適任者として左馬助が選ばれた。
罪もない奴婢を始末する役目を押しつけられたのだ。
左馬助と奴婢の目が合った。
穢れのない瑠璃色の双眸に吸い込まれ、左馬助は呆然と佇む。
私はどうすれば……
常磐木……常緑樹
素襖……室町時代にできた
上士……上役の武士
甲州兵……甲斐国の軍兵
新衆……武田家で陣所や橋を造る工兵部隊
蔵前衆……武田所領の地方代官。武田家の代わりに直轄領の統治も行う。
弓箭……合戦に関わる事
天正三年……西暦一五七五年
府……首都
穴山梅雪……武田信玄の従弟。正室は信玄の次女。
放討……裏切り者や科人の成敗
南蛮人……黒髪で黒い瞳を持つ白人
紅毛人……金髪で青い瞳を持つ白人
下女……女性の家庭内隷属民
永禄の頃……西暦一五五八年から一五七〇年
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