第50話 神寄討伐(二)

 一瞬で何もなくなった。

 整然と並んでいた木々は、大量の土砂と共に麓まで押し流された。

 緑豊かな森は跡形もなく消え去り、静寂に覆い尽くされた黒土が広がる。

 もはや蝉の鳴き声すら聞こえない。

 『神寄カミヨリ』は餌贄えにえを求めて、土砂の上を歩いていた。

 頭がくらくらする。

 景色が揺らいで、吐き気が込み上げてくる。

 体調不良の原因が分からない。

 何故、身体が思い通りに動かないのか。

 理由は分からないが、餌贄えにえを食べれば解決する。

 左手で頭を押さえながらも、ふらふらと斜面を降る。

 早く耳を切り取らなければ――


「耳を……」


 暫く歩くと、朧の屍を発見した。

 俯せに倒れており、下半身が土砂で覆われている。右側頭部から出血し、黒土に赤い血が染み込んでいく。致命傷とみて間違いない。

 朧の小刀は、屍から遠くに流されていた。

 山崩れの衝撃で折れ曲がり、二度と使い物にならないだろう。

 小刀の近くで獺も死んでいた。

 胴体が地面に埋まり、頭だけが地上に出ている。

 獺はどうでもよい。

 とにかく耳だ。

 激しく息を切らしながら、朧の頭に手を伸ばす。

 次の刹那、土煙が視界を塞いだ。


「――ッ!?」


 何が起きたのか分からず、咄嗟に両腕で顔を隠すと、背後から左腕が伸びてきた。一瞬の隙も与えず、『神寄カミヨリ』の首に両腕が絡みつく。


「クククッ、また会えたのう」


 血塗れの朧が嗤いながら、『神寄カミヨリ』に裸締めを決める。

 朧は生きていた。

 彼女は生きて、逆転の機会を待ち続けていたのだ。


残心ざんしん、という言葉を知らぬのか? お主が知識を奪うた者は、容易く寝首を掻かれるような者か?」

「ああっ――」


 『神寄カミヨリ』も足掻くが、鬼神の如き力で押さえ込まれる。

 裸締めは、相手の首を絞めて窒息させる技ではない。両腕で頸動脈を圧迫し、脳に酸素を送らない事で、相手を気絶させる技だ。

 然し朧の腕力なら気絶させるまでもない。


「最後に言い残す事はあるか? 儂も死にそうでの。手短に頼む」


 朧が掠れた声で尋ねると、『神寄カミヨリ』は俯いた。


「……奏様をお願いします」

「うむ」


 ゴキッ――と頸骨を砕かれ、『神寄カミヨリ』は力なく倒れた。

 対手の屍を見下ろし、疲労で肩を揺らす。

 恐るべき強敵だった。

 己の知識や妖術を使いこなし、最後まで獲物を狩る事に専念していた。無駄な所作は一切なく、絶対に餌贄えにえを奪うまで諦めない。

 加えて地盤の脆さも想定し、山崩れに対応する為、蝉の大群を残していた。己が生き延びる事を考え、最善の行動を選択していた。これで知能が低下していなければ、朧でも勝てたかどうか分からない。

 二人の勝敗を分けたのは、武運と経験の差だ。

 頭に激突した石が、もう一回り大きければ、頭蓋骨が陥没していた事だろう。然し運良く気を失う程度の軽傷で済み、即座に意識を取り戻した。

 脳震盪を起こしてふらつきながらも、獺を保護したうえで、『神寄カミヨリ』の背後に隠れた。

 土石流を弾き飛ばす『神寄カミヨリ』の背後こそ、最も安全な場所に他ならない。

 『神寄カミヨリ』は土石流を爆破するだけで精一杯。激しい炸裂音の所為もあり、背後に気を配る余裕はなかった。

 山崩れが収まると、朧は『神寄カミヨリ』の側から離れた。

 半町ほど距離を稼ぐと、獺に策を打ち明ける。力ずくで小刀を折り曲げ、地面に放り投げた。朧の手から武具が離れていれば、『神寄カミヨリ』も油断する。

 最後に騙されたのは、経験の違いだろう。所詮は借り物の知識だ。一度窮地に陥れば、借り物の実戦経験など役に立たない。


「獺殿……大事ないか?」


 遠くで寝そべる獺に声を掛けた。

 朧の策を聞いた符条は、妖術で眷属に土を被せていた。

 身震いで土を払い落とし、半死半生の朧に近寄る。


「私はなんとか……それよりお前こそ平気か?」

「平気とは言い難い。先程から景色が歪んでおる。血を流し過ぎた所為か、空気が薄い所為か知らぬが、そろそろ死ぬのではあるまいか」

「私の妖術で癒やしてやろう。早く濃い空気を集めて――」

「断る」

「もう戦いは終わった。意地を張る必要もあるまい」

「敵味方の区別能わぬ者を利用しても面白うない」

「……天邪鬼もここまでくると、手の施しようがないな」


 獺が、呆れた様子で溜息を零した。


「今回はお前に借りを作り過ぎた。他に手助けできる事はないか?」

「ならば、山の麓まで案内を頼もう」

「分かった。私の後についてこい」


 朧は呆れ果てながらも、足下が覚束ない朧を誘導する。

 然し朧は、振り向いて斜面を登り始めた。


「其方は上だ! 登ってどうする!」

「……すまぬ。もはや上下の区別も能わぬ」

「お前……本当に死ぬぞ」

「カカカカッ」


 血塗れの朧は、愉快そうに哄笑しながら、頼りない足取りで猿頭山を下山した。




 半町……約56.7m 太閤検地後

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