第54話 魔女の宴

 慶長六年六月中旬――

 その夜。

 奏は目を覚まし、文机から顔を上げた。


「ああ……寝てたのか。いつの間に――」


 左手で寝惚け眼を擦りながら、周囲の状況を確認する。

 文机の上には、吾妻鏡の写本と書きかけの書物。右脇に硯と筆。暗い部屋の中で、燭台の灯りがともる。

 蝋燭の炎が消えていない為、それほど長い時間ではないだろうが……書写の途中で、睡魔に負けたようだ。


「疲れてるのかな、僕……」


 顔に墨がついていないか、鏡で確認した後、吾妻鏡の写本を見直す。

 吾妻鏡とは、鎌倉時代に成立した日本の歴史書だ。鎌倉幕府の初代将軍――源頼朝から第六代将軍――宗尊親王むねたかしんのうまでの将軍記という構成で、治承じしょう四年から文永ぶんえい三年までの幕府の実績を編年体で記す。第一巻から第五十二巻まで存在しており、第四十五巻だけが紛失している。


「どこまで書いたんだろう?」


 書きかけの書物に視線を移すと、守護地頭について書かれていた。


『廿三日、癸卯、陰、夜に入りて甚雨そそぐが如し――みのたなのうえからさんだんめ』


「なんだ、これは……?」


 奏は怪訝そうに首を傾げた。

 眠りに就く前に書いたのか?

 それとも眠りながら書いたのか?

 自分でも判然としないが……みのたなのうえからさんだんめ?

 

 僕は何を書いてるんだ?


 書き損じを眺めて赤面していると、自室に近づく足音が聞こえてきた。


「おゆらです。入っても宜しいでしょうか?」


 木戸の外から声を掛けてきたのは、奏の世話役である。


「……ああ、うん」


 燭台の炎が、安堵の表情を照らす。


 おゆらさんか。

 常盤に書き損じを見られなくてよかった……


 帑亞翅碼璃万崇ドアシマリマスの一件以来、常盤は奏の庵に住み着き、寝所を奪われてしまった。どうしても奏の寝所で寝たいそうだ。奏は現在、書斎で寝泊まりしており、寝具も部屋の隅に用意している。

 おゆらは木戸を開けて、優雅な所作で入室した。寝巻姿で手燭を持ち、文机に視線を向ける。


「学問は進んでおりますか?」

「寝落ちした」

「あら」


 奏が清々しく白状すると、おゆらも苦笑いを浮かべた。


「あのさ……なんで今更、吾妻鏡を書写する必要があるの?」

「吾妻鏡は、鎌倉府の歴史書。武家の道理とはいえ、統治者の知識が記されています。奏様が薙原家に君臨した折は、必ずや御役に立つ事でしょう」

「それは……マリア姉と夫婦めおとになれば、政に関わる事もあるだろうけど」

「政に関わるのではありません。自らの力量を以て、薙原家を治める気概をお持ちください。奏様には、統治者の器量があります」

「そうかなあ……」


 奏は曖昧な返事をする。


「それに吾妻鏡の写本は、とても貴重な物です」

「へえ」

「吾妻鏡を揃えているのは、日ノ本でも数名に限られています。私の知る限り、薙原本家と豊臣家。吉川家と島津家。黒田家という処でしょうか。ちなみに徳川家は所有しておりません」

「意外……」

「然し黒田如水は、吾妻鏡の写本をほぼ全巻揃えております。黒田如水について知る為にも、これらの知識は必要かと愚考します」

「黒田如水が吾妻鏡を……」


 奏が神妙な面持ちで言う。

 吾妻鏡の原本は、金沢文庫かなざわぶんこに保管されていたが、原本の断片が諸国に散在し、不完全ながらも島津家や吉川家に写本が伝えられた。吾妻鏡の原本は、小田原の北条氏が手に入れる。その後、豊臣秀吉の小田原征伐の際、黒田官兵衛が北条氏と降伏の条件を話し合い、北条ほうじょう氏直うじなおより官兵衛に贈呈された。


 おゆらさんは、僕の目を如水に向けたいのか。


 奏の最大の懸念は、黒田如水よりおゆらだ。

 狒々祭りの直後、奏は独自に薙原家の歴史を調べ直した。

 書庫に積み重ねられた歴史書を読み返し、細やかな事象を洗い流す。だが、予想通りと言うべきか。薙原家の先祖に都合の良い伝承や逸話ばかりで、奏が望むような新しい発見はなかった。

 次に奏は、薙原本家の銭の流れを調べる事にした。銭の流れを遡れば、薙原家の歴史や政治方針を推察できる。書庫から数冊の帳簿を見つけ、改めて読み直してみたが――

 非の打ち所がない。

 薙原家の所務に瑕疵はない。

 使途不明金を見つけるどころか、おゆらの実務能力に圧倒されたくらいだ。

 銭の流れから、おゆらの目的を探る事はできない。

 奏は銭の流れを掴めないと知ると、早々に行動方針を転換した。おゆらの指示通り、傀儡の如く動く。臥薪嘗胆。用心深いおゆらが尻尾を出すまで、世話役の言う通りに行動する。無論、おゆらが自分から失敗するとは思えないが……暫く様子を見るしかない。


「黒田如水は、私や符条様を上回る御仁。奏様が後れを取るとは思えませんが……『奏様の将来』を思えば、油断は禁物です」

「……」


 奏は押し黙った。

 おゆらの言う『奏様の将来』とは、奏が『師府シフの王』に成り上がる事だろう。然し奏は、マリアの良人おっとになっても、薙原家で権力を振るうつもりはない。


「黒田如水については、おゆらさんに任せるよ。前にも話したけど、此方から仕掛けてなければ、それでいい。それより何しに来たの?」

「夜伽に参りました」


 おゆらは何事もないように微笑む。


「……は?」

ようよう学をつかむ主君をお慰めしたいのです」


 奏は眉根に皺を寄せた。


「……不快な冗談は止めてくれ。僕には許嫁がいると、何度も言ってるだろう」

「これより先は、語り合いも無粋。男女の睦み事は、密かやに行うものです」


 おゆらは燭台の炎を吹き消す。

 続けて手燭の炎も吹き消すと、部屋の中は暗闇に包まれた。

 おゆらの姿が暗闇に消え去り、奏は警戒感を表した。


「何をするつもりだ?」

「御安心ください。何があろうと、常盤様は明け方まで起きません」


 暗闇に覆われた部屋に、甘い香りが広がる。

 毒蛾の鱗粉。

 漆黒に覆われた部屋の中で、毒蛾の群れが飛び回り、薄紅色の鱗粉を撒き散らす。

 いつの間にか、おゆらの双眸が金色に輝いていた。

 奏は右手で口元を覆い、反射的に文机から離れた。


「『毒蛾繚乱どくがりょうらん』!?」

「左様です。もう何百回も見せておりますが……覚えておりませんよね」

「――ッ!?」


 おゆらの言葉を聞いた時、奏の視界が霞んでいた。

 『毒蛾繚乱どくがりょうらん』は、口と鼻を塞いだくらいで防げるものではない。毒の鱗粉は皮膚に染み込み、血管から脳を浸蝕。術者の思い通りに、相手の思考を侵略していく。


「……」


 暫く経つと、奏は虚ろな目でおゆらを見つめ、力なく立ち上がった。

 これから起こる出来事は、全て記憶から抹消される。怪しげな妖術で自分の意志を奪われて、淫乱な女中頭の慰み者となるのだ。

 おゆらは帯を解きながら、動けない奏に近づき、軽く頬に右手を当てた。


「今宵も御寵愛を賜りたく存じます」


 次の刹那、忽然と木戸が開かれて、猩々緋の人影が乱入してきた。


「朧様……」

「いつまでもこの儂が、お主の乱行を見過ごすと思うか?」


 燃え盛る松明を掲げて、おゆらに大刀の切先を突きつける。

 おゆらは威嚇を意に介さず、呆れた素振りを見せた。


「殿方の寝所に押し入るとは……育ちが知れますよ」

「其の言葉、そのまま返してやる。早う御曹司の精神操作を解除致せ」

「解除しなければ?」

「斬る。脅しではないぞ」

「ですよねえ。ならば、私も身を守らないと。私が死ぬと、奏様が悲しみます」

「――ッ!?」


 気がつくと、別の女中に左腕を握り締められていた。

 背中に巻鍵まきかぎをつけた、中二病の如き装いの女中だ。肩口で切り揃えた黒髪をくしけずり、表情の乏しさも併せて、怜悧な印象を受ける。

 先日、同田貫を運んできた女中だ。

 然し全く気配を感じなかった。


 これほど容易く背後を奪われるとは……此奴こやつも透波か。


「貴女の行動を否定します。奏様の部屋に松明を持ち込まないでください。火事の恐れがあります」


 淡々と呟きながら、朧の腕を握る右手に力を込めた。


「があ……ッ!」


 朧は、思わず激痛で呻いた。

 押さえつけられていた左腕が、一寸たりとも動かない。それどころか、左腕の骨を握り潰されそうだ。

 腕を掴まれただけで、絶望的なほど力の差を感じる。中二病の朧は、細川幽斎に対抗して野牛を投げ飛ばした事もあるが、牛馬を凌ぐほどの膂力。力ずくで振り払おうにも、ぴくりともしない。

 驚愕を覚えながらも、次の行動を起こす。危急の際に対手の意表を衝くのが、中二病の真骨頂――


「ほれ」


 朧が松明を手放した。

 小柄な女中が松明を拾う素振りを見せた刹那、朧はニヤリと嗤う。

 彼女は薙原本家に雇われた女中。奏の庵で火事を起こす事はできない。逆に朧は、庵が燃え落ちようと、奏さえ無事ならそれでよいのだ。


「クククッ」


 身を沈めた女中の顔面に膝蹴りを打ち込もうとした刹那、後ろから朧の首に鎖が巻きついてきた。鉄の鎖は喉を締めつけ、完全に朧の所作を封じ込める。

 頸動脈を圧迫された朧は、急激に美貌が赤くなった。


 雌狗プッタの分銅鎖――


「二人とも楽しそうですね。私も仲間に入れてください」


 朧が振り返ると、女中頭が柔和な笑みを浮かべていた。


雌狗プッタが……ッ!」


 絡みついた鎖を左手で掴み、憎悪の念を込めて呻いた。

 おゆらは洗脳した奏を連れて、部屋の右隅に移動する。

 対手は変態女中だけではない。

 視線を前方に戻すと、朧の美貌にしとうずが迫る。床に落ちる寸前で松明を掴んだ女中が、両脚で蹴足を浴びせてきたのだ。


 ――水飴蹴足ドロップキック!?


 咄嗟に両腕で顔面を覆い隠し、辛うじて水飴蹴足ドロップキックを防いだが、威力を吸収しきれずに吹き飛ばされた。身体が壁を突き破り、庵の外まで弾き飛ばされる。白砂の庭を転がりながら、朧は猫の如く跳ね起きた。

 壁を打ち砕いても尚、四間も相手を蹴り飛ばす脚力。とても同じ人間とは思えない。


「今晩は」

「――がらあッ!!」


 両腕の状態を確認する暇もなかった。

 忽然と背後から声を掛けられ、反射的に大刀を振り抜いていた。

 朧の横薙ぎが空を切る。


 躱された――


 強引に振り抜いたとはいえ、真剣の横薙ぎを退いて躱すとは――朧の想像以上に間合いを離されていたのか。


「腕の痺れが消えてねえな。太刀筋が乱れてる」


 背の高い女中が、野卑な笑顔で朧を挑発する。

 歳は二十歳くらいだろうか。身体は細身だが、並の男より背が高い。焦げ茶色の長い髪に切れ長の目。お洒落のつもりなのか、額に捻子ねじを埋め込んでいた。

 両手に短い矢を携え、三間ほど離れた場所で傲然と佇む。


手突矢てつきやか」


 手突矢とは、二尺程度の短い矢を指す。弓や弩を使う事なく、素手で投げつけたり、接近して相手に刺す短槍の如き武具だ。

 敵の得物を観察しながら、朧は大刀の柄を握り締める。上腕骨は折れていない。両腕の痺れも、時が経てば消えるだろう。


「痺れが消えるまで待つかい?」

「気遣い無用」


 徐々に指先の感覚を取り戻しつつある。ゆるりと三呼吸もすれば、刀を扱えるくらいに回復する。

 やおら大刀を担ぐと、茶髪の女中が間合いを詰めてきた。

 眼を見張るほどの速さだが、朧は対手の動きを捉えていた。

 強烈な横薙ぎが、真横に夜気を断ち割る。銀色の半円を描く切先。だが、対手を斬り裂く手応えがない。


「何?」


 忽然と茶髪の女中が消えた。

 朧の一間手前で、霞の如く姿を眩ましたのだ。


「一本目ええええ♪」


 またしても背後から声を掛けられ、左脚に焼けるような痛みが奔る。

 完全に虚を突いた状態で、左太腿の外側を射貫かれていた。鮮血が左脚を伝わり、踵まで流れ落ちる。

 手突矢を抉り込みながら、茶髪の女中は残忍な笑みを浮かべた。


おせえ遅え全然遅え。まさか今のが全速力じゃねえよな?」

「お主……ッ!」


 驚愕と同時に、朧の美貌が苦痛で歪む。

 はやい――などというものではない。

 本来、横薙ぎは後方に退く以外、回避する手立てがない。それを朧は垂直跳びで躱すわけだが……茶髪の女中は真横に避けた。横薙ぎを躱すついでに、朧の背後を奪い、太腿に手突矢を突き立てたのだ。

 しかも朧が見失うほどの速さである。

 つまり覇天流の秘太刀――虎ノ爪と同等か、それを上回る速さで駆けている。

 手突矢を掴もうとすると、茶髪の女中は旋風の如き速さで後方に下がり、再び間合いを空けた。


「もっと速え技見せてくれねえかなア。夜も遅いんだからよぉ。早く早く早くしてくれねえと、退屈過ぎて欠伸が出そうだ」


 茶髪の女中が、大仰に肩を鳴らす。

 露骨な挑発だ。

 朧は憤怒で美貌を紅潮させた後、驚いて庵に視線を向けた。


「御曹司! 外に出るでない! 巻き込まれぞ!」


 突然、朧が真剣な表情で叫ぶ。


「ちょ――マジかよッ!?」


 慌てて茶髪の女中が振り返るが、奏は庵の外に出ていない。


「あッ――」

「ば~か」


 今度は朧が、動揺する女中の不意を衝いた。

 後ろを向く対手に詰め寄り、大刀を袈裟に振り下ろす。

 今度こそ捉えた――という確信は、右脚に感じた激痛で掻き消される。

 いつの間にか、右太腿の外側に手突矢を突き立てられていた。朧の袈裟斬りは掠りもしない。またしても対手の動きを捉え損ねたのだ。


「二本目ええええ♪」


 やはり朧の背後。四間も離れた場所で、茶髪の女中が勝ち誇る。


「不意打ちでこの程度かよ。こりゃ期待外れだわ」

「……」


 朧は身を翻し、唇の端を痙攣させた。

 屈辱的な事実だが、認めざるを得ない。動体視力と反応速度に差が有り過ぎる。ヒトの姿を借りた燕と対峙しているようだ。あまりに速過ぎて、正面から身体を通り抜けられたような錯覚を感じる。

 他にも敵はいるのだ。彼女一人に時間を掛けられない。劣勢を覆すには、覇天流の秘太刀――虎ノ爪を使うしかないだろう。


 果たして虎ノ爪でも、対手を捕らえられるか……


 一抹の不安を覚えながらも、上体を前方に傾ける。


「噂の秘太刀と速さ比べか。それも面白そうだけど、あーしは中二病じゃないんで。後はおゆらさんに任せるわ」

雌狗プッタが外に――」


 朧が身を強張らせた刹那、脈絡もなく馬手から攻撃を受けた。後頭部に衝撃が奔り、頭から意識が飛びかける。


「ば~か」


 茶髪の女中が嘲笑した。

 騙された仕返しに、朧を騙し返したのだ。

 加えて刀槍による打突ではない。長柄の衝撃具を用いて、馬手から後頭部を打ち据えられた。


 まだ伏兵が潜んでおったか!


 馬手に眼を向けると、女中装束の娘が撮棒さつぼうを構えていた。

 歳は十代の半ばくらい。身の丈は、小柄な女中と茶髪の女中の間。穏やかに波打つ髪を腰の辺りまで伸ばし、天真爛漫な微笑みを浮かべている。然し目の焦点が定かではなく、何処どこを見据えているのか分からない。かんの目でなければ、薬物中毒者の目付きだ。

 前身は武士か牢人だろう。

 隙のない立ち姿は、透波より武芸者に近い。


「朧さんの話は聞いてるよ~。とても強いんだってね~。私も結構強いんだ~。丁度良い機会だから~。どちらが強いか試してみようよ~」


 樫木の六尺棒を携えた女中は、朗らかに語りながら仕掛けてきた。左半身で六尺棒を中段に構えて、前手で棒を扱いて先端を繰り出す。

 右手の力だけで棒を押し出している為、両手で突くほどの力は入らない。然し軽く喉を突くだけで、簡単に対手を行動不能にできる。

 不本意ながらも、朧は後退しながら六尺棒を躱す。

 女中は左半身の姿勢を変えず、何度も六尺棒を繰り出す。

 執拗に喉を狙う打突が続き、朧は苛立ちを覚えた。

 対手の意図は明白だ。

 延々と遠間から六尺棒を繰り出し、朧の攻め手を奪う。朧が大刀で打突を弾けば、素速く六尺棒を引き戻し、がら空きの胴に返し技を打ち込む。

 対手の意図は読めているが……朧は生粋の中二病。地味な駆け引きなど、何度も行いたくない。対手を屠る時は、意表を衝いて一太刀。信仰とすら言える美意識が、自然と身体を動かした。

 大刀の鎬で六尺棒の打突を軽く弾き、前方へ駆け出す。

 両脚に手突矢を突き刺され、万全と言い難いが、躊躇なく間合いを潰す。


 返し技を使ういとまなど与えぬ!


 獰猛な笑みを浮かべて、片手の刺突を放つ。


「――ッ!?」


 朧は瞠目した。

 女中が返し技を使わず、後方に跳んで逃げたのだ。

 一間半も距離を置くと、着地を待たずに、左半身の姿勢で六尺棒を繰り出す。

 流石に六尺棒でも間合いが遠い。


 片手刺突かたてづきに抜き技?

 届くわけが――


「がはっ――」


 六尺棒の先端が二尺も伸びて、朧の鳩尾に食い込んだ。衝撃で呼吸が止まり、その場に居付いてしまう。


づえか……」


 激痛で美貌を歪ませ、朧は呻くように言った。

 振り杖とは、特殊な棒状の衝撃具だ。杖の先端に金具を嵌め、前方の手で金具を捻る。金具を緩めて突けば、杖の中に仕込まれた鎖が飛び出す。

 女中は振り杖を振るい、遠間から朧の右手を打った。

 一撃で手の甲が砕け、大刀を地面に落とす。


「残念だな~。もう少し楽しめると思ったのに~」


 勝利を確信する女中に、朧は苦痛に歪んだ顔で嗤う。


「それはどうかの」


 右手が使えなくても、左手は使える。両脚の矢傷が深くても、我慢すれば駆けられる。うまく呼吸ができなくても、意識は途切れていない。

 小刀の一振りで逆転する事もできよう。

 膝落。

 一間の間合いを一歩で跨ぐと、左手の親指で鍔を弾き、小刀を抜き放つ。飛び出した小刀の柄を左手で掴み、女中目掛けて刺突を放った。

 右脇腹に狙いを定めた切先が、女中の身体に命中する刹那、ド~ンという銃声と共に弾き飛ばされた。


「やった! 大当たりやん!」


 鉄砲を携えた女中が、遠く離れた場所で喜んでいた。


 儂の小刀を撃ち抜いたというのか!?


 朧は度肝を抜かれた。

 鉄砲手の位置は、朧から一町近くも離れている。

 ノンライフル(無施条の滑空銃)でも狙撃は可能だ。火縄銃には、簡素な照準装置も備えている。照門しょうもん元目当もとめあて照星しょうせい先目当さきめあてと呼ぶ。然し命中精度は期待できない。球体の弾丸は強い空気抵抗を受ける為、弾道が不安定になるのだ。砲術を習い覚えた者でさえ、狙い撃てる距離は、一町の半分が精々。勿論、例外的な達人も存在するが……一町も離れた場所から、高速で動く的に命中させるなど前代未聞。刺突の速さや軌道を完璧に予測できなければ、絶対に不可能な芸当である。

 暗闇に慣れた朧の視線は、遠く離れた鉄砲手を見据える。

 歳の頃は十代後半。緋色の頭巾で頭を隠し、革製の眼帯で右目を覆い隠し、士筒さむらいづつを両手で掲げていた。

 眼帯の女中も透波であろうが。風下に立たれた挙句、一町も距離を置かれると、朧の嗅覚でも火縄の臭いを察知できない。


「余所見はダメだよ~」


 女中が振り杖を下段に振るい、朧の左脚に鎖を絡める。片脚を封じられた朧は抗えず、どうと俯せに倒れた。

 即座に起き上がろうとするが、背中に小柄な女中が乗り掛かる。


「またお主か――」

「貴女の所業を否定します。庭で暴れないでください」


 ぼそりと呟きながら、腕力だけで朧の動きを封じ込めた。


 何たる怪力……まるで動けぬ!


 後ろから両肩を押さえつけられ、上体を起こす事もできない。羆の如き強さと重さ。腕力と体重が、明らかに外見を超えている。


「お主、人ではないな?」

「貴女の認識を肯定します。私は人間ではありません」


 小柄な女中が淡々と言い放つ。


无巫女アンラみこ様が戯れに造られた機械人形からくりにんぎょうです」


 朧を見下ろす眼球が、一瞬だけ硝子細工に変わった。


「――ッ!?」


 驚愕に追い討ちを掛けるように、両の掌に噸痛とんつうが奔る。


「三本目と四本目~♪」


 袖の中から取り出した手突矢で両手を貫き、朧を白砂の庭に縫いつけた。もはや手足を動かす事すらできない。

 完全に所作を封じられ、朧の美貌が恥辱の色に染まる。

 殺されない限り、決して敗北ではない。然し武に生きる者が、意識を奪われずに拘束されるなど、背中を斬られるよりも恥ずべき事。加えて全ての面に於いて、対手に後れを取った。

 単純な膂力で小柄な女中に劣り。

 純粋な速さで茶髪の女中に劣り。

 攻防の駆け引きで振り杖の女中に劣り。

 技の精度で眼帯の女中に劣った。

 数多の修羅場を潜り抜けてきたが、これほどの屈辱を感じた経験はない。五対一とはいえ、ここまで一方的に無力化されるとは――


「癇癪を起こした女童めのわらわが、折檻を受けるが如き有様。とてもよくお似合いですよ」


 おゆらは縁側の廊下に立ち、地の伏せた朧を見下ろす。

 顔を上げた朧が、殺気を帯びた視線を向けた。


雌狗プッタアアアアッ!!」

「なんと粗暴な物言い。やはり朧様は、もう少し品性を養うべきですね。仮にも本家直参の武士もののふなのですから」


 愉快そうに語る途中で、背後から奏が抱きついてきた。


「もう我慢できないんだホー」


 『毒蛾繚乱どくがりょうらん』で操られた奏が、虚ろな目で鼻息を荒くする。

 このような奏の姿を見たくなかった。勿論、朧が嫌悪する行為と理解したうえで、奏の体を操作しているのだ。


「うふふっ。焦らせて申し訳ありません。然し此度は、朧様にも見学して頂くのです。いつものように愛してくださいませ」


 おゆらが指を鳴らすと、奏の態度が豹変した。

 突然、おゆらを突き飛ばしたのだ。縁側に倒されたおゆらが、「ああっ――」と芝居じみた悲鳴を上げた。


「このアバズレめーッ! また僕の寝所に潜り込んでいたのかーッ! どんだけ男に飢えてんだよーッ! もう適当に村の男でも連れ込め、メスブターッ!」

「そんな御無体な……私が身体を許すのは、奏様だけでございます。どうか哀れな雌豚にお情けを与えてくださいませ。身も心も犯されて、嬰児ややを孕ませてほしいのです」

「ははははははははーッ! そんなに如意棒が欲しいなら、僕が興奮するように奉仕してみろーッ! うまくできたら、好きなだけブチ込んでやるーッ!」

「仰せのままに……」


 喘ぎにも似た吐息を漏らして、おゆらは袴の帯を解く。

 なんと醜悪な三文芝居であろうか。普段の奏なら絶対に言わない言葉を連発させ、身動きが取れない朧を煽り、淫蕩な悦楽に浸る。


「がるるるるるるるッ!!」


 仰向けに倒された朧が、獣の如き咆吼を発した。

 おゆらは勝利の余韻を味わいながら、無様な敗者を虫けらのように一瞥する。

 これこそ強者の特権。

 力及ばぬ弱者は、矜持も美意識も大事な主君も根刮ねこそぎ奪われて、地べたに平伏すしかないのだ。

 他の女中は、普段から見慣れているのか、二人の情事を退屈そうに眺めていた。

 奏は壊れた笑顔で、おゆらに言葉攻めを浴びせる。


「袴くらい早く脱がせろよーッ! 本当に使えないメスブタだなーッ! それでも夜伽の役に立つだけマシかーッ! 刃物を振り回すしか能のない馬鹿女より、よっぽど役に立つよねーッ!」

「――ッ!?」


 両眼を見開き、朧は絶句した。

 勿論、奏の本心ではない。おゆらに操られて言わされているだけだ。それでも主君と定めた若者から侮辱されると、腹の底から煮えたぎるような激情が込み上げてくる。


「がらああああ――ッ!!」


 夜の邸内に、朧の怒気が響き渡る。

 遠吠えの如き絶叫は、明け方近くまで続いた。




 早朝の馬喰峠。

 竹林に朝霧が立ち込め、辺りは白く霞んでいる。

 夜明けの山頂は、静寂で満たされていた。時折、沈黙を破るように鳥の鳴き声が聞こえてくるが、それも霧の中に消えていく。

 霧の中に二つの影がある。

 巨石の上に佇むのは、小さな獺。

 向かい合うもう一つの影は、野生の獣に見えるが……身体の大きさが異なる。俯せで地面を這う姿は、人間を身の丈ほどもあった。

 獣ではなく人だ。

 狸の皮で縫い合わせた装束に身を包み、顔と手足に泥を塗りつけている。泥化粧で容貌を窺い知る事はできないが、鋭い眼光は猛禽のようだった。


秋山あきやま狸之助たぬきのすけ――」

「へえ」


 獺の呼び掛けに、狸に化けた男が低い声で答えた。


「お前を蛇孕村へ忍び込ませる為に、手駒を一つ捨てなければならなかった。然しそれに見合うだけの成果は得た。これでおゆらの予測を上回る。ようやく本陣に切り込めるというわけだ」

「……」

「どれだけ智謀知略に長けていようと、おゆらも神ではない。軍事・商業・政務・所務・祭祀……一切合切を一人で掌握する事などできん。想定外の事態が起これば、必ずや綻びも生まれよう」


 合戦は敵軍を騙す事から始まり、戦況を自軍の優位に進めながら、兵の分散と集中を使い分ける。兵法の基本的な発想だが、合理的であるがゆえに読みやすい。敵味方共に集中と分散を続ければ、否が応もなく脆い部分が生まれる。

 この世に完全無欠の軍略など存在しない。用心深いおゆらが無数に防御の陣を張り巡らせた処で、結局人智を超えられないのだ。


「飛車(薙原衆)は棋盤の外。角行かくぎょう(分家衆)と歩(女中衆)は、王(无巫女アンラみこ)の側から離れた。後は首をるだけ。お前の働きに期待する」

「へへえ。必ずや无巫女アンラみこを仕留めて御覧に入れまする」


 狸に化けた男は、得意げに唇の端を吊り上げた。




 慶長六年六月中旬……西暦一六〇一年七月中旬


 宗尊親王……鎌倉幕府六代将軍。後嵯峨天皇ごさがてんのうの第一皇子。皇室で初めての征夷大将軍。


 治承四年……西暦一一八〇年


 文永三年……西暦一二六六年


 吉川家……毛利元就の次男――吉川元春きっかわもとはるの家系。現在の当主は吉川広家きっかわひろいえ周防国すおうのくに岩国いわくに領初代領主。


 金沢文庫……鎌倉時代中期の日本に於いて、金沢流北条氏の北条ほうじよう実時さねときが設けた日本最古の武家文庫


 襪……靴下


 四間……約7.56m


 一間……約1.89m


 三間……約5.67m


 二尺……約60㎝


 五尺……約1.5m


 六尺棒……約1.8mの棒


 観の目……剣術に於ける目付めつけの一つ。敢えて焦点を定めず、視界を広く捉える。加えて視線から対手に思考を読ませないようにする。


 一間半……約2.835m


 一町……約113.4m


 一町の半分……三十間。約56.7m


 三寸……約9㎝


 士筒……武士用の鉄砲。十匁程度の弾丸を使用する。


 機械人形……アンドロイド

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